NO REPLY

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 5月2日のエントリーで、引き出しの奥から出てきた自作漫画について触れた。
 あつかましくも、その続きをUPしてみた。
 もう40年以上も前に描いたものである。

 これは、『NO REPLY』というタイトルが付いた作品だが、これを40年ぶりに眺めてみて、最初はなんでそんな名を付けたのか思い出せなかった。
 でも読んでいくうちに、だんだん描いていた頃の意図がよみがえってきた。

 ストーリーは、公園で女の子をナンパした “チャラ男” が、彼女を喫茶店に連れ込み、夜の街を二人で散歩し、地下鉄の駅で別れるまでの半日を描いたもの。
 実に退屈な展開なのだが、むしろその “退屈” さに、今の言葉でいう「空気感」を漂わせたかったのだろうと思う。

 タイトルの『NO REPLY』。
 これはビートルズの歌から採っている。
 「応答なし」
 そういう歌の内容を、漫画のテーマに絡めたかったのだろう。

 さて、この2人は、次のデートに漕ぎつけられたのだろうか。
 最初の1ページに戻ると、男はスーツを着て、女はドレスを着ている。
 … ということは、2回目のデートが実現したわけだ。
 それに気づいたのは、自分でこの漫画をアップした後だった。
 描いた当初は、そんなことまで意識していなかったと思う。

 絵のタッチは、ビアズリーを意識した白黒のコントラストを強調したものだが、基礎的なデッサンすらやってこなかったので、人間や街の景色の造形は破綻しまくり。
 人体比率もめちゃめちゃで、平行線すら満足に取れず、第一、同一登場人物の顔が、コマが変わるごとに “違った人間” に見えるというのは致命的である。

 顔の描き方は、やはり60年代だなぁ … と思う。
 少年時代に『鉄腕アトム』とか、『月光仮面』の漫画を模写していた人間が描く「人の顔」である。

 下手さ加減を公開するのはかなり恥ずかしいことだが、どこにも投稿したことがなく、友だちにも見せたことがなかった作品なので、思い切って、ここで恥をさらしてみた。
 
  
参考記事 「蔵出し ! お宝(?)自作漫画 Ⅰ」
 
 

カテゴリー: 創作   パーマリンク

NO REPLY への25件のコメント

  1. 木挽町 より:

    いろんな才能があるんですね。感心しました。羨ましいです。感性が豊かなのが羨ましいです。合理性だけを追求したクルマ作りに携わっているので、製品に感性を挟む余地がないのがほんとうに残念です。最後の最後は感性が大切だと思うのですが。感性は経験や学習の積み重ねが多いほど豊かに育つと教わったことがあります。計算で分かることも大切ですが感性はもっと大切な気がします。

    • 町田 より:

      木挽町さん、ようこそ
      「才能」なんておっしゃられても、こちらとしては気恥ずかしいかぎりです。
      この漫画をアップしたあと、喫茶店で昼飯を食いながら、漫画誌のコンクール作品として掲載されていた素人の応募作を眺めていたんですが、そのレベルと比べてもお話にならない。
      にもかかわらず、温かいご評価をいただき、木挽町さんの優しさに触れた思いでした。

      「感性」というのは、“驚く力” だと思っています。
      自然の美しさに触れても、芸術作品のようなものに触れても、「わぁ、すごいなぁ !」と驚くことができるかどうか、というところに「感性の豊かさ」があるように感じます。
      ということは、“合理性だけを追求したクルマづくり” の中にも “驚き” はあるはずですよね。
      「ストラーダ」を語ってくれたリンクスの三原さんのお話のなかで、(省いてしまったエピソードですが)彼が国産車のなかで唯一手放しで誉めていたのが日産のGT-Rで、「こういう車は、速さを追求するメカへの新鮮な感受性がなければ創造できない」と語っていたことが印象的でした。

      私は、トヨタさんの広報に携わる仕事をしてきましたけれど、クラウンとアリストを同時開発された主査の方にインタビューしていたとき、彼が音楽や自然の風景(山登りが趣味の方でした)などに触発されることが車両開発ではとても重要だと述べていらっしゃったことが記憶に残りました。

      木挽町さんも、自動車に携わるお仕事をされていながら、音楽や演劇、自然の風景、美術のようなものへの関心度が非常に高い。
      それこそ、木挽町さんの豊かな感性を語りうる有力な証左ではないでしょうか。
       

      • 木挽町 より:

        「こういう車は速さを追求するメカへの新鮮な感受性がなければ創造できない」「音楽や自然の風景などに触発されることが車両開発ではとても重要」。全く同感です。お客様の購入動機のうちの感性の部分を確実に刺激できますね。なるほど。さすがプリンス自動車、トヨタ自動車です。一方で、物流を支えるトラックや建設機器、自衛隊車両、警察車両などは合理性のカタマリみたいなもの。感性のかけらもないのですが、無駄なものは一切ついてないという美しさみたいなものがあるかもしれません。ほとんど使わないオプションを満載したクルマが高級グレード車という設定にはどうも馴染めないという方々もいらっしゃると思います。漫画のテーマなのに話がそれてごめんなさい。

        • 町田 より:

          >木挽町さん、ようこそ
          >>「無駄なものは一切付いていないという美しさ」
          それをよく “機能美” と表現しますよね。
          これは面白い表現だな、という気がいたします。

          機能美というと、一般的には、四角四面で、無味乾燥な形体の中に「美」を見出すという意味なのでしょうけれど、しかし、何が本当の機能美なのかは、深く追求すると、なかなか面白いことが見えてくるようにも思います。

          たとえば、植物。
          美しい花を咲かせたり、美味しそうな果実を実らせたりすることは、植物が「美」を追求した結果ではなく、虫や動物を引き寄せて自分たちの生存率を高めようという意図から生じたものですよね。
          そういった意味で、きわめて “合理性” のカタマリであるようにも思えます。

          昔、映画の『エイリアン』を観ていたとき、宇宙船の中にまぎれ込んでいたアンドロイドの科学者が、エイリアンを観察して、「生きるためにあらゆる可能性を完璧に追及した完全無欠の生き物。究極の機能的存在」と表現していたことが思い出されます。
          我々観客にとって、あのオドロオドロしいグロテスクな生物も、科学者の目を通して見ると、「機能美」のカタマリだったのかもしれません(笑)。

          「物流を支えるトラック」、「建設機器」、「自衛隊車両」、「警察車両」なども、視点を変えると、ものすごく美しく見えてくるときがあるのではないでしょうか。
          たぶん、木挽町さんはそれに気づいていらっしゃるから、「感性のかけらもない、無駄なものは一切ついていない(車両にも)美しさみたいなものがあるかもしれません」と表現されたのでしょうね。
           

          • 木挽町 より:

            なるほど。そうか!「花」なんだ。気付かせて頂きありがとうございました。徹底的に無駄を省いて「花」にすると思うとモチベーションもあがりますね。ありがとうございました。

  2. 町田 より:

    >木挽町さん、ようこそ
    そうですね。
    花は人間の意識や欲望とは関係なく、ただ完璧なまでに合理性を追求したあげく、あのような形になっている、ということなのでしょうね。

    それを「美」と感じるか、無感動のまま眺めるかは、すべて人間の側の問題であるということかもしれまれせん。
     

  3. 北鎌倉 より:

    鉄腕アトムの模写をするほど、自分も子供の頃に手塚治虫のマンガに夢中になりました。

    それは、日常生活とは明瞭に異なる世界が描かれていたからです。日常生活を描いてすらそれは世界でした。それほど少年の夢を果てしなくかきたてる世界でした。

    長編ストーリーと、コマ割りの映画的手法は、世界のダイナミズムを描くために不可欠の手法であって、よく漫画評論家がいうところの、方法自体の新しさが意味を持っていたのではありません。

    手塚マンガは、戦後の思想的衰弱期にあって、無防備な少年の心を浸した最初の世界でした。それは少年がはじめて触れた、思想でもありました。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      手塚治虫の『鉄腕アトム』には、私もまた魅了された1人です。
      あの頃、その漫画を模写した子供も、模写をせずに絵だけ眺めた子供も、等しく、あのふくよかな弧を描く “手塚の線” にエロスを感じたのだろうと思います。

      おっしゃるように、手塚漫画の世界は、ヒューマニズムや博愛主義、弱者へのまなざし、科学の未来に対する健全な期待といった戦後思想をすべて描き切っていましたね。だから、≫「少年がはじめて触れた思想」という表現に素直に納得できます。

      よく思うのですが、手塚とその後の劇画などの作家たちの関係は、ビートルズとそれ以降のROCKの関係と似ているのではないかな … と。
      手塚以降の漫画家は、「この世のどこかに、まだ手塚の描かなかった線があるのではなかろか」という思いで、いろいろ線を引いていたのではないかと。

      一方、ビートルズ以降のROCKミュージシャンは、「この世のどこかに、まだビートルズが奏でたことのない音があるのではないか」という思いで、いろいろ音の冒険をしていたように感じます。
       

  4. 北鎌倉 より:

    ビートルズも手塚治虫さんも目に見える形で圧倒的な影響を与えました。その手塚さんの影響を全く受けずに、マンガの世界に見えない形で絶大な模倣者を生んだマンガ家に、ちばてつやさんがいます。
    ピッチャーが投げてからボールが届くまで、現実の時間は一瞬です。ちばさんは、その一瞬を一コマで描かず何コマも使いました。「間」というものを発見したのです。一瞬ではなく大きな間としてとらえました。
    一瞬の出来事でも、緊張すると異様に長い時間だと思うことがあります。その逆もしかりです。ちばさんは、現実のリアルな時間ではなく、「体感時間」のリアルさを表現してみせたのです。ちばさんの「ちかいの魔球」はその意味で画期的でした。

  5. 北鎌倉 より:

    手塚治虫さん以前のマンガは、悪人や悪い行ないを描くことはできましたが、悪そのものを描くことはできませんでした。
    悪人はみずらを間違えたのだから改心によって、悪い行いは反省によってあらためられます。しかし悪というイデオロギーを背負った、手塚マンガの「ランプ」のような登場人物はついに描かれませんでした。
    それは同時に、善人や善行はあり得ても、善そのものの観念を持ち得なかったことを意味します。ここには、なりゆきのなかで転変する人間の心や行為はあっても、不条理な悪や善が葛藤するドラマが欠如していました。もともと日常生活の中には、悪も善もイデオロギーとしては存在していないのです。

  6. 北鎌倉 より:

    軍国少年少女が与えられたあの「思想」とは違って、手塚マンガはきわめて甘美な読み物として享楽のうちに消化されました。
    軍国少年なら面従腹背することも可能でしたが、子供たちは大人の非難がましい眼を盗んで、まったき自由意志によって骨の髄まで浸りきったのです。
    町田さんが「ふっくよかな弧を描く」と表現されたように、それは、アメのようにしゃぶりやすい「思想」でした。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      手塚漫画に対する数々の鋭い考察。またもや考える材料をいろいろと頂戴したように思います。ありがとうございました。

      『ちかいの魔球』の “魔球” がキャッチャーミットに吸い込まれる過程を何コマも使って描くことが “間の発見” だったというのは面白いですね。
      そこには、≫「物理的な時間の流れとは異なる心理的な時間の流れが存在する」と。
      素敵な考察でした。

      また、≫「手塚漫画以前の悪玉と善玉というのは、単に人間の所業を描いたに過ぎず、『悪』とか『善』というイデオロギーを抽出するまでには至らなかった。しかし、手塚は、はじめて読者に、『悪』と『善』を人間の本質に関わる問題として考えさせる入り口を用意した」
      という指摘も、とても興味深く拝読しました。

      手塚以降の漫画家たちは、「いかにしたら、手塚が描かなかった線をケント紙の上で追求できるか」というテーマを自分に課すように、それぞれの作業を掘り下げていきました。
      しかし、そこで見つめられたのは、単に物理的な「線」ではなく、まさに手塚治虫の「思考の線」でもあったと思います。
      後年、つげ義春などが『ガロ』で追求していった漫画は、手塚的世界観ではたどり着けなかった荒涼とした人間の極北であったかもしれないと思う次第です。
       

  7. 北鎌倉 より:

    町田さんの「線の思考」という言葉に触発されて、白と黒って何故あるのか。ほんとは闇であってそこに光があたる。ところが、ものを描くということは、逆に真っ黒なところを白で塗ってはいかない。白い紙を黒でせめていくという描き方をする。実は逆で闇の所に光が当たって分けているのに、描くというのは逆の立場になっている。闇を一生懸命構成しようとしている。
    絵は形あるものを描くではなく、形のないものだって描ける。闇を描くって行為でしかない。闇でせめていって一つのフォルムを表す。暗い所に光をあてて見るという行為をするのに、ところが逆の操作をして「ありありと」ということをする。逆の方からせめるということは、絵が、なつかしい思い出とかに逆行するようなかたちをとらざるをえない。思い出というのは、まっ白いところを塗りつぶしていくもの。一方、記憶というのは闇に光をあてた一瞬のものでしかない。

  8. 北鎌倉 より:

    闇に光を当てて描く、その具体的なペン画が、つげ義春さんの「ねじ式」にあります。見せ場として蒸気機関車が見開きで描かれていて圧巻です。ただ普通のペン画のように、徹底して凝って圧倒する描き方でありません。かといって水木しげるさんの背景のペン画から離れる描き方はしていません。
    つげ義春さんは、まず全面をベタの闇にして、煙をはき走行する蒸気機関車を光で浮かび上がる画像にしています。このイメージで描けば、細部まで凝りに凝る必要がないのです。闇から、線の濃淡、そして光を使い、いかようにもグラデーション描画で手間もかけられるし省略も可能になるからです。もちろんそのためには細部にわたって丁寧に正確に、下描きする手間はかけなくてはなりません。

  9. 北鎌倉 より:

    「ねじ式」の頃は「速描きだった」とつげ義春さん自身が実技を言ってるように、最短の手間で最大の効果を出す、線の使い方をしています。
    簡単に言えば、しっかり下絵を描いてぺン入れで飛ばすのです。しかもそのペン入れのとき、線の掛け合わせを基本二度にして、最短の手間としています。そのかわりに、縦・横・斜めの交差・うねりと様々な線の掛け合わせをして、蒸気機関車の各部分の鉄の質感をいかにも凝って(描き分けて)いるように見せることができています。
    つげ義春さんの、水木しげるさんとこでのアシスタント経験が、ここでの技巧の線でよく見て取れます。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      絵を描くときの「闇」と「光」の考察から、つげ義春氏の『ねじ式』のペン画の秘密に言及していく北鎌倉さんの解説は面白いですね。さすが漫画のお仕事をされていらっしゃった方の生きた知識を伝授いただき、本当に勉強になります。
      我々一般読者はつげ義春氏や水木しげる氏の漫画に接しても、なかなかその描き方の実技にまで目配りが及びません。彼らの描く線がどうやって生まれてくるのか。こういう話はなかなか刺激的です。

      それにしても、狭い民家の路地からいきなり蒸気機関車が飛び出してくるつげ氏の『ねじ式』のシーンには度肝を抜かれました。あと、目の看板ばかり出て来る街並みとか。
      ああいう映像って、いったいどういう脳の動きから生まれてくるのでしょうか。
      たぶん、作者の “思いつくまま” ということなんでしょうね。
      面白いです。
       

  10. 北鎌倉 より:

    「狭い民家の路地からいきなり機関車が飛び出す」シーンは、あの機関車の運転手に理由があります。
    メメクラゲに噛まれ、静脈を切断され出血多量で一刻の猶予もならず主人公は、海から上がり左腕の切れた血管を手でつなぎながら医者を求め、不案内な漁村に入っていきます。するとちょうどよく蒸気機関車がやってきて、キツネ面を付け坊主頭にほっかむりをして着物を着た子供の運転手が「どうぞ」と促します。主人公はすぐに逆走してることに、バックミラーに見える隣村がどんどんとおのいていくので、気づきます。逆走機関車は、漁村の家が建て込み洗濯物が干された狭い狭い間の、しかもなんと線路のない路地を、「ゴッゴゴゴ・・・」と走り来て「さあ着きました」とキツネ面の子供運転手は言うのです。
    <キツネの蒸気機関車>に最もふさわしい、線路のない路地を走る、というつげ義春さんの抜群の場面着想でした。

  11. 北鎌倉 より:

    つげ義春さんは「つげ義春漫画術・下」で、「ねじ式」についてこう言ってます。
    「切れた血管をつないで……こういう必然性のない描き方をしたことによって解放されたような気持ちというか、ストーリーの作り方の上でそういうのを感じましたけどね。」「風景なんかにしても脈絡なしに好きな風景を持ってこれますし。ストーリーがばっちりあると風景なんかにしても制限が出てくるんですよね。たまにストーリーから外れた風景を描くことがありますけれども、自分の中ではそれなりの繋がりがあるんです。でも「ねじ式」だったら自由に風景が描けるということで描いていて楽しかったですけれどもね」
    どれほどキミョウキテレツな場面に見えても、「切れた血管をつないで・・・」という着想からの必然的な流れの中で、思いっきり自由な大胆な場面に見えていても、しっかりと<選択>されているのが「ねじ式」なのですね。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      『つげ義春漫画術』の「ねじ式」に関するつげさんの談話、ありがとうございました。この漫画を理解する大きなヒントをいただいたように思います。

      すなわち、あの漫画は「つげさんにとって好きな絵」が連なっていく、いわば “つげ義春美術館” というわけなんですね。
      ということは、「ねじ式」は文学ではなく、美術だということですよね。

      多くの批評家がこの作品を「難解だ」と評したのは、それを文学として読み解こうとしたからなんでしょうね。
      しかし、美術として鑑賞するならば、「どのコマのどの絵が好きか」という個人の嗜好の問題として語ることができます。
      それが、あの漫画に対する最も愛のある鑑賞の仕方かもしれませんね。
       

  12. 北鎌倉 より:

    「つげ義春美術館」いいですね。
    つげさんは水木さんのアシスタントをしなければ、ペン画を凝ることはなかったでしょうから。
    もともと抜群のストーリテラーだった、つげさんなら人物だけで面白い作品ができてしまって、凝った絵を描く必然性無いわけです。
    いま、「大友克洋の絵はどうやってできたか」のマンガ論を書いていて、どこから始めようか考えていたのですが、町田さんの「つげ義春美術館」をヒントに、水木さんの絵から始めることにしました。
    やっぱりお喋りは大事ですね。「つげ義春美術館」という理解をした、漫画家、評論家、編集者、つげさんオタクで、だれ一人いませんでしたから。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      やはり、文章を書くことをなりわいとされてこられた方なんですね。
      どうりで、ボキャブラリーの選び方、ロジックの通し方に習熟されていらっしゃったわけだ。
      大友克洋のマンガ論。
      すごく面白いテーマだと思います。

      “つげ義春美術館” という言葉は、たまたまの思いつきです。
      それほど深い発想に基づいたものではありません。
      むしろ、その言葉から、つげ作品の本質に迫るヴィジョンを展開される北鎌倉さんの発想の方がユニークです。

      マンガ論、期待しております。
      楽しみです。
       

  13. 北鎌倉 より:

    中学生のとき貸本出版社から直接本を買うと、原稿が切り離されて1段がおまけでついてきました。これがやみつきの始まりで原画集めと、マンガ家を訪ね原稿を見せてもらうことに夢中になりました。
    音楽とか文学だと、ある日あるときどこかの誰かが本当にそれをつくったという痕跡がはっきりとは残らないから、すばらしい作品が最初からそこにあったように感じられてしまいます。強いて言えば楽譜や原稿がその痕跡に近いのですがやはり違います。筆跡や推敲行の跡は確かに作者の存在を感じさせますが、イコール表現ではありません。マンガや絵画におけるペンや筆の動きは、表現そのものです。
    傑作は才能や努力や意思のほかに、偶然性を伴う「何か」が加わったときに生まれます。その「何か」の輝きが表現の痕跡を消してしまうのです。だから、学びたかったら傑作に触れるべきという意見だけが正しいわけではないと思います。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      出版されて世に流通したもの以外、ペン画の筆の動きを残した原稿というものをこの目で見たことがないので、北鎌倉さんのおっしゃっていることが実感として上手にイメージできないことを正直に申し上げますが、抽象論としてはよく分かります。
      特に、後段の≫「傑作は才能や努力や意思のほかに、偶然性を伴う『何か』が加わったとき生まれる」という言葉は、他のものに置き換えてみると、ほんとうにその通りだと実感できました。

      実は、つい最近、『ブレードランナー2049』という映画を観てきました。私はその元となった『ブレードランナー』(第1作)という映画が非常に好きで、劇場で二度見ただけでなく、ビデオやCVDにおいても「劇場公開版」、「ディレクターズカット版」、「ファイナル編集版」など様々なバージョンを買い集めて見比べたりしました。

      で、それだけ多くの別編集バージョンができるということは、決定稿がないということでもあります。
      つまり、この映画がなぜ成功したのか、監督ですら把握していない。
      撮影中、監督と役者たちとの間で、作品の解釈をめぐって暗黙の対立があったという話もありますし、監督があまりにもいろいろな要素をぶち込み過ぎた結果、冗長な部分も横溢し、劇場公開のために、配給側のスタッフがそうとうカットしたシーンもあったとか。
      それに不満を持った監督が新たに「ディレクターズカット版」を出したとか。
      (現在は、そのどちらがいいかはそれぞれ賛否両論あります)。

      要するに、あの映画が成功したのは、制作者たちの意図を離れた「偶然性を伴う『何か』が加わった」ということなんですよね。

      ≫「その『何か』の輝きが表現の痕跡を消してしまう」
      まさに、『ブレードランナー』においては、結果として生まれた完成度の高さが、その陰に隠された監督と出演者たちとの葛藤とか、統制を逸脱してしまった画像データの氾濫という “表現の痕跡” を消してしまったのだと思います。
       

  14. 北鎌倉 より:

    町田さんの非決定『ブレードランナー』論おもしろいです。
    一度だけ手塚治虫さんの手伝いで後楽園球場近くの旅館でカンズメをしたとがあって、そのとき「加わる何か」の話をしたことがあります。
    『のらくろ』で有名な田河水泡について書いた文章のなかで、文芸評論家の小林秀雄は「自分勝手に使用できる才能などでは承知できない」と言っています。
    これを受けて手塚さんは、登場人物があまりに自分の思い通りに動くときは、手が止まる・手を止めるというんです。それは、登場人物が勝手に動く<場>を自分が作り出せていないからだと。自分を非決定の場に、置くということですね。そこに何かが加わる。
    そのとき私は十分に素人で、手塚さんの驚異的な手の速さに眼がいってばかりで、手が止まる・止めるという、その「遅れ」がないと、先にいって遠くジャンプはできないんだと知って驚きました。
    でも手塚さんのペンダコが普通の人のように中指にないことを発見しました。小指から手首にかけてにあったのです。それは、原稿とペンを同時に動かすからでした。それが速さの秘密でもありました。だから原稿用紙はペラペラの模造紙でした。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      手塚治虫氏の制作現場をこの目で見るなど、北鎌倉さんは、(お仕事柄とはいえ、)ずいぶん贅沢な体験を重ねてこられたのだな … と思います。うらやましいかぎりです。
      手塚さんの言動から伝わってくる「自分を非決定の場に置く」というのは、なかなか深みのある言葉ですね。≫「そこに何かが加わる」と。

      私たちが、いつも簡単に使ってしまう言葉、「ひらめき」とか「インスピレーション」。
      それはどこから来るのかというと、天から直接的に降ってくるのではなくて、忍耐強く熟考を重ねた結果、努力の汗として生まれてくるのだ、とよく言われます。
      もちろん、そうなんでしょうけれど、やっぱり努力の積み重ねがそのまま「ひらめき」に移行するのではない。
      その間には、一瞬の空白というか、「非決定」に身を置く瞬間というものがあるわけですよね。
      それが面白いと思います。
       

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