ターナー、光に愛を求めて

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 大英帝国、ここに誕生す 
 シネマ漂流(映画感想記) No.8
 『ターナー、光に愛を求めて』
   
 2014年イギリス・ドイツ・フランス合作映画
 原題「Mr. Turner」
 日本公開 2015年6月/2016年 5月BSテレビのWOWOWにてオンエア
  

知的興奮を誘う傑作

 娯楽映画としての感想を述べるなら、はっきりいうけれど、まったく面白くない。
 物語性に乏しい。
 アクションも笑いもない。
 さらに、登場人物たちがみなイケメンや美女からはほど遠く、なんとも華やかさに欠ける。 
 まさに、ハリウッド系エンターティメントの対極にあるような映画である。

 しかし、この作品を “資料” として評価するのなら、空前絶後の一級品の資料的価値を持った映画といわねばなるまい。
 歴史研究家が、これまでの通説をひっくり返すような古文書を発見し、歴史が書き換えられる現場に立ち会ったような、そんな知的な興奮をもたらしてくれる映画だ。

 主人公は、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー。
 “人物事典” 風にいうと、「18世紀の末から19世紀にかけてイギリスで活躍したロマン主義の画家」ということになる。
 たとえば、こんな(↓)絵が有名だ。


▲ ターナー作『解体のため錨泊地に向かう戦艦テメレール号』
▼ 主役のターナーを演じたティモシー・スポール

 作品の評判はすごくいい。
 Wikipediaによると、
 「本作は批評家から絶賛され、批評家支持率は97%。平均点は10点満点で8.5点。英ガーディアン紙が選ぶ2014年映画ベスト10の第10位を獲得」
 と紹介されている。
 
 
随所に現れる風景の美しさ
 
 何がすごいかというと、「芸術」をテーマにした映画だけあって、とにかく映像が緻密で、きれい。
 たとえば、冒頭のシーンを飾る朝焼けの風車。

 あるいは、夕陽に染まった海に浮かぶ大型帆船。

 

 そして、森の中の静かな湖。

 まさに、ターナーの絵そのものともいえるような美しい画像がいたるところに挿入されている。
 それを見るたびに、観客は息を吞む。
 「これは、はたして地球上の風景か?」と。
 玄妙な光と影に彩られた大自然の風景を眺めるだけで、この映画の美学的なこだわりが、鮮烈な印象をともなって観客の目に迫ってくる。 

 特に、荒涼としたイギリス郊外の風景には圧倒される。
 長い間、ヨーロッパ史において、イギリスは、文明の光の届かない辺境の地でしかなかった。
 イタリアやフランスのような地中海文明の遺産をたっぷり浴びた大陸の国家に比べ、荒れた大西洋に浮かぶ島国イギリスは、風土的にもさびしい。

 そんな、ヨーロッパ文明の辺境の地であったイギリスが、ターナーの生きた時代には、世界一の強国になりつつあった。
 つまり、この映画は、ターナーという画家の生きざまを素材にしながら、実は “イギリス帝国” が発展していく過程を描いた物語なのである。

▼ 繁栄を極めた19世紀中頃のロンドン

 
 
イギリスの激動期を生きたターナー

 画家ターナーの生年は1775年。没年は1851年である。

 これが、イギリス近代史の中で、どういう時代に当たるかというと、ターナーが生まれた前年にアメリカ独立戦争が勃発している。
 ターナーの青春期には、ナポレオンが率いるフランス軍との激闘が続く。
 まさに、彼はイギリスの激動期に生まれ育った人なのだ。
 
 大陸国家との熾烈な戦いに明け暮れたイギリスだったが、1815年に、ワーテルローの戦いでナポレオンに勝利してからは、産業革命の時代を迎え、先進工業国としての力をめきめき発揮して、海外の植民地獲得に精力的に乗り出すことになった。

 1837年。ターナーが62歳になったときに、ヴィクトリア女王が即位。
 この女王の治世期に、イギリス帝国はこれまでの領土を10倍以上拡大させ、地球の全陸地面積の4分の1、世界全人口の4分の1(4億人)を支配する空前絶後の大帝国を築いた。

▼ 映画に出てくるヴィクトリア女王

 イギリスは、1840年には中国の清王朝を「阿片戦争」で破り、その王朝体制を侵食して極東支配を強化する。
 一方、インドにも支配域を広げ、1848年にはムガール皇帝を傀儡(くぐつ)化し、1858年には、そのムガール帝国を崩壊させて、代わりにヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させる。

 このように、ターナーが生きた時代は、イギリスの世界制覇の時代と重なっているのだ。
 そうなると、この映画は無邪気な “芸術称揚作品” などといえなくなってくる。
 
 ターナーの美しい作品の背後に、世界帝国への階段を登りつめていくイギリスのしたたかで強靭な世界戦略を見て取ることも可能だ。

 そういった意味で、この映画は、戦争のシーンなど一つも登場することなく、かつ人々の会話に、戦争に関することなどほとんど交わされないのに、暗にイギリス帝国の膨張過程をフォローした映画ともいえるのだ。
 つまり、ターナーの絵には、イギリスが世界一の強国になった秘密のすべてが隠されている。
 
 
イギリス世界帝国の本当の姿を描いた画家

 ターナーの作品には、海および船を描いた絵が多い。
 これは、彼が「海に興味を抱いた」ということだけを意味しない。
 むしろ、ターナーの無意識が、「イギリスにとって海が何であるか」というテーマを見出したことを物語っている。

 たとえば、1801年の『嵐の中のオランダ船』。
 うねる波に翻弄され、今にも転覆しそうな船体をクルーたちが懸命に制御しながら、必死に嵐の海を乗り切ろうとする姿が描かれている。

 だから、絵から受け取る印象として、大自然の猛威の前には人間も無力であるという “教訓話” としてとらえることも可能だ。
 しかし、逆に考えれば、大海に新しい活躍場所を見出したイギリスやオランダという海洋国家の不屈の精神を描いているともいえそうだ。

 下の絵は、『カルタゴを建設するディド』(1815年)というタイトルを持った作品。
 ターナーが尊敬していたクロード・ロランの画風を思わせる古典的な静謐感に満ちた作品に仕上がっている。

 しかし、この絵に隠されたテーマはけっこう勇ましい。
 制作年をもう一度振り返ってみる。
 1815年。
 ワーテルローの戦いで、イギリスのウエリントン将軍がナポレオンを破り、“イギリス時代” の幕開けを宣言したような年なのである。

 しかも、描かれているのは、古代世界でその名をとどろかせた海洋民族フェニキア人が建てた地中海随一の海上都市カルタゴ。
 「ディド」とは、そのカルタゴ市を建設した伝説上の女王を指す。

▼ ディド(部分UP)

 海洋国家の誕生をテーマに選んだターナーは、カルタゴの女王ディドの姿に、次のイギリスを統治することになるであろうヴィクトリア女王のイメージを重ねていたかもしれない。
 そうなると、この絵は、イギリスが「海上帝国として地球上に君臨する」ことを宣言した絵であるともいえるのだ。
 
 
海を制する者が世界を制する 

 海に進出したイギリスが、なぜ世界制覇をなしとげることができたのか。
 
 それは、海が、まだ世界の誰からも支配を受けていない “空白地帯” だったからだ。

 それまで、地球上に大帝国を築き上げたのは、すべて陸上の国家だった。
 古代ローマ帝国に始まり、モンゴル帝国、オスマン・トルコ帝国、スペイン帝国、フランス(ナポレオン)帝国。
 これまで世界帝国といわれたものは、すべて陸上に版図を広げていった国ばかりだった。

 が、16世紀に入った頃から、ヨーロッパの辺境勢力でしかなかったオランダとイギリスが大西洋に進出するようになり、徐々に海洋国家の基礎を固めていくことになる。
 
 イギリスは、まず最初に、南米に勢力を広げていたスペイン帝国を叩く。
 スペインはもともと陸軍国家であったが、南米のインカ帝国やアステカ帝国を滅ぼして南米に拠点を置くようになってから、海洋国家への道を歩み始めていた。

 イギリスは、そのスペインの海軍力が完璧なものにならないうちに、彼らの主力海軍であった「アルマダ(無敵艦隊)」を壊滅させることに成功する。
 これが、イギリスの飛躍を確定的なものにした。

 イギリスは、次に、同じ海洋国家として世界進出を開始したライバルのオランダを叩く。
 これにも勝利を収め、地球上の海洋で、イギリスに歯向かう勢力は駆逐された。

▼ ターナー作『嵐の近づく海景』(1803年頃)

 
 
海は治外法権
 
 もともと海という空間には、陸の法が通用しない。
 人類は陸上帝国の歴史だけを繰り返してきたため、海は無法地帯として放り出されていたのだ。

 その海を独占したのが19世紀のイギリスだった。
 つまり、世界の海は、イギリスが定めたルールによって管理される空間に変貌したのである。

 そして、極東やインドなどの広大なイギリス植民地からは、安価な労働力によって収穫される安価な原材料がイギリスに集まり、それが工業製品となって、今度は世界中に供給された。

 こうして、イギリスは世界の富の集積地となり、ロンドンは世界一の繁栄を誇る大都市となって “我が世の春” を謳歌した。
 
 
地球上の富の集積地 

 映画『ターナー』では、後半、美術評論家のラスキンを交えた美術談議が繰り広げられるシーンが出てくる。
 そこで、登場人物たちの会話で交わされたテーマのひとつが、各国に生息するツグミという鳥の違いについてであった。
 
 「中国のツグミはこういう性格で、東南アジアのツグミはこういう習性がある」
 というような会話が、ターナーも列席した美術愛好家の集いの場で交わされる。
 このシーンの意味するものは何なのか。

 イギリスが世界の富の集積地となったことを表している。
 集積した富とは、「財貨」や「物産」だけとは限らなかった。
 「情報」もまた過剰なくらいイギリスに集積し、それがイギリスの自然科学の質を劇的に高めた。

 この時代、イギリスでは新しい学問が一気に花開いている。

 「人類学」などという学問もその一つだ。
 イギリス人たちは、世界各地に散らばった植民地の支配を強化するために、インド、中国、中近東、北アフリカ、アメリカなどの各民族の生活風習・文化の違いをデータ化する必要を感じていた。
 それが「学問」として整理され、後にフレイザーが『金枝篇』としてまとめたような「人類学」や「民族学」の形をとるようになる。

▼ フレイザーの『金枝篇』の口絵はターナーの絵で飾られている

 このような知的文化の向上は、イギリスの芸術家たちをも巻き込まずにはいなかった。
 
 
光と色の秘密が解明された時代

 1800年代に入ると、それ以前の科学的認識が一気に塗り替えられるような新しい発見・発明が次々と登場するようになる。
 特に、光・色彩などの科学的研究が一気に進んだ。 

 1800年にハーシェルが、赤外線を発見する。
 1801年には、リッターが紫外線を発見。
 同年、トーマス・ヤングが、光の正体を「波動」だととらえた “波動説” を唱える。
 それまで光というものは、ニュートンの考えたように「粒子」であると信じられていた。
 それが、「波動」であるという説によって、学者の間にパラダイムシフトが起こったのだ。

 現在は、アインシュタインの研究(量子力学)によって、光は「波動」と「粒子」の両方の性質を持っていると説明されているが、19世紀の初頭に始まった “光の研究” は、画家たちの思想にも多大な影響を及ぼした。

 映画『ターナー』においては、昔からの友人であるサマヴィル夫人(写真下)がターナーの家を訪れて、彼に「光」の講義を行うという挿話が盛り込まれている。
 

 メアリー・サマヴィルは、天文学の分野で秀でた功績を残した女流科学者で、1826年に「太陽スペクトルの紫外線の磁性」という論文を王立協会会報に掲載し、その名をとどろかせた。

 映画のなかの彼女は、ターナーにプリズムを使った色や光の実験を見せ、色や光の神秘的な動きには、実は厳密な科学的根拠があると明かす。
  
  
もっと絵に「リアル」を!
  
 そのことを理解してからのターナーの絵には、徐々に変化が現れるようになる。
 自然光をプリズムを通して眺めると、色が波長ごとに分節されるように、彼の太陽光のとらえ方が “科学的・分析的” になっていくのだ。

 このようなターナーの絵の変化を、よく “抽象画に近くなった” などと表現することがある。
 しかし、彼は抽象画などを描くつもりはまったくなかった。
 
 彼の絵がどんどんぼやけていくようになったのは、「抽象への意志」ではなく、「リアルなものの凝視」であった。
 つまり、ターナーはリアリズムというものの本質を知ったのだ。
 
 下は、有名な『ノラム城、日の出』(1835~40年頃)である。

 城の輪郭は、画面中央の青い台形のシルエットとしてしか把握することができない。
 画面のなかに描かれた対象物はすべて分厚い水蒸気のベールに包まれてフォルムを失い、漠然とした “色のかたまり” に変貌している。
 
 もし、画面右下の牛のシルエットが読み取れなかったら、もうこの絵は20世紀に出現する抽象画の範疇に入れられてしまうかもしれない。

 しかし、ターナーは、現実世界をきわめて科学的・実証的に追求したつもりになっていたはずだ。
 彼は、すべての光をプリズムを通して波長順に配置されたように構成し、絵の中に “科学” を導入したつもりでいた。

 たぶん、彼には、「人間の目には、ほんとうの世界はこのように映るはずだ」という信念があったに違いない。
 朝の水蒸気にもやった環境の中で、もし城の輪郭が細部までくっきりと見えたとしたら、それは人間の目がとらえた「城」ではなく、人間の脳裏に去来した「城という観念だ」と、彼は主張したかったはずである。
  
  
人間は、見慣れた物を実は見ていない
 
 「リアリズムの本質は非親和化にある」
 という言葉がある。
 非親和化。
 つまり、見慣れていたはずのものを “よそよそしい” ものに変えてしまうことをいう。
 
 なぜ、それがリアリズムの本質かというと、我々は、いつも見慣れているものを、実は見ていないからだ。
 見慣れた物というのは、視覚がその対象に慣れ親しんでしまったために、頭のなかで「観念」として処理され、意識の引き出しに無造作に仕舞われてしまうだけなのである。
 
 だから、見慣れたはずの物というのは、改めてじっくり見てみると、それが日ごろ思っていたものとは異なる、なんとも奇怪な姿をしていることに気づくことがある。
 そのときに、我々の目は、ようやくその物のリアルな実相にたどり着いたことになる。

 ターナーが自分の絵画で追求したかったことは、それであった。
 彼はそのとき、それまでの古典絵画と決別したのだ。
 対象に明確なフォルムを与えて、安定した構図のなかに収めた古典絵画は、ターナーにとっては、人間が「頭のなかの “観念” で処理した絵画」に過ぎなかった。

 そうではなく、「目の前にある現実の世界を見よ ! それは色と光の強烈なせめぎあいから生まれる感性の乱舞ではないのか?」
 ターナーが言葉をあやつる文学者であったなら、たぶんそう言いたかったに違いない。

 そういった意味で、後の印象派の画家たちは、ターナーをその師として仰ぐことになるわけだ。

 現実を自分の目を通してしっかり見る。
 ターナーは、自らの目をそのように鍛えようとした。

 有名な伝説がある。

 海上を吹きまくる嵐の実態を観察するために、彼は船員に頼んで、マストに自分を縛らせ、防風のなかで4時間目を見開いていたという。
 そのエピソードも、この映画ではしっかり挿入されている。

 映画の後半、新しい商売として街に生まれた “写真館” に行って、ターナーが自分の写真を撮ってもらうというシーンが登場する。
 写真技師たちが、カメラを設定している間、ターナーは彼らに質問を向ける。

 「このカメラで、戸外の景色も撮れるのか?」
 技師が答える。
 「もちろん撮れますとも。私はナイアガラの滝をこのカメラで撮りました」

 それを聞いて、ターナーがつぶやく。
 「うらやましい。これからの画家は、スケッチブックを抱えて旅に出るのではなく、カメラを抱えて旅に出ることになるだろう」

 彼は、カメラが写実的な絵画表現に取って替わる時代が来たことを悟り、絵画が追求できる “真実” は、カメラの目指すものとは異なるはずだという確信をますます強めていく。
  
  
人々の世界観を変えた蒸気機関
 
 この映画のハイライトとなるのは、ターナーが次の絵画を描いたところである。


▲ 『雨、蒸気、速度、グレート・ウェスタン鉄道』(1844年)

 雨の中で、蒸気を上げ、テムズ川にかかるメイドンヘッド橋を疾駆してくる蒸気機関車。
 映画のなかでは、次のようなシーンが登場する。

 この蒸気機関車を見つめるターナーの表情は、まるで天空を駆ける神々の戦車でも見てしまったかのような、畏れと感動に満ちたものになっている。

▼ アトリエに帰り、さっそく蒸気機関車を描き上げるターナー

 
 ターナーが、蒸気機関車に見たものは何だったのか。
  
 ターナーが見たものは、それこそ「時代を一変させる新テクノロジー」であり、神を中心に回っていた「神学的な世界」が、「科学技術的な世界」に変わる瞬間であった。
 言葉を変えていえば、それは「資本主義」であり、「近代」だった。

 多くの科学史家たちは、蒸気機関の登場前と登場後では、人々の世界観がまったく変わってしまったと指摘する。

 たとえば、文化人類学者のレヴィ=ストロース(1908~2009年)は、蒸気機関が登場する前の社会を「冷たい社会」と表現し、それを「時計」という比喩で語った。
 つまり、時計のように、静的で、円を描くように循環していく社会という意味で、もっぱら「未開社会」もしくは「前近代的社会」のことを指した。

 それに対し、蒸気機関がもたらした社会は「熱い社会」であり、まさに “蒸気機関” という比喩そのままの社会であった。
 それは、膨大なエネルギーを消費することによって、恐ろしいほどのパワーを生み出し、その力で時代を強引に前進させる「近代社会」を意味した。
 
 
「落差」が生み出すパワー
 
 レヴィ=ストロースが、「蒸気機関」という比喩で表現しようとした近代社会とは、いったいどのような社会なのだろう。

 レヴィ=ストロースは、蒸気機関というのは汽罐(ボイラー)と、凝縮器(コンデンサー)との温度差によって作動する「熱力学的な機械」だという。
 つまり、ポテンシャルの異なる二つの要素のせめぎあい(落差)をエネルギーにして永久運動に変えていく機械だ。

 近代社会の構造を、そういう熱力学的な言葉で整理することによって、彼は何を説明したかったのだろう。

 すなわち、近代社会というのは、アメリカの黒人奴隷やロシアの農奴、あるいはイギリスの労働者階級といった “搾取される者” の存在をシステム化することによって、システム管理者である資本家との間に生まれる階級対立や階層分化のせめぎあい(落差)によって作動していく社会だというのである。

 近代社会を、このように蒸気機関の比喩で表現したレヴィ=ストロースの観測がどれだけ正しいの分からないが、少なくとも、彼が言いたかったことだけは分かる。

 それは、19世紀にイギリスに登場した蒸気機関が、イギリスの風景、経済、政治、人々の世界観のすべてを嵐のような勢いで変えてしまったということなのである。

 蒸気機関によって、人々は工場の立地条件が変わったことを理解した。
 それまでは、大きな動力が必要なときは、水力や風力に頼るしかなく、そのため、物を生産する工場は、おおかた地方に分散する傾向にあった。

 しかし、蒸気機関が登場することによって、工場経営者は水力や風力に頼らない動力を得られるようになり、そのため工場の都市集中化が始まった。

 工場の都市集中化は、そのまま労働力の集中化につながり、かつエネルギー原となる石炭貯蔵の集中化を招いた。
 資本主義が、高度な「効率化」によって実現するものだとしたら、生産手段の集中化は絶対的条件となる。
 
 19世紀のイギリスで実用化が進んだ蒸気機関は、このように、イギリスの産業資本主義を用意したのである。
 
 「産業資本主義の誕生」は、「近代の完成」の別名である。
 それ以前と、それ以降では人々の感性ばかりでなく、思想も変わった。
 マルクス、ニーチェ、フロイトなど、“20世紀の思考” を築いた19世紀の人々は、意識すると否とにかかわらず、蒸気機関にイメージされる知的パラダイムの上で思考を練り上げていったといってよい。

 ターナーが描いた蒸気機関車のタイトルは、「雨、蒸気、速度」である。
 それは、天候に左右されず、雨でも作動する動力源が生まれたことを意味し、その動力源のパワーが「蒸気」だということを示唆している。
 そして、それによって「速度」というものが生まれたというわけだ。

 経済学者の水野和夫氏は、近代資本主義を支えるものは「より速く、より遠くに、より合理的(科学的)に」というスローガンであるという。
 その言葉は、(繰り返しになるが)、近代資本主義が “蒸気機関” から生まれたことを物語っている。
 ターナーが自分の絵につけたタイトルには、まさに「資本主義」の本質を語る要素がすべてが込められていたのだ。

 ターナーという画家の私生活に関しては、実はそれほど詳しい資料が残っているわけではないという。
 だから、この映画は、少ない伝聞を集めて、監督の頭のなかで構成されたターナー像でしかないともいえる。

 だが、ターナーが残した絵から伝わってくるものと、映画で造形されたターナー像は、それほど隔たっていないのではないか。

 実際のターナーが、映画の役者が演じたように、常に言葉少なく、不愛想で、偏屈な態度を貫いた芸術家であったかどうかは分からないが、風景や人々の生活スタイル、思想、宗教観が劇的に変わっていくイギリスを見つめながら、それを科学者のような目で、クールに追求していった人であったことだけは間違いないように思える。
 
 
映画・アート系記事
 
「真珠の耳飾りの少女」(フェルメールを題材にした映画)

「ロイヤル・アカデミー展を観る」 (19世紀のイギリス美術)

「クロード・ロラン」 (ターナーが尊敬する画家)
 
 

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ターナー、光に愛を求めて への2件のコメント

  1. よしひこ より:

    町田さんの美術評論や映画評論は、ブログで読むには読み応えがありすぎるとも思えるので、いつか美術・映画評は一冊の本にまとめてくれることを希望します。

    • 町田 より:

      >よしひこ さん、ようこそ
      ありがとうございます。そう言っていただけると、この手のテーマを扱った記事にも少し自信を持つことができます。

      しかし ≫「ブログで読むには読み応えがありすぎる」とご指摘いただいた意味もよく理解しています。
      おっしゃるように、文章が長すぎるんですね (-_-;)=汗 ‼

      仮に、テーマに興味を持っていただいた方がいらっしゃったとしても、スクロールして画面の先をたどってみると、延々と文章がつながっているため、「読むのがシンドイ … 」と思われる方も多いでしょうね。

      もちろん、それも承知しているんですが、このブログは「自分の考えをまとめておく場」でもあると思っているので、テーマを思いついた場合は、自分でもついつい長くなってしまうようにも感じています。
      お許しいただければ幸いです。
       

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