色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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病室での独り言 ⑤

 2ヶ月に及ぶ入院中、多少は本を読んだ。
 その大半は評論集のようなものだったが、小説もいくつか読んだ。

 最初に読んだ小説は、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫)である。
 2013年に発行され、現在のところ村上春樹の長編小説としてはいちばん新しいものとされている。
 病院内にあるコンビニの「ローソン」で買い、病室に戻ってベッドに横になったまま読み始めた。

 最後のページを読み終えて、本を閉じたとき、
 「さすがに相変わらず、うまいなぁ … 」
 と舌を巻いた。
 作品に仕組まれた「謎」が読み終わっても解けないというもどかしさが、逆に読後の余韻として機能するという意味で、この作家は小憎らしいほどのテクニックを身につけている。

 彼の小説作法を説き明かす有名な言葉に、次のようなものがある。

 「優れた作家はいちばん大事なことは書かないものです。優れたパーカッショニストがいちばん大事な音は叩かないのと同じように」
 
 まさに、これは村上春樹の小説作法そのものを表現した言葉であり、彼の全作品がこの作法に則って作られている。

 この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においても、大事なことは何一つ書かれていない。
 さまざまな人物が意味ありげなエピソードを携えて次々と現われるのだが、けっきょく、それらの個々のエピソードは全体の真相を何一つ明かすことなく、季節がいつのまにか変わっていくように、主人公の前から消えて行く。

 そこが、まさに “THE・村上ワールド” 。
 その頼りなさというか、手応えのなさが、村上春樹の真骨頂。
 彼の作品はだいたいが、「情緒」はあっても「テーマ」がない。この作品においてもしかり。だからこそ、いかような解釈も成り立つようになっている。

 たぶん、村上春樹作品の人気はそこにある。
 読者の誰もが、(もしその作品に興味を抱いたならば)自分だけの解釈を文章化してみたくなるのだ。
 おそらく、これほど多くの読者が、(素人もプロも含め)自分なりの作品論や作家論を書きたくなる作家というのは、村上春樹を置いてほかにいないのではないか。

 もちろん、そのことは村上春樹自身がよく計算しているし、それが自分の作家生命を延命させるコツであることもよく理解している。
 だから彼は、自作の中には「結論」も「テーマ」も何ひとつ書かない。彼の作品を完成させるのは、常に読者である。

 で、この作品についても、一読者が素晴らしい解釈を施している。
 偶然ネットで見つけたものだが、「 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年は』は推理小説である。(感想・考察・謎解き)」というもの。
 http://sonhakuhu23.hatenablog.com/
 
 この批評は出色の出来であった。
 はっきりいうと、村上春樹の本編以上に、こちらの方が面白かった。

 多くの読者が、この小説を、「青春の1コマを抒情的な詠嘆で綴った作品」として処理しようとしていたが、このブログの作者だけは、作品の底にきわめて合理的なロジックに貫かれた “推理小説” が潜んでいることを見抜いている。

 確かに、この村上春樹の作品では、殺人事件が起こる。
 しかし、その犯人がこの小説で追求されることはないのだ。
 作中で起こった殺人は、主人公の心に深く傷を残した悲劇として、主人公の精神模様に影響を与えた事件として処理されているにすぎない。
 
 しかし、この『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』のことを、はっきりと「推理小説」だと断じたブログの書き手は、登場人物の一人が殺された本当の理由を解明し、さらに、犯人が誰なのかということを特定することによって、主人公を待ち構えている結末がまったく違うものになってしまうことを示唆する。

 いやぁ、卓越した推論であると思った。
 この批評を一度読んでしまうと、この小説に関しては、もうそれ以上の解釈の余地がないように感じられてしまう。

 もしかしたら、村上春樹も「やられた !」と思ったのではないか。
 それほど、見事な解釈ではあるのだが、村上春樹がそこまで自分の作品を意識的にコントロールしていたのかどうかは分からない。
 
 しかし、村上春樹がこの批評を読んだとしたら、彼は、「優れたパーカッショニストが、ついにいちばん大事な音を叩いてしまった」のを聞いたのではないか。
 そして、そのような “深読み” が読者から出てきたことを、きっと面白く思っているに違いない。
 村上春樹の作品を最後に完成させるのは、常に読者でしかないことを示した優れた例の一つなのだから。
  
  
参考記事 「村上春樹の『謎』」

参考記事 「オウム真理教事件から20年」 (村上春樹『約束された場所で』)
 
参考記事 「石原千秋 著『謎とき村上春樹』 」
 
 

カテゴリー: 映画&本   パーマリンク

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 への11件のコメント

  1. デルスー より:

    初めまして。
    村上春樹については、ファンというほどではないのですが、ほとんどの作品を読んではいて、最近、石原千秋『謎とき』などの批評もぽつぽつ読んでいるという感じです。
    個人的には、比較的早い時期の『世界の終り~』が最高傑作だと思っているのですが、前掲書で『ノルウェイ』までしか扱わなかった石原氏同様、『ダンス~』以降の村上作品には、若干の違和感を持ってもいます。「象徴」や「寓意」が多用されるようになり、夢や幻想を思わせる時空の中でのみ問題の解決が描かれたり、謎がとくに解かれないまま放り出されているとしか思えない場合が多い、といった傾向について、どうしてもモヤモヤが残るのです。(近代小説の書法を意図的に崩していると言われれば、そうかな、とも思うのですが、多くの読者がミスティファイされるだけでは意味がないのでは?という気もしますし。)
    『つくる』についても、「シロ」が殺された理由や犯人がろくに描かれていないじゃないか、という不満があったのですが、リンクが貼られていた批評を読んで驚きました。実を言うと、当該サイトは以前にも見たことがあったのですが、他の村上作品についての批評は、「なるほど、そうも言えるかもね・・」ぐらいだったのに対して、この記事だけは異様に説得力があったので(笑)。

    • 町田 より:

      >デルスーさん、ようこそ
      村上春樹は、私が1980年代以降に知った作家の中では、やはり無視して通れない作家であるように思っています。
      特に、自分の文芸観の転換点に “侵入” してきた初期短編、『風の歌』と『73年ピンボール』の二つの印象は鮮烈でした。
      これに短編集『中国行きのスロウ・ボート』、長編では『羊の冒険』。そしてデルスーさんと同じく、『世界の終わり~』を加えれば、なんとなく自分の村上体験は完了してしまうような気分もあります。

      従って、『ノルウェイ』以降の諸作品に関しては、(村上氏には申し訳ないんですが)、そんなに良い読者ではありません。正直にいうと、「割と退屈 … 」という気分がないこともないのです。

      ただ、今回『つくる』を読んだ後に、ネットで知った1読者の解釈(=「これは完璧な推理小説である !」)という批評を読み、「いやぁ、まだまだ自分の読み方は浅かったかもしれない!」という気持ちにはなりました。

      この1読者の評論が秀逸なところは、とかく情感的な読後感が支配的だった村上解説本の中で、時系列を厳密に読み解くなど、徹底的してロジカルに解析していったところに尽きるかと思います。

      そういった意味で、同じ手口を試みている石原千秋氏の『謎解き』も面白く読むことができました。

      また、今回デルスーさんが感じられた、『つくる』以外の諸作品もまた「推理小説のような解読が可能なのかどうか」という疑問。
      たぶん、デルスーさんが感じられたとおり、ここまで徹底して “推理小説” としての骨格を探り出すことのできる作品は、ほかにはないように思えます。

      いや、ひょっとしたら、『つくる』においても、1読者がネット上で、あそこまで追求したような “推理小説” としての骨格を維持しているなんて、村上氏ご本人も意識していなかったかもしれない。

      それこそ、あの1読者の方の素晴らしい感性と分析力がそれを可能にした「偶然の産物」であったかもしれません。

      とにかく、村上氏ご本人が語らない以上、これはまさに “謎” であります(笑)。
      そして、この “謎らしき風情” に、(私のような)村上ファンは弱いんでしょうね。

      とりとめもない返信になってしまい、申し訳ございません。
      デルスーさんのご指摘にはとても豊かな知性が感じられて、こちらも大いに参考になりました。
      特に、「モヤモヤが残る」という読後感こそ、村上氏がずるく(?)狙っているところかもしれないと、思った次第です。

      コメント、本当にありがとうございました。
       

      • デルスー より:

        町田さん、返信ありがとうございます。

        他エントリを見て気づいたのですが、村上春樹とはほぼ同世代でいらっしゃるんですね。
        リアルタイムで読むと、初期作品のインパクトはやはり大きかったのでしょうし、『ノルウェイ』のベストセラー騒ぎで「もういいかな・・」となる気分も、何となくわかるような気がします。

        (私ぐらいの世代だと、現代日本文学は、まともに本を読み始めた頃は既にW村上と高橋源一郎、島田雅彦あたりがいて、その前はいきなり三島・安倍・大江とかになってしまうのです。まあ、単なる勉強不足のようでもありますが・・)

        石原氏が書いているように、もともとマイナー志向の作家だった村上氏が、『ノルウェイ』で突然超メジャー級の読者層を得てしまったために、それに合わせて作品世界を拡充した結果が、その後の作品の「割と退屈…」という読後感につながっているのかもしれないですね。

        私自身、村上作品の中でも「大長篇」と言えるものについては、概ね否定的な感想を持っています。

        『ねじまき鳥~』は冗長な上に、構成が破綻していると思うし(ユニフォームを着た中国人捕虜が不条理に撲殺される場面など、個々の挿話にすぐれたものはありますが)、『カフカ』は書割みたいな舞台を衒学で取り繕っただけの作品だと思うし、『1Q84』はオウムを思わせる教団を描きながら、内実にはまったく迫り切れていないのが物足りないです。

        村上春樹は、長篇と短篇を交互に書きながら、自分は本質的に長篇作家だと規定しているようですが、この点に関して、英訳者の一人ジェイ・ルービンが面白いことを書いています。

        「村上の長篇の中で、『世界の終り~』ほど構成が練り上げられている作品は、あとにも先にもない。」

        「『世界の終り~』を別にすれば、村上の長篇小説は、壮大な構築物というよりは短い物語の集合で、ばらばらの筋が結末でまとまることは稀だ。短く、断片的であることは日本の小説形式についてかねてから論じられてきたことだが、村上の小説もやはりその傾向があると言えるかもしれない。」

        これはかなり私自身の考えに近く、長篇では何と言っても『世界の終り~』が素晴らしい(『羊』も悪くない)ですが、それ以外では、むしろ「カンガルー通信」「納屋を焼く」「象の消滅」のような短篇のほうに、すぐれたものが多いと感じます。

        短篇はただ謎を放り出せば済むし、それだけで何とも言えない奇妙な読後感を残すのに対して、長篇はそこに中途半端に説明をつけようとして、必ずしも成功していない例が多いような気がするのです。

        ところで、先日何となく書き込んでしまったのは、村上作品に対するモヤモヤがあるからだと書きましたが、よく考えてみると、「他の作品にも真相があるのか? うーわからない!」というモヤモヤとは、どうも少し違うみたいです(笑)

        正確に言うと、だいたい以下のようなことになると思います。

        『世界の終り~』は、構成が徹底的に練り上げられている作品で、そこから圧倒的な読後感がもたらされるが、「二つの話のうち一方が、実は脳内で展開されている」というこの手は、もはや同じ形では二度と使えない。
        また、種明かしもほぼ全て作中に書かれているために謎が少なく、批評にもあまり見るべきものがない。

        その後、『ノルウェイ』でリアリズム小説を試みて嫌気がさした村上氏は、『ダンス~』以降、再び非リアリズムの物語世界に戻っていくが、彼の唯一のテーマと言うべき「死者との邂逅」を描く際に、『世界の終り~』ほど構成を考え抜くことがないまま、「作曲よりは演奏」「綿密な構成よりは情緒的文章の大量投下」で押し切ろうとする傾向が、かなり強まったように見える。

        たとえば『スプートニク』では、「すみれ」がギリシアの島で忽然と消えてしまうが、主人公とミュウが真相についてあれこれ詮索はするものの、結局は「作者がそうすることに決めたから」という以上の理由があるとは思えず、読者には取り残されたような不条理感だけが残る。
        「すみれ」は結末で突然電話をかけてくるが、この通話も現実とも非現実ともつかないもので、やはり納得感をもたらすものではない。

        作者がこういう書き方をするのは、『世界の終り~』でのように全てを書き込まず、意図的にいちばん大事な部分を言い落とすことで、読者の「謎とき」を誘発するように仕組んでいるとも取れるが、どちらかというと、あまり構成を考え抜かず、行き当たりばったりに近い形で書き進めた結果、デッドエンドに辿り着いて放り投げてしまっただけ、という可能性が高いようにも思える。

        これが『海辺のカフカ』になると、カフカ少年は「なぜか」幻想の中で父親を殺すし、映画『マグノリア』のように「なぜか」空から魚は降ってくるしで、ほとんど「何でもあり」状態になっているが、いかに非リアリズムだからといっても、これではさっぱり面白くない。
        (『1Q84』でも、天吾がふかえりとセックスすると、「なぜか」青豆が妊娠してしまう。)

        作者に強いて説明を求めたとしても、「いや、僕の無意識の中ではそうなっているから」と、俗流ユング派みたいなことを言われるのが関の山だが、残念ながら、そこにもう一歩踏み込んだ批評を読んだ覚えがない。

        蓮實重彦のような否定派は、「あれは結婚詐欺」とか言うだけで鼻にも引っかけないし、逆に、加藤典洋や内田樹のような絶賛派は、商売もあってか、「村上春樹は紆余曲折はあっても、着実に成長を続けてきた作家」と繰り返すだけで、『世界の終り~』以降の長編が完成度において劣ることについて、正面から触れようとはしない。

        (もちろん、『世界の終り~』が最高傑作というのは私の主観ですが、ジェイ・ルービンだけでなく柴田元幸も同じ意見のようですし、ネット上で見られる一般読者のランキングでも、やはり『世界の終り~』がトップになることが多いようです。批評家でも、口にしないだけで同様の意見を持っている人は、実は多いのではないかという気がします。)

        本当は、作品ごとに是々非々できちんと評価した批評を読みたいのだが、近年の海外での売れ行きのこともあり、名前を出しているような批評家は、なかなかそれも出来なくなっているようだ。
        (せいぜい石原氏のように、内心評価できないと思っている中期以降の作品については、黙して語らずに済ませる程度。)

        そんなことを漠然と思っていたところに、例の一読者の批評を読み、その緻密さに驚嘆したわけです。
        確かに、沙羅が恋人というよりはほとんどカウンセラーのように、やけに熱心につくるを「巡礼」に駆り立てることや、沙羅が楽しそうに連れ立って歩く謎の中年男をわざわざ出してくることも、そう考えれば納得が行く。

        これ以上の細部については、もう一度読み直してみないことには何とも言えませんが、なるほど、単なる「悪霊のしわざ」(笑)で片付けられているわけではなく、町田さんも書かれているように、ここまで徹底的にロジカルに読み解くことも可能な作品だったのか、という新鮮な驚きがありました。

        村上春樹がそこまで仕組んでいたかは確かに微妙なところですが、中年男の例などはそう考えたほうが自然な気がしますし、来るべき村上版『カラマーゾフ』の予行演習として、今回はあえて推理小説に挑んでみたという推測も、それなりに妥当なもののように思えます。

        要は、私のモヤモヤというのは、

        村上氏にはできれば『世界の終り~』のような、徹底的に構成を考え抜いた傑作をもう一度書いてほしいが、どうも本人にはその気がないらしく、構成がやや甘い(あるいは大きな欠陥がある)としか思えない作品を書いては、俗流ユング派みたいなことを言って読者を煙に巻くばかり・・

        と思っていたら、例によって謎を放り出しただけにしか見えなかった『つくる』は、実はそれなりに整合性を保って書かれた作品だった!?

        うーむ、自分では気づかなかったのが残念だけど、春樹もやれば出来るじゃないか(でも、本当に信用していいんだろうか)・・

        ということのようです。

        すみません、何だか自分で完結してしまいましたが(笑)、このコメントを書いているうちにだいぶ考えが整理できたので助かりました。とりあえずモヤモヤを解消するために、近々『つくる』をもう一度読み直してみようと思います。

        長文ご容赦ください。

        • 町田 より:

          >デルスーさん、ようこそ
          そうなんです、私、村上春樹氏とほぼ同世代。というか一つ年下です。
          だから、村上春樹と出会うまでは、デルスーさんがサンプリングされた三島・安倍・大江に親しんでいた世代です。

          でも、若いころはテーマがヘビーな小説というのは少し敬遠していましたので、梶井基次郎とか、吉行淳之介とか、ポエムの感触を残した文章タッチを持った作家が好きでした。村上春樹もその延長線上にありましたかね。

          それにしても、デルスーさんは「それほど好きでもない」とコメントされつつも、けっこう村上春樹の作品をフォローされていらっしゃるようですし、このコメ欄に挙げられた個々の話題作についても、それぞれ適切な評価を下していらっしゃるように感じました。

          で、最近の村上春樹の諸作品をどう評価するかということに関しても、実はあまり読んでいないので、話がかみ合うかどうか、心配です。

          おっしゃるように、短編は悪くないですね。私も『納屋を焼く』あたりはけっこう面白く読みました。

          ただ、長編に関しては、デルスーさんがおっしゃるように、
          ≫「短篇はただ謎を放り出せば済むし、それだけで何とも言えない奇妙な読後感を残すのに対して、長篇はそこに中途半端に説明をつけようとして、必ずしも成功していない例が多いような気がする」
          と書かれていることに、非常に共感いたします。

          これは、(私が勝手に思っているだけのことかもしれませんが)、村上春樹は、海外でも自分の人気が高まってきたという情報を聞き、世界マーケットを意識したときに、それまでの “短編の集積のような作品” を脱して、“明晰なロジックに貫かれた骨太の思想” のようなものを捻出しなければならないと焦り始めたのではないか、という気がするのです。

          つまり、彼が得意とする(?) 「“不条理感” だけで読者を納得させる」ことの限界を感じたのでしょうね。
          そこで、彼は 「ものをいう作家」の道を歩み始め、それを意識してイスラエルで講演なども行ったのですが、その発言内容は、それほど深いものでもなかったようですね。

          要するに、村上春樹にとって、もっとも不得意なものが「思想的なものを構築していく作業」だったような気がします。

          そう感じたのは、オウム真理教の実情をレポートしようとした『アンダーグラウンド』と、『約束された場所で』を読んだときでした。

          「人を救うための宗教が、なぜ人を殺すという論理を引き出してしまうのか」

          その問は、本来ならば人間の根源の部分に触れる、もっとも危険で(もっとも魅惑的な)テーマであり、作家としては外せない問題であったはずなのに、残念ながら、村上春樹は、その根本的な問いにたどり着けないまま、この2作を放り出してしまったように感じます。

          たぶん、彼は、これまで思想的な作業を通じて、「謎」にたどり着いたことがないのではないか? 彼が提出できる「謎」というのは、あくまでも文芸的な情緒の中に漂う「謎」でしかないのではないか?
          そんなふうにも感じています。

          やはり、思想的な営為の果てに「謎」を見つけるのは、もっと古典的な思想書の原典にあたるしかないのではないでしょうか。
          フィッツジェラルドとか、ヘミングウェイとか、チャンドラーぐらいだけではまずいだろう、少なくともニーチェとか、カントとか、ヴィトゲンシュタインとか、そんなところまで(少しでいいけど)かじっていなければ、人間の根源的な「謎」に迫ることは無理だろう ……。
          生意気にも、そんなことを考えちゃったりすることもあるんです。

          こちらの返信も、つい長文になってしまい申し訳ないです。
          でも、デルスーさんのコメントがなかなか刺激的で、示唆的でもあったため、つい調子に乗ってしまいました。お許しください。
            

          • デルスー より:

            たびたびお邪魔します。

            とくに村上ファンではない(と思う)にもかかわらず、なんだかんだでほとんどの作品を読んでいるのは、私自身、どちらかというと芥川賞的な作品が苦手で、海外文学のほうが好みだからだと思います。
            大塚英志が言うように、「物語の構造が明白でリーダブル」なことも大きいのでしょうが、一番はやはり、ハルキ特有の乾いた抒情性が、それ以外の日本文学にはあまり見られないものだからでしょうね。

            さて、村上氏の聞き書きノンフィクション2作が、どうも一連の事件の本質を捉え損なっているのではないかという点については、私も同感です。
            村上氏がしたことは、オウムの教義その他の問題点を、「内閉世界とそこからの脱出」という、彼自身が本来持っていた問題系に読み替えただけで、オウムそのものには迫り切れていないような感触がありました。

            余談ながら、私自身の考えでは、問題の核心の一端は、「工学的・技術的」思考みたいなところにあるような気がします。つまり、ヨーガや「○○のイニシエーション」を試してみたら、覿面に効いて凄い体験をしてしまったから、一気に疑いなく信じるところに行ってしまうという精神のあり方に、問題が潜んでいるのではないかということです。
            信者のうち、とくに幹部に理系の高学歴の人間が多かったのに対して、たとえば「仏文専攻」みたいな幹部がいたという話は聞かないですが、案外それがことの本質を表しているような気もします。

            話を戻すと、村上氏がその作品の中で、思想的なものを構築できていないかについては、私にもちょっとよくわかりません。
            カフカやジョイスやガルシア=マルケスにしても、そう大した「思想」を(少なくとも意識的には)持っていたわけではないのでしょうが、村上氏がいずれ書きたいと公言しているような、ドストエフスキーばりのいわゆる「全体小説」を書くとなると、やはりそれが必要になってくるかもしれないですね。

            とくに村上氏の場合、「根源的な悪」を描こうと試みているわけで(日本の純文学作家はふつう、そんな大それたものを描こうとはしないもので、そこにドストとチャンドラーを同時に愛する彼の特異性があるのでしょうが)、単に、「無意識の底に、自身と周囲の人間を決定的に損ないかねないような、おぞましく邪悪なものが潜んでいて、それはつねに暴力と死と性を通じて表出しようとする」という、俗流ユング派的な理解だけでは弱いような気がします。
            ではハンナ・アーレントあたりを深く読み込めばいいのかとなると、それもまた別の話のような気がしなくもないですが。

            それで思い出したんですが、佐藤優がやたらと村上春樹を持ち上げるのも、ちょっと気になるんですよね。ああいう、哲学プロパーのコアなところを理解できる人からすると、ユングは半分オカルトみたいなことになるはずだし、村上作品も底が浅いものに見えておかしくないと思うんですが、そうは言わないのは、何かそれ以外のものを読み取っているのか、あるいは悪賢い計算からなのか(笑)。

            ちなみに最近、春樹批評本を割とまとめて読んでみたのですが、前回は「絶賛派」と書いた加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』は、一応お薦めできると思います。去年の年末に出た割と新しい本ですが、短篇を含む村上作品の流れをひと通り押さえるには、この本がいちばんわかりやすかったので。

  2. デルスー より:

    付け足しですが、今回の書き込みの趣旨は、上記批評の紹介をありがとうございます、ということがまず一つです。
    あと、『つくる』は推理小説として書かれているから、作者が一応は回答を用意していたのだとして、他の作品はどうもそうなっているとは思えないので、やはりモヤモヤは残るのですが、町田さんはそのあたりについてどのようにお考えなのか、お聞きしてみたいという気もします。

    • 町田 より:

      >デルスー さん、ようこそ
      たびたびのお越し、ありがとうございます。
      楽しみにしておりました。

      デルスーさんが村上春樹に対して抱いていらっしゃるシンパシーのようなものは、まさに私自身も抱いているものです。
      いちばん惹かれているのは、(やはりデルスーさんも感じていらっしゃる)≪「ハルキ特有の乾いた抒情性」ですね。翻訳小説の香りもちょっと漂っていて、これだけは本当に村上春樹以前の日本文学にはなかったものでした。

      今回、デルスーさんがご指摘されたように、オウムに対する彼の言及に関しては、オウムの「工学的・技術的」思考に対する彼の挑戦という側面があったように思います。
      特に、オウム信者との対談をまとめた『約束された場所で』に最初に登場してくる狩野浩之さん(仮名)という方との対話は、「常に答は一つしかない」と信じて疑わない “工学・技術系” の信者に対し、「文学には答が無限にある」と信じる村上春樹の格闘であったように思います。

      で、デルスーさんがおっしゃるように、今後彼が、≪「ドストエフスキーばりの “根源的な悪” を描くことに挑戦する」のだとしたら、そのときは楽しみに読みたいと思っております。
      それが≫「俗流ユング派的な解釈」にとどまるのかどうか、見守りたいところですね。
      少なくとも、『約束された場所で』に収録された最後の対話は、河合隼雄さんでしたから、あの時期、村上春樹がかなりユング派の思想に答を求めたがっていたことは推測できます。

      佐藤優が村上春樹に高評価を送ったことは、デルスーさんが教えていただくまで知りませんでした。
      そこでネットに潜り込み、「佐藤優氏と井戸まさえ氏の共著がある」という情報を手掛かりに、佐藤氏が村上春樹の何を評価したのかということを少し勉強してみました。
      で、なるほど … いい指摘ではあるなとは思いましたが、よくある「教養の本質論」みたい話で、そんなに斬新な見解であるとは思いませんでした。

      佐藤優氏は、すごく頭の良い人だし、キリスト教とマルクスに対しては、専門的な知識人よりも深い理解力を持っていると感じますが、しかし、その理解の形は、どこか “原則論” 的な感じですよね。かつての柄谷行人が持っていたような、「えぇ、! そんな角度から光を当てるのって、あり?」という驚きはないようにも思えます。

      なお、デルスーさんが大塚英志さんの “物語論” などに関心を持っていたことも伝わり、心強い気分になりました。
      私も、拙いながら、大塚さんの “村上論” の紹介にトライしたことがあります。理解力のレベルが低いことも承知で、恥を忍んで下記に貼ってみました。
      もし、お時間がありましたら、ご照覧ください。

      大塚英志さんの書籍に関しての感想文
      「構造」 しかない村上春樹文学
      http://campingcar.shumilog.com/2009/08/13/%e6%a7%8b%e9%80%a0%e3%81%97%e3%81%8b%e3%81%aa%e3%81%84%e6%98%a5%e6%a8%b9/

      オウム信者との対話(『約束された場所で』の感想文)
      http://campingcar.shumilog.com/2015/03/20/%e3%82%aa%e3%82%a6%e3%83%a0%e7%9c%9f%e7%90%86%e6%95%99%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%81%8b%e3%82%8920%e5%b9%b4/
       

      • デルスー より:

        町田さんこんばんは。

        おそらく、村上作品の乾いた抒情性に惹かれる人には、やはり初期作品のほうがいい、と言う人が多いような気がします。

        『東京奇譚集』へのご感想も拝読しましたが、確かに彼の感受性では、もはや今の時代をうまく切り取れなくなっているのかもしれないですね(直近の『女のいない男たち』を読んだ時も、似たようなことを感じました)。
        主人公は相変わらず、30代前半ぐらいまでの人間であることが多いですが、なぜ作者の年齢相応の人物を描かないのかという疑問は感じます。

        『約束された場所で』を読んだのは随分前のことですが、「宗教は一発でクリアーな答えを与えてくれるが、文学はもっと豊かであいまいで多元的なものだ」というのは確かにその通りだとしても、「後者を耐え難い宙吊り状態と感じるような、<弱さ>を持った人間はどうすればいいのか?」という問題は、依然として残るような気がしました。

        それ以降の村上春樹が、『世界の終り~』のような完成度の高い作品を書かなくなったのも、「稚拙な物語には、やはり稚拙な物語をもってしか対抗できないのでは?」という問題意識から来るものかもしれないですが、それでいいのかなという気がしなくもないです。
        今の彼への注目度からすれば、隅々まできっちり構成したレベルの高い作品を、多くの人に読ませてしまうことも可能ではないかと思いますし。

        村上作品の中で、「根源的な悪」にあたる存在は既に何度か登場しているようですが(『ねじまき鳥』の綿谷ノボル、『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカー、『1Q84』の教祖・深田保、等々)、個人的な感想としては、どれもあまりピンと来ないというのが正直なところです。

        ちなみに、清水良典という批評家が、春樹自身は身体を鍛えるのに熱心で健康そうな人物だし、そう辛い人生を送ってきたとも思われないのに、その作品に死の影が横溢しているのはなぜか、これについて誰かがきちんと納得いくように考察した例を知らない、と書いていました。

        清水氏の答は、「これは自分の小説の『死』への恐怖なのではないか」というものでしたが、おそらく、初期作品に描かれている「直子」にあたる、1970年に(妊娠した上で)自死した女性が、実際にいたのではないかという気がします。

        『ノルウェイ』までの村上作品は、そのことを繰り返し書くことによって、自己神話化していったようなところがありますが、それだけでは小説が持たなくなりかけたところに、神戸の地震とオウム事件が起こり、作品世界を社会や歴史の側に開かざるを得なくなった(が、今にいたるまで初期作品ほどの完成度には達していない)というのが、私の見方です。

        ちなみに、ネットに載っている佐藤優と井戸まさえの対談を私も読んでみましたが、確かにこれは大したことないですね(笑)。記憶にある限りでは、中村うさぎとの対談『聖書を語る』『聖書を読む』のなかに、それぞれ『1Q84』『つくる』について1章を充てて討議していたのと、何冊も出ている「読書論」的な本の中で、やはり村上作品について触れている部分がありました。
        彼は文学に関しては素人なので、たいていの場合、強引に自分の土俵に読み替えるような議論をしているなあとは思いますが。

        ちなみに私も、大塚氏の本についてはアマゾンレビューを書いたことがあります(さっきURLを貼ろうとして失敗しましたが、ハンドルネームは一緒です)。

        私自身は、たぶん町田さんほど大塚氏に肯定的ではなく(笑)、「物語論は部分的に妥当と思えるし、それを援用してリーダビリティの高い作品を書くことも可能だろうが、同時に、つねにそこから逃れ去って行くのが小説だろう」という意見ですが。

        • デルスー より:

          追伸です。

          町田さんは、「”物語”は手放しに称讃して済むものではなく、実は”文学”の成果を放棄するものだ」というのが、大塚氏の真意だと考えていらっしゃるようですが、それはいささか深読みが過ぎるような気もしなくもないです。

          というのも、大塚氏は「物語論的な構造を押さえるだけで、自分は漫画原作者として、こんなにも同工異曲の作品を量産し、経済的にも潤っている」と誇るような内容の本を、複数書いているからです。

          まあ、それが彼の、「こんなんでうまく行くなら、ちょろいもんだ」というニヒリズムの表れなのかもしれないですが、かといって、彼がハイブラウな”文学”へのリスペクトを持っているようには、どうもあまり思われないので。

          • 町田 より:

            >デルスーさん、ようこそ
            大塚氏が、ジョセフ・キンベルの “物語研究” から「構造」という概念を取り出し、それをキーワードに、『スターウォーズ』から「イラク戦争」まで切っていった手口は、なかなか刺激的で面白いと思いました。

            ただ、私もまた大塚氏の論考に全面的に “賛成 ‼ ” といったわけでもないんですね。
            「異論はあるが、面白かった」とは書きましたが、本音は「異論」の方を強調したい気分はありました。
            大塚氏は、「村上春樹作品は、物語の構造を持つがゆえに中心部は空っぽだ」ということをネガティブに指摘しましたが、私はむしろ「中心部が空っぽ」であることにこそ興味を感じました。
            その虚無感が、なんともいえず、清々しかったんですね。

            大塚氏が ≫「ハイブロウな “文学”へのリスペクトを持っている」 のかどうか、私にはちょっと分からないところです。
            ま、それなりに古典もいろいろ読まれているようですけど、まだ本源的な教養の蓄積までには至っていない感じもしますからね。
            ちょっと「ひらめき」だけに頼っている感じがして。

            でも、この2008年頃に、大塚氏から「今は “物語” を書くコンピューターソフトが開発される時代」と教えてもらったことは、当時はそうとう刺激を受けました。
             

        • 町田 より:

          >デルスーさん、ようこそ
          ≫「なぜ彼は、作者の年齢相応の人物(主人公)を描かないのか?」
          デルスーさんのその問は、もしかしたら村上文学の根源的なところを衝いた疑問なのかもしれませんね。
          デルスーさんが、このコメ欄でお書きになられたように、≫「1970年に(妊娠した上で)自死した女性が実際にいたのではないか」 ということが当たっているならば、彼はその負債を、抒情を汲み出す源泉に変えて『世界の終わり~』から『ノルウェイ』までは書き続けてこれた、ということですよね。

          で、デルスーさんがおっしゃるように、その後神戸の地震とオウム事件が起こり、社会や歴史にコミットしなければ創作を続行できなくなってしまった。
          しかし、社会的な関心を文学のテーマとして消化できるほど、彼の胃袋と頭脳はタフではなかった。それがゆえに、初期の “乾いた抒情” も形骸化していった。
          …… そんな構図が読み取れるのかもしれません。

          村上氏が、30歳ぐらいの年齢の主人公にこだわるのも、自己の内なる “乾いた抒情” の残滓をかろうじてモチーフとして生かせる年齢が、上限「30歳」までだったということなのではないでしょうか。

          大塚英志氏の著作他、Amazonのレビュー拝読しました。
          もちろんまだすべてを熟読させていただいたわけではないですが、デルスーさんの関心領域の広さ、基礎知識的なものに対する蓄積の厚さ、その分析力の的確さに驚嘆いたしました。
          すばらしいレビューを披露されていたんですね。
          今後、時間を作り、少しずつ拝読するつもりです。
           

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