押井守『イノセンス』の“ごちゃごちゃ感”の正体

 
 中学生のときに知り会って、今でも年に2~3度ほど会う友人グループがいる。
 みな60代も後半に差し掛かった老人たちだ。

 しかし、中学時代に漫画や小説、評論などを持ち寄って同人雑誌をつくったりした仲間だから、今でも会うと、
 「歴代ゴジラ映画の中でナンバーワンはどれだと思うか?」
 「夏目漱石、芥川龍之介、太宰治はいまだに若者にも読まれているのに、戦後の第三の新人(吉行淳之介、安岡章太郎、庄野潤三etc.)たちが読まれなくなったのはなぜか?」
 「キューブリックの『2001年宇宙の旅』がいまだに色あせないのはなぜか?」
 「バッハからベートーベンに至るドイツ・オーストリア系作曲家と、ラヴェル、ドビュッシーといったフランス系作曲家の違いは何か?」
 …… みたいな話題になることが多い。

 この前そのメンバーが集まったとき、
 「日本のアニメ監督のなかで、誰の作品をいちばん評価するか?」
 といったテーマがあがった。
 1人が、… やはりというか、… 宮崎駿をあげた。

▼ 宮崎駿 『風立ちぬ』

 「線画がきれいだ」という。
 「構図も整っていて、色の配分も美しい。だから上映時間が長くなっても、視覚的に疲れることがない」

 さらに、「メッセージ性が深い」とも。
 聞いていて、私もそのとおりだと思った。
 といっても、自分が映画館にまで足を運んだのは、『もののけ姫』と『風立ちぬ』の2本だけだが、確かに、重厚なテーマをものすごく優しい画風で仕上げた出来映えに脱帽する思いだった。

 ただ、個人的な嗜好でいえば、私は押井守の『攻殻機動隊』とか『イノセンス』などの方が好きなのである。

▼ 押井守 『イノセンス』

 
 私がそういう感想を述べると、先の宮崎駿を評価した友が、
 「押井守の画像はごちゃごちゃし過ぎて好きになれない」
 と言い始めた。
 「一つのシーンに、あまりにも多元的な情報を詰め込み過ぎるので、目も疲れるし、頭も混乱する」
 という。

 う~ん …… そうかもしれないと私は思いつつ、それでも自分の意見を加えようと思ったが、このテーマはそれ以上発展することなく、すぐ次の話題に移った。
 
 
 そのとき自分の頭をかすめた想念をあらためて整理してみると、その友人が語った「目の疲れと頭の混乱」という言葉が、なんだかとても重要な意味をもっていることに気がついた。

 つまり、押井守の …… 特に『イノセンス』に描かれたあの “ごちゃごちゃ感” はいったい何に由来するのか? ということである。 

 結論を先にいうと、『イノセンス』の “ごちゃごちゃ感” こそ、まさに(我々を巻き込んで日々暴走していく)「資本主義社会」のメタファーなのである。

 資本主義は、常に資本主義化されない異質なものを “爆食い” するように取り込み、それらのものが本来持っていた価値観を壊し、無機的に同列に並べ、意味のないものに還元してから次に進んでいく。

 『イノセンス』で圧巻なのは、奇怪な山車が次々と街路を行進していくパレードのシーンである。
 山車に載せられているのは、中国の京劇のような仮面をつけた巨大人形たち。
 その山車を動かしているのは、インドの祭りで使われるような象の形をした巨大ロボット。

 パレードする群像の背後にそびえるのは、ニューヨークの摩天楼のような建築群。
 そういうシーンが連続する画面の背後に鳴り響くBGMは、日本の雅楽とわらべ歌を混在させたような土俗的かつ呪術的な歌。

 過去と未来
 西洋と東洋
 近代と古代
 
 『イノセンス』のパレードシーンはそれらが混在一体となった、まさに万華鏡のように錯綜したヴィジュアルで埋め尽くされている。
 これこそ、我々が日々体感している「資本主義社会のデザイン」そのものだといっていい。

 中国の京劇的仮面も、インド象ロボットも、ニューヨークの摩天楼的景観も、日本の土俗的歌謡も、そこには何一つ関連性がない。
 それらは、あくどいほどのエキゾチシズムによって、視聴者の目を奪うことはあっても、どれひとつ価値の序列を持たず、等価に、無内容に、並列的に陳列されているにすぎない。
 この見事な “無秩序感” こそ、資本主義的ヴィジュアルの真骨頂だ。

 『イノセンス』という作品において、そのことを別の側面から暗示しているのが、登場人物の会話に登場する “哲学的言辞” である。
 

 主人公のバトー(↑)は、古典哲学の文言をしょっちゅう口走る。

 「シーザーを理解するためには、シーザーになる必要はない」(マックス・ヴェーバー)。
 「ロバが旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけじゃねぇ」(西洋のことわざ)。
 「自分のツラが曲がっているのに、鏡を責めて何になる?」(ゴーゴリ)。

 こういうつぶやきの出典は、ロマン・ロランやゴーゴリの小説、ミルトンの詩、マックス・ウエーバーの論文、旧約聖書の詩文、世阿弥の能楽書、孔子の論語、仏陀の経典など多岐にわたる。

 だが、バトーはけっきょく何も語っていない。
 彼の “省察” は、ストーリーの展開にほとんど関与しないからだ。
 つまり、テレビからひたすらシャワーのように放水されるCMのようなものなのだ。
 ある商品の有益性を訴えたCMは、15秒後には、別の商品のCMによってかき消される。
 それは、ある意味、ニヒリズムの連鎖といってもかまわない。

 つまり、CMなどを通じて、その都度その都度、市場に “新しい商品価値” が出回るということは、結果的に、資本主義社会における「価値の無根拠性」を証明しているに過ぎない。
 なのに、その渦中にいると、資本主義が紡ぎ出す夢のすべてが美しく、魅力的に輝いてしまう。
 『イノセンス』のパレードに描かれるヴィジュアルは、まさにそういう状態を形象化させたものである。
 
▼ 『イノセンス』よりパレードのシーン from YOU TUBE 

  
 いま水野和夫氏と山本豊津氏の対談『コレクションと資本主義』(角川新書2017年 ↓ )という本に挑戦するつもりでいる。
 まだ第一章を読み始めたばかりだが、その章で水野氏は、「資本主義を読み解くカギは、アートや芸術の解読にあるのではないか」というようなことを書かれている。
 そういう文言を拾うだけで、わくわくする。
 『イノセンス』のパレードシーンを「資本主義社会のデザイン」のように感じたというのは、もしかしたら、その一言に触発されたものかもしれない。
  

    
  
参考記事 「風立ちぬ」
 
関連記事 「イノセンス」
 
 

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月天心貧しき町を通りけり(または「郊外のキリスト」)

  
 与謝蕪村(よさ・ぶそん)の有名な俳句の一つに、
 「月天心(つきてんしん)貧しき町を 通りけり」
 という句がある。

 「月が、空の真ん中(天心)に輝いている貧しい町を、いま私は通り過ぎようとしている」
 という意味だ。
 
 「つきてんしん」という言葉の響きになじみがなくても、「月天心」という漢語から、冷たい光を放っている冬の月を想像することはできるだろう。
 
 この句を思い出すたびに、下の絵を思い出す。
 

▲ ジョルジュ・ルオー 『郊外のキリスト』

 逆もある。
 この絵を見ると、与謝蕪村の『月天心 … 』の方を思い出すこともある。
 
 蕪村は江戸中期の日本の俳人。
 ルオーは、19世紀末から20世紀に生きたフランスの画家。
 国も時代もまったく異なる世界で生きた人たちだが、なにかしら共通した精神性を持っていたのではないかという気がする。

 特に、この蕪村の句とルオーの絵には、強い類似性がある。
 モチーフがまったく同じなのだ。
 両者とも、その前面に浮かび上がってくるのは、暗い空を照らす白々とした月。
 そして、寝静まった貧しい町並み。
 それを見ながら、足跡を忍ばせるように通り過ぎようとしている人影。

 蕪村のうたう “貧しき町” というのは黒々と静まり返った日本家屋だろうし、ルオーが描いたのは、石造りの西洋建築だ。

 しかし、両者から感じ取れるのは、まるで核戦争後の廃墟をさまよう「最後の人類」の気分である。
 そこには、人類は滅び去っても、自然は変わらないというメッセージさえ託されているような気さえしてくる。

 しかしながら、これらの作品には、絶望的な孤独感の果てに、かすかな温かさが伝わってくる。
 この「さびしさ」と「温かさ」の配分が、二つの作品では似通っている。

 まず、蕪村の句を見てみる。
 「貧しき町」という言葉がある。
 もし、これが町の上に輝く月をうたいたい句であるならば、それを受ける言葉は「さびしき町」でもよかったはずである。
 あるいは、「哀しき町」という言葉も使えたかもしれない。

 しかし、「貧しき町」。
 これは、「人が住んでいる町」だという認識が前提となっている言葉である。
 さびしくて、みすぼらしい町ではあるけれど、「人の生活がある」という視線が「貧しき」という言葉を選ばせている。
 つまり、“通りすがりの自分” が、貧しき町に住む住人たちと共振している様子がしのばれるのだ。

 一方のルオーの『郊外のキリスト』。
 この絵においても、二人の子供に連れ添う大人がキリストならば、このキリストは、夜道を歩く子供たちを家まで送り届けるような、優しさを見せている。

 蕪村の句にもルオーの絵にも表われてくるのは、貧しき者への共感である。
 実際にルオーは、この絵からもしのばれるような、パリ郊外のラ・ヴィレット地区という貧困家庭の家ばかり並ぶ町で生まれたという。
 
 家が貧しかったため、ルオーは10代半ばで、ステンドグラス工房で働く道を選ぶ。
 そこで得たステンドグラスの作成技法が、後の画家修業にも生かされるようになる。
 黒く太い輪郭線。
 その間に塗られる黄、オレンジ、赤などの暖色系カラー。
 まさに、そこに描かれるのは、西欧の教会建築などに飾られるステンドグラス芸術そのものだ。
 そこにルオーの絵の本質を解くカギがありそうだ。
 
 
▲ ジョルジュ・ルオー 『受難』
 
 ステンドグラスの絵を鑑賞するためには、屋外から差し込む「光」が不可欠であるように、ルオーの絵もまた、絵の(目には見えないはずの) “向こう側” から差し込んでくる「光」によって成立しているのだ。

 ルオーの絵を、その裏から照らしている「光」とは何か。
 敬虔なクリスチャンでもあるルオー自身は、その「光」の正体を、「神」という言葉で説明したかもしれない。
 
 しかし、そういう説明があったとしても、それが正しいのかどうか、私にはよく分からない。
 ただ、いずれにせよ、ルオーの絵は、キャンバスの上に塗り固められた絵具の向こう側に、可視的にとらえることのできない “もう一つの世界” が潜んでいることを暗示してやまない。

 『郊外のキリスト』という絵は、それまで奥に潜んでいた、その “謎の光源” が「月」という形をとって、ついにその姿を現した絵だといえる。

 まさに、“天心” を飾る月。
 その月の姿に「神の恩寵」を感じるかどうかは、この絵に接した鑑賞者の文化環境や宗教観、芸術観によって異なるだろうけれど、いずれにせよ、この月が、単なる天体的な「月」を超えて、この世にあらざる光を投げかける神秘な発光体であることだけは理解できると思う。

 そして、蕪村もまた同じように、「貧しき町」を通りかかったとき、この世ならぬ姿をした「月」を見てしまったのだろう。
 
   

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短歌という不思議な世界

 穂村弘さん(写真下)の書いた『ぼくの短歌ノート』(講談社)という本が読み終わらない。
 購入してから、もう半年以上経っている。
 デイパックのなかに詰め込んで、外に出るときは必ず持ち歩ているというのに、なかなか読了できないのだ。

 それは、読み終わってしまうのが惜しいからだ。
 散歩などに出たついでに、ふらっと立ち寄った喫茶店でページを開くのだけれど、2~3ページ読むと本を閉じ、コーヒーの香りなどを嗅ぎながら、そこに紹介されていた短歌の余韻を楽しむ。
 そんなことをしていると、“珈琲” (…急に漢字を使いたくなった)一杯飲み終わっても、三つ四つぐらいの短歌しか鑑賞できない。
 
 どういう歌が集められているのか。
 与謝野晶子や北原白秋、斎藤茂吉といった近代短歌の大御所の歌もあれば、寺山修司、俵万智のような有名な現代作家の作品もある。
 ときには、中高生の投稿歌も収録されている。

 もちろん多くの歌には、それが拾い上げられた理由が書かれているわけだが、その解説はみな短い。
 だから、その歌を穂村さんがなぜ拾い上げたかは、読者が考えなければならないときもある。

 その作業が楽しい。
 中高学生くらいの子が書いた短歌のなかに、大人が見逃してしまうような人生の真実が歌い込まれていたりする。
 若い女性の歌には「性」について鋭く切り込んだものもあり、そういうものに触れると、今さらながら、男として鈍感だった自分に恥じ入ったりする。
 
 
使われた言葉の《外》で鳴り響いている言葉たち
 
 短歌というのは、実に不思議な文芸形式である。
 五・七・五・七・七
 という限られた語句で表現しなければならないという制約があるために、すごく “窮屈” な文芸だと思われがちだが、どっこい逆で、作者の表現したいものが、五・七・五・七・七という語句の外にどんどん広がっていくのだ。

 文章を書くとき、言葉数を多くすれば、意味が伝わりやすいと思うのは錯覚だ。
 むしろ、説明を短く切り詰めた方が、書き手の表現したいことがズバッと読み手に伝わることがある。
  
 短歌というのは、そういう文章作法のもっとも先鋭的なところに位置している。
 そこでは、文字として残された文よりも、削除された文の方が重要な意味を持つ。
 たとえば、次のような歌。

 ―― 売りにゆく柱時計がふいに鳴る 横抱きにして枯野ゆくとき
   (寺山修司)

 一読して伝わってくるのは、寂しい光景だ。

 「枯野」という言葉が、秋の気配や夕暮れの匂いまで漂わせている。
 さらに、切ないのは主人公の心。
 柱時計まで売らなければならないというのは、そうとう困窮している証だろう。
 しかし、この柱時計を売らないと、今晩のメシさえ手に入らない。
 そもそも、壁に固定してあるはずの柱時計が、横抱きにされているというところに、切羽詰った感じが漂う。

 道の周囲には、主人公の気持ちをますます寂しくさせるような枯野が広がっている。
 その道半ばで、時計がまるで主人に「別れを告げる」かのように鳴る。

 なんとも哀切きわまりない歌だが、その「哀切感」はどこから来るのか?

 すべて、歌に使われた言葉の《外》からやってくる。
 「寂しい」
 「切ない」
 「哀しい」
 などという言葉は、歌のなかには一語も使われていない。
 なのに、そういうありふれた言葉を使った以上の寂寥感が歌に滲んでいる。
 つまり、歌の《外》に追いやられた言葉が、歌のなかに残された言葉に陰影を与えているのだ。

 こんな歌もある。

 ―― 昼なのになぜ暗いかと電話あり 深夜の街をさまよふ母より
   (栗木京子)

 ホラーのような、ミステリーのような不気味さが感じられる歌だが、よく読んでみると、ずしりとしたリアリティが潜んでいる。

 この歌の《外》に追いやられた言葉は、
 「認知症」
 である。
 しかし、種明かしをしてしまえば、この歌のインパクトはほぼなくなる。
 ここでは「認知症」という言葉を省くことによって、逆にのっぴきならない切なさ、哀しさ、怖さが強調されている。
  
 
日常に埋もれたものの再発見
   
 短歌を味わう面白さがのひとつに、日常のなかに埋もれていたものを、あらたに “発見する” という楽しさがある。
 たとえば、こんな歌。 

 ―― 次々と走り過ぎる自動車の 運転する人 みな前を向く
   (奥村晃作)

 こんなこと、あまりにも当たり前すぎて、誰も気にしない。
 自動車を運転しているとき、ドライバーが前を向くのは当然のことで、横を向いていたら、それは事故につながるという理由で、「脇見運転」という刑罰が与えられる。
 だから、運転するときはみな「前を向く」。

 しかし、あらためてそのことに意識を向けてみると、「なぜ前を向くのだろう?」という疑問が湧いてくる。

 そのときの「なぜ」は、もう「前方に注意しないと危険」とか、「前を見ないと事故が起きる」という次元を超えたものになっている。
 それこそ、なにか「超自然的な力に導かれるまま」、とか「あらがえない宿命に導かれるまま」 … といったようなシュールなものがそそり立ってくる気配がする。

 短歌には、このように、当たり前のことを当たり前じゃないと思わせる力がある。
 そのときに生まれてくる “不条理感” は短歌独特のもので、小説のような散文では書き尽せない。
 
 
子供の視線
 
 子供の視線で捉えた世界は、大人からみると、常にそのような不条理に満ちている。
 しかし、「子供の視線が不条理に満ちている」と感じるのは、実は大人の視線が “分別” によって曇らされているからで、子供の視線の方がむしろストレートに現実に直結している。

 そんなことを知る格好の歌。

 ―― 「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して 子の言うやさしい鮫とはイルカ
   (松村正直)

 大人はすでに「鮫(サメ)と「イルカ」を区別する分別を備えているから、子供の無知を笑うことができる。
 しかし、そういう大人の知見は、すでに「やさしさ」と「こわさ」の本質的な区別を見失っている。
 
 
短歌には批評性も取り込める
 
 次の作品も、面白いと思った歌の一つ。

 ―― 草つぱらに 宮殿のごときが出現し それがなにかといえばトイレ
    (小池 光)

 「宮殿」と「トイレ」の落差に、まず笑える。
 しかし、それと同時に、どこか不条理なものがせり出してくる気配もある。
 それは、「草つぱら」に、どうして「宮殿のごときトイレ」が必要なのか? という疑問と同時にやってくる。

 この作品に関して、穂村さんは、この歌が短歌の定型的な音数(五・七・五・七・七)を無視して、「六、九、五、七、六」という変形リズムでつくられているのかというところに着目し、作者の意図と、その効果を見事に分析している。

 だが、その分析は(非常に面白いけれど)専門的すぎるので、はしょる。
 代わり、作者の意図を推測する穂村さんの解説を一部だけ引用する。

 「私(穂村)は、これを批評性に基づくアイロニーとして読んだ。その根本にあるのは、我々が生きている時空間に対する強い違和感だと思う。一見ユーモラスなこの歌の背後には、現在の日本の状況に対する怒りと悲しみが張り付いている。(中略)作者は『草つぱら』に『宮殿』のような『トイレ』を平気で建ててしまうこの国のあり方を、(中略)強く批判している」
 
 非常によく分かる解説である。
 自然の象徴である「草つぱら」と、人工の極致をいく「宮殿」。
 それが同一空間に存在することによって、そのどちらの属性をも殺してしまう。
 
 そして、そこに生まれるグロテスクな景観。
 日本の行政は、それがグロテスクだと気づくこともなく、自然をすり潰し、集客効果や利便性、効率化だけを求めてハコモノを建ててしまう。
 穂村さんが言いたいことは、おそらくそのようなことだ。
  
 短歌に対して「抒情的な文芸作品」というイメージを持つ人も多いだろうが、短歌には、このような鋭い批評性を盛り込むこともできるのだ。
   
 
短歌のユーモア
   
 短歌には「ユーモア」もある。
 しかし、それは川柳のユーモアとも違うし、もちろん駄洒落のようなものとも違う。
 笑いが、笑いの形をとる直前の空気を捉えたようなユーモア、といえば少しはニュアンスが伝わるだろうか。

 ―― 「百万ドルの夜景」というが米ドルか香港ドルかいつのレートか
   (鈴木秀)

  ―― 「東京の積雪二十センチ」といふけれど東京のどこが二十センチか 
   (奥村晃作)

 ともに “揚げ足取り” のような意地悪さが若干あるけれど、読んでいると、思わず「そうだ!」と膝を叩きたくなる。
 宴会の席などで笑いながらしゃべればただのジョークにすぎないが、こうして短歌として鑑賞すると、何やら深遠な “真理” が降って湧いてきたような気分になる。
 
 
短歌のミステリー
 
 最後に、これも気に入った歌。

 ―― 月を見つけて月いいよねと君がいう  ぼくはこっちだからじゃあまたね
   (永井 祐)

 なんというあっけらかんとした素っ気なさ!
 ここに出てくる「ぼく」は、冷たいのか、合理主義者なのか、情緒性に乏しいのか。
 彼女が「月」にロマンチックに感情移入しているのを知りながら、さばさばと「じゃまたね」と別れを告げる。
 彼女にとっては、いやな男である。

 しかし、この「ぼく」にはどこか愛嬌があって、温かさも感じられて、人懐っこさもある。

 それが別れを告げる言葉の最後の「ね」にあらわれている。
 これが、「じゃまた “な” 」だったら、「ぼく」は冷たいだけの男にすぎない。
 しかし、この語尾の「ね」に、「悪いけど … 」という男の謝罪の気持ちがこもっていそうな気がするのだ。

 この「ぼく」のミステリアスな言動をどう読み解くかが、この歌のカギとなる。
 ほんとうのところはどうなのだろうか?

 それは分からない。
 たぶん作者も分からないのではないか。
 この歌は、そういう「分からない」ことを、ひとつの “謎” として鑑賞する歌のように思える。

 まだまだ紹介したいような歌がたくさんある。
 でもきりがない。
 興味を持たれた方は、ぜひ原典を当たってほしい。
 
 
参考記事 「穂村弘の『読書日記』はいい」
 
 

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サカナクション山口一郎氏が大事にする「違和感」

  
 NHKテレビで、日本のロックグループ「Sakanaction サカナクション」の2017年のライブ映像が放映されていた。
 面白い世界観を表現したステージだと思った。

 このバンドのリーダー山口一郎氏には、前から注目していた。
 日本のロック(およびJ ポップス)バンドのなかで、唯一「アーティスト」という称号を与えられる表現者であるように思っていた。


 
昭和文学っぽい歌詞の魅力

 歌詞がすごいのだ。
 彼がつくる曲は、すべてが “文学している” といっていい。
 それでいて、難しい言葉はない。
 平易な言葉に、深い意味を持たせている。

 もちろん、“サウンド” として、心地よく聞き流すこともできるのだが、ひとたび歌われる詞の世界に注目してみると、歌詞だけでなく、サウンド全体が深い陰影を帯びてくる。
 
 山口一郎氏の存在に最初に気づいたのは、NHK(Eテレ)の音楽トーク番組『ザ・ソングライターズ』だった。
 佐野元春氏がホストを務め、その当時の話題のミュージシャンや作詞家をゲストに招いて日本の音楽を語るという番組で、山口一郎氏は、その12回目(2010年)に登場していた。

 偶然それを見ていた私は、山口氏が話す一語一語に次第に引き込まれていくのを感じた。
 そのことを、ブログに書いたことがある。
 当時の自分はこんな記事(↓)を残している。
…………………………………………………………………………
 (2010年 9月19日)

 番組のなかで、佐野元春さんが、山口さんの作った歌の歌詞をいくつか朗読した。
 メモを取ったわけではないので、詳しくは覚えていないが、現代を生きる若者の心情を歌っているようでいながら、そこに “昭和文学っぽい” しょっぱさが加わっている。
 
 単語のひとつひとつが、字義どおり使われていない、… というか、ひとつの言葉に、多彩な光が当てられている。
 優しい言葉が、鋭利な刃物のような怖さを内包している。
 ぶっそうな言葉の奥に、ふるえる魂のおののきが宿されている。
 ひと言でいうと、“引っかかる” 歌詞なのだ」

…………………………………………………………………………

 番組を観終わった後、Wikipedia やさまざまなネット情報を通じて、山口一郎氏のことを調べてみた。
 生まれたのは、1980年だという。
 出身地は、北海道の小樽市。
 お父さんの影響を受けて、小さい時から、「明治の短歌」や「昭和の詩」を愛してきたという。

 そのため、子供時代の愛読書が石川啄木や寺山修司の短歌、吉本隆明の詩。さらに宮沢賢治の童話。

 若い頃から、そういう “昭和文学” になじんできただけあって、山口氏の言語感覚には独特の輝きがある。
 
 
「愛」という言葉が嫌い
 
 たとえば、「好きな言葉は?」という佐野元春氏の質問に対し、すかさず返された答が、
 「夜」
 「では、嫌いな言葉は?」
 「愛」
 だという。
 聞いていて、ため息が出るほど共感した。

 「愛」という言葉が嫌いだという感性は信頼できると思ったのだ。
 なにしろ、ドラマでも歌でも、最近いちばん安っぽく流布している言葉が「愛」だからだ。
 そのひと言さえ使えば、一応なんでも丸く収まってしまう呪文の言葉。
 誰も異論を唱えることのできない「愛」。
 しかし、その言葉を安易に使ってしまえば、「説法」なら格好は付くが、「詩」は成り立たない。

 佐野元春氏との対談は、好きな文学者の領域まで広がった。
 山口氏が好きな詩人として挙げたのが、種田山頭火(たねだ・さんとうか)。
 「彼の詩(俳句)には、常に『現在』が鮮やかに切り取られている」というのが、その理由。
 
 ―― 分け入っても、分け入っても、山の中(山頭火)。

 この句を引用し、山口氏はいう。
 「その場にいて、見たまま、感じたままものが純度100パーセントの濃さで伝わってくる」。
 
 さらに、 
 「どのような音楽を目指していますか?」
 という佐野氏の質問に対する答が、次のようなもの。
 
 「近代になって表現の幅が広がったように思いがちですが、実はフォーマットが固まっただけだと思うんです。
 たとえば、ロックはこうでなければいけない … とか。
 そういう既成のフォーマットを崩していくところに、自分の表現を見出していきたいと思います」
 
 
マイノリティーとしての自覚
    
 さらに、彼はこういう。
 「北海道から東京に出てきたとき、それまで自分の好きなものが全部マイナーなもので、マイノリティーな人々にしか愛されないものであることを知り、愕然とした記憶があります」

 だから、マイナーなものの良さをいかに多くの人(マジョリティー)に分かってもらえるか。
 それが、「自分が詞を作るときの原点」だとも。
 
 また、対談中、彼がよく「センチメンタル」という言葉を口にするのが意外でもあり、新鮮でもあった。
 たとえば、彼は、
 「自分の中にあるセンチメンタルを共有できる人が周りにいなかった」
 という。
 
 「センチメンタル(感傷的)」という言葉は、時としてネガティブな響きを帯びる。「甘い」とか「めめしい」、「感情におぼれる」というニュアンスを秘めた言葉として使われることが多い。
 
 だが、山口氏の口からこぼれ出る「センチメンタル」は、「リアリティ」の同義語であるように思えた。
 むしろ、普通の人が「めめしい」と感じるものの中に、人間の真実があるとでもいわんばかりに。


   
 
「夜」と「君」でつくられる歌詞
   
 山口一郎氏の曲がどんなものか。
 実際に聴いてみると、その特徴がよく分かる。
 
 下は、NHKが取り上げたライブでも演奏されていた『バッハの旋律を夜に聴いたせいです』。
 いかにも、彼らしい世界観が投影された曲だ。
 タイトルからして、謎に満ちている。

 キーワードは、やはり彼の大好きな言葉である「夜」。
 その夜を象徴する仕掛としての「月」。
 そして、彼の歌には必ずといっていほど登場する「君」といわれる人物。

 この三つの言葉が、まさに一幕劇に登場する3人の役者のように、妖艶な役割を与えられ、濃密な寸劇を繰り広げる。
 そして、そこに流れる “舞台音楽” が「バッハの旋律」である。

 

 いろいろな解釈を可能にする詞であるが、ここに登場する「君」が、他の曲にもよく登場する「君」と同じく、主人公と濃密に関わりながらも、主人公には制御しきれない “他者” を意味していることは間違いない。

 つまり、ここに出てくる “君” は、リスナーの解釈の深さや感情移入の度合いによって変幻自在に姿を変える “のっぴきならない存在” の象徴なのだ。
 彼の詞が難しく感じられるのは、そういう形でリスナーの想像力を試すようなところがあるからだ。
 
 
難しいものは美しい

 YouTubeを探してみると、山口氏の最近のインタビューを収録した動画がいくつか見つかった。
 その一つで、彼はこんなことを発言している。

 「僕らは、音楽でも本でも、難しいものにこそ価値があると期待した世代だった。
 たとえば本ならば、最初は難しくて理解できないものでも、何度も読んでいるうちに突然理解できる瞬間がやってくる。それが高揚感を生んだりする。だから、(自分は)難しいものは美しいと思える感覚を持っている。
 ところが、今の子たちって、そういう期待の持ち方をしていないように感じる」

 そう語った山口氏。
 だから、
 「東京でメジャーデビューするときに、自分が感動してきた “美しくて難しいもの” をいかに多くの人に伝えられるかということが、たいへんな課題だった」
 という。

 そこで彼は考える。

 「30人ぐらいのリスナーに対し、そのうちの10人~20人ぐらいのマジョリティーに評価される音楽を目指すのなら、“美しくて難しい” という路線はあきらめなければならない。
 しかし、そのうちの1人か2人の心に届けばいいと割り切れば、それなりのやり方がある。
 そう考えると、気持が楽になった。
 だって、30人のうちの1人か2人でしかなくても、それが全国規模に広がれば、十分マジョリティーになるのだから」
 
 
テクノロジーが与える感動
   
 “30人のうちの1人か2人でもいいから、しっかりした感動を与えたい” というときの突破口として考えたのが、
 「テクノロジーの力」
 というものだった。

 NHKが放映したライブステージは、艶やかなライトショーを展開しながら、会場の四方にスピーカーを巡らした6.1ch方式で行われた。
 いわば “光と音” が高度に融合した最新テクノロジー空間だった。

 「人間の新しい感情を発掘するものとしてテクノロジーは大事なものだと考えている。人間は、見たこともないもの、はじめて触れるものに感動する。そのときに感じる “心地よい違和感” が人間の感動の源泉になる」
 と山口氏。

 彼の目指す音楽とは、常に「良い違和感」をはらんだものだという。
 いい言葉だと思った。
 
 
世の中にはベタな歌詞
で救われる人たちもいる

 
 脱線するが、この番組と前後して、結成20周年を迎えたというコブクロが出演する音楽番組を観た。
 「サカナクションの正反対に位置する人たちだなぁ … 」
 と思った。
 久しぶりに、彼らの『桜』を聞いたが、そのあまりにもベタな歌詞に、少し辟易とした。
 
 「♪ 涙と笑顔に消されていく ……(略)…… 強く清らかな悲しみは…」
 
 こういう荒削りの言葉をためらいもなく使ってしまう作詞を、私は個人的に好きになれない。
 「涙、清らか、悲しみ」というベタな言葉を使うのは、「詩人」として恥ずかしいことだと思うのだ。
 
 しかし、この生々しい感覚が、マジョリティーの好みなんだろうな … という気もする。
 こういうストレートな詞で救われる人たちもたくさんいるのだろう。
 私は好きではないが、世の中はそれでいいのかもしれない、とも思う。
  
 

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未来社会に輝く「いのち」とは何だ?

 
 「2025年万博」の開催地が大阪に決まった。
 そこで掲げられるテーマのキャッチは、
 『いのち輝く未来社会のデザイン』
 だという。

 それを聞いて、あまり心が弾まなかった。
 きれいな言葉が並んでいるけれど、胸に迫ってくるインパクトがない。
 その言葉から、なんの想像力も刺激されないのだ。

 それはなぜなのだろう? … と考えた。
 たぶん ……
 たぶんだが、このキャッチを思いついた人が、「いのち」というものに関して、あまり考えていないからだ。

 今ロボット工学やサイボーグテクノロジーの発展は、「人類」の概念すら変えようとしている。
 人類の知能が、AI に置き換えられるかもしれない時代が来たということは、「いのち」に対する科学と哲学が変わるかもしれない時代でもあるのだ。

▼ 映画『エクス・マキナ』

 つい最近のニュースだが、「中国のある科学者が、ゲノム編集で遺伝子を改編し、世界ではじめてデザイナーベイビー(双子の女児)を誕生させた」という報道が流れた。

 「いのち輝く未来社会 … 」などという無邪気なキャッチが考えられている間に、“いのち” そのものの再考を促すような事件が起きたのだ。

 この中国の科学者の発表に対し、世の識者たちは、早くも「人間の倫理を踏みにじる実験だ」などと批判的な論評を加えているが、もう手遅れだろう。
 科学というのは、不可逆的だ。
 一度実験に成功した研究成果は、もう後戻りしない。

 今回の実験は、これまで「母胎」という生物学的な環境で生まれてきた人間の「生命」を、研究者が研究室で、受精卵を操作するだけでつくり出してしまったということなのだ。

 それが意味するものは、1818年にメアリー・シェリーが書いた『フランケンシュタイン』という空想科学ホラー小説が、ついに現実のものになったということでもある。

 報道によると、ゲノム編集による “デザイナーベイビー” の技術を応用すれば、「イケメンの子」、「足の長い子」、「運動能力に優れた子」など、親が望むような身体的特徴を備えた子供が自在にデザインできるのだという。

 そういうメリットが想像できる反面、失敗したときの悲惨さは、まだ誰にも検証されていない。

▼ 映画『ブレードランナー2049』

 そもそも、「親」の肉体的接触がなくても、デスクの上で自在にデザインできる「いのち」というのは、人類がこれまで想像してきた「人間」のイメージを軽々と超えてしまう。

 これが日常化すれば、科学だけでなく、哲学も、宗教も変わるだろう。
 「神」ではなく、「人間」が「人間」に命を授けてしまうのだから、「神がアダムとイブをつくった」という聖書の記述を絶対視するキリスト教福音派あたりの信者はそうとう困ってしまうはずだ。

 さらに、人間の「性交」に対するイメージも変わる。
 これまで、男女の交配には、「セックスを楽しむこと」と「出産のため」という二つの目的があったが、今後性行為は「快楽」のためだけに特化していくことになるだろう。
 
  
 そもそも、『いのち輝く未来社会のデザイン』という大阪万博のキャッチそのものが、人工ベイビーの登場を待つまでもなく、陳腐であった。

 こういうキャッチから想像できる未来社会は、よく都市計画のプレゼンなど使用されるパースのような光景である。
 それは、いま日本全国の駅前再開発などでどんどん実現されている、きれいだが画一的な風景と変らない。
 

 
 こういう整い過ぎた街は、そこに住む人間の心を平板なものにする。
 あまりにも清潔に整理された空間は、人間の心の陰影を埋め尽くしてしまう。
 人間の心は、どこかで猥雑なものを秘めているから、街にも猥雑さがあった方が心地よくシンクロするのだ。

 おそらく、今回の「大阪万博」のキャッチを書いたライターもそれを採用した人も、あの猥雑な魅力を持つ未来都市を描いた映画『ブレードランナー』とか、アニメの『イノセンス』、『攻殻機動隊』などを観たこともないのだろう。
 そして、大阪の風景を近未来的にデザインしたリドリー・スコットの『ブラックレイン』なども観たことがないのだろう。

▼ 映画『ブレードランナー』

▼ アニメ『イノセンス』

 80年代以降、“未来社会” のイメージは、すでに70年代万博の時代には感じられなかったディストピア的な哀愁をたたえたものになっている。

 それはそうだ。
 地球温暖化問題、大気汚染。エネルギー枯渇の問題。
 さらには、グローバリズムの進展による格差社会の拡大。
 相変わらず増大していく核戦争への脅威。
 今日われわれが直面している “未来” は、1970年当時にはなかったさまざまな不安材料に満ちている。

 だからこそ、万博の企画者たちは、「希望の見える輝かしい未来を」というメッセージを発信したかったのだろうけれど、そんな無邪気な気分になれない人も増えているはず。

 むしろ、
 「未来は滅びるかもしれない危うさがあるから、美しい」
 …… すでに、私などはそういうイメージで、未来を眺めている。

▼ 映画『ブレードランナー』

 さらにいえば、興行的成功も見込めるのかどうか。
 今回の「大阪万博」の誘致が成功して、松井府知事は、「2兆円の経済波及効果がある」と自信たっぷりに発言した。
 しかし、ほんとうにそうなのか?
 
 確かに、1970年に開かれた大阪万博は、国をあげての大イベントになり、入場者数も6,000万人という記録的な数値を示し、興行的にも大成功を収めた。
 だが、時代が違う。
 
▼ 1970年大阪万博

 
 あの時代は、日本の人口も膨張過程にあった。
 経済的にも、高度成長のど真ん中で、国中が未来志向の気分に溢れていた。

 そのときのイベントの目玉となったのは、アメリカがアポロ計画で持ち帰った「月の石」だったが、あの時代の「月の石」は、人類がはじめて見るものの象徴となり、「未知の発見」、「新しい時代の到来」というイメージをかき立ててくれるものだった。

 「2025年大阪万博」には、そういうものがあるのか?
 今回のコンセプトは、人工知能(AI)や仮想現実(VR)などを体験できる「最先端技術の実験場」だとか。  

 しかし、会場でどんな先端技術が披露されようが、48年前と今では情報の量が圧倒的に違う。
 AI もVR も、ネットやテレビを通じて、瞬時に大量の情報が押し寄せる今日、おおまかな概念はメディアを通じて取得できるので、そういう言葉から伝わる “わくわく感” がもうない。

 すでに、われわれは、巨額な費用を投じてハコモノをつくるという昭和的なイベントに対して “うんざり感” を持っている。
 そういうハコモノ企画は、人口膨張と高度成長が約束された時代の発想でしかなく、大量生産・大量消費が経済を駆動していた時代へのノスタルジーでしかない。

 あらゆることを総合しても、今回の「2015大阪万博」には、夢の広がりが感じられない。
 頑張れよ、関係者たち。アートや映画をもっと勉強しろ。
 
 

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枝野幸男氏の成蹊大学 講演会

  
 自宅から歩いて30分程度の場所に、成蹊大学(東京都・武蔵野市)がある。
 この大学には立派な欅(けやき)並木があって、ウォーキングしていると実に気持ちがいい。
 そのため、天気が良いときに散策するお気に入りのコースになっているのだが、先日(2018年11月25日)ここを通っていると学園祭(欅祭)が行われていた。

 欅並木の手前に並んだ案内板のひとつに、立憲民主党の現党首である枝野幸男氏(衆議院議員)の講演会が開かれるというインフォメーションがあった。
 ちょいと覗いてみることにした。
 
 

 
 
自民党総裁「安倍晋三氏の母校」
における野党党首の講演会 !

 この講演会は、同校の政治学研究会というサークルが主催したものらしい。現総理の安倍晋三氏の卒業校だけに、このサークルもなかなか大胆なことをやるなぁ … という思いを持ったが、それだけに興味も沸いた。

 会場となった講堂にはおよそ300人程度の聴衆が詰めかけていて、学生が中心かと思いきや、どこで情報を手に入れたのか、意外と中高年の姿が目立った。
 3割程度が現役学生らしき人たち。
 ほかの3割が、若いけれどすでに社会人といった感じの人たち。
 次の3割が白髪頭のシニアたち。
 残った1割が正体不明の人たち(枝野氏のSPとか事務所役員かな?)。
 男女比率は男性7に対し、女性3といった案配だった。
 

 
 結論から先に述べると、この講演会は非常に面白かったし、勉強にもなった。
 そして、あらためて枝野幸男という人のトーク能力の高さにも感心した。

 冒頭、枝野氏はこういう。
 「多くの方々は、“野党” というと、常に与党議員に激しく罵声を浴びせている狭量な政治家たちという印象を持たれるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません」

 それは、「国会審議などの場で、そういうところだけを切り取って報道するマスコミの伝え方の問題なんです」という。

 むしろ、国会で審議される法案の8割方は、自民党も共産党もいっしょになって、冷静な打ち合わせのもとで可決されていく。
 「しかし、それではニュースにはなりませんよね」
 と、枝野氏は笑う。
 「だから、残った2割の部分 … つまり、与野党の意見の噛み合わないところだけをマスコミは切り取って、クローズアップするわけです」

 その方が映像的にもドラマチックになり、政治番組としての面白みが生まれる。

 枝野氏は一つの例を出す。

 「最近の話ですが、サイバーセキュリティー担当大臣になられた自民党の議員さん(桜田五輪相)が、パソコンを使ったことがないということが話題になりました。
 その議員さんに対し、野党が『USBメモリ』って言葉を聞いたことがありますか? などと質問する。
 そのとき、ほとんどの視聴者は、“野党はずいぶんバカバカしい質問をするなぁ” と思われたのではないでしょうか。
 あの場面だけ見ていれば、私もそう思います。
 でもね、あのあと、しっかりした議論がちゃんと進んでいるんです。
 しかし、そこは面白くないので、マスコミは、笑いの取れる最初のシーンだけを何度も繰り返すんですね(笑)」
   
 
「平成」が終わった後の政治

 そういう軽い語り口の導入部のあと、枝野氏はやがて今回のテーマに移行していく。
 テーマとは、
 『平成最後に考える、今後の政治のあり方』。

 この議題を前に、枝野氏は、まず「平成」とは何だったのか? という問題を提起する。
 
 「平成という時代が何であったのか、今あちこちで見直しが始まっていますが、私の考える “平成の30年間” というのは、昭和のときにはうまくいっていたものが、うまくいかなくなってしまった30年だと思っています」

 政治思想においてもしかり。
 平成になると、昭和的な発想がまったく通用しなくなった、と枝野氏はいう。
 たとえば、昭和の時代に機能した「右(保守)」と「左(革新)」という分類。

 昭和の時代に「右」といえば、それは、政治体制において産業育成においても「強いものをどんどん強くすることによって、日本を引っ張っていく」という考え方を意味した。
 それに対し、「左」といえば、「強いものの横暴を食い止めて、弱いものを助ける」という考え方を指した。

 「しかし、今はそのどちらの言い分も通用しません」
 と枝野氏はいう。

 「“右” も “左” も、ともに競争を煽れば経済が成長するという考え方が前提となっていて、その成長を加速させるか、それともブレーキをかけるかという違いでしかなかったわけです。そこに、昭和的な発想の限界があったと思います」

 では、そういう “昭和的発想” は、いったいどうして生まれてきたのだろうか?
  
  
日本は貧しかったから “豊か” になれた

 「昭和の中頃、戦争に負けた日本は、空襲で焼け野原になった大地を眺めながら、官民一体となって復興を目指しました。とりあえず世界にモノを売って、そこで得た資金で生活を豊かにしようと考えたわけですね」
 それが、戦後の高度成長をうながした、と氏はいう。

 なぜ、それが可能になったか。

 「人件費が安かったからです。戦争に負けた日本は貧しかったから、労働賃金も安かったわけです。そういう状態で作られる商業製品は、けっして質の高いものではなかった。でも安かったから、世界中 … 特にアメリカで売れるようになっていきました」

 今日、“メイドイン・ジャパン” というのは、高級・高品質商品の代名詞となっている。
 しかし、当時は、品質よりも安さが「武器」だったのだ。

 「それと同じことを、いま中国や東南アジアがやっています」
 と枝野氏。
 「産業が興隆するためには、どこの国もこういう過程をたどらなければならないのです。
 ただ、いつまでもそういう状態は、続かない。儲かってくると、その次を目指そうとするからですね」

 “その次” とは何か。

 「各企業はさらに儲けようと思いますから、儲かったおカネで新しい工場をつくろうとします。
 当然人を増やさなければならなくなります。
 同じように、どこの会社も人を増やし始めます。
 そうなると、給料をあげてくれない会社には人が来ないことになります」
 
 けっきょく、「さらに儲けよう」という意欲が人件費の高騰を招くことになる。
 それは社会の豊かさの指標ともなるが、逆にいえば、産業のもっとも活力ある部分を、人件費の安い新興国に奪われることになる。

 「それが、いま日本に突き付けられている問題です」
 と氏はいう。
  
 
大量生産型の産業構造は時代遅れ
  
 「つまり、日本はもうミャンマーやベトナムでつくっているような商品はつくれないんです。そういう商品は、日本人の5分の1とか10分の1の賃金で引き受ける国が担当するようになったんです。
 そうなると、日本では、特別な技能を持った特殊な人しかつくれない商品を手掛けざるを得ない。
 つまり、大量生産品はもう日本ではつくれない状況になってきているんですね」
 
 それなのに、…… と枝野氏は力説する。
 「日本は、いまだに大量生産品をつくるような発想で産業に臨んでいる。これが平成になって、世界から取り残される日本を生んでしまった理由です。
 つまり、安いから競争力を持つような商品で戦う時代は、もう昭和で終わっていたんです」
 
 そういう状況のなかで、輸出産業はなんとか頑張っている、と氏は語る。
  
 「日本の全産業のなかで、輸出産業は比率でいえば15%程度ですが、世界のライバルたちとしのぎを削っているうちに、日本にしかできないようなことを手掛け始めているんですね。
 つまり、大量生産で勝負してくる国々にはできないような商品を企画するようになったんですね。
 大量生産を進めるにはマニュアルが一つあればいいんですが、日本の輸出産業は簡単にはマニュアル化できないものを手掛け始めています」
 
 その一つに、製品そのものをつくるのではなく、「製品をつくるための “製品”」 、すなわち生産用機械の製造がある。
 この分野において、いま日本はものすごいアドバンテージを持とうとしているのだとか。
 
 
デフレからの脱却や個人消費が伸びない理由

 このように、輸出企業のなかには、日本の産業構造を改革するようなアイデアが現われてきているというのに、なぜ日本全体の経済状況は好転しないのか?

 デフレからの脱却もままならないし、個人消費も伸びない。
 それはなぜか?

 ここからが、野党の党首らしい分析になっていく。

 「けっきょく、現政権の産業育成の方向や経済政策が、問題の本質と向き合っていないんですね。
 日本は確かに豊かな国になりました。
 おカネ持ちの方も増えました。
 でも、考えてみてください。
 おカネ持ちというのは、おカネを使わないのです。
 いま話題になっているカルロス・ゴーンさんの例をとってみても分かるように、おカネ持ちは個人資産を使いたがらないのです」

 確かに、これは真理かもしれない。
 人間、何でも買えるほどのおカネを持ってしまうと、“モノを買う” ことそのものへの興味を失ってしまう。あとは、いかにカネを貯めるかという、マネーゲームの方に興味が移っていく。
 ゲームによって満足されるのは、けっきょく「自分はカネ持ちである」という虚栄心だけ。
 根底にあるのは、さびしいニヒリズムだ。 
  
  
昭和とともに消えた中間層
 
 枝野氏は続ける。

 「おカネを使うのは、圧倒的に中間層です。かつて日本の経済が大繁栄を遂げたのは、世界にも例をみないほどの分厚い中間層が出現したからなんですね。
 “一億総中流” などという言葉も生まれましたが、国民の大半が中流生活を営める国なんかつくったのは歴史的にも日本だけです。
 それは、自民党という “世界でもっとも有能な社会主義政権” がつくりだしてくれたものです(笑)」
 
 と笑いを取った枝野氏。
 それに続くコメントはこうだ。

 「でも、そういう中間層が大量に出現した時代は、昭和で終わりました。
 では、平成という時代は、どういう時代なのか。
 中間層が消滅し、おカネ持ちの方と、貯蓄もままならないような方との2極分解が進んでいった時代といえるでしょう。
 つまり、格差社会が広がったわけです」


  
  
今のままではシニアマーケットは枯れていくだけ
 
 没落していった中間層のなかで、まだかろうじて、昭和期に保証された自分の資産を維持している人たちがいる。
 それがシニア層だ。

 60歳~69歳ぐらいのシニアの平均貯蓄額は、2,402万円。
70歳以上でも、2,389万円(2016年データ)。
 このようなシニアの貯蓄が市場に流れてくれば、日本経済はそうとう潤うことになると専門家たちはいうが、シニアの財布のヒモは非常に堅い。
 
 なぜか?
 
 「将来の不安があるからですね」
 と枝野氏。
 「今の日本は、介護が必要になってくる老人たちの人生設計を保証してくれるような国家制度ができていない。
 介護に対する不安が解消されないかぎり、シニアの消費が伸びることはありません」
 
 同じように、子育て世代を支援するシステムも確立されていない。
 たとえば保育園の整備も遅々として進まない。
 これらの問題は、老人を世話する介護士や、保育士の給料が安すぎることに起因している。
  
  
新幹線整備よりも介護士・
保育士の給与保証が先

 
 ここでついに現政権に対する批判が、枝野氏の口から飛び出す。
 「日本の個人消費を伸ばすには、まず介護士や保育士の給料をしっかり保証する制度をつくらなければなりません。
 リニアモーターカーや新幹線の整備を優先するよりも、人間のケアをする仕事をしっかりとサポートする。
 平成の次に来る時代には、そういう政治が求められることになります」
 
 新幹線の整備に代表されるようなインフラ投資というのは、「昭和の発想である」と枝野氏はいう。
 
 「ハコモノさえ整備すれば、それで景気が浮上するというのは、いまの人口減少の時代にはもう通用しないんです。
 だって、新幹線を整備しても、誰が乗るというんですか? 地域の過疎化はどんどん進んでいます。
 過疎化が進めば、もう新幹線の通るエリアを観光地化するなどという活力もなくなるのです」

 (※ なお、枝野氏は、今回誘致が決定した「大阪万博2025」には言及していないが、私が個人的に考えるのは、こういう “ハコモノ” 企画で「経済波及効果」を狙うという発想が、いかにも「昭和的」だという気がする)

 人口減少は、さまざまな問題を生む。
 人がいなくなるので、昭和の時代に機能していた地域コミュニティーのようなものも先細りしていく。
 老人介護や子育て支援のようなものは、かつては地域コミュニティーの活動テーマの一つだった。
  
 それがなくなった分、国家が肩代わりせねばならない。
 そういう問題意識を、はたして現政権は持っているのか?
 
 …… と、まぁ、枝野氏のこういう指摘のなかに、いかにも野党の党首らしい視線を感じることができた。
 が、基本的に、枝野氏は目新しいことを言っているわけではない。その発言内容は、すでに世の識者たちが言及しているものを超えることはなかった。
 これくらいの話だったら、政権与党のなかでもしっかり展開できる人はいるだろう。
 
 ただ、そういうテーマを、人の気持ちをそらさずに、非常に分かりやすい口調で解説するトーク術はなかなかのものだった。

 最後に、枝野氏が期待する “ポスト平成人” の人物像に対して一言。
 氏はいう。
 これから望まれる人材は、
 ➀ あえて空気を読まない人
 ② 同調圧力に屈しない人

 「個性」「個性」といいながらも、けっきょくみんなと同じことをやってきたのが、昭和的な生き方だった。
 大量生産・大量消費の時代は、それでよかった。
 そういう生き方が通用しなくなったのが、平成だったはずなのに、けっきょく多くの日本人は昭和的感性を引きずったまま平成の30年を生きてしまった。
 だから、次の時代こそ、国民一人一人が自分の頭でモノを考え、自分の感性を大事に生きていくようになってほしい。
 …… というのが、枝野氏からみた “望まれる人物像” であった。
  
 「しゃべり」には人間性が出る。
 枝野氏というのは、なかなか魅力的な人間であると、私は感じた。
 たぶん受講者のなかには、彼のファンになった人たちも多かったのではあるまいか。
 講演のテーマは、「平成の最後に考える、今後の政治のあり方」というものだったが、政治だけでなく “政治家” のあり方についても示唆したイベントのような気もした。
 
 1時間半にわたる講演のあとに、30分ほど質疑応答の時間が設けられた。
 受講者からの質問を受けて、憲法問題、消費税の問題、原発の問題、小選挙区制の問題などについても言及があったが、そういうテーマは、今後与野党政治家が集まるテレビ討論会などでもさんざん出るだろうから、あえてここでは触れない。
   
 

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カルロス・ゴーン氏 風と共に去りぬ(Gone with the Wind)

 

 1936年に出版されたマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ(Gone with the Wind)』は、世界的なベストセラーになったが、その原作をもとにした映画も空前の大ヒットとなった。
 
 舞台は南北戦争下のアメリカ。
 アイルランド移民の父と、フランス名家の母を持つ南部女性が主人公となる話。

 Wikipedia によると、『Gone with the Wind』というタイトルは、南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が消え「去った」ことを意味する。… とか。

 ヒロインの名前は、スカーレット・オハラ。
 その性格は、気が強いだけでなく、機敏で、計算高く、貪欲なエゴイスト。極めて自己中心的な精神を持つが、けっして困難には屈しないプライドと意志の強さを持つ。
 能力としては、算数に強く、商才があり、異性の心をつかむ技術にも長けている。
(Wikipediaより)。

 このヒロイン像、どことなく、いま話題の渦中にあるカルロス・ゴーン氏のキャラクターを彷彿とさせないか?

 男と女という違いはあるが、財を成す人間というのは、「算数に強く、計算高く、商才があり、プライドと意志が強い」という共通性があるということなのだろう。
 移民でありながら、フランス文化を身に付けているというヒロインの生い立ちも、多国籍的な文化を生き抜いたゴーン氏の出自に近い。

 『風と共に去りぬ』の物語の方は、ヒロインが南北戦争により、娘も、夫も、農園も失ってしまうことになるが、それでも力強く再起を誓うことを暗示するシーンで終わる。
  
 ゴーン氏の復活はあるのだろうか。
  
 
 
 

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カルロス・ゴーン失脚とグローバリズムの終焉

  
平成最後の大事件 !?
  
 日産自動車のカルロス・ゴーン会長の逮捕は、この年末の最大のニュースとなりつつある。“平成最後の大事件” などと評する人もいる。
 
 当初、ゴーン氏の逮捕は、「有価証券報告書の虚偽記載」といった金融取引上の違反が発覚したという報道であったが、その後の調査によって、日産への経営支配を強めようとしたルノー側に対する日産側の “クーデター” ではないかという見方が強まってきた。
 今後の展開がどうなっていくのか、今はまだ予測もつかないが、なんとなく、「時代の潮目」が変わったことを示すような事件ではなかったか … という思いは強い。

 「時代の潮目」というのは、いうまでもなく、グローバリズムの “終わりの始まり” が見えてきたというような意味である。

 カルロス・ゴーン氏は、フランスのルノーと日本の日産(&三菱)という東西を代表する自動車会社の総指揮を執るグローバル企業の代表的経営者だった。
 3社を合わせた世界販売実績は、昨年トヨタを抜いて2位(1位はVW)。
 数あるグローバル企業のなかでも、もっとも華やかな業績を誇る会社を統率する人物といえた。

 その年収は、日産だけでも、10億9,800万円(2016年度データ)。
 これに 9億4,000万円といわれるルノーの年収と、さらに三菱の年収などを加算すると、約20億円以上になるといわれている。

 しかし、世界的な基準でいうと、ゴーン氏の報酬はまだ低い。
 世界のグローバル企業の経営トップの報酬は、100億円程度がざら。
 2016年度に1番に輝いた経営者の年間報酬は210億円だそうだ。

 このような経営者の報酬が高騰する傾向は、グローバル企業の特徴の一つに過ぎないが、しかしそれは、ある意味グローバリズムの本質を物語る象徴的な特徴であることは間違いない。
 
 
海外のCEOが莫大な報酬
を手にできるのはなぜ?

 なぜ、グローバル企業の経営者に、このような富の一極集中化が起こるようになったのか?
 
 ひとつは、企業規模がグローバル化したせいで、その収益が国内産業にとどまっていた時代の規模をはるかに超え、ケタ外れに膨大になったことが挙げられる。
 
 次に、そのグローバル化の進展とともに、様々な経験を積んだプロフェッショナルな経営者たちが生まれるようになり、自分が身に付けてきた「経営手腕」という能力を “商品” として売り始めたことも大きい。
 
 実際に、ゴーン氏も、「グローバル産業のなかでももっともハードなコンペティションを繰り広げている自動車産業で生き残るには、経営手腕のある人材の確保が何よりも大切であり、その人材をつなぎとめるためには、競争力のある報酬が確保されなければならない」と、自らの立場を説明している。

 このように、海外のCEOたちは、自らの欲望レベルを高く誇示することで “レジェンド(神話的人物)” として自分を売り込む技術を身に付けてきたということがいえるだろう。
 
 
格差社会を生んだグローバリズム
 
 しかし、グローバリズムの先端をいく企業が栄えていく世界では、それを運営する経営責任者が高額報酬を取る代りに、一般大衆との経済格差が広がるという状況が生まれるようになった。

 オバマ政権の末期、アメリカの若者たちが、ニューヨークのウォールストリートを “富の簒奪所” として非難し、「アメリカの富の99%は、人口比率でいえばわずか1%のセレブたちが牛耳っている」と叫んでデモを起こしたことがある。

 そういう若者たちは、その後トランプ政権が誕生する前の大統領選挙では、民主党のサンダース候補を応援し、「経済的平等をもたらす社会主義政権をアメリカでも樹立させよう」という運動を起こした。

 しかし、そういう認識が広がってきたのは、ここ最近のことで、グローバリズムが世界に広がり始めた1990年代においては、どこの国でも一般大衆は経済格差の広がりを容認せざるを得なかった。

 なぜなら、グローバリズムを志向する新自由主義社会の “モラル” が「弱肉強食」と決まったからだ。
 激動する世界経済のなかで生き残るためには、弱者の “しかばね” を食い切っても、残った者が必死で生き延びなければならないというのが、新しい時代のモラルになったのだ。
 
 
「痛みを伴う改革」の正体
 
 これは日本では2000年代初期の小泉元総理の「郵政改革」の時代に当たる。
 小泉氏は、総裁選を戦う過程で、ことあるごとに「痛みを伴う改革」の必要性を説き、その言葉を呑み込んだ国民の多くは、“生き残るための痛み” に慣れるための耐性を身に付けようとした。

 実際、1990年代後期、グローバル化の波に乗り切れなかった日本企業は、どこも青息吐息だった。
 カルロス・ゴーン氏を迎い入れた19年前の日産自動車も同様で、2兆円の借金を解消できず、もういつ死んでもおかしくないという瀕死の状態であった。
 だから、日産社員も、企業を再生させるための大量リストラも覚悟せざるを得なかったし、コストカットの要求を消化しきれなかった下請け業者も、取り引きの継続を断念せざるを得なかった。

 もちろんゴーン氏の神技に近い業績回復は、社員の削減や下請け業者への圧迫だけでなされたものではない。それ以外のあらゆる面において緻密な合理化が進められた結果であることは間違いない。
 その手腕は多くの専門家やメディアも認めるところで、経営者としてのゴーン氏の能力の高さは誰にも異論を差し挟む余地がない。

 しかし、ゴーン氏の経営感覚は、あくまでもグローバル社会で強いられるコンペティションを乗り切るためのものでしかなかった。
 
 そのグローバリズムが行き詰まりを見せる時代になってきたら?
 
 実際に、2010年代に入ってくると、新自由主義的なモラルが席巻するグローバル社会のほころびがだんだん見えるようになってきた。
 その一つの例が、2016年のイギリスで起こった「EU離脱」事件である。
 これは成蹊大学の今井貴子教授が説明するように、世界的なグローバル経済の流れに「置き去りにされた人々」の反乱という性格があった。

 同じ年に開かれたアメリカ大統領選では、グローバル経済の繁栄から取り残されたラストベルトの有権者たちの心をつかんだトランプ氏が大統領に選ばれ、彼によって「反グローバリズム」と「自国優先主義」がはっきりと打ち出された。

 そういった意味で、2016年というのは、グローバリズムの最先端を押し進んできたアングロサクソン系の国家が、それぞれ逆向きに舵を切ったことを示す象徴的な年であったかもしれない。
 
 
グローバリズムにブレーキがかかった理由は?
 
 いったい、なぜこのようなグローバリズムの進展に歯止めがかかるような出来事が起こり始めたのか?

 それは資本主義の本質にも関係してくる話だ。 
 『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社 2017年)を近著に持つ法政大学の水野和夫教授によると、もともと資本主義そのものが、常に地理的な「中心」から「周辺」に向かって動き続けるグローバルな運動体であったという。

 つまり、資本主義というのは、常により安い労働力と、より収益の上がる市場を求めて、ひたすら国境を越えようとするところに、その “本性” があるというのだ。
 
 このような資本主義の本質が全面開花したのが、1990年代である。
 そのきっかけとなったのが、1989年の「冷戦終結」であった。
 それまで対立しながらも安定した構造を維持していた「資本主義陣営」と「社会主義陣営」が、資本主義の圧倒的な勝利によって冷戦を解消し、それを機に、地球全体が資本主義の渦に巻き込まれるようになったのだ。
 
 
フロンティアをなくしてしまった資本主義

 しかし、そのことは逆に、資本主義の寿命を縮めることにもつながった。
 なぜかというと、先ほどもいったように、資本主義というのは常に「中心」から「周辺」(フロンティア)に向かって開拓地を広げていく運動体なのだが、冷戦後、地球をグローバライズさせる活動を急ぎ過ぎたため、地理的なフロンティアが姿を消してしまったのだ。

 専門家によると、より安い人件費を求めて、中国、東南アジアとフロンティアを広げてきたグローバル企業が、ついにバングラディッシュまでたどり着いたときに、地理的なフロンティアは消滅したという。
 そのあとはアフリカ大陸が残っていたが、アフリカ諸国は地中海側を除くと人口の集約率が低いため、労働資源を確保するのが大変。そこに工場を新設しても採算が採れるかどうか疑問視されているとも。

 では、地理上のフロンティアが消滅し始めていることに気づいたグローバル資本主義は、どこに活路を求めるようになったか?
 
 それぞれの国家の内部に、もう一度「中心」と「周辺(フロンティア)」をつくらざるを得なくなったといっていい。
 つまり、マルクスが『資本論』を書いた時代と同じような、富める資本家(中心)と貧しい労働者(周辺)というきわめて古典的な階級社会が、どこの国においても出現するようになったといえる。
 
 
国家の内側に再発見された
「中心」と「周辺(フロンティア)」

 
 リーマンショック時のアメリカに例をとってみれば、「周辺」に追いやられたのが、サブプライムローンなどを組まされた低所得者たちであり、「中心」となったが、そこから利潤を得ようと画策したNYウォール街の相場師たちだった。

 日本の場合は、労働規則の緩和によって生まれた多くの非正規雇用者が「周辺」に追いやられ、そこで浮いた社会保険や福利厚生のコストを利潤に回すことのできた企業が「中心」となった。

 これが、「格差社会」の実態である。
 グローバル企業の成長によって、各国民の経済格差が広がり始めてきた背景には、そういう問題が横たわっている。

 イギリスのEU離脱派勢力の台頭も、トランプ大統領の支持基盤が固いのも、そういう格差社会の広がりに対する抵抗運動という側面があることは見逃せない。

 日産のカルロス・ゴーン元会長の失脚というのも、過度な役員報酬を当たり前のように保証していたグローバリズムが、ある意味で曲がり角を迎えていることを示唆する事件なのかもしれない。
 
 
参考記事 「カルロス・ゴーン氏 風と共に去りぬ(Gone with the Wind)」

  
 

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成蹊大 今井貴子教授の50周年記念ゼミ

 
 2018年11月18日、成蹊大学(東京・武蔵野市)で法学部の「創立50周年記念行事」として、同校の法学部諸教授によるゼミが開かれた。

 これに参加する機会を得たが、とても刺激を受けた。
 全部で18項目におよぶゼミのテーマが用意されていたが、それを告知するパンフレットにはなかなか魅力的な議題がそろっていて、どれを受講するかかなり迷った。

 18項目のうち、自分が特に「面白そうだな!」と興味を抱いたのは下記のようなものだった。

 「AI ・ロボットと法」
 「AI 時代の戦争と国際法」
 「英国社会の分極化とEU離脱問題」
 「平和を欲するならば戦争の準備は必要か?」
 「2018年アメリカ中間選挙」
 「マックス・ウェーバーの新訳『仕事』を読む」
 「戦後思想を考える」
 「漢字の源流 ― 秦始皇帝の文字統一の実態」
 「19世紀末の短編小説の解釈の試み」

 何日かに分けて開催してくれるのなら、このうちの三つか四つぐらいは受講したかった。
 … とか書くと、私のことを、アカデミックな学問を愛する学究肌の人間のように勘違いする人がいるかもしれないが、自分の青春は “学問” とは無縁だった。
 いちおう「学生時代」というものを経験したが、どちらかというと、麻雀とナンパとギターに明け暮れた生活だったので、もったいないことに、ゼミの雰囲気というものも知らずに卒業してしまったのだ。

 だから、「一度だけでもゼミというものを経験してみたい」と勇み立ち、受講を申請した。大学というものを卒業して、44~45年目ぐらいの初体験ということになった。

 選んだテーマは、「英国社会の分離化とEU離脱問題」。
 ゼミの担当教員は成蹊大学・法学部教授の今井貴子氏(写真下)だった。

 2016年に起こったイギリスのEU離脱は、衝撃的な事件だった。
 EUというのは、ヨーロッパ・グローバリズムそのものを体現した存在だったから、当時地球規模で広がっていたグローバル社会の理念的象徴でもあった。

 イギリス国民は、そこからの離脱を国民投票で決めたのだ。
 世界に亀裂が入った瞬間だった。
 いったい何が起ころうとしていたのか?

 「排他的な分断社会の到来」
 そういう時代が始まろうとしていたことが、その年の11月に選挙で当選したトランプ米大統領の誕生でより明らかになっていく。

 そういう潮目の変化を確認する意味でも、「イギリスのEU離脱」は重要なテーマだという気がした。
 テキストとして選ばれたのが、水島治郎・著『ポピュリズムとは何か』(中公新書)という本だったので、それにも興味を感じた。
 
 
ゼミ聴講生たちの意識レベルの高さ
 
 当日、同ゼミの参加者として集まったのは、およそ30人ほど。
 男女比率でいうと、男性7:女性3という割合であったが、年齢はさまざま。
 男性は72~73歳を上限に、60代から50代といったシニア層がメイン。それ以外は現役の学生と社会人1~2年生といった若者。
 女性は20代から30代ぐらいの若い女性が中心で、現役の学生のほか、子育て真っ最中の主婦もいた。

 最初に参加者が一人ずつ自己紹介を兼ねて、同テーマのゼミを選んだ理由を述べる段取りとなった。

 これがすげぇのよ ! 
 参加者の意識レベルの高さがハンパないわけ。
 「私は恥ずかしながら物見遊山の気分で参加しました」
 とか自己紹介しつつ、その後に、
 「価値観が均等化されたはずのグローバル社会のなかで、国民の意識の分断化がなぜ生じてきたのか、今日はそれを知りたくてやってきました」
 とか、誰もが明確な目的意識を持っていることをアピールするわけよ。

 各自の自己紹介のあと、今井教授が15分ほどテキストをおさらいしたのち、参加者たちの質問や討議が始まった。
 討議内容の詳細は省くが、ここでは本ゼミをまとめた今井教授の論点を簡単に紹介する。
 
 
「離脱賛成者」たちのキャラクターは
メディアではどのように描かれたか

 
 今井教授は、2016年9月に岩波書店から発行された『世界』という総合誌において、「分断された社会は乗り越えられるのか」というタイトルのもとに、イギリスのEU離脱の真相を分析されている。

 2016年当時、この “離脱騒動” が各国のメディアでどのように扱われたかのか。
 例外なく、どのメディアにおいても、次のような言説が国を超えて流布した。

 「EUに残留することを主張した人々は、イギリスの政治・経済・文化に深くコミットした若い知的エリートたちだが、離脱を叫んだ人々は、国際的な問題に関心を持たない低学歴・低所得の中高年労働者だった」
 そして、
 「この離脱派グループは、移民の流入にも反対し、自分たちの “排他的で狭量なエゴイズム” をむき出しにした」

 日本のメディアも、離脱騒動の渦中においては、こういう報道の構図を守ったため、日本人の多くも、
 「イギリスでは反知性主義的な大衆がポピュリストたちの扇動に乗せられ、一時的な熱狂に浮かされて愚行を犯した」
 という視線でこの事件をとらえるようになった。

 しかし、今井教授はいう。
 「1,740万人を超える人々が一時的な扇動や感情のままに行動したとみなすのは無理がある。
 むしろ、彼らの行動は、すでに分断が進行していた社会のなかで “何かを取り戻したい” という強い意思に従ったものであったと考えるべきではないか?」

 では、彼らは何を取り戻したかったのか。
 
 
「離脱賛成者」たちが望んだのは
デモクラシーの復権だった

 
 教授によると、それは、「コントロールする力を取り戻せ!」という叫びだったという。
 コントロールの対象は、経済政策、病院や学校などの公共サービス、そしてなかんずく移民の流入だった。
 
 教授はいう。
 「離脱賛同者が取り戻したかったのは、仕事、賃金、生活、そして将来に対する自己決定権であり、その回路としてのデモクラシーであったと考えられる。
 “移民反対” というのは、それを主張するときの象徴的なスローガンとして機能した側面がある」

 つまり、
 「雇用や社会政策に自らのニーズが反映されないとする彼らの不満の淵源は、EUの問題というよりも国内政治の問題であった」
 (『世界』 2016年 9月号) 
 
 
「置き去りにされた人々」

 以上のような視点がまず提示され、ゼミの討議が始まった。
 参加者の多くが問題にしたのは、本ゼミのテキストでも大きく取り上げられた「置き去りにされた人々」についてであった。

 「置き去りにされた人々」というのは、イギリスの中高年労働者たちのことである。
 その多くは、低学歴の白人労働者階級であり、50年ほど前までは、彼らが人口比率においては圧倒的多数派であった。

 しかし、その後、徐々に大卒の知的エリートが労働市場の中核を占めるようになり、やがて経済、社会、政治、メディアを支配し始める。
 それによって、中高年のブルーカラー労働者の雇用も圧迫され、彼らは経済的にも文化的にも、次第に社会の周縁部に追いやられていく。
 これが「置き去りにされた人々」を形成していく。
 
 
 では、この「置き去りにされた人々」は、日本にも登場することになるのだろうか。
 それとも、すでにこの日本にも存在しているのだろうか。
 ゼミの議論は、そのテーマをめぐって旋回し始める。
 
 ある参加者はこういう。
 「近年は日本においても経済格差が広がりつつあり、非正規雇用の問題も見過ごすことができない状態になりつつある。イギリスで起こった事件は他人事ではない」

 別の参加者はいう。
 「置き去りにされた人々というのは、たぶんこういうゼミなどに参加する機会のない人々であり、我々のような人間とは生活圏が異なることも多い。
 だから、こういう討議をする場合、我々は抽象的な議論で終わらないように注意しなければならない」

 それを受けて、他の参加者がいう。
 「自分は建築会社に就職して、建築現場においては下請け業者たちを指揮する立場にいる。そういう状況に接すると、日本においても、低学歴で、雇用の不安定な労働者たちがたくさんいることが分かった。
 そういう人たちと、今後自分はどういう社会関係や信頼関係を結んでいけばいいのか。それが大きな課題でもある」

 こういう切実感ある意見を述べたのは、概して若い人たちであった。
 彼らは一様に、「置き去りにされた人々」に寄り添うようなスタンスでものを語った。

 それに対し、(自分も含め)シニア世代は、先輩としての自信があるせいか、どちらかというと、知識として蓄えた自分の知見を披露したいという意欲が旺盛であったように感じた。
  
  
日本でも格差社会は広がりつつあるのだが …
  
 では、このゼミのテーマの一つにあがった「置き去りにされた人々」という問題を日本に置き換えてみたとき、果たしてどういうことになるのか。

 近年の調査によると、「平成」という時代が始まって以来、日本における経済格差・社会格差の広がりはそうとう深刻になってきており、「格差」というより、すでに「階級化」が始まっているという見方もある。

 「平成」期に入ると、昭和の高度成長期に生まれた膨大な中間層が没落し、国民がいくつかの階層に分かれるようになった。
 この階層の頂点に立つのは、一部の超大富豪とそれに準じる富裕層。その下に、人口比率でもっとも多い一般労働者が控えるという構造が生まれたわけだが、最近は、この3極の下にさらに、一般労働者の生活水準も維持できない “下層階級” が大量に生まれているといわれている。

 その最下層に位置する人々のなかには、若い頃から定職もないまま非正規雇用という立場に甘んじてきた人々が含まれており、その多くは結婚して家庭を持つ余裕もなく、少子化の大きな要因を構成している。
 問題なのは、その人たちの高齢化がこれからどんどん進んでいくことだという。

 日本における「置き去りにされた人々」というのは、この層がさらに厚くなったときに顕在化してくるはずである。

 ただ、これを悲惨な問題として捉えることは大事な視点ではあるが、日本という国は特殊な国で、そういう社会的な困窮を、文化的に救済する方法が浸透しているという気もするのだ。

 その一つの例が、テレビの芸人たちの生きざまであり、また低学歴の若者でも高学歴のライバルに気後れすることがないように生きられる「ヤンキー文化」である。
  
  
置き去りにされた人々が、日本文化の主流を占める時代
  
 日本は学歴社会だといっても、韓国のような「受験競争を乗り切って有名校に入らなければその後の人生がなくなる」というほどの厳しいものではない。
 日本には、学歴エリートを目指すことをあきらめた子供たちが、次に目指すべきロールモデルを持てるような文化が形成されている。
 その一つが前述した “芸人文化” だ。

 日本の子供たちは、早いうちから自分の生活環境などを観察して、自分の家が有名大学に子供を進学させるような家庭でないことを察知する。
 そういう子供たちが、学校でまず身に付けようとするのが、特定の友達を面白おかしくいじりながら、見物人たちの笑いを取る “芸人術” である。

 日本のお笑い芸人の層がこんなに厚いのは、それが、非エリートとして生きる覚悟を決めた子供たちのロールモデルとなっているからだ。
 日本の芸能界は彼らに対して、実に公平に、平等に門戸を開く。
 成功すれば、彼らはエリート社会人の数十倍、数百倍のギャラを一気に稼ぐようになる。
 
 
日本はヤンキー文化の国になりつつある
 
 芸能界入りをあきらめた子供たちを “温かく(?)” 包むのが、地方のヤンキー文化である。
 ヤンキーは、けっして「不良」ではない。
 それは、学歴格差や経済格差に劣等感を持つことなく、エリートたちに堂々と胸を張れるひとつの「文化」である。
 
 だから、ヤンキー文化は、おのれの正統性を主張するために、地方の伝統行事などとの親和性を強める。
 祭りの日に、いちばん威勢よく神輿を担いだりする若集には、ヤンキー系が多い。
 
 彼らは「仲間との絆」を確かめることに美学を感じており、仲間の窮地を救うためには、自分が犠牲になっても、もっとも悲惨な場所に身を投じる勇気(蛮勇?)を持っている。
 2011年の東日本大震災のときに、被災地のがれき撤去などの作業に率先して従事したボランティアのなかには、けっこうヤンキー系の若者も多かったという話も聞いている。
 
 こうしてみると、欧米先進国では「置き去りにされる」境遇に生きるはずの人々が、日本においては、メジャーな国民文化を形成しつつあるという構図が見えてくる。
 そこに日本という国の特殊性があるように見える。
 
 
  

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“ワンピース原理主義者” たちの思想

 
 ずっと昔の話になるが、このブログで、アニメ『ONE PIECE(ワンピース)』のことを書いたことがある。(『ワンピース』ってどこが面白いの? 2016年8月23日)。

 いまだに、このタイトル名を検索して閲覧してくれる読者がいる。
 “どこが面白いの?” という検索ワードを拾ってくれたということは、やはりこのマンガの人気に同調できない人かもしれない。
 いずれにせよ、2年前に書いた記事に反応してくれるわけだから、巷では、相変わらずこの作品が話題になっているようだ。

 そういえば、やはりつい最近のこと。
 近所の焼き鳥屋で、カシラを焼いてもらいながら、緑茶ハイを飲んでいると、隣の男性2人が『ワンピース』を語り合っている場面に遭遇した。

 職場の先輩・後輩らしい2人で、年のころは30代から40代ぐらい。
 先輩らしき人が、しきりにこの作品に対して熱弁をふるっていた。

 「おめぇよ、このマンガは何がすげぇかっていうとよ、とにかく主人公がめちゃめちゃやられるわけよ。
 もうコテンパンなわけ。
 こんなに主人公がくたばっちゃうマンガなんてよ、おめぇ読んだことある?
 でもよ、負けねぇんだよ。
 最後にはよ、立ち上がっていくわけ。
 涙出るぜぇ !」

 すると、後輩らしい男が、
 「そっすね ! 泣けますよね !」
 と相槌を打つ。
 
 ふぅ~ん …… と、心のなかでうなずきながら、聞いた。
 別に、この2人の感想に異論があるわけではない。
 ただ、“主人公がめちゃめちゃ叩かれる” ってことが、そんなに珍しいことか?
 とは思った。
  
  
『ワンピース』には名言・名セリフが多い?
 
 家に帰って、あらためて、『ワンピース』をめぐるネットの声を拾ってみた。
 やはり、ファンにとっては “神マンガ” のようだ。
 ある熱烈ファンサイトでは、こんな指摘があった。

 「(ワンピースには)名言や名セリフが多い」
 その例として、ある登場人物のセリフに「バカにつける薬はない」という名言があった、… という。
 もちろん前後の文脈で、セリフの意味というものはガラッと変わるわけだから、そこだけ取り出すと誤解が生じるかもしれないけれど、それにしても、「バカにつける薬はない」というのは名言か?

 また、その人によると、「力強いセリフが絶妙のタイミングで飛び出す」という。
 麦わらの一味に加入したいけれど、臆病な性格のために、グズグズと言い訳を垂れ流している仲間に対し、主人公のルフィが一言、「うるせぇ! いこう!」と黙らせるシーンがあるという。
 その評者にとっては、これも目頭が熱くなるシーンの一つだとも。

 そのシーンを知らないので、どう言っていいのか分からないが、何となく、ふぅ~ん …… ため息が出てしまう。
 つまり、これはヤンキーの美学である。
 
 
「泣き」が頂点にくるヤンキー美学

 ヤンキーの美学とは、感動の頂点に「泣き」をもってくることだ。
 その場合の「泣き」とは、例外なく、仲間との「絆」の再確認から生まれてくる。 
 そして、その「泣き」が絶対化されたときには、すべての言説は沈黙を守らなければならない。
 これこそが、ヤンキー美学の不文律である。

 この場合、「沈黙を守らなければならない」立場に立たされるのは、“知性” である。
 「知性」こそヤンキー文化にとっては、もっとも「感動」に水を差すものであり、要は “うざい” ものの代名詞となる。
 
 だから、『ワンピース』に対して批評的な言説が寄せられるサイトは、まずファンからの罵詈雑言に耐えなければならない。
 「批評」というのは、あくまでも “分析” に過ぎず、必ずしも “批判” ではないのだが、一部の “ワンピース原理主義者” たちにとっては、「批評」が身にまとう「知性」そのものが、もう腹立たしいのだ。

 そういう “ワンピース原理主義者” は、この作品の面白さに疑問を感じる人たちに、よくこんなことをいう。

 「お前が面白いって感じないと売れちゃ駄目なのかよ」
 「売り上げは確かに一番なんだから、そこは認めましょうよ」
 「本当に面白くなければ、子供も見ません。人気も出ないでしょう」

 このような主張は一種の “言論弾圧” である。
 自分が聞きたくない意見、見たくもない主張をヒステリックに封じ込めようとしているにすぎない。
 
 
売れたものが正義なのか?

 このような原理主義者たちの思想を一言でいうと、
 「売れたものが正義」
 ということになる。
 彼らは「売れた」という事実の前で、思考停止してしまう。

 確かに、資本主義の世の中で、「売れる」ということは、非常に大きな価値を持つ。
 しかし、だからといって、「売れたものが正義」という考え方は非常に傲慢で不遜な思い込みにすぎない。
 それは、「大多数に属する方が優越する」というカッコ悪い思想に行きつく。

 「多数派が世の中を動かす」というのは、民主主義でもなんでもない。
 民主主義とは、少数派にも弁論の余地を与えるという思想なのだから。

 いま日本のネット言論を支配し始めているのは、多数派を任じる人たちの少数派への言論弾圧である。
 これは世界的な風潮なのかもしれない。
 
 
PS.

ワンピース原理主義者は
手塚治虫を読んだことがあるのか?

 一つの作品をそれなりに評価するには、その評者が過去にどれだけの作品に接してきたかが大きな意味を持つ。
 単純にいって、3~4程度のサンプルのなかから一つを選ぶのと、10のサンプルから一つを選ぶのでは、評価の精度が違う。
 10のサンプルから選んだ「一つ」というのは、やはりそれなりに厳選されたものになる。

 私が気になるのは、「ワンピースがすごい !」と言っている人たちは、いったいどれくらいのデータのなかから、その一作を選んでいるのかということだ。
 『ドラゴンボール』などと比較されることが多いようだが、日本のマンガ史に残るような過去の作品名はほとんど出てこない。

 「世代の差」といってしまえばそれまでだが、少なくとも『ワンピース』のことを「マンガ史に残る最高傑作」というのだったら、「何と比較してか?」ということにも神経をはらってほしい。 
 
 『ワンピース』をすごい! と評価する人たちは、過去に手塚治虫を読んだことがあるのか? 赤塚不二夫を読んだことがあるのか? 石ノ森章太郎を読んだことがあるのか? ジョージ秋山を読んだことがあるのか? 横山光輝を読んだことがあるのか? 白土三平を読んだことがあるのか? 水木しげるを読んだことがあるのか? ちばてつやを読んだことがあるのか? 松本零士を読んだことがあるか? 池上遼一を読んだことがあるのか? 吾妻ひでおを読んだことがるのか? 大友克洋を読んだことがあるのか? 吉田戦車を読んだことがあるのか? 山岸凉子を読んだことがあるのか? 諸星大二郎を読んだことがあるのか? つげ義春を読んだことがあるのか? … と言いたい。
 
 

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ペッパー君が会社の社長になる日

  
 街を歩いていると、ペッパー君をよく見かけるようになった。
 この連中、ほんとうによくしゃべる。
 飲食店の前に立っているヤツは、
 「おいしいお食事をご用意しました。どうぞお立ち寄りください」
 とか呼び込みをやる。

 銀行の中にいたヤツは、自分の胸の端末ディスプレイを表示して、
 「今日は何のご用事ですか? ご入金・お引き出しは➀のボタンを。融資のご相談は②のボタンを … 」
 などと案内を始める。

 この前、メガネ屋前の舗道で、何もしゃべらないヤツがいたから、頭だけなでてやった。
 そうしたらそいつ、くるりと首を回して、あの無表情な( … 見方によっては人懐っこいような)顔のまま、こっちを見上げるのだ。
 その場を立ち去った後も、まだじっと見ている。
 「もう分かった分かった! いい加減にあっち向けよ」
 と、思わずつぶやいた。

 あいつら、何を考えているのだろう。
  
  
「ペッパー社長」はいつ登場するのか?

 “ペッパー小僧” たちは、今はまだ単純なプログラミングで動いているだけだけど、AI がどんどん進化してくうちに、やがて会社の部長・課長になったり、学校の先生になったりするのだろうか。

 そのうち、後継者不足で悩む中小企業などでは、ペッパー君が社長を務めるようになったりするかもしれない。
 で、そんなペッパー社長は、会社中を巡回しながら、社員の開いているパソコンを覗き込み、「こんな簡単な演算ができないのですか?」などとしゃべるのだろうか。
 
 
 しかし、実際には、AI 搭載型のロボットが人間社会にしゃしゃり出てきて、人間を議論で打ち負かしたり、人間に命令を下したり、人間をアゴで使ったりするような社会は、IT ジャーナリストたちによると、「ほとんど実現することはない」という。
 だから、SF映画の『ターミネーター』のような社会が訪れることもないとか。

 ただし、彼らがいうのは、「現在のAI テクノロジーでは、AI が人類を支配する社会は実現しない」という意味で、「未来」は不問に付されている。
 
 
「AI の未来」には二つの予測がある

 AI の未来に対する見方は、二つに分かれる。
 ➀ 「AI はそのうち人間に迫り、やがて人間を超えていく」
 ② 「AI はいつまで経っても、人間を超えることはない」

 ➀ を唱える人たちの根拠は、次のようなものだ。
 「今のAI は人間の頭脳活動をモデルにしているので、人間の頭脳が貯えるデータと同等のデータ量が蓄積されていけば、やがて人間と同じ判断を下すようになり、さらにデータ蓄積が上積みされていけば、人間を超える」

 こういう説の根拠となっているのが、スピードラーニング … じゃなくて、ディープラーニングというやつだ。
 これは、(そっけなく言ってしまうと)、答を出すためのアイデアを人間からもらわなくても、AI が勝手にアイデアを探し出し、スタスタと単独で作業を始めてしまうというテクノロジーなのだ。
  
  
あれはネコか? 犬か? それともワニか?

 例を出す。
 「ディープラーニング」を説明するときによく使われるエピソードで、ネコの識別。

 人間は、道端を歩いている野良ネコを見ただけで、「あ、ネコだ」と瞬時に識別することができる。
 だが、これをAI が行うのは、実はものすごく大変なことだという。

 AI が、たとえばネコの動画を解析して、それを「ネコ」だと断定するには、
 まず、
 ➀ (ネコというのは) 鼻を中心にその周辺に、3cm程度のヒゲを生やした動物だが、そのヒゲは、場合によっては4cmのこともある。長いものになると5cmもある … などなどなどのデータをことごとく事前にインプットしておかなければならない。

 ② 眼球の大きさは1cmから2cm程度。ただし、明るいときは瞳孔が細くなり、暗くなると瞳孔が拡大される。その大きさの変化は日照時間の変化に対応している。

 ③ ネコが怒ると眉間にシワが寄り、「フヒャー」とか鳴く。さらに人間が近づくと、より警戒心をあらわにして「グフゥ~」と威嚇し、時にはネコパンチを繰り出す。ネコパンチを繰り出すときは、右腕の場合もあれば、左腕の場合もある。

 ④ しかし、飼い猫の場合はこういう警戒行動をとることなく、飼い主に寄り添ってきて、「ゴロニャン」と鳴く。

 ⑤ 固体の色は、ホワイト、ブラック、パールマイカ、エキサイティングレッド、ダークチェリー、マロングリーンなどに分かれ、さらにその複数が混じり合うこともあり、自動車のボディ色のようには瞬時に識別できない …… などなど。
 

 
 つまり、AI に、「これはネコです」と解答させるためには、それこそ何十万という膨大なデータをすべて人間がインプットしておくという途方もない作業が必要だったのだ。

 しかし、ディープラーニングを会得してからのAI は徐々に「これはネコです」というデータを自分でかき集めるようになってきた。
 もともとディープラーニングというのは、人間の脳の神経回路をモデルに開発された技術だといわれている。 
 人間の脳は、1,000億のニューロンの配列からなっていて、それぞれのニューロンはさらに1万個のニューロンとつながっている。シナプスの数でいえば、100兆から1,000兆だとか。

 人間が「あ、ネコだ!」と判断するのは、こういう天文学的な脳内組織のたまものなのである。
 … ということは、理論的には、人間の脳と同規模のAI 組織を構築できれば、人間を超えるAI が生まれてこないとも限らないということになる。
 
 実際、近年のAI の進化はすさまじく、図像解析のレベルなどにおいても、すでに立派に実用化されているものも少なくない。インターネットのWEBページの検索や画像検索、自動運転車における障害物の認知など、気づいてみれば当たり前のように、日常生活のAI 化が始まっている。
  
 
2030年には、AI が人間を超える?

 「AI が人間を超える地点」。
 これを、専門用語で、「シンギュラリティ(技術的特異点)」というそうだが、このシンギュラリティの到来を意外と早い時期だと予測する専門家もいる。
 2025年ぐらいになれば、AI 技術は今とは比べものにならないほど進化しており、2030年代に入ると、もう人間の頭脳的能力に匹敵するAI が早くも登場する。
 そう大胆に占う研究家もいる。
 各会社に「ペッパー社長」が登場するのも、この時期(?)だということになる。
 
 
 しかし、一方で、「どんなに進化を遂げようが、人間の能力を超えるAI が登場することはない」と断言する研究者もいる。

 そう言い切るときの理屈は、次のようなものだ。

 「AI がどのような知能を身につけようが、あくまでもその本質は “計算機” である。つまり、“数学の言葉” に置き換えられるものしか答が出せない。
 数学の言葉とは、“論理”、“確率”、“統計” の三つでしかない。
 それが、4,000年以上の数学の歴史で発見された “数学の言葉” のすべてだ」
 (数学者の新井紀子氏の見解)
   
   
AI は “意味のない言葉” を理解できない

 つまり、“数学の言葉” では、人間の会話のなかの「意味がないこと」を表現できないという。
 「意味がない」というのは、たとえば「あなたが好きだ」という言葉。

 これをAI が伝えるとなると、
 ➀ 「あなたの存在を、ともに生活する伴侶として最適だと判断した」
 ② 「あなたを容姿を、過去の私の好みと照らし合わせて、好ましいと感じた」
 ③ 「あなたの明るい性格が、私がいま感じている不安を忘れさせてくれるのでつきあいたい」
 ④ 「あなたの性的魅力に刺激されたので、抱きたい」
 
 …… 等々さまざまなケースに細分化されるが、どんなにその中身を解析しようが、「あなたが好きだ」というもっともシンプルな思いの強さには届かない。
 つまり、「あなたが好きだ」という言葉は、それ以外のどんな言葉にも還元できない。
 要は、AI はもっとも単純な表現のなかに潜む「強さ」や「深さ」を理解できないのだ。

 逆に人間の脳は、「意味のない言葉」のように思えるものなかから、必ず自分に必要な「意味」を探り出してくる。
 ところが、AI は、その「意味」の内容を具体的に説明しない限り(=ロジックを構築していかない限り)、他者に伝達できない。
 “数学の言葉” には、「感じる」、「察する」という人間の心に関わる言語がないからだ。
 
 
人間の脳を神秘化するのはセンチメンタリズム?

 ただ、これに関しても、AI 信奉者からは異論が出ている。
 「人間の脳を神秘化するのは、情緒的なセンチメンタリズムにすぎない」
 という。

 「脳とAI の差はデータ解析に対する量的問題に過ぎない。AI 研究の飛躍的進歩によって、その差はだんだん縮まりつつある」
 だから、「高度に進化したAI 」 は、やがて「心」を持つ。

 実際に、現在のAI のシステムは、人間の脳のような複雑なネットワークを持つには至らないが、すでにネズミの脳と同サイズのネットワークを構築しているという。

 そうなると、ネズミのような哺乳類がやがて人間になっていったように、AI が人間に代わって地球の管理者になる日が訪れるかもしれない。

 ただし、ネズミが人類になるまでには2億年かかっているから、AI が「心」を獲得するにも、やはり2億年ぐらいかかることもありえる。
   
  
「心」とは魑魅魍魎の世界
 
 忘れてならないのは、「心」とは魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界だということだ。
 それは、聖なるものも邪悪なものも入り乱れた混沌とした世界で、「心」の持ち主でさえも制御が不可能な領域だ。

 その底の方では、優しさも、妬みも、尊敬も、侮蔑もすべて激流のようにのたうち回っていて、どの感情がいつ爆発するかは本人でも分からない。
 人間の “特権” のようにいわれる「クリエイティヴィティ」というのも、しょせんはこの「魑魅魍魎」のことを指しているにすぎない。 
 
 

 AI の本質である “数学の言葉” は、その魑魅魍魎の世界をなんとかロジックで解析して秩序立てようとするだろうが、魑魅魍魎の世界というのは、2億年という哺乳類の進化の系がつくりだしたものだから、AI のビッグデータをもってしても、2億年の時の重みに耐え続けることはできない。
 
 それよりも心配なのは、最近は、人間らしい「心」を解さない人たちが増え続けていること。
 「AI の人間化」よりも、「人間のAI 化」の方が先に進んでいくことになるだろう。
  
  

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ロシア絵画の不思議な奥行き

 
 「東京 富士美術館」(東京・八王子市)で開かれている『ロシア絵画の至宝展』という美術展を観に行った。
 今回集められた絵画の大半は、19世紀中頃に描かれたもので、テーマはロシアの自然を描いた風景画、および庶民の日常生活の1コマを切り取ったものだった。
 

▼ ウラジーミル・マコフスキー 「夜の牧草地」

 この美術館には、ヨーロッパの古典絵画や近代絵画をそろえた常設展示場もある。
 しかし、今回「特別展」に運び込まれた “ロシア絵画” のコーナーに足を踏み入れると、そこから空気が変わる。
 
 
▼ アレクセイ・サヴラーソフ 「沼地に沈む夕日」

 ヨーロッパでもなければ、アジアでもない。
 「ユーラシア」という言葉が当てはまるのかどうかも、分からない。

 ここに集められた風景画を、いったいどのような言葉で紹介すればいいのだろうか。
 うまい言葉が見つからない。
 それほど、19世紀中期のロシアの大地が、いかに我々のイメージが及ばないような世界であったかということを、あらためて知る思いだった。
 
 
▼ アルヒープ・イヴァノヴィチ・クインジ 「虹」

 
 一目見て感じたのは、ロシアの大地を描いた風景画には、どれも得体のしれない “奥行き” があるということだ。
 「広大」とか、「雄大」という言葉でもっても言い尽くせない。
 そういう「水平的な広がり」とはまた別の、「奥行き」の深さに吸い込まれそうになるのだ。

 つまり、絵の “果て” が、地平線で終わっていない。
 地平線のその先に、さらに果てしない “何か” が続いている。
 
 
▼ イサーク・レヴィタン 「ウラジーミル街道」

 我々は、日本の風景のなかに「地平線」を見ることはできないが、アメリカ大陸や中国大陸、ヨーロッパ大陸の大地を絵画や写真あるいは映画を見ることによって、「地平線」というものを画像体験することができる。
 そして、それは、「地平線」という水平ラインで閉じられることによって、いちおう視覚的に完結する。

 だが、ロシア絵画に描かれる「地平線」は、けっして完結しない。
 絶えず、その奥にある世界を喚起してやまない。
 
 雪原の彼方にはシベリアの凍土が広がっており、やがては北極まで続く大地が伸びているように思える。
 
 
▼ フョードル・ワシリーエフ 「雪解け」

 白樺の森は、そのまま進んでいくと、いつしか熱帯雨林に紛れ込んでいきそうな気配がある。
 
 
▼ イヴァン・シーシキン 「カバの森の中の小川」

 
 常にここではない、どこか。
 それを暗示するのが、ロシアの風景画だ。
 そしてそれこそ、ロシアの大地が本来秘めている魔法の力なのだろう。

 おそらく、19世紀のナポレオンも、20世紀のヒトラーも、これにやられたに違いない。
 彼らの軍隊は、モスクワを目指して進軍しているうちに、大地がどこまでもどこまでも後退していく恐怖を味わったことだろう。
 
 
▼ イヴァン・シーシキン 「嵐の前」

 「後退していく地平線」は、限りなく「水平線」に近づく。
 いくら地平線を見渡せる大地に踏ん張ろうとも、彼方の風景がゆらいでいけば、自分の立っている足元も崩れていくことになる。

 それは、足元が海面に浸されていることと変らない。
 人間は海の上には立てない。
 今回の「ロシア至宝展」の目玉であるイヴァン・アイヴァゾフスキーの『第九の波涛』という絵画は、そのように見ることも可能だ。 
 
 
▼ イヴァン・アイヴァゾフスキー 「第九の波涛」

 絵画には、鑑賞者がそれまで見たこともないような光景を見せてくれる力がある。
 それは、テレビやCG映画の画像喚起力より数千倍まさる。
 なぜなら、そこには画家の頭脳に降臨した想像力のバイアスがかかるからだ。
 たぶんロシアの大地には、画家の想像力を引き出す特別の魔術があるのだろう。
  
  

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ペット連れキャンピングカー旅行

    
 「ペット」というと、まず犬か猫。
 その次が金魚、小鳥。
 ときどきウサギかブタ。
 
 最近はヘビ、トカゲという、“首がニュルッと回る系” も増えているようだけど、そういうのは逃げ出した時が大変そうに思える。
 飼っていたヘビが隣りの家に逃げ込んだとしても、まず、無事に返してもらえるかどうか。
 フトン叩きでめっちゃくちゃに叩かれ、哀れ、きしめん状になって帰ってきそうな気もする。

 ワニなんかお風呂場で飼おうものなら、飼い主はいつお風呂に入るのよ? って感じになるだろうし …。
 やっぱ無難なのは犬・猫のたぐい。
 ペットのキング格は「犬」で、「猫」がクィーン格という基本は揺るがない。


 
 で、キャンピングカーユーザーはけっこうペットが好きだ。
 旅行するときに、ペット連れで泊まれるホテルや旅館が少ないということで、キャンピングカーを購入する人もいる。
 
 ある高級輸入キャンピングカーを販売している店のスタッフは、こんなことを言った。
 「 “冬はペットが可哀想だから床暖房付きのキャンピングカーを買うわ” といったお客様がいらっしゃいました」

 床暖房付きのそのキャンピングカーは2千万円ぐらいする。
 うらやましいペットだ。
 そのペットがどんな動物かは聞き漏らしたが、温かい部屋を好む生き物となれば、ペンギン、シロクマのたぐいでなさそうだ。
 無難なところ、やっぱり犬か猫だろうな。

 で、犬とキャンピングカー旅行に行くと、いいことがいっぱいある。 
 犬連れ旅行だと、まず犬のために散歩に出る。
 犬に食事を与える。
 そんなことが旅のアクセントになって、旅にリズムが生まれるのだ。


 
 犬を散歩させるときも、
 「お、犬がやたらに草むらの匂いを気にしているな。野生動物の歩く道なのかな」
 といったように “犬目線” が加わるから、自然のいろいろなニュアンスにも敏感になる。
 
 そして、何よりも、人間と人間の「緩衝材」の役目を果たしてくれる。
 長旅をしていると、仲の良い夫婦といえども、ときどき二人の間に “ドロン” とした空気が漂うことがあるが、そんなとき、犬の話題に振ると、そのドロンとした空気が、パァーっと散っていくから不思議だ。
 
 犬というのは、実に察しのいい動物で、夫婦ゲンカが起こりそうになると、会話の流れで解るらしい。
 私が飼っていた犬も、夫婦の会話にとげとげしさが交じり始めると、人間の手足が及ばないくらいの距離まで、さぁっと移動していた。
 さらにお互いの会話が激昂してくると、もう視界のなかにいない。
 とばっちりを食うのを恐れて、毛布の下なんぞに避難するのだ。
 
 彼らには、人間の会話が全部分かっているのではないかと思えることがある。
 実際、「利口な犬は人間の2歳~3歳児ぐらいの知能を持つ」などとよく言われる。

 そうなると、この人手不足の世の中のことだから、犬を労働資源として活用しようという動きが出てくるかもしれない。
 すでに「介護犬」として訓練されている犬がいっぱいいるから、次に養成されるのは「買い物犬」だろう。
 高齢化社会が到来して、飼い主たちの体が思うように動かなくなってくると、日本全国のスーパーやコンビニは、「ネギ」「醤油」などというメモを首輪のところに挟み、買い物袋を首から垂らした犬たちで溢れかえると予想される。
 
 もっとも、専門家のなかには、注文主の頼んだ商品がそのまま家まで満足に届けられるかどうか疑問視する声もある。
 「トンカツ」「コロッケ」などを買って帰る犬たちのうち、はたして何頭が帰り道に味見したくなる誘惑を抑えられるだろうか。
 彼らの “克己心” との勝負となる。

 犬の労働力に期待する世の中になりそうだということで、犬と会話するためのいろいろな研究が進んでいるという。
 でもこれは止めた方がいい。
 犬がしゃべらないからこそ、人間が “犬の立場” に感情移入するわけで、それによって円満な状態が保たれている。
 もし、犬と人間が対等に会話するようになったら、各家庭で、夫婦ゲンカと同じぐらい、犬と飼い主のケンカが始まる。

 犬の主張は、以下にようなものになる可能性が高い。  
 「いつまでもオレに赤ちゃん言葉使うなよ」
 「トイレ用のシートは、1回ごとに変えてくれない? 不潔でしょうがない」
 「このエサなんだよぉ! 犬には賞味期限切れのエサを平気で与えるわけ?」
 
 厳しい世の中になると、ストレスが溜まっているのは人間ばかりとは限らない。
 犬だって、言いたいことはいっぱいあるだろう。
 だから犬にしゃべらせる前に、人間が、犬の気持ちを察してあげることが大事なのだ。
 
    
コント 愛犬詐欺

【夫】 大変だぁ! いま散歩に連れ出そうと思ったら、クッキーが玄関をすり抜けて外に飛び出してしまった。
【妻】 あら、早くつかまえないと。
 
【夫】 もう姿が見えないんだよ。
【妻】 家出かしら …
 
【夫】 お前が厳しく叱るからだよ。
【妻】 行き先は分かるかも … 。さっき原宿の竹下通りが出てくるテレビをじっと見ていたから。
 
【夫】 お年頃だもんなぁ。
【妻】 だけど、どうやって行く気かしら。電車など乗ったことがないのに。
 
【夫】 道々、匂いを嗅ぎながら行くんじゃないか。
【妻】 何日もかかるわよ。足が短いから。
 
【夫】 2~3日分のエサを風呂敷に包んで、背中にしょってけばいいのにな。
【妻】 可愛いわね。
 
【夫】 … とにかく探しにいかないと。
【妻】 暑いから、もう少し日が落ちてから。

【夫】 あれ、電話だ。どこからだろう?
 
【夫】 大変だぁ! クッキーが野犬狩りの人に捕まったらしい。
【妻】 うっそぉ。
【夫】 明日までに30万円振り込まないと、犬殺しの注射を打たれちゃうんだって。泣きながら、そう言っている。
【妻】 本人からの電話?
 
【夫】 そう。
【妻】 変ねぇ、いつ人間の言葉を覚えたのかしら。
  
 
 最後に、犬の年齢を数える方法を教えよう。
 小型犬の場合は、「犬年齢-1× 5+18」だという。
 たとえば、5歳の小型犬がいるとする。
 すると、「5-1× 5+18」となり、人間に換算すると、38歳ということになる。(ちなみに、大型犬の場合は、犬年齢-1× 6+18だという)
    
  
JRVAエッセイ 愛犬とのキャンピングカー旅行の思い出
(↓)
https://www.jrva.com/column/detail.php?column_cd=89
 
 

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オールマン・ブラザーズ・バンドの「ジェシカ」

 
 オールマン・ブラザーズ・バンド(写真下)の音を最初に聞いたのは、ラジオのFM放送だったが、あるいはFENだったか。
 放送局も番組名も忘れてしまったが、曲名だけははっきりしている。
 『ジェシカ』だ。

 1973年に発表された『ブラザーズ&シスターズ』のなかに収録された曲だが、私がそれを聞いたのは、1970年代の後半だった。
 当時、アメリカのバンドは嫌いだった。
 もともと、60年代から70年代初期にかけての自分の好みはビートルズ、クリーム、ブラインド・フェイス、レッド・ツェッペリンというブリティッシュ系ロックだった。

 その後は、R&B、SOUL MUSICという黒人音楽に興味が移り、ますますアメリカ白人のロックが嫌いになった。
 人種的偏見かもしれない。
 反知性主義的なアメリカの “白人文化” に対する名状しがたい嫌悪感があって、(それがいまだにトランプ大統領的な文化に対する嫌悪感として残っているが … )、まぁ、当時から、音楽においても、軽薄な白人文化の対極にある黒人音楽を偏愛するようになっていた。

 そういう自分の偏屈な好みを変えたのが、オールマン・ブラザーズ・バンドの『ジェシカ』である。 
 「あ、心地いい!」
 一回聞いただけで、思わずそう唸った。

 こういう躍動感を持った曲をそれまで聞いたことがなかった。
 自分が長い間肉体に蓄え込んできたのは、「ブルースの波動」であり、本家本元の黒人ブルースをはじめ、クリームやツェッペリンなどにおいても、ブルースに基本を置いたコード進行やリズム感が好みだった。

 『ジェシカ』という曲は、それをあっさりとくつがえした。

 なぜ、そういうことが起こったのか。
 この曲を聞いたとき、自分は自動車を所有するようになっていたのである。
 つまり、自動車の走行感覚にフィットする音楽というものを意識するようになっていたのだ。
  
 自動車を手にしたことは、新しい世界の扉を開いた。
 自分が大嫌いな音楽のなかに、ドライブミュージックとしては最適な曲があることを発見したからだ。
 その代表的な例が、ディープパープルの『ハイウェイスター』で、ラジオなどでこの曲が流れると、プチンとスイッチを切っていたが、カーラジオで聞く限り、これが妙に車の走行感とマッチすることを知った。
 
 ドゥビー・ブラザーズの『ロングトレイン・ラニング』なども好みの曲になった。
 あれは “トレイン(列車)” をテーマにした曲だが、やはり軽快なギターカッティングによる “疾走感” の表現が素晴らしいと思った。

 一方、テクノポップ系でも、“疾走感” を追求した音楽というものがあった。
 ドイツのクラフトワークである。
 彼らには『アウトバーン』(写真下)という曲があって、これはドイツのアウトバーンの走行感覚を無機的な電子音でなぞった音楽として一世を風靡した。 

 ハイウェイ
 トレイン
 アウトバーン

 自動車に乗るようになって、世の中には、モビリティーをテーマにした音楽というものがたくさんあることに気づいた。
 それらは、室内の固定した環境で聞いているかぎり何の感興もわかないことが多いが、「リスナーの肉体が音楽といっしょに水平移動するとき」に聞くと、がぜんそれまでとはうって変わって刺激的な音に生まれ変わる。

 しかし、オールマン・ブラザーズ・バンドの『ジェシカ』は、もう机の前に座って聞いただけで、自分が運転しているときの情景が浮かんだ。

 そのとき脳裏に浮かんだのは、アメリカ中西部あたりに広がる乾いた荒野だった。
 そして、そこを貫いて地平線まで伸びている一本道。
 「この曲を聞きながら、そんなところを走ってみたい !」
 そういう衝動を強く喚起する音だった。

 アルバム『ブラザーズ&シスターズ』に収録されている『ジェシカ』の演奏時間は7分28秒だ。
 
 アコースティックギターのカッティングに始まり、それにディッキー・ベッツ(写真下)の奏でる主旋律が重なっていく。
 ディッキー・ベッツのギターは、どことなくカントリーフレイバーが効いていて、いい意味で軽い。
 苦悩も内面的な深みもないかわりに、陽光のきらめきを感じさせるような、あっけらかんとした明るさがあって心地よい。
 これを聞いた後は、そういう「アメリカ白人の楽天主義もいいものだ」と思うようになった。

 『ジェシカ』では、このディッキー・ベッツのギターを引き立てるように、2台のドラムスとベースのリズム隊が、レシプロエンジンのピストン運動を想像させるような軽快なリズムを刻み続ける。

 聞きどころは 2分30秒を過ぎたあたりから始まるチャック・リーヴェルのピアノソロ。
 多少、えげつない表現を使えば、この個所から、ベッドの上で上下動する男女が、来たるべくエクスタシーを予感し、リズム隊と呼吸を合わせて、絶頂を迎えようと準備を始めた気配が伝わってくる。
 
 ピアノの音が、海面を跳ねるイルカのように踊り始めると、それに呼吸を合わせて、リズム隊が追う。
 いよいよそのときが迫る。
 チャック・リーヴェルのピアノソロからバトンを受けて、ディッキー・ベッツのギターソロが始まる瞬間が、そのときだ。
 リスナーの頭の中で “何か” が弾ける。

 そのとき、リスナーが口にするのは、
 「来た ! 来た !」という言葉だ。
 運転していると、もう本当にヤバイ。
 
 この『ジェシカ』は、リスナーに何を伝えようとしているのだろうか。
 本当によくできたドライブミュージックには「性交の快感」があるということを教えようとしているのだ。
 つまり、モビリティの本質が “エクスタシー” にあることを伝えようとしている。

 『ジェシカ』については、別のWEBサイトでより詳しく書いた。
 興味をお持ちの方は、そちらも開いてみてほしい。
 (↓) 
  「ドライブにふさわしい音楽のハナシ」 
 https://www.gogo-gaga.com/posts/5131079?categoryIds=1485906
  
  
▼ オールマン・ブラザーズ・バンド 『ジェシカ』

 
 

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「GoGo-GaGa!」というWEBメディアがすごい!

 
 自動車、オートバイ、自転車といったモビリティツールを “日常性” や “実用性” という視線から解放し、魔法のような光彩を放つ “異次元のビークル” として眺め直す。
 そういう試みが、若いライターを中心に始まっている。
 この秋に登場した『GoGo-GaGa!(ゴーゴーガーガー)』というWEBメディアが、それだ。
 
 自動車やオートバイというテクノロジーがこの世界に登場して130年。
 人類史上類例を見ないビッグパワーとハイスピードを実現したこれらのエンジン付きビークルは、それを乗りこなす人々にかつて経験したことのなかった興奮と酩酊感を教え、実用的な価値を超えて、あっという間に大人の趣味の主役に躍り出た。

 しかし、近年は、「若者の自動車離れ」などといった風評が蔓延するなかで、自動車もバイクも、少しずつ日常的な風景のなかに埋没するようになり、かつてのような「趣味のアイテム」としての輝きを失いつつあった。

 そんななかに登場した『GoGo-GaGa!』。
 このWEBサイトに採り上げられる情報には、自動車やオートバイがまぶしい光彩を放っていた時代のエッセンスが凝縮している。
 たとえていえば、幼児期の自分が、ある日街を行き交う自動車を見て、一気にその魅力にとりつかれてしまったときの感覚に近い。

 事実、この「GoGo-GaGa(ゴーゴーガーガー)!」というWEBサイトのタイトルは、主宰者である佐藤旅宇(さとう・りょう)氏の息子さんが、3歳のときにクルマの玩具で遊んでいたときの口癖だったという。

 クルマやオートバイといった乗り物が、人間に「自由に移動することの魅力」を伝えるアイテムだとしたら、それをもっとも直感的に把握できるのが幼児であり、佐藤氏流にいえば、「GoGo-GaGa!」というのは、人間がモビリティに対する興味を最初に感じたときの “叫び” ということになる。

 サイトの運営者である佐藤旅宇氏(40歳)は、オートバイ専門誌の『MOTONAVI』、自転車専門誌の『BICYCLE NAVI』の編集記者として活躍した後にフリーライターに転身。文学やアート、社会学的見地からも自動車や自転車を語れる全方位的な評論で注目を浴びている。
 また、テキスト制作だけではなく、カメラマンとしても、自動車やオートバイ、自転車の新しい魅力を引き出す画像表現が評価されている。

 この『GoGo-GaGa!』に、私も原稿を書かせてもらった。
 「クルマの自動運転化は人間に何をもたらすか」
 というタイトルで、将来AI テクノロジーに完全制御されるような自動車が誕生したとき、人間と車の関係はどうなっているのか? ということをテーマにしてみた。
 未熟な論考で、多少の恥ずかしさを伴う文章にしかならなかったが、佐藤氏の厚情により、素晴らしいレイアウトと美しい画像が施され、ビジュアル的には完成度の高いページになった。
 とても感謝している。
 『GoGo-GaGa!』の今後の展開が楽しみである。
 
  

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マイケル・ムーアが語る「民主主義」の危機

 
 トランプ大統領の記事を書いた夜、『華氏119』という映画を制作したマイケル・ムーア監督(写真下)のインタビュー番組をテレビで観た。
 テレビ朝日の『報道ステーション』で、同番組のメインキャスターである富川悠太アナが取材したものだった。

 インタビューのテーマは「トランプ政権の本質」について。

 マイケル・ムーアは、
 「トランプ政権の誕生によって、アメリカの民主主義はぎりぎりの崖っぷちに立たされている」
 と語り出した。

 彼は、トランプ大統領を「民主主義の敵」と見なした。
 つまり、トランプは、相手の立場を尊重するよりも、相手を威嚇することで自分に有利な状況を作り出そうとする政治家で、彼のおかげで、民主主義の基礎となる平等な討論の場がアメリカで失われつつあると嘆いた。

 そういうムーア氏の意見を聞いていて、ごくまっとうな見方であるとも思ったが、一方で、彼が依拠している「民主主義」なるものは、“崖っぷち” どころか、すでに世界から消滅し始めているような気もした。

 そもそも、地球規模で考えても、21世紀になった現在において「民主主義」が完全に機能した歴史を持った国は少ない。
 部族闘争に明け暮れ、軍事政権の圧政下で暮らすアフリカ地域の人々や、貧困や犯罪をなくす政策を政府が取れない中南米諸国には、今日われわれがイメージするような「民主主義」は最初からなかった。

 もちろん、宗教原理主義と独裁者が国を支配する中東諸国にも、欧米流の「民主主義」は定着しなかった。

 さらにいえば、世界一の人口を誇る中国においても、共産党の一党支配が続くかぎり、「民主主義」が根付くことはないだろう。

 朝鮮半島においても、しかり。
 北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」という国名は持っているが、「民主主義」なるものを国民が経験することは一度もなかったし、その南の韓国はどうかというと、あそこも国民の情緒的感性によって世論が形成される国だから、やはり合理的で冷静な民主主義というものが育たない。

 そうなると、本当の意味での「民主主義」を形成できたのは、欧米の一部の先進国と、日本だけということになる。
 そのなかでも、理論的な意味で、いちばん「民主主義政治」に近い国家運営を成し遂げたのは日本だけだといっていい。
 
 
 「民主主義」が機能するには、まず国民の合意形成の基礎となる「教育」レベルが、一定程度足並みをそろえていなければならない。
 つまり、国民の間に、政治課題を “民主主義的に” 解決するための理解力が備わっていなければならないのだ。

 そのときの理解力を保証するのが「教育レベル」の均質化である。
 一部のエリートだけが高い教育を授かっても、それは民主主義を成熟させる要素にはならない。
 中国のエリートたちがアメリカに留学して、いくら欧米流教育を学んでも、国家としての中国が民主主義国家にならないことからも、それが実証されている。

 教育レベルの均質化は、経済格差の少ないところでないと実現しない。
 それを成し遂げたのが、戦後の高度成長期に「一億総中流」という人類史上まれな “平等社会” を築き上げた日本だった。
 欧米の経済学者が、「日本は、ソ連や中国以上に平等な社会主義国家を生み出した」と、皮肉交じりに称賛するぐらい、この時期の日本は奇跡的な均等社会をつくり出した。

 しかし、こういう社会は、いま振り返れば、当時はずいぶん批判も受けた。

 高度成長期の日本人は、国民の資質が似通ったものになったため、「日本人のキャラクターは金太郎アメ的のように無個性で、誰もが盲目的に同じ価値観を信じている」と、同じ日本に住む進歩的なインテリたちからも、そのように揶揄された。

 しかし、そのときに、日本の「民主主義」は非常に高度なレベルにまで鍛え込まれていた。
 同時代の国民生活の安定性は、「経済的な発展」がもたらしたものと評価される傾向にあるが、そのような経済的な発展も、実は民主主義の安定性の上に成り立っていたということがいえる。

 日本人を含め裕福な民主主義国家は、事あるごとに、社会主義国や発展途上国の政治体制を「民主主義的ではない」と批判しがちであるが、そういう批判には見落としがある。

 どんな国においても、政治が成熟すれば自然に「民主主義」が根づくとは限らないからだ。
 「民主主義」というのは、(繰り返しになるが)、社会における経済格差や教育格差、文化格差など、さまざまな「格差」が広がってしまうと実現が難しくなる “脆弱” な政治制度でしかない。
 定着するよりも、消滅する可能性の方が高い。
 
 だから、意識的に守っていく必要がある。 
 もちろん、政治形態として「ベスト」なものではない。
 “衆愚政治” という言葉もあるくらいだから。
 ただ人類がいろいろ試してきた結果、それ以外の政治形態よりは “悪政” におちいる可能性が少ないというデータだけはそろっている。

 その「民主主義」が、トランプ政権のせいで機能不全になりかけている、とアメリカの映画監督マイケル・ムーアはいう。

 私は、日本の高度成長期のような、放っておいても「民主主義」が勝手に機能したような幸せな時代はもう来ないような気もするが、それがゆえに、これからの人類は、「民主主義」を機能させるために、政治や経済だけでなく、あらゆることに意識的に目を開いていかなければならないと思っている。
 
  

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トランプ大統領が招く “魑魅魍魎” の世界

  
 麻原彰晃率いる「オウム真理教」事件も今年の7月、麻原の死刑をもって、事件としての終焉を迎えたように見えた。

 しかし、世界は逆にどんどん “オウム化” しているように見える。
 言葉を変えていえば、世界中に魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するようになってきた。

 その中心にいるのが、アメリカのトランプ大統領である。

 もうじきそのトランプ政権が運営したこの2年を評価する「中間選挙」が行われる。
 マスコミ報道によると、下院においては、トランプに批判的な民主党勢力が巻き返しそうだといわれているが、たぶん上院・下院とも、トランプを支える共和党勢力が僅差で勝利を手中にするだろう。

 なぜか。
 トランプ大統領は、もう「政治家」ではなく、その支持者たちにとっては「メシア」だからである。
 支持者たちは、彼に対し、救世主としてのカリスマ性を感じ、彼の言動や一挙手一投足に宗教的法悦を感じている。

 メシアが選挙に負けるわけがない。
 たとえ、一時的に政治的な敗北を被ったとしても、それは「メシア」が復活するための試練であって、逆に、より強力な存在として再び降臨するというメッセージとなる。

 トランプの教えの中核には、オウムの麻原彰晃と同じようなハルマゲドン(破滅に至る世界最終戦争)の思想がある。
 つまり、今のアメリカが、「(世界と)ケンカできるような力」を取り戻さないと、世界制覇を目指す中国や、大国復活の狼煙をあげたロシアとの最終戦争に敗れ、世界史の舞台から消滅する可能性があるというのだ。
 だから彼は、ことあるごとに、「ハルマゲドンによるアメリカの危機」を政治集会で訴える。

 オウムの麻原彰晃は、来たるべきハルマゲドンと向き合うために、自分たちの声に耳を傾けない一般人は見捨て、オウム信者だけの “オウム・ファースト” の世を目指して、地下鉄サリン事件などを起こした。

 トランプ米大統領の掲げる「アメリカ・ファースト」というのも、自分の信者の囲い込みを目指したものだ。
 そのためには、彼は、「トランプ批判者」と「トランプ信者」の分断を鮮明にし、自分の批判者たちをエモーショナルな言葉で攻撃し、信者たちの狂信的な情熱を煽り立てた。

 いま彼が進めている「移民排斥」、「性差別の再強化」、「女性蔑視」、「イスラエル寄り中東政策」、「核兵器の再開発」、「銃規制への反対」などといった物騒な右翼的・保守的政策は、すべて支持者たちの胸に炎を注ぐ “宗教的” メッセージといっていい。

 トランプはいったいどのくらい “魑魅魍魎(ちみもうりょう)” の世界を引き寄せたのだろうか。
 それは、今トランプ支持者たちの間に「Q Anon(Qアノン)」 … 短縮して「Q」と名乗る支持者層が広がっていることからも分かる。

 「Q」というのは、世の中の政治や経済をすべて “陰謀説” で解説しようとする狂信的なグループである。
 彼らの主張によると、世界は「ディープステート(闇の国家)」という陰謀集団によって牛耳られており、オバマもクリントンもみなディープステートの手先だったという。

 この世に戦争や貧困が絶えないのも、そのディープステートに属する金持ちたちが自分の私腹を肥やそうとしているからであり、彼らによって地球は崩壊させられる寸前のところだったというわけだ。
 そして、このような危機からアメリカを救うために “降臨” したのが、「救世主トランプ」ということになる。

 この「ディープステート」なる存在は、ある意味、トランプ登場前に世界中を巻き込んで進んでいた “グロバーリズム” の暗喩ともなっている。

 グローバリズムというのは、「資本主義は国境を超える」という思想に共振する経済システムで、文字通り、国家を超えた経済運動として世界中に浸透していた。

 トランプの「アメリカ・ファースト」(アメリカ第一主義)というのは、このグローバリズムに対する強烈なアンチテーゼになった。
 彼は、グローバリズムの恩恵を受けられるのは、「一部のエリート集団だけだ」と主張して、グローバル経済からとり残されていたプアホワイト層の支持を取り付けた。

 もともとトランプ支持者というのは、「反知性主義」を標榜することで知られている。
 「知性がない」という意味ではない。
 反知性主義とは、「知性を嫌悪する」思想 なのだ。

 彼ら “反知性主義者” は、「教養主義な会話」、「知性的な感性」をまき散らすエリート層に対する極端な反感を持っており、トランプの無教養なセンスこそが、彼らにとって、自分たちの反知性主義を代弁する者として映った。

 こういう反知性主義から生まれるのは、歪んだ都市伝説である。
 「ディープステート」という “悪の帝国” がひっそりと世界を牛耳っているという陰謀論も、そこから発生している。

 問題なのは、この「ディープステート」のような陰謀論が、今アメリカでは普通の教養を持った一般人にも広まっていることだ。
 現在、アメリカでは「知性」や「教養」よりも、「情熱」や「信仰」に比重を置く人たちが増えているという。

 その象徴的な例として、現在アメリカでは、ダーウィンの進化論を否定するキリスト教原理主義的な勢力が台頭していることを挙げてもいいだろう。

 その中心となるのは、プロテスタントの一派である「福音派」の信者たちで、彼らのなかには、自分たちの子供を学校に行かせない親もいるという。
 学校は、「人間は猿から進化した」などというダーウィンのインチキ思想を教えるところだから、そんなところに子供を行かせたら、子供に悪影響を及ぼすというわけだ。
 彼らにとって、人類の祖先はあくまでも神の創った「アダムとイブ」であり、それは科学などで冒すことできない永遠不滅の “真実” なのだ。

 こういう「福音派」といわれる人たちが、現在トランプの支持層の一翼をになっている。
 福音派はユダヤ教徒やユダヤ人勢力とは一線を画するが、宗教原理として、
 「エルサレムはキリスト教の聖地でなければならず、そのためには “聖地” エルサレムからイスラム教徒を追放しないといけない」
 という信念を持っている。

 トランプが、エルサレムにアメリカ大使館を移したりして、露骨にイスラエル寄りの政策を打ち出すのは、この福音派の支持を取り付けるためである。

 トランプは、いったいどういう世界から来た人なのだろうか。
 彼は、歴代アメリカ大統領のなかでも、もっとも鮮明に「反知性主義」を標榜した大統領である、
 なにしろ、彼は(知性の象徴である)本を読まないことを自分の “誇り” としている。

 彼が生涯で読んだ本はたったの2冊。
 1冊は、自分が書いた(とされる)本(『トランプ自伝』)であり、もう1冊は『聖書』である。

 この “自慢話” は何を意味しているのだろうか。
 「人は本など読まなくたって、大統領になれる」
 ということを、彼は露骨に言いたいのだ。

 そしてそれが、読書とは無縁な生活を送ってきた貧しい白人労働者たちへのエールとなり、同じように『聖書』しか信じない福音派信者たちへのメッセージともなった。
 
 このような「知性に対する侮蔑」を煽るトランプの “反知性主義” は、人間同士に様々な不協和音を与えることになった。

 人々のケンカや罵り合いは、「知性」が届かないところから発生する。
 「知性」というのは、おのれにとっては「恥を知る心」を意味し、他者に対しては「お互いのことを知る力」を意味するのだから、それが欠けてしまえば、人々の間にはケンカといがみ合いしか残らない。

 そういう不毛な “分断社会” が、トランプ政権のもとのアメリカで生まれ、それが世界中に広まろうとしている。
 フィリピンやブラジルでは、トランプを範とする排外主義的なリーダーが続々と登場し、「移民排斥」などを高く掲げて、自国の利益だけを優先する政治方針を打ち出すようになった。

 一方、自国の門戸を移民や難民にも開放して、人種間の対立を融和しようとしていたドイツのメルケル政権は衰退し、彼女自身が党首を降りなければならなくなった。

 世界の移民・難民はなぜ生まれてきたのか。
 それは、ここ20年ぐらいの間に、世界の経済格差が急激に広がったからである。(そのしわ寄せが中東や中南米に集中した)。

 それは、グローバル経済が、貧しい経済圏から富を収奪する形で進展していったからに他ならないが、今トランプは、グローバリズムを批判しつつも、そのグローバル経済によって富を得たアメリカ企業を、「自国経済優先主義」を掲げてさらに守ろうとしている。
 つまり、世界に新たな富の偏在をつくり出そうとしている。
 中国との貿易摩擦も、そういう観点で捉えなければいけない。

 世界はまさに弱肉競争が激化した19世紀末の帝国主義時代に戻ろうとしている。
 それは、怪しげな世界観が地球上を駆け回り、富の偏在と貧困が同時に発生する格差社会と戦争の時代に逆戻りすることを意味する。

 戦争は、合理的な世界観を持つ国家からは生まれない。
 「自国ファースト」という “麻薬” を使い、国民に怪しげな熱狂を焚きつけるリーダーのいる国から生まれてくる。
 その筆頭がトランプだが、プーチンも習近平も似たような傾向のリーダーだ。
 彼らはともに国民に「反知性主義」を焚きつける。

 世界は、トランプたちのおかげで、オウム真理教的な魑魅魍魎(ちみもうりょう)の影が色濃く覆う世の中になりつつあるといっていい。
 
 

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試食コーナーの暗闘

     
 世の中の “ヒマなジジイ” がやることはだいたい決まっている。

 定年退職して、1日中やることもなく、朝に女房から500円硬貨を渡されて、
 「それで今日一日外で遊んできて。お昼はそこから出すんですよ」
 とか言われて、家から追われるジジイたちの行動パターンはだいたい決まってくる。

 ファストフードの店に立ち寄り、コーヒー1杯で何時間もネバること。
 ホームセンターのガーデニングのコーナーに行き、買いもしないのに、鉢植えの花を眺めたり、花の種を調べたりすること。

 そして、デパ地下に行き、あっちこっちの食料品コーナーを回って、買いもしないのに試食品を食べあさること。

 こんな症状が一つでも表れたら、急性 “ヒマジイ” 症候群に罹患している可能性が高い。

 今日の俺なんか、まさにそれよ。
 カミさんから500円硬貨1枚渡されて、散歩しながらコンビニの肉まん食って、デパートにぶらりと入り、『諸国名店とうまいもの大会』という会場をめぐり、なんとたっぷり1時間、鯖の切れ身やら黒糖かりんとう、お好み焼き、たくあん、塩こんぶ、玉こんにゃくなどの試食品をあさりまくった。
 肉まん2個しっかり食べた後にだぜ !

 で、つくづく思った。
 「下流老人まっしぐらだな … 」
 って。
 あちこちの試食品コーナーを回り、がつがつ試食品を食べあさることへの羞恥心が消えてしまったら、それはもう “下流老人” の証拠なのだ。

 で、試食品コーナーを1時間も回っていれば、同じ店の前を何回も通る。
 店員たちからも顔を覚えられる。
 「ね、今度はうちの黒糖まんじゅうを食べてみて」
 とかいわれると、やはり立ち止まって、手を伸ばしてしまう。
 そのとき、ちょっとホッとする。

 …… もうこの店の試食品を3品ぐらい食ったけど、まだ嫌われていないな … とか思うと、心から安堵する。

 このへんの塩梅が難しい。
 もう1回だけ試食品に手を伸ばすと、今度こそ下流老人に見られるだろうな、とか、思うわけよ。
 そういう「食い意地」と「羞恥心」のせめぎ合いの中に身をおくスリルが快感でもある。
 
 今日は「食い意地」の方がまさった。
 今後、俺はどうなっていくのだろう。
  
  
 
  

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詐欺ハガキがやってきた !

 
 ついに来たぜ!
 「特殊詐欺」系の通知。

 郵便ポストに入っていたハガキには、
 「総合 消費料金未納分 訴訟 最終通知書」
 という見出しが付いていた。

 文面によると、私には、どこかの会社に支払わねばならない料金が “未納” になっていて、所定期日までに裁判所に出廷しないと、その会社の請求に従い、裁判所が私の財産の差し押さえに踏み切るという。

 なんじゃろう?
 と思いつつ、最後まで読むと、
 差出人の連絡先として、
 「民事訴訟管理センター」
 という法人名が記載され、
 「東京都千代田区霞が関3丁目1番7」
 という所在地の記載の下に、
 「消費者相談窓口 03-5962-0569」
 という電話番号と、それっぽい説得力を持たすためにか、
 「受付時間 9:00~18:00 (日・祝日を除く)」
 という但し書きがあった。
 
 特殊詐欺に関するあの手この手の情報は知っていたので、一読して “怪しい” と感じた。
 まず、私に訴訟を起こした会社の名前も住所も記載されていないばかりか、その訴状が何をめぐっていつ提出されたのかも記載されていない。
 
 そして、「貴方の未納されました …」という表現もおかしい。
 普通だったら、「未納」という言葉に敬語は使わないだろう。
 第一そんな “大事な(?)” はずの連絡を、なんかの拍子に誰でも閲覧できるようなハガキで送るなんてことはありえない。
 
 さらに、管理センターの所在地が「千代田区」なのに、ハガキを投函した場所は「板橋区」になっている。

 で、ネットで調べてみたら、
 「民事訴訟管理センター」という法人自体が実在しない架空の組織であることが分かった。

 ただ、ハガキを受け取った人のなかには、そういうことを調べる前に、文面に記載された電話番号にあわてて電話をしてしまう人もいるだろう。

 相手の思うツボである。

 電話が通じたところで、相手は “もっともらしいこと” をしゃべりながら、巧みに個人情報を聞き出し、カネなどを盗み出す算段をつけていくのだろう。

 この詐欺手口をネットに挙げた人たちの大半の意見は、
 「無視するのが賢明」
 というものであった。

 そりゃそうだよな。
 何に対する請求なのか、それすらも明らかにしない訴訟に付き合っているほど、こっちもヒマじゃないからな。

 しかし、ハガキだったから冷静に対応できたけれど、電話で “もっともらしい声” をした人間が “もっともらしい” ことをしゃべってきたら、案外コロリと騙されたかもしれない。
 
 

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BLAZE SMART EV

 
 この土曜日(10月20日)から東京のお台場(江東区・青海1丁目)で開かれている「お台場キャンピングカーフェア2018」にて、米国モーターホーム&トレーラーを専門に扱う(株)ボナンザが、面白いビークルを持ってきた。
 「BLAZE SMART EV(ブレイズ スマートEV)」というもの(写真下)

 

 これは一種の電動バイク。
 車重わずか18kg。
 大きさは全長1200mm・高さ950mmだが、折りたたんでしまうと、全長600mmに縮まるので、キャンピングカーのラゲッジスペースにも簡単に収納できる。 
 それでいて、最高速30km/hを発揮する高出力モーターを内蔵。トルクも十分で坂道もパワフルに登りきる。
 充電は家庭用コンセントをつないで3.5時間。
 一回の充電で約30km走行できるという。
 

 キャンピングカーでいろいろ旅していると、どうしても小型自転車などがあると便利だと思うことが多い。
 しかし、この電動バイクがあれば、駐車した車両から離れた売店などに行くときも実に楽チン。
 キャンプ場などなら、電気の容量が足りないと思えたときは、電源サイトで充電しておけば大丈夫。
 ガソリンやオイルを必要としないので、車内に収納しておいても、ガソリンやオイル漏れの心配がない。

 扱いは “原動機付き自転車” に分類されるため、公道を走るときは、原動機付自転車免許または普通自動車免許が必要。またヘルメットの着用も義務付けられる。

 前後ディスクブレーキ、LEDヘッドライト、Bluetoothスピーカー、クルーズコントロール、USBポートなども装備され、価格は128,000円+消費税。登録費用などを含めると、トータルで18万円程度。

 カラーはブラック、ホワイト、レッド、グリーンの4色を用意が用意されている。

 販売は、株式会社ブレイズ(名古屋市中川区富田町千音寺狭間4603)
 東京地区代理店は、株式会社ボナンザ(〒208-0021 東京都武蔵村山市三ツ藤3-12-1 TEL:042-520-2280 http://www.bonanza.co.jp/
 
 

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あっさり醤油味のラーメンが好き

 
 テレビで安定した視聴率を稼げるのは、スズメバチ駆除の話と、人気ラーメン店の紹介だという話を聞いたことがある。
 つまり、画面にハチかラーメンが映っていれば、「どの番組が面白そうかな … 」とザッピングしていた人の手が止まるということだろう。

 ハチは、まぁいいとして、ラーメンが画面に登場すると、私もついついテレビを見入ってしまうタイプである。
 つまり、ラーメンという食べ物は、映像を見るだけで、それを口に運んだときの汁の濃淡や辛さ、麺の食感、具材の味わいなどを想像しやすい食物になっているということなのだ。
 要は、カレー、ハンバーグ、寿司などという人気食をさらに陵駕するほどの頻度で食べられている “国民食” なのである。

 で、私の好きなラーメンは、あっさり醤油仕立ての “東京ラーメン” 。
 若い頃は、九州系の濃厚な豚骨味とか、北海道のこってり味噌味などを好んで食っていたけれど、齢(よわい)60歳を超えたあたりから、さっぱりした醤油ベースのラーメンじゃないと食べる気がしなくなった。

 年とって、胃が脂っぽいものを受け付けなくなったというわけではない。
 いまだにトンカツはロースだし、ハンバーグなんかも、バターの切れっぱしを上に載せて食べている。ハムサンドなどは、「これでもかぁ !」というほどマヨネーズでまぶす。

 だが、ラーメンに限っていえば、あっさり醤油の “東京ラーメン” のうまさがようやく理解できるようになった。

 で、下のラーメンは、吉祥寺南口(東京武蔵野市)にある「おおむら」のラーメン(650円)。

 井の頭公園に向かう改札口の階段を降りて10秒。
 駅の真正面にある店だ。

 なんと、私はここに50年近く通っている。
 店舗は1回だけニューアルされたものの、味は昔のままだ。

 麺は潅水がほどよく効いた中程度の太さの縮れ麺。(最近はうどんみたいな太麺を食べさせるラーメン屋も増えたが、私はそういう麺をうまいとは思わない)

 具材は、チャーシュー1枚、メンマ少々、ナルト1切れ、海苔1枚、ネギ少々という、まぁ東京ラーメンの定番ともいえるシンプルさが特徴。
 「もう少しメンマが多いといいなあ … 」 
 とか、
 「海苔をもう1枚 … 」
 などと思うこともあるのだけれど、トッピングの選択肢はなし。
 しかし、食べ終わる頃には、各具材の量が計算されたちょうどよいものであることが分かる。

 で、ここのメニューのもう一つの看板が、チャーハン(800円)なのである。
 この味も絶妙。
 米が一粒ずつふっくらと立ち上がっている感じで、口に入れたときの玉子のまろやかさと、塩味の配分と、脂の乗り方がもう芸術品の域に達している。
 肉片として、刻んだチャーシューが入る。
 これがまたうまい。

 悩むのは、ラーメンもしっかり食いたい、… けどチャーハンも食いたいと二択に迫られたとき。

 
 
 そんなお客のために、ここでは「ラーメン+半チャーハン」(950円)というセットが用意されている。
 店内で見ていると、実際にこのオーダーがいちばん多く通っている。
 誰もがこの店のうまいものをよく知っているのだ。

 もうひとつお薦めは、やきそば。
 これもハマる。
 味が単純なソース味ではない。
 醤油をベースにして、ラードやごま油などで味を調えている。
 この味の作り方も神技だ。
 
 基本的に、チャーハンややきそばは、夕方5時半から入店する店長のつくったものがうまい。
 私は、この店長がまだ子供だった時代に、店の手伝いをしていたときから見ているが、店をずっと守ってきた姿勢は立派だと思っている。

 で、餃子も悪くない。
 ただ、白いご飯と合う味なので、チャーハンをオーダーしてしまうと、お互いの味が相殺されてしまい、すごくもったいないことになる。
 むしろ、ラーメン+餃子の方が相性がいい。
 しかし、そうなるとトータルの金額が1050円になってしまい、「ラーメン+半チャーハン」のセット料金より高くなる。
 ここが悩むところだ。
 
…………………………………………………………………………

 下は、東京・三鷹駅南口から歩いて2分程度のところに店を構えている「みたか」というラーメン屋である。
 ここにもときどき顔を出す。
 雑居ビルの地下にある店だが、そこに降りる階段に、いつも常連客が列をなしている。

 この店に通うようになって、やはり40~50年は経つ。
 店の名前は、以前は「江ぐち」といった。
 オーナーが変わったが、味は先代の味をそのまま踏襲している。
 というのも、先代が「江ぐち」を閉めるとき、それを惜しんだ常連客の一人がその味をなんとか世に残したいということで、修行に励み、店を引き継いだからだ。

 この店のラーメンも、あっさりした醤油ベースの “東京ラーメン” 。
 麺は多少太めで、どちらかというと和風味。だから醤油ベースのスープとの相性はいい。
 ここはトッピングの自由度が高くて、チャーシュー、メンマ、もやし、玉子などを別オーダーできる。
 ただし、この店にはラーメン以外のメニューはない。

 私が頼むのは、メンマを増量したチャーシューメン(写真上)。
 「江ぐち」の時代から、常連客はこれを「竹の子チャーシュー」と呼んだ。
 だから、私もそうオーダーする。
 で、「メンマ入りのチャーシューメンね」とか頼んでいる客を見ると、心のなかで「お前はまだ新参者だな」とバカにすることにしている。もちろん顔には出さない。

 ここのチャーシューは好きである。
 脂身が多いのだが、それがうまいのだ。

 ただ、チャーシューをかじりながら、麺をすするときの配分が難しい。
 なにしろ、ここのチャーシューメンを頼むと、もうドンブリの中に麺が入っていることが分からないほど、表面が大量のチューシューで覆われる。
 だから、普通のラーメン屋で出されるチャーシューメンの配分で食っていくと、後半になって、チャーシューだけが大量に残ってしまうことになる。

 だから、多少「贅沢だな」と思いつつ、麺と一緒に大量のチャーシューを一気に口に入れてしまった方がいいのだ。
 そうすると、スープを飲みほす後半戦になって、麺とチャーシューが同じ配分で減っていくことが確認できて気持ちがいい。
 
 東京の吉祥寺駅・三鷹駅近くに住んでいらっしゃる方で、まだこの2店に足を運んだことがない人がいらっしゃったら、一度お試しあれ。
 
 

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釣りとは「魚」と「人間」の知恵比べ

 
畑中一夫氏(神奈川県・フレンドリー代表)に聞く
 
 
 「私にとって、釣りは趣味ではなく、生活でした」
 と語るのは、神奈川県・相模原市でキャンピングカーショップ「フレンドリー」を運営している畑中一夫さん(元日産ピーズフィールドクラフト社長)。
 実家が青森県・下北半島の漁師だったため、子供の頃から津軽海峡のイカを釣って、家の生計を助けていたという。

 実家からほど近いところに、マグロ漁で有名な大間町がある。そのため生活環境そのものが「釣り文化」を色濃く反映した土地柄だった。
 東京に出て、今の仕事に携わるようになって、ようやく釣りが「生活」ではなく、「趣味」になった。

 下北半島の実家は海にも近かったが、山にも近かったため、渓流釣りにも親しんだ。
 しかし、渓流釣りの面白さをほんとうに知ったのは、キャンピングカーの仕事を始めるようになって、お客さんを通じて釣りのプロある岩井渓一郎氏を紹介してもらってから。フライフィッシュに使う毛ばりの作り方などを直伝で指導を受けた。

 「でも川の魚より、やっぱり海の魚の方がおいしいですね」
 と畑中さんは語る。川魚は味が繊細だが淡白。イワナもヤマメも似たような味になる。
 それに比べ、海の魚はみな個性があって、刺身でもよし、煮てもよし、焼いてもよし。いろいろな食べ方が楽しめる。つまり、「釣る楽しみ」と「料理する楽しみ」の両方が味わえるという。

 最近は乗り合いの釣り船を利用して、沖に出るようになった。
 面白いのはカツオを釣るとき。相手がでかいから、かけひきも必要になる。30~40分ぐらいの魚とのやりとりを交わすことも。ヘミングウェイの『老人と海』の心境だという。カツオでいちばん大きかったのは4.4kg。すぐに叩きにして新鮮なうちに食べた。

 釣りのだいご味というのは、けっきょく「魚と人間のかけひき」に勝つことだそうだ。
 「魚もバカじゃない。知恵比べですよ」
 と畑中さんは笑う。
 その知恵比べに勝つために、釣る魚に応じて異なる竿やリールを用意し、エサの種類も変える。天候や潮の流れ、海水の温度も読まなければならない。経験を積めば積むほど “奥の深さ” がわかってくる。

 そういう畑中さんの釣りの “サポーター” になってくれるのがキャンピングカーだ。
 現在の愛車はドイツのヨットメーカー「デヘラー」が製作していたVW-T4ベースのバンコンバージョン。

 「室内が船のようなデザインになっていて、まさに釣りを楽しむにはぴったりです」と、畑中さんはその車にぞっこん。
 前日の晩に家を出て、釣り船の港までたどり着く。車内で一杯やって、仮眠。そして早朝5時~6時ぐらいの船に乗る。

 「仕事などでイライラしたときは、すぐ釣りで解消します。家でイライラしている様子を見せると、女房が “早く釣りに行ったら” と追い出してくれる。この趣味があったから、今日まで生きてこれたのかもしれません(笑)」
 と畑中さんは結んだ。
 
 
Campingcar Pro Shop FRIENDLY
神奈川県相模原市南区当麻2340
TEL:042-711-9048
営業時間:10:00~19:00
定休日:火曜日(イベント出展等で臨時休業あり)
 
 

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インド映画『バーフバリ』が面白かった

  
 インド映画というものを、はじめて観た。
 なんともいえない不思議な感興を覚えた。
 映画名は『バーフバリ』。

 2015年に制作された歴史ドラマの意匠をまとったファンタジーで、ハリウッド作品の系列でいえば、『コナン・ザ・グレート』(1982年)、『プリンス・オブ・ペルシャ』(2010年)、『ザ・ヘラクレス』(2014年)、『キング・オブ・エジプト』(2016年といったヒロイック・ファンタジーの部類に入る。
 
 つまり、古代史に題材を取った話のようでいて、いつの時代なのかはまったく不明。主人公も実在しない。
 ただし、史実の制約を受けないために、破天荒で荒唐無稽な設定が可能となり、CGが発達した現代映画に最も適した題材となる。

 で、このインド映画の『バーフバリ』。
 ストーリーはシンプル。
 古代インドの架空の王国で、善と悪を代表する2人の王子が王位継承戦を戦い、悪の王子がいったんは王国を手中にするも、善の王子が親子二代で王位を奪還。最後は架空の王朝に平和と繁栄をもたらすという話だ。

 設定は単純だが、高度なデザインワークを施されたCG画面には、それまでのハリウッド製ファンタジーにはなかった独特の世界観が横溢し、まさに欧米文化とは異なる進化系を歩んだ、“インド文化” の巨木を仰ぎ見るような気分になる。

 本国インドでは歴代興行収入NO.1を樹立し、海外でも高い評価を受け、2015年に第63回ナショナル・フィルム・アワードの最優秀作品賞、最優秀視覚効果賞を受賞したという。
 あまりの評判に、2017年には、2作目として『バーフバリ 王の凱旋』が公開され、インド映画界では、1作目を上回るほどの空前の大ヒットとなった。

 日本においては、最初は小規模な上映で短期間に終わるはずであったが、観客たちがSNS上で大絶賛するうちに、口コミの評判が拡大。上映館も増え続け、ロングランとなった。

 … というエピソードだけは耳にしていたので、BSテレビのWOWOWで1作目と1作目が続けて放映されたとき、ハードディスクに録画して観た。
 かなりの衝撃を受けたので、それぞれ2度ずつ観た。
 2作目の『王の凱旋』などは、3度観た。

 何が面白かったのか。
 ストーリー展開も特撮のギミックも、我々がさんざん見尽したハリウッド製ファンタジーとほとんど変わらない。にもかかわらず、ここには200年程度の歴史しか持たないハリウッド映画には表現することのできないインド文化3,000年の世界観が凝縮している。

 “インド文化の世界観” とは何か?
 それは、「世界には歴史がない」という圧倒的な主張である。
 
 「歴史」というのは、キリスト教的世界観に代表されるように、人類史を直線で捉えたときに浮かび上がってくる概念である。
 つまり、キリスト教の世界観では、神が天地と人間をつくってから「最後の審判」に至るまでの直線的時間概念が「歴史」となる。

 それに対し、インド人の世界観は「円環構造」をなしている。
 いわゆる「輪廻転生」。
 この世には、始まりも終わりもなく、世界は永遠に続くかと思えるほど巨大な輪を描いて回っている。
 新しく生まれた人も文化も、ぐるりと回ってもとに戻り、再び始原の光彩と破滅の闇に呑み込まれていく。

 つまり、『バーフバリ』というインド映画は、欧米人がなじんできたキリスト教の直線的歴史観の否定から生まれている。

 実は、この映画に関しては、「いつの時代のいつの話なのか分からない」ことこそが、話のリアリティーを保証しているのだ。
 つまり、この架空の王朝と架空のヒーローは、何万年・何億年も同じことが繰り返されるインド的世界観そのものを表現しているといってよい。

 事実、この映画で語られる「王の凱旋」というのは、いったん “死んでしまった” 主人公が凱旋する話である。
 つまり、殺されたヒーローの息子が新しいヒーローとなって、“凱旋” するわけだ。
 同じ役者が演じるのだから、親も息子もまったく等身大の同一人物として描かれることになるが、それは「輪廻転生」を果たした人間のストーリーとして、ごくごく自然に進んでいく。
 
 さらにいえば、ここには、欧米映画のようなリアリズムがない。
 あらゆるものが様式化されている。

 戦闘シーンも、歌舞伎の殺陣(たて)を思わせるごとく様式化されているし、恋が進展していくさまも様式美に貫かれている。
 登場人物のセリフも表情の作り方も、日本の歌舞伎や中国の京劇のように様式化が目立つ。

 だが、不思議なことに、それこそが、“インド的人間描写” だと思わせるような説得力があるのだ。
 そこには、「歴史」を欠いたものは、すべて様式化されるという不文律が貫かれている。

 

 「歴史意識」は、リアリズムから生まれる。
 「何が正しい現実なのか?」という洞察力の支えがなければ歴史意識は育たない。
 しかし、「歴史」を必要としないインド的世界観においては、人間もまた様式化された存在に過ぎない。
 インド映画に「歌とダンス」が多いのは、それこそが、様式化された人間を最も美しく見せるからだ。
 

 
 
 インド人は、数字表記の「0(ゼロ)」という記号を発見した民族として知られている。
 しかし、「ゼロ」の発見は、単なる数字表記の問題として片づけられない。
 それは、彼らの哲学そのものを語っている。
 
 すなわち、「ゼロ」とは、どんなに実証的な価値を積み上げても、それがそのまま文化的資産とはならず、最後はすべてが始原の「無」に戻るという、彼らの円環的な世界観そのものを象徴している。

 現在、アメリカのシリコンバレーなどで、インド系の研究者が独特のIT 学を打ち出すことができるのは、こういう発想がベースにあるからではないか。
 つまり、常に「ゼロ」と「1」しかない2進法によるデジタル的演算は、全世界を「オール or ナッシング」として捉えるインド的世界観と親和性が高いからだ。

 「ゼロ」の思想は、インド宗教においては「シヴァ神」として描かれる。
 シヴァ神は、ヒンドゥー教においては、「創造」と「破壊」を司る神として位置づけられているが、「創造」と「破壊」こそ、まさに「ゼロ」の思想に他ならない。
 ゼロは、すべての物事の “はじまり” であり、同時に “終焉” であるからだ。
 それは、そのまま世界が円環構造をなしていることを表現している。


▲ シヴァ神

 
 こういう直線的な「歴史」を否定する文化が形成されると、その文化圏における人類の歩みは、自然に「神話」に接近していかざるをえない。
 インド神話では、常に神々の戦いがテーマとなるが、そこに参戦する神々の勢力は常に何千万、何千億という膨大な数にのぼる。
 そして、その戦いは、けっして決着することなく、未来永劫繰り返される。


 同じように、人間同士の戦いの記述も、一つの戦いで何千億人動員されたか分からないような荒唐無稽な記録しか残らない。
 そしてそれは、いつの時代に始まったことなのか、正確な記述で裏付けられることはない。

 こういう歴史感覚は珍しい。
 ヨーロッパ人も中国人も、歴史記述の客観性を重視した。
 しかし、インド人は客観性よりも「物語の壮大さ」を好んだ。
 すなわち、神々の「栄光」と「怒り」と、人類の「理想」と「狂気」を劇的に語ることの方に重きを置いた。

 この “歴史レス” の感覚も、『バーフバリ』のようなインド的ファンタジー映画に、逆に奇妙なリアリティーを与えている。
 つまり、バカバカしいほど荒唐無稽であるがゆえに、そこにインド的世界観の重みがノシッと降りかかってくるような気がしてしまうのだ。

 この映画の映像にも音楽にも、ハリウッド製ファンタジーからは得られないエキゾチシズムが漂っている。
 なにしろ、象の描き方がうまい。
 何千年もかけて、使役や戦いに象を飼いならしてきた民族ならではの映像が生まれている。

 音楽も、土俗的な香りと現代ロックの最先端が融合するようなサウンドで魅せられる。
 インド映画が持っている世界は豊穣だ。
    
 

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読書という荒野

 
 見城徹(けんじょう・とおる)著『読書という荒野』。

 真夏の炎天下を思わせるような、熱い本だった。
 すべて直球勝負。
 それも、うなりとともに人の胸元をえぐってくる剛速球である。

 本を開くと、最初に「はじめに」という文章が出てくる。
 その章には次のようなタイトルが掲げられている。

 「読書とは、『何が書かれているか』ではなく、『自分がどう感じるか』だ」
 
 う~ん !
 あまりにもまっとうな正論に、ぐうの音も出ない。
 さらにページをめくっていくと、ページが発熱して燃え上がりそうな小見出しが次々と登場する。
 
 「世界の矛盾や不正や差別に怒れ」
 「正しいと思うことを言えなくなったら終わり」
 「自己嫌悪と自己否定が仕事への原動力となる」
 「絶望し切って死ぬために今を熱狂して生きろ」

 タイトルというより、アジテーションに近い。
 1960年代末期に、日本の各大学で学生運動が巻き起こった。デモ隊が集結した広場で、左翼革命を目指した活動家のリーダーが、みなこういう口調で演説していた。
 現にこの本には、「左翼に傾倒しなかった人はもろい」というタイトルを持った章もある。


 
 見城徹氏。
 幻冬舎社長。
 1950年生まれ。
 今年(2018年)で68歳。

 高校時代から学生運動に身を投じ、慶応大学に入学してからはさらにその活動に拍車がかかり、「革命によって世の中の矛盾や差別を正さなければならない」と本気で信じていたという。

 この見城氏と私は、まったく同年代である。
 私もまた、1950年生まれ。
 1960年代末期には、彼と同じように学生運動の周辺を逍遥していた。

 だから、似たような体験も重ね、似たような読書経験も持っている。
 しかし、この本を読み終わったとき、若い頃の話においては、私と見城氏が精神的に重なっているところはほとんどないと感じた。
 私は見城氏が胸に秘めた “燃える闘魂” とは無縁な青春を送っていたからだ。

 彼が世の中の差別に憤りを感じ、弱者に対して理不尽な圧力をかけてくる社会に闘争を挑もうとした頃、私はナンパに精を出して、ディスコに通い、マージャンにうつつを抜かしていた。
 ときどき学生運動のデモ隊に加わったが、政治集会が終わったあとは、敵対するはずのセクトの学生と一緒に酒を飲み、そいつらのアパートでギターを弾いてフォークソングを歌った。

 見城氏が、吉本隆明の詩篇(『転位のための十篇』)に触れ、その切ない思想の切れ味に涙していた頃、私は吉行淳之介の恋愛小説を読みあさり、ナンパするための女心の研究に余念がなかった。

 あの時代に読書体験を持ったインテリ学生が傾倒した高橋和巳の著作に対しても、見城氏は「夢中でのめり込んだ」と述懐するが、私は『憂鬱なる党派』一冊を読んだだけで胸焼けを起こした。

 もちろん、それ以外の読書体験としては重なっている部分も多い。
 この本で見城氏が触れているヘミングウェイ、夏目漱石、小田実、沢木耕太郎、吉本隆明、五木寛之、石原慎太郎、村上龍、村上春樹、山田詠美、宮本輝、北方健三、高村薫、三島由紀夫などという作家たちの著作は、(代表作だけかもしれないが)私もまた目を通している。

 ただ、どうしても微妙なズレを感じた。
 好きな作家として共通する名が挙がっても、そこで論評される個々の作品は必ずしも同じではないのだ。
 もちろん、私が深いところまで読み込めてないものが大半なのだが、それでも見城氏が個々に挙げた作品のなかには、「えっ? この作品のどこが素晴らしいの?」と首をかしげるようなものも混ざっている。

 全体的な読書傾向としていちばん感じたのは、歴史書、美術書のたぐいを見城氏がほとんど話題にしなかったことだ。
 私なら、塩野七生、司馬遼太郎といった2大エンターティナーがまず筆頭に挙がってくるところだが、見城氏はそのへんをスルーしてしまう。
 その2人は、氏にとっては、すでに大衆的評価の定まった “大御所” という位置づけなのだろう。つまりは、編集者としての食指が動かなかった人たちなのかもしれない。

 また、角川書店に勤めたこともあるというのに、片岡義男に対して冷淡なのも少し気になる。村上春樹を称えるならば、春樹と片岡義男の違いは何なのか? というところまで踏み込んでもよかったと思う。
 
 自慢ではないが、私は当時フィレンツェにいた塩野七生氏に手紙を書き、東京にこられたときにインタビューすることができた。
 また、片岡義男氏には電話で原稿を申し込み、当時私が携わってきた冊子に原稿をもらうことができた。
 だから、これらの著者たちには、私は今でも熱い思いを抱いている。 
 
 
 閑話休題。
 『読書という荒野』に戻る。

 見城氏の読書というのは、一言でいうと「格闘」である。
 「本」という名の “リング” に登り、著者と血のにじむような闘争を繰り広げる。
 著者に対する畏敬の念も、共感も、すべて格闘を通じて獲得される。

 それは確かに素晴らしいことだ。
 はっきりした対決姿勢で臨まないかぎり、ほんとうの意味で、著者への共感も生まれない。
 読書における「共感」とは、著者との “刺し違い” の別名でもあるからだ。

 しかし、著者と刺し違えるということは、(自分も成長して大きくなることも意味するが)基本的には、リングの上に自分と等身大の相手を見つけることにすぎない。
 
 もともと「理解する」ということは、対象を自分の “身の丈(たけ)” のサイズに縮めて手に入れることである。
 人間は、身の丈よりも大きなものは理解できない。
 だから、この本では、すさまじい格闘の末に、見城氏が著者の思想を理解するに至った顛末は述べられるけれど、見城氏の理解を超えたものに関しては、その気配すら描かれない。

 余談だが、若い頃に吉本隆明に染まった人は、往々にしてそういう傾向が強い。
 吉本隆明という思想家は、自分の理解できないものに対して真正面から闘争を挑み、誰の手助けも借りず、ついにはそれを乗り越えて新しい地平を切り開いていった人だが、それだけに、彼には “歯が立たない” ものへの畏敬の念が薄い。

 つまりは、「己を信じる気持ち」が普通の人の何倍も強いのだ。
 困難な状況を乗り越えてきたという自負が、自分を超える力の存在を過少評価してしまうのだろう。
 
 生意気な結論を一言だけいうならば、見城氏のこの読書論にも、自分の理解を超えるものへの “おののき(畏れ)” がない。
 

 それでも、この見城氏の著作からはいろいろなものが見えてきた。
 印象に残ったくだりは、村上龍と見城氏の交遊録。
 2人で、伊豆の川奈ホテルに投宿し、昼間の時間はテニスだけに費やし、夜はひたすら贅沢な食事を繰り返して、酒類を痛飲したという。

 そういう非生産的な行為の繰り返しに価値を置く見城氏のスタンスは、それなりにカッコいい。
 シャンパンの泡にも似た軽さと、贅沢さと、アンニュイと、メランコリー。
 そういう宿泊体験の蓄積が、村上龍の『テニスボーイの憂鬱』という小説に結実した。

 実は、この小説は村上龍の作品のなかでも、私がもっとも好きなものの一つである。
 一度だけ、西新宿の高層ホテルのスイートルームで村上龍に取材したことがあったが、彼がインタビューする私に興味を抱いてくれたのは、私が『テニスボーイの憂鬱』の感想を口にしてからであった。

 「ほんとうによく読んでくださってますね」
 村上龍は、ようやく眠気が吹っ飛んだという目で、私を見つめ直してくれた。

 
 最後に、なぜこの『読書という荒野』という本を買う気になったのかということを記す。
 ずばり、タイトルに惹かれたからだ。
 
 「荒野」という言葉は、無類に私の想像力を刺激する。
 この言葉には、ルーティン化した日常生活から脱し、身の危険すら覚悟して、いまだ足を踏み入れたことのない地平を目指せというメッセージが込められている。

 このタイトルだけで、もう販売部数の7割方は確保できたのではなかろうか。
 それだけ、イマジネイティブな書籍名だといっていい。

 見城氏は編集者だけあって、本のなかに使うキャッチ類(章タイトル)がとてもうまい。
 「極端になれ! ミドルは何も生み出さない」
 「旅に出て外部にさらされ、恋に堕ちて他者を知る」
 「死の瞬間にしか人生の答は出ない」

 文章のなかに隠れている次のような “啖呵” もカッコいい。
 
 「『夢』『希望』『理想』『情熱』などについて熱っぽく語る人間は嫌いだ。これほど安直な言葉はない。夢や希望を語るのは簡単だ。しかしそれを語り始めたら自分が薄っぺらになる」
 同感である。

 “旅” に関しては、こんな記述もある。

 「旅の本質は、『貨幣と言語が通用しない場所に行くこと』だ」

 つまり、貨幣と言語というのは、それまで生きてきた自分が無意識のうちに手に入れた、“使い慣れた武器” である。
 その武器が使えない場所にあえて身を置いてみろ、と彼はいう。

 もちろん、「貨幣」も「言語」も比喩である。
 要は、自分がもっとも使い慣れた “武器” を捨てなければならない場所に立て、といっているだけだ。
 具体的にサハラ砂漠やアマゾンの奥地を指しているわけではない。

 見城氏は、そういう場所に立つことを、自分を守ってくれる環境の『外部』に身をさらすことだと語る。
 その “外部” こそが、すなわち “荒野” である、と見城氏はいいたいのだろう。

 編集者というのは、けっきょく “アジテーター” なのだ。
 私もまた見城氏のアジテーションに魅せられた人間の1人である。
 
  

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オートキャンプ白書2018

  
 

 
 
 7月11日(水曜日)、一般社団法人日本オートキャンプ協会(JAC)が発行する「2018年版オートキャンプ白書」の発表会が行われた。

 それによると、ここ数年キャンプ場の集客効果を高めていた秋の大型連休だが、昨年(2017年)だけは天候に恵まれず、かなり客足が落ちたという。
 
 しかし、それにもかかわらず、年間を通したオートキャンプ参加人口は昨年よりもさらに10万人増えて840万人(1.2%増)にのぼり、5年連続で前年を上回った。

 その理由は、「ウィンター(冬)キャンプ」が伸びたことによる。
 これまで、冬は防寒に弱いテントキャンプには不向きな季節といわれていた。
 しかし、近年はテントそのものの質も向上し、さらに冬を快適に過ごすグッズ類も充実してきて、雪中キャンプを楽しめる環境が整ってきた。
 そのため、昔ほど「冬を苦手としないキャンパーが増えてきた」という。

 冬キャンプが盛んになってきた理由はほかにもある。
 それは、“インスタ映え” の追求。
 雪の中でテントキャンプを楽しむというのは、かなり “上級者っぽい” 。
 そういう難易度の高いキャンプを楽しんでいる画像をアップして多くの人に見てもらいたいという最近のユーザーの心境が反映されていると説く人もいる。

 キャンプ同行者にも変化が見られるようになった。
 これまでと同様、子供を中心にした家族が全体の中心を占める(62.9%)傾向に変わりはないが、目立ってきたのが「ソロ(単独)キャンプ」。
 率としては3,5%(昨年より1.5%増)と、まだ少数派にとどまっているが、これまでにない特徴が表れているという。

 それは「独り者オヤジ」たちのキャンプ遊び。
 従来ソロキャンプは、バイクで旅行する若者たちが中心であった。
 彼らがキャンプ場に泊まるのは、あくまでも旅のプロセスに過ぎず、宿泊代などを安く抑えるためのキャンプにすぎなかった。

 しかし、近年は、キャンプ場泊そのものを目的とする中高年のソロキャンパーが増えているという。
 その多くは、子育ても終わり、かつ奥さんとは別行動で気楽な独身生活を取り戻そうという “オヤジさん” たち。

 あるキャンプ場では、そういう “にわか独身” を楽しむ中高年が20人~80人集まって、大パーティーになることもあるという。

 そうはいっても、キャンプ人口の中心となるのは、やはりヤングファミリー。人口ボリュームの多い団塊世代ジュニアが中心となる。
 平均年齢は、42.1歳。
 子供連れの比率は、66.2%にのぼる。

 また、それよりもさらに若い世代のキャンパーも増えており、特にテレビアニメにもなった漫画の『ゆるキャン』(芳文社)の影響は絶大で、主人公の女子高校生たちがキャンプを遊んだ場所が “聖地” のように人気を呼んでいるともいう。

 2018年度版の白書で顕著になってきたことの一つに、訪日外国人キャンパーが増えたことが挙げられる。
 各キャンプ場に、「昨年から目立ってきた新しいキャンパーの特徴」を答えてもらったところ、「外国人キャンパーが増えた」と回答したキャンプ場は17.7%にものぼった。

 集計によると、昨年1年間に、一つのキャンプ場を訪れた外国人利用者は平均57.2人となり、この傾向はさらに強まっていくと予想される。
 そこには、シティホテルなどに泊まるより、キャンプ場の方が宿泊代が安いという彼らの合理的判断が働いているとのこと。

 それにともない、レンタルキャンピングカーを借りて、キャンプ場に泊まりながら、各地の観光スポットを回る訪日外国人観光客も増えているという。
 
▼ キャンプ場を訪れる外国人観光客(写真提供:佐久間亮介さん) 
 
  
 

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