おバカタレント文化に飽きた

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バラエティ番組の反知性主義 

 もうかなり前のことだ。
 入院して、病室でテレビを観ていたとき、各界の有名人が、「自分が見習いたい人物」を一人ずつ挙げていくという番組が放映されていた。俳優、タレント、スポーツ選手などさまざまな人物のインタビューが収録されていたが、なかでもサッカー選手の本田圭佑の話が印象に残った。
 彼が「見習いたい人物」として挙げたのは、“ソウソウ” だったのだ。

 ソウソウ !?

 聞き慣れない名だったので、テロップに目が釘付けになった。
 なんと、それはあの「三国志」に登場する魏の丞相(じょうしょう=首相)曹操のことであった。

▼ ゲームソフトに登場する曹操

 本田圭祐は、「曹操という人物はプレイングマネージャーだった」という。
 つまり、魏という国を統制するマネージャーでありながら、常に戦闘の最前線で戦うプレイヤーでもあり、その両面において華々しい業績を残した人物だというのだ。
 そういう人間像に、本田圭祐は自分の行く末を託した。
 つまり将来、自分の運営するプロサッカーチームを持ちながら、そこで自らもプレイしたいという夢を語ったのだ。

 面白い話だと思った。
 「曹操」という歴史上の人物に目をつけた本田圭祐の着眼点にも関心した。

 ところがである。
 その番組にパネラーとして登場してひな壇を飾っていた藤田ニコルが、「曹操」という名がスタジオに流れた瞬間、「誰?」とつぶやいて、軽蔑するように眉をしかめたのだ。

 そういう藤田ニコルの顔を見ただけで、俺は猛烈に腹が立った。

 彼女が、「曹操」という人物を知らなかったことに対して罪はないが、自分の知らない名が挙がったときに、あたかも、それが自分にとって迷惑であるかのような表情を作ったことが許せないのだ。

 まぁ、おバカキャラで売り出した藤田ニコルが、おバカをさらすのは芸のうちだから、それをいちいちとがめ立てする方がおかしいのだが、でも最近、あまりにも「おバカの安売り」が横行し過ぎていないか?

 俺、もう「真面目なこと」を茶化したり、「知性」を軽蔑するようなタレントたちに共感しなくなってきたんだわ。

 今、芸能界でもてはやされている笑いの取り方。
 それにもうんざりしてきている。
 つまり、巧妙に場の空気を読み、“今この状況で誰をいじれば笑いが取れるか” ということを、サバンナの草原に身を潜めた肉食獣みたいな嗅覚で探し出し、逃げ遅れた草食動物の首ねっこをガブリと噛むような笑いの取り方に、もう飽きた。

 確かに、昔は、日本人タレントの芸の洗練度は世界の水準を超えたのではないかと思ったときもあった。
 微妙な表情の作り方と、タイミングの取り方。
 ことさら事前にネタを仕込まなくても、その “間の取り方” だけで笑いを捻り出すテクニックに、正直「すごいもんだぁ !」 … と唸ったこともあった。

 … けど、次々と現われてくる新人芸人が、みな同じものを狙ってくるんだから、飽きない方がおかしい。

 もうそれって、いま日本中にはびこっている “反知性主義” だよね。
  
 
 芸人の語り口というのは、要するに「話し言葉」である。
 実は、現代日本に蔓延している反知性主義のみなもとになっているのが、「話し言葉」だという説がある。

 著述家の佐藤優は、日本に広がり始めた反知性主義を批判するための書である『知性とは何か』(祥伝社新書)という本で、そう説く。
 以下、それに関連する記述を、多少の(かなりの?)意訳を交えて要約してみたい。
  
 
話し言葉の「反知性主義」
 
 人間の使う言葉には、大きく分けて、「話し言葉」と「書き言葉」がある。
 人と向かい合って話すときは「話し言葉」。手紙などを書くときは「書き言葉」というように、近代社会においてはその両方が、ほどよく使い分けられてきた。
 
 しかし、近年、「書き言葉」に対する「話し言葉」の比重が大きくなってきて、現代人が普段使う言葉の大半は、今や「話し言葉」ですまされるようになってきた。

 この傾向に輪をかけたのが、SNSなどの普及だという。
 LINE(ライン)やフェイスブックなど、ネットを介するコミュニケーションの基本は「話し言葉」である。LINEでメッセージを送るとき、大半の人が、目の前にいる相手に話しかけるような言葉で入力する。

 しかし、「話し言葉」は、論理的な説明を苦手とする。論理ではなく、感情や気分を表現する言葉として発達してきたからだ。

 気分の表現にはそんなに難しい言葉は要らないから、語彙も画一化される。
 早い話、「マジ?」、「ウッソー?」、「ヤバ~い !」の3語だけ使い分ければ、たいていの相手に意思を伝えることができる。

 近年、レポートでもブログでも長い文章が嫌われるのは、「書き言葉」が衰退し、「話し言葉」だけが蔓延してきたことの結果である。
 小説や思想書、哲学書や歴史書などの人文系書籍が読まれなくなってきたのも、まさにそのことを反映している。

 今の時代、長い文章は「まどろっこしい」と敬遠される。
 しかしそれは、その多くが「書き言葉」ではなく、「話し言葉」で綴られるようになってきたからだ。
 
 「書き言葉」の本質は、ダラダラする表現を切り捨てて、物事を簡潔明瞭に表現する機能にある。
 だから、本来なら「書き言葉」の方が、きびきびと引き締まった表現になるはずなのだが、現代人はそういう訓練から遠ざかってきたから、職業的な物書き以外、「書き言葉」を使いこなせない。

 「書き言葉」は、まず自分自身が最初の読者になるところからスタートする。
 だから、自分を理解させるために、文章を書きながら絶えず修正を繰り返すことになるし、そのために論理も緻密になり、ボキャブラリーも豊かになっていく。

 その「書き言葉」が使いこなせないと、どうなるか?
 使う語彙が限定されるから、自分の思考を深いところまで掘り下げることができなくなる。
 とっさの瞬間芸が通じ合うような相手じゃないとコミュニケーションが取れなくなるから、付き合う人間の種類が限定される。(当然、世界が狭くなる)。

 佐藤優は、それを、現代社会に蔓延してきた「反知性主義」の現象の一つとして挙げる。

 しかし、こういう空気を「良いものだ」と肯定する大きな潮流がある。
 それが、テレビのバラエティー番組だ。

 そこに登場する芸人たちの語りは、「話し言葉」としては最も洗練されたものだということもできる。
 彼らはみな頭が良いから、話題が豊富で、切り口が新鮮。
 人のあら探しも上手で、それを笑いにまぶすセンスも備えている。
 子供や若者たちが、彼らのトークを耳にして、それを自分のしゃべり方に採り入れたいと思うのも当然かもしれない。

 だけど、そういう芸人たちの鮮やかな話法が日常生活に浸透してくるということは、はっきり言って、人類が進化してきた方向とは逆の方向、すなわち「思考のジュラ紀か白亜紀」に戻っていくことになる。
 
 恐竜たちの咆哮は、鮮やかで、力強いが、基本的には「ギャオー」と言っているに過ぎない。
 今の時代は、「言語のジュラシックパーク化」が進行している時代だ。
 
 
参考記事 「反知性主義の時代」
 
   
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

おバカタレント文化に飽きた への19件のコメント

  1. なかじまけいこ より:

    言語のジュラシックパーク化、、、ある意味 言い得て妙ですよく言って下さった

    テレビを殆ど見なくなりました 朝の定番ドラマも見なくなってるのだから私の中で何かが変わったとしか思えない
    実は1年前からFBをはじめました 面白くて夢中の1年、、自分をアピールできるのですから夢中です  大勢の情報を見るだけで1時間  返信に1時間、、、

    TVの低調は近来著しいと思っています  頭数だけ揃えて 玉石混淆、、、 馬鹿ぶりがもてはやされているのを見ると本当に日本の言語力は落ちていくなあと、、、
    今や芸人の生活を支えているとしか思えないんですが、、

    今に古文や 四季の 微妙な表現の言い回しなど若い人には益々難解な不要な言葉として衰えて行くのだろうかと思うと断腸です
    今しも気候は亜熱帯になろうとしているしね

    きっときっとなくなっていくのは やさしいやさしい表現の類いだと思う
    あえかな、、、ってわかるかな
    でもあえかな、、、でないと伝えられない事態の表現ってあるんですよ残念な口惜しいことですが、、、、

    谷崎でなくてはとは思いませんが 村上春樹でなくてはとも思いません
    文才あれば私が完璧にものしますのに、、、 以上 生意気のコメントです 町田さん頑張って 

    • 町田 より:

      >なかじま けいこ さん、ようこそ
      「FB」というのは、フェイスブックのことですね?
      自分がしないもので、この「FB」という省略語ははじめて知りました。恥ずかしい限りです(汗)。

      おっしゃるように、かつて古文・漢文で教えられてきたような “微妙な言い回し” というものが年々消えつつあるという実感はあります。
      それが、>>「やさしい表現のたぐい」 … だというご指摘にも同感します。

      「あえか」、or 「あえかなる」という表現は、確かにやさしくて、奥ゆかしくて、とてもいい響きがありますね。
      「はかなく消えていく美」というニュアンスが漂っていて、「そっと守ってあげたい」という気持ちを誘発する言葉だと思います。

      ほかにも「うつろひ」とか、「かそけき」とか、昔は本当に繊細な表現がいっぱいありました。でも、みな使われなくなってきましたね。

      色の表現でも、日本語には「茜(あかね)」、「浅黄(あさぎ)」、「山吹色(やまぶきいろ)」などといった風雅な名前がたくさんあって、CMYKで表示される西洋流の色見本文化とは違う色彩情緒がありました。

      けいこさんは、そういう情緒を大切にされる作業をなさっている方とお見受けします。
      頑張ってください。
       

  2. なかじまけいこ より:

    あえかなって  わかるかな
    、、、勿論 若い人、、わかろうと」しないひとに対して言ってます
    今朝ふっと見て  補足がありませんでしたご無礼しました
    今朝は綺麗に晴れました    頑張ります

  3. solocaravan より:

    書き言葉が衰退して話し言葉が蔓延していく・・・はずかしながら自分もブログなどをやっているので耳の痛いお話です。始めた理由のひとつは文章上達という動機でありました。他人に分かりやすい文章、ユーモアのある楽しい文章、表現を工夫した独創的な文章・・・どれも言うは易しでなかなか上達しません。

    けっきょく、良く書くためにはそれ以上に良く読まなければだめなのだな、と分かって子供のころからの読書習慣のなさを今ごろになって悔やんでいます。それも歯応えのあるしんどいものじゃないとだめなのでしょう。早い話が古典の重要性ということだと思います。

    • 町田 より:

      >solocaravan さん、ようこそ
      solocaravan さんの書かれているブログはいつも拝読。
      「他人に分かりやすい」、「ユーモアがある」、「独創的」といった要件をすべて満たされていらっしゃるとお見受けしております。
      ご謙遜されていらっしゃるのだと思いますが、専門的な情報に関しては、ほんとうに勉強させていただくことも多々あります。

      おっしゃるように、>>「良く書くためには、良く読む」というのは、書き言葉を習得するための第一歩なのかもしれませんね。
      それも「歯ごたえのあるもの」。
      >>「早い話が古典の重要性」ということでしたが、まさにその通りだと同感いたしました。
      ただ、恥ずかしながら、私も古典の読み込みが本当に足りないんですよ(笑)。
      今後、勉強に励みます。(汗)
       

  4. 北鎌倉 より:

    赤ちゃんが母親に対しては喋るが、他人には喋らないというとき、母親に対しては赤ちゃんはかなり無防備です。大変な安心を感じているようです。森で鳥が鳴く、田んぼでカエルが鳴く。人が近づくと鳴き声がやみます。仲間同士では安心しているので声を出しますが、敵が来ると警戒します。声を出せば所在がわかる。生物にとって声を出すとは所在を明らかにすることにつながっています。声とは、本質的に類的なものです。生物にとって声とはからだの延長であり、からだそのものです。声によって生物たちは自分たちの仲間(類)を知り、自分たちの仲間(類)に包まれていることを確認します。声を出し合うことは、一種のからだとからだのこすり合い見たいになっています。声は、類としてのからだである、と言えます。

  5. 北鎌倉 より:

    求愛時には独特の声を出し、敵が来たらけたたましい声を出し仲間に知らせるから、声は単なる類的なもの、類のからだ、というだけでなく、十分意志伝達の役目も果たしています。でもそれは声の使い分けの問題で、声そのものの問題ではありません。声そのものはいぜん類としての共同のからだそのものに変わりはありません。声を出すとは、自らを類の中にいることを明らかにすることであり、自らをその中で守るためのものです。
    無防備といい、安心といわれているものの正体は、個体がこの類的なものの中にいることを感じている場合のことです。この点に関しては人間も動物も同じような状態にあります。安心すれば声を出す、という状況が。人間もまた類的なものを感じないところでは声を出せないのですね。

  6. 北鎌倉 より:

    ところが人間は動物ではないし、まったく同じようには考えられません。人間が声を出す場合は今少し事情が違っています。
    人間の場合は、内にもっているものを身体表現として外に出す場合、その間にかなりな落差が見られます。私たちが声を出す場合は、かなり意志してそうするのですが、逆にそのとき、私たちは「出さずにすませる」ことを断念するというか、放棄するということを同時に実行しているのです。
    動物であれば「雉も鳴かずば撃たれまい」のごとく、声を出さないのは、隠れていること、安全地帯にいることになっていました。人間もまた、黙っていることによって満ちている領域をもっています。声を出すとは、その充足領域を「手放す」ことなのです。赤ちゃんはだから、最も安全な人の前でだけ声を出していたのです。

  7. 北鎌倉 より:

    放棄しながら意志する、という構造。この相反する構造を実現するのが「発語」という独特な構造です。声を出して喋ってしまったとき、私たちは必ずどこかで何かを手放したという印象をもちます。にぎっていたものを放したという感じです。そして喋ってしまうとその印象はすぐに忘れてしまいます。あたかもずっと喋っていたかのように喋ってしまう。だから喋ってしまえば自分が放棄したのだということは自覚されなくなる。そして自分が意志して喋っているのだという側面だけに気がつくことになります。しかし、声を出すことは、確実に黙っていることの断念で放棄です。
    寡黙の子が家では喋り、外で声を出さないのは、喋る意志はあるのに、手放す方の構造に踏み切れないのです。私たちでも、道端で声をかけたいと思っても、声が出せません。それは自分が変に思われるからというだけでなく、「出さないでこのままにしておこう」という気持ちをスンナリ放棄できないからなのです。

  8. 北鎌倉 より:

    声を出さないとは、どこかに目立たなく住んでいることです。そこにはひとつの平穏な住み心地があります。声を出すとみんなは自分の方を見るし、自分が外に露わにされてしまうことになるのです。
    だから動物にとっては、声は類であること、であったのに反し、しいて言えば<人間にとって声は、類であるものが個として現れること>となっているのです。
    発達障害の子供で、ところかまわず声を出すのは、彼らがまだ声を個として現わしていないからです。彼らはその時、人々をあまり警戒していないのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      動物の発する「声」と、人間の「発語」の類似性とその違い。とても面白い考察でした。
      ≫「動物が群れているときに『声を出す』ということは、お互いに類としての安心感を感じている状態。一方人間の発語は、類から個への移行である」と。
      なるほど !
      とても感心いたしました。

      5年ほど前、今はテレビタレントとなった小島慶子が、朝日新聞のインタビューを受けて、ラジオのパーソナリティーをやっていた時代の思い出を語った記事を読んだことがあります。
      彼女は、顔も知らない視聴者が電話で悩み事を伝えてきたりする番組をずっと担当していたそうです。
      小島慶子は、電話が来るまで、相手がどういう意見を持っている人か分からない。だからその言葉の選び方、声の調子などから相手のキャラクターや世界観を推測し、言葉を交換するなかで、お互いの話を歩み寄らせていく。

      そういう番組を経験したあと、彼女はこんなことを言います。
      「人の姿は、けっこう遠くにいても見えます。では声は? 近くにいないと聞こえません。声が聞こえるということは、生活空間に “他者” が現れるということなんです」
      小島慶子が、この言葉で何を伝えようとしたのか、私にはいまだにはっきりと理解できていないのですが、なぜかここで言われた「他者」という言葉にすごく衝撃を受けて、刺激されました。

      小島慶子の言った「他者」というのは、まさに北鎌倉さんがおっしゃる≫「類から個へ移行した人間」が、別の個と出会うという意味なのかもしれませんね。
       

  9. 北鎌倉 より:

    はじめて運転席に座ったとき、ハンドル、アクセル、ブレーキそれらははじめずいぶん遠くにあるものに感じられます。やがて運転上手になると、ハンドル、ブレーキが自分の体の一部になるほど近く感じるようになります。自分の手足や口も、つかんだり歩いたり喋ったりすることに上達すると、身体がそうしてるのだと感じないで、まるで私そのものが勝手にそうしてるという感じが起こってしまいます。
    おそらく二つの身体があるのかもしれなません。二つというのは適切ではないのですが、とにかく私たちの身体は、ここにいながら同時に別のところにいようと努めているような仕組みになっています。別なところというのは、上達しようとしている身体の事です。ふだんはだから、この二つの身体は上手に一つになっています。でも公の場でスピーチするときなど、私たちは上がってしまい、口や手がバラバラの感じになることも起こるのです。

  10. 北鎌倉 より:

    真剣に車を相手にするようになると、いつの間にか自分の身体の一部となりはじめます。そして実際に運転しているときは、まるで自分を自動車のように感じ、自動車に「擬態」しているかのような様相を見せることになっていきます。私たちは走る、つかむ、喋ることを練習すると、それを使いこなせる自分に日々「成ろう」としてきました。そして実際に私たちはそういうからだに成ってきたのです。私たち自身の身体もじ実は、一つの「擬態」みたいな仕組みを生きていたのです。
    学生の頃は学生の身なりをし、学生のような口の利き方をする。サラリーマンになるとサラリーマンの装いをし、口の利き方をする。なぜかといえば、そのとき私たちは暮さなければならない「所」に合わせて、そこで生きる形に私たちは成ってしまう仕組みを持っていたからです。ここにもある種の擬態がありました。

  11. 北鎌倉 より:

    自分がとても疲れているときというのは、自分が社会の中であり特定の形に成ろうとしすぎているときです。営業マンであったり課長であったりというように、職場や社会で求められている形に成らなければならないときです。そのとき私たちは、そういう形に常に擬態してるのです。
    しかしそういう擬態を維持しつづけることにいつか疲れるときが来ます。そのとき、自分の形をいったんチャラに、くずしてしまおうと思います。それを試みます。
    小島慶子さんに番組で電話をすることも、そのひとつの試みとなります。

  12. 北鎌倉 より:

    小島慶子さんが相手にする多くの人は、おそらく自身の身近に起こることに振り回されている人と思われます。そういう身辺のわずらわしさが、いつの間にやらついて離れなくなる。実際に身動き取れなくなる。あまりにも身近なものばかりを見つめることを自身に他人に強いられているため、自分を小さくし、動きのとれない形に閉じ込めすぎているのです。だからこの人に必要なことは、もっと自分を解き放つように生きる生き方です。
    でもそういうことは、理屈ではその人に伝えられません。なぜならその人に言葉で説明しても、言葉はさらに「近いところ」を感じさせるだけだからです。小島慶子さんのとても理屈が巧みな言葉ほど、あるいは「近いところ」を強く感じさせてしまうかもしれません。

  13. 北鎌倉 より:

    「近いところ」ではなく、「遠く」を見るというとき、「遠く」というのは不思議です。動物でも遠くを見るのか?と問えばよくわかります。確かに動物も、太陽を、雲の流れを、遠くの敵にも敏感に対応します。でもだからといっていって「遠くを見ている」わけではありません。動物は状況を見ていても「遠く」というあり方そのものは決して見ていません。遠くというのはその意味で「対象物」ではなく、心の中でだけ発生するある種の観念なのです。しかし、その観念は単に心のなかで想像できる性質のものではなく、実際に遠くを見ようとする姿勢においてしか見出せないものなのです。なぜなら「遠く」というのは、何らかの形として現れる観念なのではなく、無限に近い遠くを見ることによって、自分を無限の中にちりばめるような、そういう自分を消してしまうような、まさに形のないもの、軽くなり、風に拡散していくようなものとして感じとる姿勢だったからです。むかしの言葉で言えば、自分を「無」として感じるというようなことになるでしょうか。

  14. 北鎌倉 より:

    小島慶子さんが電話口で、誰を相手にするかによって、自らの位置が決まってきます。
    何かを見るというときは、その対象となるものが目の中に映るということではなく、こちらに何かが「写る」というのではなく、実際には見ていた何かに「向かう」という内容になっています。いい映画を見、いい音楽を聴いたときは、この「向かう」あり方が十二分に発揮され、まさにその世界に向かって入っていけるのに、つまらない映画や音楽会ではそこに「向かう」ことができずに、ただ観客席の上にとどまっているだけになります。
    小島慶子さんは、電話口の相手に自分は成れるか、擬態できるか、つまり自分の相対するものに、そのつど成れるか、その位置取りで「向かう」ことができるか、相手を解きほぐせるかどうかの半分はそこで決まるのかもしれません。
    小島慶子さんの「他者」は、電話牡切った瞬間消えてしまう再現不可能な「他者」なのかもしれません。

  15. 北鎌倉 より:

    電話で相談してくる相手は、刻一刻違った実践を生きています。理解とは、立ち止まって物事を見つめる、見方です。実践とは、たえざる変化ですが、理解とは、その変化である流れの中で立ち止まることです。立ち止まることで世界が一つ一つ区切れて見えてきます。実践とは流れを渡ることですが、理解は流れを区切ることからはじまります。流れているものを区切ることによって「場面」がつくられます。この場面を再びつなぎ合わせ「分類・構成」することによって理解する世界が形成されます。これが理解の本質です。
    顔があり手足があり心臓がある。そうして理解した体は、本当に体そのものかというと決してそんなことはありません。実践の構造と理解の構造は全く異質です。
    小島慶子さんの「他者」を理解するその困難さの本質は、ここなのかもしれません。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      今回もまた知的な刺激に満ちたコメントを多数いただき、ありがとうございました。
      物事を深く考えるためのたくさんのヒントをご提示くださったことに感謝申し上げます。
      どれも拝聴に値するご意見だと思いましたが、今回特に興味深く拝読したのは、「遠くを見る」ことの意味を考察したくだりでした。
      動物と違って、人間が「遠くを見る」というのは、視線の先になにがしかの対象物をキャッチするという行為ではなく、その行為自体が、心の中に「無」をたぐり寄せようとすることだと。
      面白い話ですね。

      その通りだと思います。
      人間の場合、視界に捉えた対象物の正体を把握しようとするとき、まず近寄ります。そして、観察力を強化するために、さらに顕微鏡を使ったりすることもあります。
      しかし、遠くに視線を解放するというのは、これとは逆の行為ですものね。
      つまり、それは「観察を放棄する」行為となります。
      観察を放棄すれば、そこに現れてくるものは「無」ということになります。

      「無」というものは、分類不可能なもの。
      いわば、それまで自分が持っていた先入観やら既成概念やらが、いっきに崩れ去る現場に立ち会うということですよね。
      これこそ、小島慶子さんが「他者」と名付けたものの正体ではないでしょうか。

      小島慶子さんがおっしゃっていた「他者」をどう捉えるかという考察に関しては、私もまた北鎌倉さんと同じような見解に立っています。北鎌倉さんはいろいろな言葉を尽くして、結局は「理解することの困難さ」を説明されようとしているのではないかと思いました。

      私もまた小島慶子さんの「他者」という言葉は、「簡単に理解することを拒絶するもの」と遭遇したことを、「喩」として表現したものであると思っています。

      私たちは、「理解すること」と「理解できないこと」を価値概念として並べる習慣を持っています。その場合、当然「理解すること」の方が価値があるという結論に達します。
      しかし、大事なのは、むしろ「理解できないこと」と遭遇することであるように思うことがあります。
      そして、「理解できないもの」と格闘する過程において、人間は、それまでの先入観やら既成概念を自ら壊し、新しい真実に開眼することができます。

      「声が聞こえたときに<他者>が現れる」というのは、まさに、その声を聞くまで自分が抱いていた既成概念が、声を契機に崩されたことの比喩なのではないでしょうか。
      「遠くで姿を見ているとき」というのは、見ている間を単に機械的に、あるいは図式的に分類しているだけの状態です。しかし、その人間が近づいてきて、その発語を聞き取ったとき、はじめて相手に対する図式的分類が無効になる。つまり、<見知らぬ他者>がヌッと出現する。この驚きを、小島慶子さんは「他者が現れる」という言葉で言おうとしたように感じました。

      こう推理する契機は、すべて北鎌倉さんの考察に由来するものです。
      本当にありがとうございました。
       

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