『愛の年代記』より「エメラルド色の海」

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 私がかつて読んだ本のなかで、もっとも華麗で、美しく、切ない恋物語は何かと尋ねられれば、ためらうことなく、塩野七生氏が書いた「エメラルド色の海」を挙げるだろう。

 1975年に発表された『愛の年代記』に収録された一編で、わずか26ページほどの短い物語にすぎないのだが、ここには人間が恋愛を語るときに思いつく、想像力の限界に挑戦するかのような、耽美なレトリックが盛り込まれている。

  語られる時代は、イタリアルネッサンス期。 
 舞台は、ヨーロッパのキリスト教国家と、アジアのオスマン・トルコが対立していた地中海世界。
 主人公は、イタリアの有力都市国家であるサヴォイア公国の女官長を務めるピアンカリエリ伯爵夫人。

 その伯爵夫人が、運命のいたずらによって、極悪非道な振る舞いで恐れられているトルコ海賊の首領に恋をしてしまうという話である。
 イタリアの民間に語り継がれている伝承をベースに、塩野氏が脚色した物語のようだ。

 海賊の名は、ウルグ・アリ(有名な人物だ)。
 
 そのウルグ・アリの巧妙な作戦によって、領国を巡行していたサヴォイア公とその兵士たちが浜辺の戦いで捕虜になってしまう。  

 海賊の要求は、膨大な身代金のほかに、もう一つあった。
 それは、「サヴォイア公妃に直接拝謁して挨拶を申し上げたい」というものだった。

 身代金だけならば、払ってしまえば後腐れはないが、公妃が身分の卑しい海賊に拝謁を許したということになれば、他の国々からどのような嘲笑を浴びせられるか分からない。
 
 困り果てたサヴォイア公国の宮廷は、偽物の公妃を立てて、海賊の首領であるウルグ・アリを騙すことにした。
 そのニセの公妃に志願したのが、女官長のピアンカリエリ伯爵夫人だったのである。
 
 伯爵夫人は、こみ上げてくる恐怖と緊張に耐えながら、謁見の広間で、公妃の席に座り、ウルグ・アリの来訪を待つ。
 不気味な人相の下品な男を想像していた夫人は、目の前に現れた男の美しさに驚嘆する。
 
 以下、引用しよう。

 「きらびやかな金色のどんすのトルコ風長衣とガウンにつつまれ、白絹のターバンが東洋風な威厳さえただよわせながら、男は、ひざを折って丁重に礼をした。
 夫人は、トルコ帝国のスルタンを眼前にしているのではないかと、一瞬ではあったが思ってしまった。
 それほど、海賊アリの容姿は洗練されていた」

 もともとウルグ・アリという男は、トルコ人ではない。
 南イタリアの生まれで、漁村を襲ったトルコ海賊に拉致され、若い頃から奴隷船の漕ぎ手として酷使されたイタリア人だったのである。

 しかし、並外れた胆力と、鋭敏な頭脳に恵まれたアリは、やがて一隻の海賊船を指揮する船長に抜擢され、さらにアフリカの各港町を治める総督に出世し、最後はトルコ帝国海軍の総司令官にまで上り詰めた人物である。

 だから、小国の伯爵夫人が一目見ただけで魅了されてしまうのもやむを得ない男であったのだ。

 塩野氏が描くアリの容貌は次のようなものだ。
 
 「トルコ風の細い口ひげの顔は、長い海の上の生活のためか、浅黒く陽焼けし、栗色の眼が、夫人をじっと見据えて動かない。(そして話す言葉は)南イタリアの男がしゃべるときの荒々しく官能的な響きをたたえていた」

 夫人には、目の前にいるウルグ・アリに比べ、サヴォイア公国の男たちの方が卑しく思えてくる。
 生まれの良さだけを誇りにし、出身の貧しい者を常に嘲笑い、そのくせ臆病で、政治や軍事にもうとく、宮廷の女官たちとの恋だけにうつつを抜かすサヴォイア宮廷の男たち。

 それに対し、ウルグ・アリの夫人に対する礼儀作法は、どのキリスト教徒の男よりも洗練され、会話は機知に富んでいた。
 アリの持っていた美質は、自分の夫も含め、夫人の周りにいるキリスト教徒の男たちが、持ち合わせていないものばかりだった。
 伯爵夫人は、はじめて女の心をときめかせる “本物の男” に出会ったのだ。

 夫人と最後の挨拶を交わした後、海賊アリは、
 「そばに控えていた従者に、トルコ語で鋭く何かを言った」
 すると、
 「打てば響くような素早さで、従者が進み出、夫人に小箱を捧げた」
 
 中に入っていたのは、首飾り。
 「まるで金の雲の切れ目からのぞく地中海のように、大きな角型のエメラルドのまわりは、繊細な唐草(からくさ)模様の金細工でふちどられ、そのまま金雲がたなびくよう弧を描いて、緑色の宝石にもどってくる」

 … という見事な芸術品を送られた夫人は、男が立ち去った後も、その場にぼう然と立ち尽くし、やがて城壁に登り、去っていく海賊船を眺める。

 

 「5隻のトルコ船が、いっせいに櫂を(かい)を水平にあげ、水鳥が飛び立つ瞬間の姿になった時、夫人の胸の奥に、熱い何かが急にこみあげてきた。
 翼を広げたように水平に並んだ櫂が、次の瞬間、ふわりと海面に落ちる。そのまま軽やかに、海水を切り始めた。
 たたまれていた帆が、するすると帆柱を伝わって伸びたかと思うと、すぐにいっぱいの風をはらんだ。
 5隻のトルコ船は、一隻ずつ列をつくって、みるみるまに遠ざかっていく。
 あの船は、薄い青色のこの海を離れて、濃い緑色の輝く地中海の中心に向かうのだろう、自分は見たことはない、だが人づてに聞く話では、まるでエメラルドのような色をしているという、海に向かって」

 いやぁ、なんとも見事な描写 !!
 一糸乱れぬ美しい操船によって、トルコ船団が立ち去る情景は、そのまま司令官ウルグ・アリの統率力や自信や美意識のあり方を描いており、その船が向かう先に広がる “見たこともないエメラルド色の海” は、夫人がはじめて「恋」という未知の体験を知ったことを表現している。
 もう、この人の文章のうまさには、一生かかっても追いつくことができない。
 
▼ 『ルネッサンスの女たち』でデビューした頃の塩野氏

 
 伯爵夫人は、そのたった1回の出会いを大切な思い出として胸の奥深くしまい込んだまま、静かな宮廷生活を送る。
 敵対する異教徒の、しかも “卑しい” 海賊に恋をしたなどと打ち明ける相手が、宮廷の中にいるはずもない。
 誰もが、“無知で野蛮な” 海賊をだまし通した夫人の胆力を賞賛するが、そのことで、夫人はいっそう傷ついていく。
 
 一方、海賊の首領ウルグ・アリは、やがてトルコ正規海軍の提督として、全キリスト教徒の軍隊から憎まれる存在となり、地中海世界に君臨する。
 
 しかし、彼もまた、二度と会うことのなかった伯爵夫人に、キリスト教徒の騎士が胸に秘めるような尊敬の念を、生涯抱きつづける。

 ある日、サヴォイア公国に出入りする商人の一人が、伯爵夫人に、ウルグ・アリと会ったことをそっと打ち明ける。
 「ウルグ・アリは、あの時会ったのが、公妃でなかったことを知っています」
 と商人はいう。
 「しかし、アリは、あなた様の正体を尋ねたあと、ふと微笑をもらし、大胆で勇気があって、それでいて優雅で美しい方だった、と独り言のようにつぶやいたのです」

 そして、商人は、ウルグ・アリから預かったという贈り物を夫人に見せる。
 それは ヨーロッパ社会では手に入らないような、見事な刺繍に彩られたエメラルド色の布地だった。
 
 「緑色と金と銀が微妙に織り込まれた布地は、日の当たる角度で色が変わった。それは、織物を扱いなれた商人ですら、見とれてしまうほどの素晴らしいもので、朝と昼と晩で、別の布のように見えた」
 と、塩野氏は書く。

 商人が立ち去った後、夫人は侍女も遠ざけ、部屋に閉じこもり、錦の巻き物を部屋中に広げて、小箱からエメラルドの首飾りを取り出し、そっと布の海に置く。
 そして、耐えきれなくなり、寝台の上に倒れ伏したまま、少女のように声を放って泣くのである。

 そこまで読んだとき、もう「ロマンチック」という言葉は、この話のためにあるような言葉だと、私には思えたものだった。

 もちろん、夫人は、自分の恋心を相手に伝えるすべも知らず、アリの方も、夫人がプレゼントをどのような思いで受け取ったかを知らない。
 でも、本当の恋愛というのはそういうものである、という思いが私にはある。
 
 実は、私にも、自分が海賊ウルグ・アリにでもなったような思い出がある。
 たった一度だけの機会であったが、仕事で塩野七生さんと会うことがあり、彼女が泊っているホテルの部屋に出向いたことがあるのだ。

 昔から、塩野さんの著作を読み続けてきた私にとって、塩野七生さんは、それこそ、「エメラルド色の海」に登場する伯爵夫人のように、生涯まぶしく輝き続けている人であった。
  
 仕事の打ち合わせを終え、私は、1冊だけカバンの中に忍ばせていた彼女の著作を差し出し、サインを所望した。
 それが、「エメラルド色の海」が収録された『愛の年代記』だった。

 この本は、生涯自分の宝になっている。

▼ お仕事をお願いした頃の塩野七生氏

 
  
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『愛の年代記』より「エメラルド色の海」 への13件のコメント

  1. 木挽町 より:

    なかなか深いですね。含羞っていうことかなあ。精神性としての恥らいといったところでしょうか。美しいです。

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      「含羞」って、いい言葉ですよね。
      結局、恋愛の現場というのも、「精神の恥じらい」を忘れたら終わりです。
      …というか、お互いに、恥じらいがある状態を「恋愛」というのかもしれませんね。

      恥じらいは、相手に対するリスペクトから生まれるのかしれません。相手の存在に対して、まだまだ自分は追いついていない、という自覚が思慕の原型のような気もします。

      そういった意味で、「エメラルド色の海」に出てくる二人は、たった一回の出会いを永遠に凍結した状態で保存し終えた幸せな例かもしれません。
       

  2. Get より:

    今日は。
    私はもうお終いです。*$#@!!

    恋愛感情による 「精神の恥じらい」?
    もう面倒くさいです。
    と云うよりも、限りなくゼロに近いエストロゲンの低下に由るものなのかしら?

    ある年代まではTVや映画で観る男前にすら胸が躍りました。
    今は?
    恋、ロマンス、恋愛などからは光速で遠ざかっています。
    男性、女性、と云う二つのジェンダーを超越して中性に転換中です。
    その点男性諸氏は羨ましい。
    「雀百まで踊り忘れず」で、いつまでも恋心を持ち続けられるようです。

    然しながら、「エメラルド色の海」 素晴らしいロマンス短編であろうと大意は読み取れました。
    読み進んで、まず脳裏をよぎったのは ”大きな角型のエメラルドの首飾り” ?
    一体現時点でサザビーあたりに出たら幾らぐらいの代物なのか?
    ウ~ン、なりすましの侯爵夫人は首飾りをサヴォイア公妃に差し出したのかな?
    私だったら、公妃に差し出しながら身代わりのご褒美に頂けるように旨い塩梅に述べる?
    などと、御ブログ上で首飾りに俄然欲を出した自分を発見。
    で、二度目のプレゼントの織物は全く彼女個人に宛てたモノで彼女の物だからぁ。
    そしてこの時代の上質の織物、”是非実際に見たい” と、これには胸がすこし騒ぎました。

    これに関連するものを検索。
    有名な海戦はゲームにもなっているようです。
    ゲームはあるけれど、何故かハリウッドが手をつけていないようです。
    まめに検索すればあるとは思いますが。
    映画にするなら、主役はTyrone Power がいい!
    あまり好きな男優ではないけど、あの漫画的顔立ちはウルグ・アリにドンピシャリ。
    などなど、”美しい恋” 想いはあらぬ方向に広がり楽しみました。

    何時も御ブログ楽しませて頂いています。
    何故か、どのコメントも斜めからのものでご免なさい。

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      投稿いただいたメールの文章がダブっていましたので、ご承諾をいただかないうちに重なった部分を勝手に省いてしまいました。よろしかったでしょうか? お許しください。

      大きな角型のエメラルド。
      それが今の時価でどのくらいの価格で取引されるのか。
      私も興味がありますが、たぶん装飾部分も含めて、破格の額になりそうに思えます。

      伯爵夫人が、もらった首飾りをサヴォイア公妃に差し出したのか?
      このてん末は、説明すると煩瑣になるので、省いてしまいましたが、原著では以下のように記述されています。

      「(会見の終わった後) サヴォイア公が入ってきて、ひざまずく夫人に、良くやったと言った。夫人は、無言で、小箱に入ったままの首飾りを差し出した。公は、それを手にとって眺め、賤民の出にしては趣味が良いな、と笑い、これはそなたに、あらためて今日のほうびとしてつかわす、と言った」

      首飾りを手に入れ損ねた公妃の方は、
      「エメラルドの大きさと美しさには眼を見張ったが、夫であるサヴォイア公が、すでに夫人に与えてしまっているので、取り上げるわけにもいかない。どうせ、どこかの金持ちから奪ったものなんでしょう、と言って、(手に取ってから)汚いものででもあるように、夫人に返した」

      二度目のプレゼントの布地は、夫人がそれで衣装を作らせたようです。
      「それを着けて出た夜会では、男だけでなく女たちまで、夫人の衣装の美しさをたたえない者はいなかった。夫人は、その夜、衣装を着け終わって部屋を出る前に、鏡の前に立ち、あのエメラルド色の首飾りも着けてみたのだ。灯の光でにぶく沈む緑色の錦には、深い緑のエメラルドは、よく似合っていた」

      でも、その首飾りが、異教徒からの贈り物であることを誰もが知っているため、それを着けて夜会に出るわけにもいかず、「夫人は、首飾りをそっとはずし、またもとの小箱に収め、部屋を出た」そうです。

      このあたり、当時の宮廷で、夫人がいかに周りに気をつかっていたかが伝わってきますね。もっとも、こういうディテールは塩野さんの創作でしょうけれど。

      ウルグ・アリの戦いについては、「レパントの海戦」が有名ですね。
      これは、それまでの常勝トルコ海軍が、はじめてキリスト教徒の連合艦隊に敗れた戦いです。
      これによって、その後の歴史は大きく動いていくのですが、もしこのときに、ウルグ・アリがトルコ側の総司令官だったならば、戦況は変わっていたかもしれません。

      このときのトルコ海軍の提督は、スルタンの寵愛を受けた若い文官のアリ・パシャで、「必ずキリスト教海軍を殲滅せよ」というスルタンの厳命を固く守ることだけしか念頭になく、戦況を冷静に分析する力がなかったと伝えられています。

      ウルグ・アリは長い海賊生活の経験から、この戦いがトルコ側にとっては不利なものであることを見抜き、作戦会議では慎重論を唱えたようですが、血気にはやるアリ・パシャに押し切られたとか。

      結果は、トルコ側の惨敗に終わり、司令官のアリ・パシャも戦死するわけですが、ウルグ・アリが率いる左翼の船団だけは、驚嘆すべき操船術で、相手にそうとうな打撃を与えつつ、血路を切り開き、自分の船団を無事コンスタンチノープルの港に入港させたとのことでした。

      この功が認められ、ウルグ・アリはトルコ海軍の総司令官に就任し、トルコ海軍の再建に力を注ぎ、4年後には元どおりの戦力にしてしまったといわれています。

      当時のキリスト教国の人間たちにとっては、「ウルグ・アリ」という名前は忌まわしい悪鬼のように響いたことでしょうけれど、彼の故郷である南イタリアの漁師たちだけはアリを誇りに思い、最後はこっそりと南イタリアに戻り、高貴なイタリア夫人の腕のなかで、キリスト教徒に戻って死んだ、という伝承が残っているそうです。

      どうも私はウルグ・アリのファンなので、彼に対しては評価が甘くなりますね(笑)。

      Tyrone Power 
      なるほど。
      彼もどこか東洋的な顔立ちですよね。
      チョビ髭など生やして、ターバンを巻くと、まさにウルグ・アリ。 
      Get さんの見立ても合っているかもしれません。
       

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