失恋ストーカーの心理

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 片思いや、過去に交際したけど振られた男性たちが、未練を持っている女性に対して行うストーカー行為。
 ニュースなどを見ていると、最近やたらにそういう事例が増えてきた気がする。

 なかには、逆上した男性が相手に殺意を抱き、殺傷事件にまで発展するものある。
 しかし、「殺人ストーカー」まで至らないため、報道にはならないかもしれないが、こういう事例は、今やいたるところに散らばっているのだろう。

 このような、失恋がきっかけとなるストーカー殺傷事件というのは、未練を断ち切るときの自分の「流血の痛み」に耐えられない男たちの犯罪といえる。

 恋の終わりは、「相手への断念」という形をとるが、「断念」の “断” は斬るということだから、当然、激しい痛みと同時に、自分の血潮が吹き出すことへの覚悟がいる。

 だが、多くのストーカーたちは、自分の身から吹き出す自分の “血” を見るのが辛いから、相手を殺す。
 ストーカー事件全般にいえることだが、このような事件が多くなってきたのは、自分自身と向き合うことを怖がる人間が増えてきたということなのだ。

 誰だって、本当の自分などとは向き合いたくない。
 自分が人一倍弱いことや、醜いことを、自分がいちばん知っているからだ。
 だから、そういう自分から目をそらすため、人は自分の「強さ」や自分の「利口さ」加減を無理やりねつ造する。

 ねつ造していく過程で、いつしか錯覚による全能感に満たされ、それが他人を支配することにためらいを持たない人格を形成していく。

 ストーカーとは、他人を支配できると思い込んだ人間の究極の形だ。
 「お前は俺の “モノ” なのだから、俺から逃げることは許されない。お前の生殺与奪の権利はすべて俺が握っている」
 彼らはいとも当然のごとく、そう思い込む。 

 だが、そういう気持ちが、常にこみあげてくるような男性に対しては、当然相手の女性だって避けたくなるだろう。

 だから、普通の男は、相手にそう思われるだろうと予測するギリギリのところで、自制心を働かせる。
 そんなふうに相手に思われたら、もっと自分が惨めになると想像するからだ。

 しかし、ストーカーは、すでに相手に嫌われるかどうかなど念頭に置いていない。
 「相手が自分のモノにならないのなら、いっそこの世から抹殺することで、誰にも渡さないようにする」

 自分と向き合う契機を失ってしまったストーカーは、「自分がさらに惨めになる」などという想像力を働かせることもなく、自分の惨めさをむしろ相手に対する憎悪に変えて、
 「俺のこんなにピュアで美しい魂が、お前には見えないか?」
 と、自分の妄想を正当化する。

 しかし、「俺がこんなに愛していることが分からないのか?」という叫びは、いつだって自己愛の究極の姿でしかないのだ。
 
 
 ストーカーはけっして一部の人間だけがなるものではない。
 ストーカー行為の奥底にあるものが、「相手に対する未練」である以上、振られたりすれば、誰だってストーカーになる可能性を持っている。
 なにしろ、相手を断念するというのは、地獄の苦しみなのだから。
 「断念」というのは、まさに「相手を殺したい」とか、あるいは「自分も自殺するつもりだ」などという思いと、絶え間なく戦い続けることなのだ。

 人によって温度差はあれ、このような心の中の戦いは、恋の断末魔を覗き込んだ人間たちにはみな共通したものだといってよい。
 ストーカー事件まで起こさなくても、多くの失恋者たちは、みなストーカーになりそうな自分と必死に戦う。

 そして、自分自身との戦いにやがて疲れ、なんだかんだと自分に言い聞かせながら、ゆっくりと時間をかけて、ソフトランディングできそうな着地点を求めて舞い降りていく。

 このときの “もどかしい時間” に耐えることが、相手の存在を少しずつ忘れていくことにつながるのだが、あいにく今の時代は、男女の連絡をスマホを使ったLINEなどに頼っているため、ポケットに仕舞い込んだスマホが反応すれば、すぐさま全神経を注中させ、相手からの復縁のメールか !? と期待する。
 
 そういう日々の期待が、図らずも相手への執着を強化し、未練を断ち切るどころか、ますます濃いものにしていく。
 それでは、失恋後にソフトランディングできるような着地点を探そうという方が無理かもしれない。

 今の時代には、恋を失って彷徨(さまよう)男たちをソフトランディングできそうな場所に誘導していく「文化」がない。

 最近の若者、… 特にストーカーになりそうな男たちは、恋愛小説のようなものも読まない。そのなかに「失恋」というテーマがあることすら知らない。

 そのため、先輩や友人に心の苦しみを打ち明けると、どうなるのか。
 「振られたときにどうしたらいいんですかね?」
 と先輩などに尋ねても、先輩だって失恋にどう向き合ってきたかという経験などあまりないから、
 「バァーっと仕事に打ち込んでさ、仕事が終わったらガァーっと酒でも喰らっていればいいんだよ」
 ぐらいのことしか言えない。

 途方にくれて、ネットの書き込みなどに救いを求めると、どういうことになるのか。
 たとえば、失恋相談などが寄せられるQ&Aコーナーがあるとする。
 でも、そこで用意された答は、「そういうケースは脈がないからあきらめましょう」などというアドバイスがほとんどだ。
 だけど、そんな答には何の意味もない。
 だって、あきらめ切れないから相談しているわけなのに。

 「ネットにはすべての情報が載っている」
 というのは、とんでもない間違いである。
 そんなことが大ウソだということは、たとえば、恋をしてみれば誰にでもすぐ分かることだ。
 「一番欲しい情報」
 すなわち、愛する相手が自分のことをどう思っているか、という一番肝心な情報は、ネットのどこを探したって載っていない。

 その答を探し出すのが、自分の心の中に蓄えた「文化」 なのだが、今の時代には、「失恋」とまっこうから向き合って、自分を支えるような「文化」がない。
 ナイフを握りしめるほどにイカレちゃっている人間に対しては、それを押しとどめるぐらいの強度を持った「文化」がないと、その衝動を鎮静化させることができない。

 歌に限っていえば、最近の流行り歌は、みな強度不足である。
 J pop からアイドル系グループの歌謡に至るまで、強さが足りない。

 たとえば、1977年に中島みゆきが歌った『わかれうた』は、いきなり、
 「道に倒れて誰かの名を、呼び続けたことがありますか」
 という歌詞から始まる。
 そんな情景を想像するだけで怖くなるが、しかし、そういう歌には、脳に穴を開け、内蔵の奥にまで「失恋」の辛さを垂らし込んでくるような強さがある。
 その強さに触れたとき、人はハッとして、そこから何かを学ぼうとする緊張感を持つことができる。

 同じ年に、沢田研二が歌った『勝手にしやがれ』(作詞 阿久悠)では、自分のもとを去っていく女を、寝たふりをして見送る男の心境が描かれている。

 ♪ 行ったきりなら幸せになるがいい
    戻る気になりゃいつでもおいでよ
    せめて少しはカッコつけさせてくれ
    寝たふりしてる間に出ていってくれ

 この男は、そのあと、女のいなくなった部屋で、
 「夜というのに派手なレコードかけて、朝までふざけようワンマンショーで」
 と憂さを晴らすのだ。
 しかし、この女々しい自暴自棄には、ストーカーになることをきっぱりと拒む強度が感じられる。

 おそらく、こういう強度だけが、ストーカー殺人にまで向かいそうな凶暴な気持ちと拮抗することができる。
 そういう強度を持った文化だけが、ストーカーたちのどす黒く澱んだ恨みを静かになだめ、ソフトランディングできる場所へと誘う(いざなう)ことができるのだ。
 
 失恋したときに、恨みを相手に向けるのではなく、自分自身と向き合うような「強度を持った文化」を知らないと、ストーカーに傾斜していく邪心を押し殺せない。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

失恋ストーカーの心理 への7件のコメント

  1. 木挽町 より:

    バカで不真面目でふしだらで破廉恥で恥知らずな私は、一穴主義には縛られずに、ふられたらラッキーと割り切って、次にもっとイケテル相手を探そうと街に出ます。いずれバチが当たると思いますが。

    • ようこ より:

      え~っ、えへへへ

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      上のようこさんのコメントではないですけど、
      「え~っ、えへへへ」
      ですねぇ(笑)。

      でも、「ふられたらラッキー ‼ 」というのは、なかなな豪胆で素敵です。
      さすが、木挽町さんならではのご意見ですねぇ ‼
      多くの男性が、みなそのくらいの心意気を持てばいいんですけどね。
       

  2. クボトモ より:

    自分が傷つくことに恐れている。
    恋愛に限らず、そんな反応をする人はビジネス面でも少なくないです。
    そのために起きる殺傷事件は極端な例だと思いますが、
    自身を守るために周囲の人々の心を傷つける人は頻繁に見かけます。
    「失恋ストーカー予備軍」は思った以上に存在しているのかも…
    なんて事を想像してしまうくらい、
    自分自身と向き合える気骨を持った人は希有なのではないかと。

    • 町田 より:

      >クボトモさん、ようこそ
      ≫「自分が傷つくことを恐れる」というのは、人間に備わった防衛本能なのかもしれませんね。
      でも人間は、一方では「仲間を見捨てて自分だけ逃れようとする心」を恥と感じる精神も持っているし、自分を捨ててまでも危機に陥った仲間を助けようとする精神も持っています。

      このあたりは、人間が暮らすその社会の文化の問題だという気もします。
      「自分と向き合う気骨を持った人」を育てる文化が必要なのでしょうね。
       

  3. ようこ より:

    おはよ~う 町田さん

    テヘっ 私も若い頃はストーカー行為的な事をしたり
    されたりした事がありましたが、そういう行為にたいする
    世間の目は今のようにカリカリはしていなかったような。

    相手から嫌われているのに 自分の思いをとげたくて
    未練を断ち切れないというのは、突き詰めると
    セルフ・エスティーム(自己肯定感)が低いせいです。

    社会制度、家族制度の影響なのか日本には自己愛型の人が
    増えているように感じますが? 自己愛と自己肯定は
    似てるような感じだけど、まったく違いますね。

    人を愛する以前に自分を愛する事、出来そうで難しい。

    • 町田 より:

      >ようこ さん、ようこそ
      おっしゃることも、よくわかりますね。
      確かに、好きな相手を追いかけまわすという行為は、昔からあったでしょうね。
      だから、ストーカーがこの世に誕生したのは、「ストーカー」という言葉がこの世に認知されてからなのかもしれません。

      顔見知りの人間同士の間に起こる失恋が原因の「ストーカー」というものもありますけど、最近増えてきたのは、被害者がつけまわしている相手を特定できないという “通り魔” 的なストーカーですよね。
      こういうのって、ネットコミュニケーションが普及してきた現代の匿名社会の影響も多少あるのか、という気もします。

      今回はとても大事なご指摘をいただけました。
      「自己愛」と「自己肯定」は似ているけれど、まったく違う。

      なるほど。
      「自己肯定」というのは、自己としっかり向き合って、厳しい目で自分をチェックした後の再発見というような理解でよろしいでしょうか。
      それに対し、「自己愛」というのは、自己に対する盲目的な偏愛というような意味だと捉えてみました。
       

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