蔵出し ! お宝(?)自作漫画

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 若い頃は、よく漫画をよく描いていた。
 先だって、古い書類を整理していたときに、それらの漫画がごっそりと出てきた。
 どんなものを描いていたのか、とんと忘れていたので、しばらく懐かしい思いで眺めた。
 
 中学生時代から、20歳ぐらいまでに描いたものが中心で、ギャグ漫画もあれば、ストーリーものもあった。
 落書きに近い鉛筆画から、ケント紙を使って墨入れしたものまで。
 出るわ、出るわ、ごそごそと … 。
 当時は、ただ単に無心に描くことが楽しかったのだろう。
 
 下は、中学生時代に描いたもの。
 タイトルが「ガチョン太郎」。
 
 ♪ ガチョ~ン !
 この言葉を覚えている人は、間違いなく60歳代後半の人だろう。
 なにせ、クレイジーキャッツの谷啓が、1950年末か60年代初期の『しゃぼんだまホリデー』やら『大人の漫画』などで連発していたギャグだから。
 当然、その時代に中学生活を送っていた私は、さっそくそれを自分の漫画のタイトルに採り入れたのだ。

 改めて眺めてみると、ギャグが実にシンプル。
 今のギャグ漫画はものすごく洗練されていて、普通だったら笑えないような場面から見事に笑いのネタをつかみ取ってくる。
 
 そういう感覚に染まった目でみると、上のような漫画には、やはり「昭和の匂い」を感じる。
 自分でいうのも何だけど …よく言えば、ほのぼのとしている。
 裏を返せば、あっけらんかんとして、たわいない。
  
 ▼ 下の漫画は、いつ頃描いたものなのか。思い出せない。
 「星新一の原作」ということになっているが、その原作がどういうストーリーなのか、それも忘れてしまった。
 たぶん、よっぽど面白かったのだろう。だから、話の筋に沿って漫画を描いてみようという気になったのだ。
  
 絵柄から判断すると、おそらく中学生の終わりごろか、もしくは高校に入ったばかりの頃。
 そして、… 私の常なのだが、最後のページは「つづく」で終わっている。
 「つづく」というのは、「もうこれを描くのは飽きた」という意味だ。
 
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▼ 高校生の頃は、スケッチブックにこんな落書きも描いていた。
 これも “昭和チック” というか、時代を感じさせる無邪気なネタだ。
 昭和中頃の「笑い」というのは、こんなものだったのだ。
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(3)

 
 
▼ 最近はこんなもんしか描いていない。(絵のタッチなんか、あんまり高校の頃から進歩がない)
 

 
 
 ▼ 下の漫画は、19歳か20歳ぐらいのときに描いたもの。
 1960年代末か、70年代が明けたばかりの頃だ。
 もろにビアズリーである。

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(2)                   (3)

 最初の1ページ(1)などは、ビアズリーの絵をそのまま模写したものだし、中のストーリーは自分で考えようとしたが(途中で挫折したけど)、登場人物のデザイン、背景などはビアズリーの画集から、あちこちの場面を抜き出して寄せ集めた。
 
 1960年代の西洋美術において、ビアズリーの人気はすさまじかった。
 世の中が爛熟期を迎え、消費社会も快楽追求型の嗜好を強めていたから、ビアズリーの描くデカダンスに満ちた悪魔的な世界を受け入れる素地が育っていたのだろう。
 
 私がビアズリーのイラストに興味を感じたのは、コントラストを強調した白地と黒地のバランスの絶妙さ。
 グロテスクで淫蕩な気配を漂わせる人物たちのリアルさと、それとは対照的なグラフィックデザインのように抽象化された空間処理が新鮮だった。
  
 とにかく、20歳の頃は、ビアズリーの白・黒だけで構成されたコントラストの強い空間造形に魅せられて、自分の漫画にも意識的に採り入れた。




 
 こうして、改めて見ると、絵の下手さは隠しようがない。
 線にムラがあるし、人間の表情も稚拙。
 ただひたすらに、紙の白い部分を黒ベタで塗りつぶすことだけに執心していたようだ。
 でも、厚かましく、自作漫画の話は稿を改めて続けてみたい。

  

カテゴリー: 創作   パーマリンク

蔵出し ! お宝(?)自作漫画 への6件のコメント

  1. 北鎌倉 より:

    ビアズリーでマンガを描くのはすごいですね。宇野亜喜良で描く人は多くいたのですが、ビアズリーの耐性が無いマンガ家がほとんどでした。線の重量感が格段にちがいますよね。
    フランスのバレエマンガを読んだのですが、日本の華やかさ、文明開化以来の西洋文化への憧れの視点は当然に微塵もなくて。付加価値をはぎ取られたリアリズムのバレエは、コンテンポラリー・ダンスなどと比較して、古臭く重苦しく描かれています。恋愛が自由なのも拍子抜けで、むしろ出会いや別れが、バレエや人生を豊かにするという視点です。なにより「スポ根」度ゼロなんです。宿命のライバルも、血のにじむ特訓も、もちろん奇跡の必殺技もない。外的なピンチや付け焼刃はバレエとは無縁。ただただ乗り越えるべきは「自分」なんです。「もっと軽やかに。そうすることでいとも簡単に見える」8歳の少女に指導します。「君が表現しようとする感情以外のものは見えない」とは、バレエを超えて、西欧でのコミニケーションの基本姿勢ですね。この客観性は一貫していて、「俺は今、猛烈に感動している!」式のモノロークは無しで、登場人物の感情は動作、会話、構図のみで示されます。読者も洞察力を総動員します。その代償として得られれる感動は、複雑で大きいんです。
    新幹線ホームで、お団子あたまのバレエ少女数人を見たことがあります。視線の動き一つが違っていました。彼女たちは踊ることで普通の子供たちにない何かを与えられているかのようで。それは夢の具体性、と同時に、夢をもつことで生じるはずの孤独や絶望。その濃度の高さが、「もう一つの時間」を持つ人間特有のオーラを生んでいました。立ち姿がとても美しくて。踊ることをやめれば、その魔法は消えるのかどうか。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      私は素人の趣味としてマンガを描いたことはあっても、専門家ではないので、≫「ビアズリーでマンガを描く」ことがどれほどすごいのか、あまり上手に理解できません。
      ただ、北鎌倉さんがそのことに対して、なんとなく好意を抱いてくれたことは伝わってきましたので、感謝申し上げます。

      フランスのバレエ漫画が伝えてくる「日本と西欧のコミュニケーションの基本姿勢の違い」の話、興味深く拝読。

      北鎌倉さんのご指摘によれば、「俺はいま猛烈に感動している!」という反応を喚起する創作態度は、きわめて日本的なメンタリティーに基づいたものだということなんですね。
      いわば、「軌跡の必殺技」「血のにじむ特訓」「奇跡の必殺技」を積み重ねていくと、必然的に「猛烈に感動する」という方向に路線が誘導されてしまうというわけですね。

      それに対し、西欧の創作態度においては、≫「登場人物の感情は動作、会話、構図のみで示されるので、読者も洞察力を総動員する。代わりに、その代償として得られれる感動は複雑で大きい」

      なんとなく腑に落ちました。
      自分は、一方的な感動を押し付けてくるスポ根漫画やスポ根ドラマにどうもなじめないものを感じていたのですが、その理由が分かったような気がします。

      日本と西欧の漫画の制作態度に関しては、どちらがいいかという評価は一概には下せないのでしょうけれど、やっぱり西欧の漫画の方が “大人の鑑賞法” を教えてくれそうな気がしました。
       

  2. 北鎌倉 より:

    スポーツ選手が遺影を抱えて入場してきたことを、何度も強調するアナウンサーがいますが、その選手のプレイ自体が生み出す驚異が信じられず、外部の物語による共感を付与いないと、視聴者は感動しないと思っているんですね。
    漫画マニアなら誰でもいうことなんですが、「スラムダンク」の凄さですが。残り時間0秒で信じられないような逆転シュートが入った瞬間、登場人物たちは全員、驚愕と畏怖の表情をしています。驚異に触れてしまった者の顔です。一瞬の後に、周囲の人間たちが歓喜と絶望の表情に変わった後も、シュートを放った本人だけは「恐ろしい」「理解できない」という顔のまま。驚異から教共感に移行する心の時間差が表現されています。
    逆転勝利というこの世の価値と共に喜びがやってくる前の、この「恐ろしい」「理解できない」瞬間こそが黄金の時なんですね。黄金の別名は、詩。スポーツで言うファンタジスタとは、詩を生みだす者のことですね。
    驚異と共感の時間差について、中原中也はこんなことを言ってます。

    知れよ、面白いから笑うので、笑うので面白いのではない。面白いところで人は寧ろニガムシをつぶしたような表情をする。やがてにっこりするのだが、ニガムシをつぶしているところが芸術世界で、笑うところはもう生活世界だといえる。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      ≫「逆転勝利というこの世の価値と共に喜びがやってくる前の、この『恐ろしい』『理解できない』瞬間こそが黄金の時なんですね。黄金の別名は、詩」。

      このフレーズは非常によく分かります。
      「詩」が、「詩」の形を取る前に、若干のタイムラグがある。そのタイムラグこそが、実は “黄金の時” であると。

      作家の川本三郎が、2007年に出した本で、『言葉のなかに風景が立ち上がる』という作品があります。
      実はこの本を直接読んだわけではないのですが、この本を紹介した書評の一説が目に留まり、メモしたものがあります。
      それは、最終章で作者が詩人の清岡卓行の作品を取り上げ、その詩の一節を引用した個所でした。

       「それが美
        であると意識するまえの
        かすかな驚き
        が好きだ」

      この詩を読んで、至言だと思いました。
      人間の感受性が、「美」を「美」であると認める前の、一瞬エアポケットに落ちたような “間” 。その無重力空間を浮遊するような味わいの方が、「美」を認識する以上に趣が深い。
      その詩は、それを主張しているのだと思いました。
       

  3. 北鎌倉 より:

    人工知能の学者が交通事故で脳震盪症になり、「行動を開始」できなくなります。
    ふつう行動開始を意識しません。どう行動するか考え、自動的に動くだけです。でも実際には、思考を行動に移行させる、魔法のような瞬間があるはずです。
    動物では起こらないが、人間は頭で考えることと行動との距離が、極端に離れた存在です。その狭間に未来や、計画や、言葉が成立しています。
    この学者は、動けないとき、他人に指示してもらうと動けるんです。自分の意識では作動しませんが、耳からの直接の指令なら動ける。これは別の回路が脳にはあると考えられます。
    そうだとすればそれは、人間が動物段階にあった頃に使っていた回路ではないか。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      ≫「人間が動物段階にあった頃に使っていた別の回路が脳にある」というのは、刺激的な話でした。
      今回いただいたメールの趣旨とは別に、その一言だけからも、いろいろなことに思いを馳せるチャンスが与えられそうです。

      逆に言えば、その回路がなぜ現在はあまり使われていないのかということを突き止めれば、そこに「人間の秘密」が浮かび上がってくるということですよね。
      面白いです。
       

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