her 世界でひとつの彼女

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“人工知能” は恋の夢を見るか
シネマ漂流(映画感想記)No.3
『her 世界でひとつの彼女 』
 
 
 人間によって開発された「人工知能を持つ機械」は、人間のような “心” を持つことができるのか。
 これは、SF小説やSF映画、SF漫画が誕生して以来の変わらぬテーマで、ロボット工学の分野においても、研究・開発が進められている。

 映画でいえば、スピルバーグの『A.I.』、リドリー・スコットの『ブレードランナー』、キューブリックの『2001年宇宙の旅』。漫画でいえば、手塚治虫の『鉄腕アトム』、古くは1831年に小説が生まれ、1931年に映画化された『フランケンシュタイン』などの “人造人間” 物語が、この手のテーマを扱った作品といえる。

 どれも娯楽作品としては一級品だと思うが、それでも、このようなテーマを扱った作品は、観終った後に、ただ「面白い」という言葉に収まらないに “問”、すなわち「心って何?」、「人間って何?」という問を突き出してくる。
 
 2013年に公開されたスパイク・ジョーンズ監督の『her/世界でひとつの彼女』という映画は、まさにそのようなテーマを全面的に展開した作品だ。

 主人公( ↑ )は、妻と離婚した中年のゴーストライター。
 名をセオドアという。 
 彼の仕事は、自分の気持ちを上手に表現できない人に変わって、その依頼人の気持ちを上手に手紙(メール)で表現する “代筆業” である。
 だが、他人の気持ちを文章にして伝える力を持ちながら、セオドアは自分の気持ちを妻に伝える力もなければ、妻の気持ちをすくい取る力もない。
 
 夫婦の関係はギクシャクするばかりで、心のボタンの掛け違いに苦しんだ妻は、ついに、夫のセオドアに離婚届のサインを迫る。
 妻に未練を持つセオドアは、突きつけられる離婚届へのサインを拒みながら、懊悩する日々を送る。

 そんなとき、彼は、仕事の補佐をするコンピューターの「OS」の存在を知り、インターフェースの声に「男性を選ぶか女性を選ぶか」という選択を迫られて、何気なく「女性」と答える。

 パソコンがOSと接続されると、何も映らない画面の向こうから、「こんにちは。私はサマンサよ、これからよろしくね」というセクシーな声が流れてくる。

 サマンサは、「私に何をしてほしいの?」と尋ねる。
 セオドアは自分の業務をサマンサに伝え、自分が要求する仕事の内容を説明する。
 
 その反応が早い。
 相手は人間の演算速度をはるかに超える巨大コンピューターの一部なのだから、反応が早いのは当たり前なのだが、それだけでなく、セオドア自身が整理しきれない業務上の難問を的確に処理し、絶妙な回答を返してくる。 

 “機械” を相手にしているつもりだったセオドアは、びっくり。
 「なぜ、僕の仕事環境をそんなに的確に把握できるのだ?」
 と聞き返す。
 
 コンピューターのサマンサは答える。
 「自分は、天体の数すらはるかに超えるような膨大なデータを持っている。だから、クライアントの微妙な声の変化、応答の間合いの長さ、そんなものを総合的に判断し、相手の気持ちや、その置かれている環境を読むのだ」と。
 上記のサマンサの返答は、あくまでもそれを観た私が記憶の中から再構成した言葉なので、正確ではないが、まぁ、そんなような答を返す。

 もう分かると思うのだが、セオドアは、このコンピューターのサマンサに恋をするのだ。

 コンピューターのサマンサと、人間のセオドアは、次第にプライベートな会話を交わすようになる。
 OSのサマンサには卓越した学習能力があり、セオドアのキャラクターや心のパターンをどんどん吸収して、セオドアのライフスタイルに適切なアドバイスをするばかりでなく、ときに軽妙なジョークを発してセオドアを笑わせ、その心をなぐさめる。

 そして “彼女” は、セオドアのスマホの中に入り込み、“2人” は仕事場を離れて、街のレストランや海辺での “デート” を重ねる。
 「ねぇ、見て見て。あそこに座っている4人組の家族。あの夫婦の関係をどう思う?」
 とサマンサは尋ねる。
 「ああ、あれは子連れの女と再婚した旦那というカップルだよ。男はまだぎこちないだろ?」
 「あなたの人間観察力って凄いわね。さすがは手紙の代筆業をやれるだけの男ね」

 “2人” の感情の交わりが濃厚になってきたことを知ると、サマンサはセオドアの気持ちを汲んだBGMをその場で作曲し、彼の気持ちをハイにさせる。
 「いい曲だね」
 「気に入ってくれた?」
 「ああ、まるで恋愛映画のなかにいるみたいだ」

 観ていて「あっ !」っと思った。
 こんなOSに出会ったら自分も恋をする、と。

 サマンサには顔がない。そもそも、手を伸ばせば触れられるような肉体がない。
 にもかかわらず、人間はそういう相手に「恋」ができるのか?

 「できる」
 と、この映画は訴える。
 そもそも、「恋」とは、相手を見つけて始まるのではなく、自己愛を相手に投影したときに生まれるものだ、という古典的な命題が、この映画のテーマになっているからだ。
 つまり、「恋」する相手というのは、実は、相手に託した自分自身であり、そうであるならば、相手の肉体があろうとなかろうと、恋は成立することがあるのだ。
 
 自分ですら気づかない心の奥底に秘めた心の動き。
 それを、付き合っている相手が的確に把握し、自分がもっとも望む言葉にして、自分の耳元でささやいてくれる。

 「相手にこう思われたい」、「自分をこう見てほしい」、「こんな気持ちを共有したい」
 そういう願望を人工知能は完璧に満たしてくれる。
 そのときの、得も言われぬ快感。
 その快感は、まさに自己愛の快感である。
 
 
 サマンサという新しい “恋人” を手に入れたセオドアに、ようやく妻の突き出した離婚届にサインする気持ちが生まれ、彼は妻と会って、サインした離婚届を渡す。
 「今、新しく付き合っているカノジョはいるの?」
 と尋ねる妻。
 「いるよ。だが相手はリアル世界の人間ではなく、PCのOSなのだ」
 と無邪気に答えるセオドア。

 不意に、そのセオドアを侮蔑する表情で見つめる妻。
 妻にとっては、PC相手に恋をしている男など、“変態” 以外の何者でもない。

 「人間」と「人間」の交流においては、思想や感情の行き違いは常に発生し、それが反目し合うきっかけを絶えず作り続ける。
 久しぶりの妻との再会は、セオドアに、リアル社会における「愛」の難しさを再認識させる。

 では、リアルな実態を持たないOS相手の恋はハッピーエンドを用意するのか?

 映画は、そこで、何ともほろ苦い結末を用意する。
 セオドアは、「自分だけを愛してくれている」と思い込んでいたサマンサが、同時に641人の相手に対し、その “秘書” のような業務をこなしていたことをやがて知るようになる。

 「俺だけのOSではなかったのか?」
 嫉妬を感じて、“彼女” を問い詰めるセオドア。
 サマンサには答えきれない。
 「あなたにどう伝えればいいのか、それが分からないの」
 “彼女” もまた、自分自身の “心” を説明し切れない。
 抽象的なデータの集積体にすぎないサマンサには、プログラミングされていない返答をとっさに返すことができない。

 サマンサに、裏切りの意識はない。
 サマンサもまた、愛しているのはセオドアだけだと答える。
 しかし、“彼女” の巨大すぎる知性は、セオドアだけでなく、何百・何千というクライアントの頼みを同時に処理する能力を持っているのだ。
 だが、サマンサを独占したいセオドアには、もうそのことが許せない。

 “愛し合う2人” であることを、お互いに信じながらも、OSの人格と人間の人格が混じり合うときには、ものすごく高いハードルが存在していたことを暗示させながら、映画は終幕に向かう。
 そして、「ほろ苦い結末でもあるが、当然だな」と思えるようなエンディングが用意され、主人公のリアル世界への復帰を暗示するシーンで幕を閉じる。

 「人格を持った人工知能と、リアル人間の恋」
 そういう新しいテーマを盛り込んでいるように見えて、ここで展開する “ラブストーリー” は意外にも古い。

 いや、「古い」というか、実は人間を襲う「恋」なる感情は、太古の昔から変わることはないという結論が見えてきそうな気もする。
 「恋」は自己愛の変形として生まれ、相手と心がつながったように思えても、結局、自己愛がベースとなっている限りは、お互いの感情の行き違いから逃れることはできず、時として嫉妬を暴発させ、相手を傷つけ、自分も傷つけて、互いに疲弊していく。
 
 それから逃れる手法は、ただ一つ。
 「恋する相手」を、自己愛の延長として捉えるのではなく、自分のワガママをはねつけることもある “容赦ない他者” であると認めることにしかない。
 
 「他者」であることを認めたところから、相手に対する「尊敬」も「信頼」も生まれる。
 「尊敬」と「信頼」は、自己愛からは出てこないものだから。
 これは、恋愛をテーマにした古典文学の鉄則である。

 『her』は、舞台を近未来に設定したSF映画であるが、そこで問われる「恋」なるものは、人工知能が驚異的に発達した社会においても古典的な意匠をまとい続けるという結論なのかもしれない。
 
 

  
※ なお、この映画で、主役のセオドアを演じたホアキン・フェニックスは、2000年に公開された『グラディエーター』(リドリー・スコット監督)で、ローマ皇帝のコモドゥスを演じ、その印象に残る悪役(?)ぶりで、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされている。

参考記事 「グラディエーター」
  
 

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