大人の写真集『セーヌ左岸の恋』

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 「大人」というのは、年齢のことではなく、文化概念である。
 
 「ビールの苦さが分かるようになれば、大人だ」
 などとよく言うけれど、ビールは子供が飲んでも、大人が飲んでも苦いことには変わりない。
 しかし、その “苦いビール” がうまいと感じるようになるのは、舌の変化ではなく、CMやらドラマやらで、「大人たちがうまそうに飲んでいる」という文化体験の蓄積が、脳に「うまいはずだ」という思い込みを植え付けるからである。

 だから、文化の受け取り方によって、「大人」に対するイメージは、人によってさまざまな形を取る。
 往々にして、人は、幼いころに、自分の年齢では到達不能な人間の “カッコよさ”、あるいは美しさに触れたとき、そこに「大人」を発見する。

 私が、最初に「大人」の世界に触れたのは、数編の写真だった。
 親が買っておいた『文藝春秋』のグラビアを見たときである。
 1950年代中頃。
 私は、まだ小学生だった。

 宿題に飽きて、『文藝春秋』のページをパラパラめくっていたら、いきなりタバコを口にくわえた外人女のアップが浮かび上がった。
 ふと見とれた。
 
 

 
 
 その写真の何が自分の心に引っかかったのか。
 たぶん、物憂そうな女の眼に引き付けられたのだと思う。
 心の空洞を表すかのような、その焦点の定まらない眼が、子供には分からない大人の “やるせなさ” を感じさせたのだ。

 それは、鉄腕アトムや月光仮面の躍動感とか、クレイジーキャッツの笑いとか、大鵬や巨人の活躍がもたらす高揚感とはまったく異質のものだった。
 私の少年時代のヒーローたちは、みな子供を喜ばせるのに一生懸命だったが、小雨の中でタバコを吸う女は、疲れて投げやりになった無防備の大人の素顔をさらしていた。

 少し興味を持って、『文藝春秋』の解説を読んだ。
 数枚のグラビアページは、エド・ヴァン・デル・エルンスケンというカメラマンが撮った『セーヌ左岸の恋』という写真集を紹介するものだった。
 1956年当時、パリのサンジェルマンデプレで、無軌道な暮らしを続ける若者たちの生態を写し撮ったものだという。
 


 
 
 もちろん、小学生の私は、サンジェルマンデプレがどこにあるのかも知らない。
 しかし、そこにセレクトされていた写真は、みな日本の風土とは異なるエキゾチシズムをたたえていた。

 特に、ヒロインが魅力的だった。
 すでに、大人がニヤニヤと眺めるいやらしい写真や漫画の存在は知っていたが、そこには、私がそれまで見たこともなかった、暗くて切ないエロスがあった。
  

 

   
 写真集は物語のように構成されていることも分かった。
 ある外国人の貧しい若者が、華やかさに憧れて、パリに流れ着く。
 「貧しい若者」とは、もちろん写真家のエルンスケン自身のことで、彼がパリを放浪していた時代の実体験に基づいた自叙伝的な作品だという。
 
 1950年代。
 当時のパリには、「実存主義」という “現代思想” にかぶれてアナーキーな暮らしにふける若者が世界中から集まっていた。

 

▲ 穴倉みたいなナイトクラブでは、夜通しジャズが流れていた
▼ タバコの煙と喧騒が渦巻くクラブには、朝まで踊り続ける人たちがいた。


 
  
 酒、タバコ、麻薬、ジャズ、アート。
 パリにたどり着いた主人公の若者は、すぐさまそのような生活に溺れるうちに、アンというダンサーと知り合い、一目ぼれしてしまう。
 しかし、アンは、男から男へ渡り歩くような暮らしを続けるだけで、家庭の中に収まるような女じゃない。

▲ 踊るとき以外は、片時も煙草を欠かさないアン
▼ 住所不定の女アン。その日知りあった男のアパートが彼女の宿だ


 
 
 アンという刹那主義的に生きるなきまぐれな女。
 そういう女に夢中なった主人公の屈折した思い。
 それが、コントラストの強いモノクロ写真のなかで、暗い輝きを放っていた。
 
 私は、そこに「大人の世界」を見た。
 酒もタバコも知らない年で、もちろん、女性に恋こがれる胸の熱さも、振られることの挫折感も知らないというのに、「大人の恋」というものに触れたのだ。


 
 
 私は、今でも「モノクロ画像」、「ジャズ」、「タバコ」という組み合わせに「大人」というイメージを結びつけてしまうのだが、それは、たぶんにこのときの印象がプリンティングされたものだと思う。
 
▼ アンは、主人公に誘惑的な微笑を投げかけるが、それは彼を好きになったわけでもなく、たぶらかすためでもなく、ただ「意味なく」笑っただけなのだ。


 
 
 笑いの奥には、空洞が開いている。
 女の心の奥に広がるブラックホールに吸い込まれてしまう男の切ない快楽。
 そして、甘美な焦燥。
 恋愛など経験していなくても、そいつが胸をチクチクと刺激した。

▲ 「友だちのゲリの部屋が空いてる」とアンは俺を誘った。しかし、ゲリの顔を見ると、もう俺のことは眼中になかった
 

▲ 「アンは、俺よりあの青年を愛している。ここ (ムショ = 写真上) を出たら、俺は国へ帰ろう」
 
 無銭飲食で刑務所へ放り込まれた主人公は、毎晩アンの夢をみながら、そうつぶやく。
 主人公のセンチメンタリズムが、アルコールのようにこちらの全身を駆けめぐっていく。
 
 1998年。
 47年ぶりに、この『セーヌ左岸の恋』の復刻版が出た。
 本屋で偶然見つけて、すぐ買った。
 
▼ 『セーヌ左岸の恋』

 
  
 少年の日に触れた「大人の世界」にもう一度接した。
 すごくカッコいい。
 でも、結局それは、この世のどこを探しても見つからない「大人の世界」だった。
 エルスケンが撮った、あの時代のパリだけにあったのか、それとも少年の私が見た幻だったのか。
 そいつが、よく分からない。
 
 


 
 
 不思議なことに、今この写真集を眺めている私の方が、そこに登場する若者たちより、はるかに年上だというのに、あいかわらず彼らの方が、私より「大人」に見えてしまう。

 大人の世界というのは、優れたカメラマンや映画監督だけにしかつくれない、“到達できない理想郷” なのかもしれない。
   
   

カテゴリー: アート, コラム&エッセイ, 映画&本   パーマリンク

大人の写真集『セーヌ左岸の恋』 への4件のコメント

  1. クボトモ より:

    町田さんの視点が、自分にとってジャスト過ぎて驚いています。
    「子供の眼が捉える大人の世界」
    先日お話した釣り具メーカーさん、40年前にカタログや雑誌広告で「大人の釣りの世界」を訴求していまして、
    当時小学生だった人々が、それを記憶にとどめ大人になった今でもこのメーカーの商品を使い続けているのです。
    先日もファンの集まりで、古いカタログを持ってきた者の周りに人々が集まってきて、
    「当時意味はよく解らなかったけど、カッコイイな、いつかは自分もこんなスタイルになりたいな、と思ったよね。」なんて言葉があちこちから出ていました。
    今の時代、ついマーケティングデータというヤツに惑わされ世代ごとの訴求しかしませんが、そんな垣根を超えて感受性を刺激される子供たちがいることを忘れてはいけませんね。
    子供の興味にちゃんと応えられる、カッコイイ大人の世界を作らなくてはならないのかも知れません。

    >大人の世界というのは、優れたカメラマンや映画監督だけにしかつくれない、“到達できない理想郷” なのかもしれない。

    烏滸がましいですが、情報伝達を生業にしている我々のような職業でもその一端くらいは担えるかな…そうだと良いなぁと思いました(笑)

    • 町田 より:

      >クボトモさん、ようこそ

      「カッコいい大人」というのは、やはりぜったい必要であると思っているのです。
      それは、品行方正で、礼儀正しく、子供の生き方の模範になるような大人という意味ではありません。
      場合によっては、稀代の大悪党だったり、スケコマシの不良文学者だっていいんですよね。
      かつては大悪党のレッテルを背負わされていた土方歳三とか、昔はPTAのママさん方から毛嫌いされていた吉行淳之介なんて、子供が見てもカッコいいところがありますから。

      とにかく、子供が簡単に近づけない “凄味” のようなものを持っている人間って必要だという気がします。
      そういう人たちがつくり出した文化だとか商品のようなものが、けっきょく「大人の釣りの世界」を教えてくれた釣り道具のように、子供たちが大人になっても永遠の憧れの対象として残るのでしょうね。

      けっきょく、今の日本から、そういう「大人の文化」みたいなものが消えてしまったのは、思えば(我々のような)団塊の世代の責任であるようにも思います。
      戦後最大の人口ボリュームを達成したこの世代は、それまでの “大人の文化” をことごとく否定して、それに対置する “若者文化” を謳いあげながら、社会に飛び出しました。
      でも、この人たちは、いま70歳代に入ろうとしているにもかかわらず、まだ「若者文化」を主張し続けています。
      それは、一種の貧しさであるように思います。(もちろん自戒の意味を込めた言葉ですが)。

      私たち団塊の世代が、「大人の文化」を荒らしてしまったために、今それを再生する土壌を掘り起こすために、大変な苦労を重ねています。

      私が、戦後間もない頃に生まれた映画や文学(そしてここで紹介した写真集のような)ものに興味を感じるのは、私たちが自分で葬り去ってしまった「大人の文化」へのノスタルジーのようなものかもしれません。
       

  2. 木挽町 より:

    じびれました。「笑いの奥には、空洞が開いている」。文句なしにかっこいい。視点というか感性というか。写真もかっこいいし分かりやすい文章で読んでいく一行一行がゾクゾクする感じでした。ありがとうございました。

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      モノクロ写真の美学って、ソウルミュージックの世界に通じるようなところがありませんか?
      私は、テンプテーションズなどがデビューした頃、そろってダークなスーツに身を包み、白いシャツに細身のネクタイを締めて、みな一斉にステップを踏んだりする光景を見るのがいまだに好きです。

      しびれたのは、黒い肌と白いシャツの絶妙のコントラスト。
      細身のタイと締まったスーツのかもし出すスマートな身のこなし。
      「ああ、ほんとうに美しいなぁ !」と思いました。

      50年代から60年代中期ぐらいまでは、モノクロのビジュアルが時代のアートを領導していたような気がします。
      ジャズのアルバムだって、ブルーノートなんかはモノクロ写真主体の非常にシンプルなデザインのジャケットをたくさん世に出して、黒人にひっかけた黒い世界の美学を演出していましたよね。

      やっぱり、自分はそういう世界の美しさの基準から逃れられないようです(笑)。
       

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