NHK「真田丸」

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 NHKの新しい大河ドラマ『真田丸』が楽しみだ。

 大河ドラマで採りあげられる主人公は、戦国時代と幕末に活躍した人間が圧倒的に多いけれど、幕末はもう出尽くした感じ。

 だって、坂本龍馬と新撰組を除くと、あとは地味だもんな。
 特に女性が主人公となると、新島襄の奥さん(『八重の桜』)とか、吉田松陰の妹(『花燃ゆ』)とかいったって、「それ、誰ですのん?」といった感じだ。

 その点、戦国時代には、多彩なヒーローが集まっている。
 しかも、幕末ほど資料が整っていないので、逆に作家や脚本家の想像力が豊かであるならば、主人公に対し、それまでの常識を打ち破るような魅力的なキャラクターを付与することができる。

 で、真田幸村。
 三谷幸喜が、この伝説上の人物に、どういう光を当てるのか。期待したいところである。

 私は、実はこの真田幸村という人物を、それほど詳しくは知らない。
 彼についてまとまった本を読んだのは、唯一、司馬遼太郎の『城塞』だけである。
 そのなかで、真田幸村が華々しく活躍するシーンは、文庫本全3巻のうち、大坂城「冬の陣」と「夏の陣」だけに限られる。

 しかし、もうそれだけで十分だった。
 司馬遼太郎さんの筆によって、こんなに美しい “敗者の美学” を教えてもらってしまうと、もう他の詳細な伝記などは要らないような気になってしまう。

 司馬遼太郎の『城塞』は、世間一般的には、それほど有名な小説ではない。
 『竜馬がいく』、『燃えよ剣』、『坂の上の雲』などという世評の高い小説に比べると、レビューなどで採りあげられる頻度も高くない。

 だが、そこで描かれる真田幸村、あるいは後藤又兵衛、長曾我部盛親、木村重成、塙団右衛門、毛利勝永、明石全登という大坂方の武将たちの美しいこと。

 「負けると分かった戦いにおもむくとき、男は何を思うのか?」
 
 「“花と散る” ことによって、後世に名を残す」
 という日本人好みの武士の死生観のようなものが生まれたのは、おそらくこの大坂城の戦いからではなかろうか。

 よく知られているように、戦国時代の武士のメンタリティーは、「武士の本懐は死ぬことと見つけたり」というような、江戸後期に完成する精神性の強い “武士道” のようなものに染められてはいなかった。

 戦国武士たちは、きわめて現世利益的な実務主義者であり、「出世してなんぼ」の世界を生きていた。
 そのため、自分の主君に「国取りの野望」がないと見れば、平気で主君を裏切るような者たちだってたくさんいたのだ。

 ところが、徳川家康が戦国の世に終止符を打ち、戦国大名たちを巧妙にその傘下に収めるようになると、もう戦国大名たちも、戦いで手柄を立てることが出世を約束することにならないことを思い知らされる。

 つまり、関ケ原の戦いでサムライの時代は終わり、日本の新しい政権担当者となった徳川家康のもとで仕えるには、実務家や政治家としての器量が必要であることを悟るようになった。
 むしろ、それまで戦場で役に立っていた戦略眼やら戦術眼などは、逆に危険視されてしまう世の中が生まれようとしていた。
 
 大坂城の戦いで、豊臣方についた浪人たちは、そういう徳川家康の国家構想からはじき出された連中である。
 彼らは、関ケ原の戦いで、西軍の石田三成側についてしまったがために、戦勝者となった家康に領地を没収されたり、家を取り潰されたりしたため、貧乏生活の果てに、看取る者すらいない環境で死んでいく運命を待つしかなかった。

 四国を平定した長宗我部元親の息子である盛親などは、京の町で謹慎生活を送りながら、寺子屋の師匠として子供たちに読み書きを教え、細々と食いつないでいたし、真田幸村も、関ケ原の戦いでは父の昌幸とともに西軍についたため、紀州の九度山に蟄居させられ、紀伊藩からの50石ほどの恵みと、長兄信之からのわずかな仕送りで貧しく暮らしていたという。

 そんな、食い詰め者の浪人たちのもとに、ある日、豊臣方の密使がこっそり訪れる。
 密使は、「豊臣秀頼公に忠誠を尽くし、徳川幕府と戦うならば、一軍の将として厚遇し、もし戦いに勝ったならば、思い通りの恩賞も授けよう」という提案を持ちかける。
 
 幸村のような貧窮生活を送る浪人たちにとって、これは戦国に生まれた武士としての最後のチャンスを与えられたようなものだった。

 大坂城に入城した浪人たちは、約10万。
 それを囲む徳川方に加勢した兵力は、約20万。
 たぶん、両軍合わせてこれほどの兵力が結集した戦いは戦国史上初のことであり、そして、これを最後に、もうこのような大会戦は二度と行われていない。
 
 大坂城に結集した浪人たちは、はたしてこの戦いに勝機があると思っていたのかどうか。
 たぶん、盤石の地盤を形成しつつある徳川政権に対し、それをくつがえすほどの成果が生まれるとは誰も思っていなかっただろう。
 
 ただ、戦いの趨勢によっては、徳川政権の地盤がゆるむこともあるだろうし、それを機に、再び戦国の世が復活すれば、それに乗じて家を再興するチャンスがめぐってくるかもしれないというぐらいの期待なら、浪人たちの一部は持っていただろう。
 
 しかし、彼らの淡い期待も、徳川家の巧妙な詐術によって大坂冬の陣の和睦が成立し、大坂城の外堀・内堀がすべて埋め尽くされることによって、ついえる。

 そのあとに続く大坂夏の陣というのは、大坂方の武将たちにとっては、もう「敗者復活戦」の期待も削がれた “死に場所” を探すための戦いでしかなかった。

 司馬遼太郎さんは、『城塞』という小説で、最後の死地を求めて城を出て行く武将たちの姿を、ほんとうに生き生きと、しかも美しく描き出す。 

 この戦いにおいて、これまで出世と恩賞を求めて戦ってきた戦国武士たちが、はじめてそれを放棄し、「自分の死にぎわを華々しく飾りたい」という、これまでなかったモチベーションを胸に秘めて出陣することになったのだ。
 
 だから、「散りぎわの美学」というような、武士道における負の美学が成立したのも、おそらくこの戦いが起点になるだろう。
 

 真田幸村という人は、その「散りぎわの美学」を象徴するような人物として、後世にレジェンドを残す。
 その後の講談本などにおいては、真田勢が怒涛のごとく、家康の本陣に迫り、その首をはねるのにあと一歩というところまで肉薄した様子が、生き生きと描かれている。
 
 しかし、真田幸村という武将が、実際にどれほどの戦略・戦術眼を持ち、どれだけ有能な部隊指揮官であったかということは、ほんとうはよく分かっていない。
 彼の “鬼神” のごとき活躍ぶりは、さまざまな伝聞が統合された「物語」の領域に溶け込んでおり、そこには、たぶんに日本人の判官びいきによる美化が加わっているはずである。

 でも、それでいいんだろうな … とも思う、
 歴史のだいご味というのは、その時代に起こった正確な出来事からもたらされるものではなく、その時代をどう生きたかという、人間ドラマから生み出されるものだから。

 そういった意味で、『真田丸』の脚本を担当する三谷幸喜氏には、我々の思い描いている真田幸村のイメージを壊すことなく、かつ、今まで誰も描かなかったような幸村像を創造してもらいたい。 
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

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