オスマン帝国伝説

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 「オスマン帝国」のブームってのが、来ているんじゃねぇか?
 なんとなく、最近そんな感じがするんだ。
 
▼ オスマン帝国最盛期の頃の首都イスタンブール

 
 オスマン帝国ってのは、中世から近代まで西アジアから東ヨーロッパにかけて栄えたトルコ系王朝のことだから、「ブーム」って言葉で、はたしてどのくらいのイメージを伝えられるかはっきりと分からんが、「よく話題になる」、「よく画像を目にする」 … という意味でいえば、ここ5~6年確かに「ブーム」っぽい空気感が満ちてきた感じはする。

▼ 最盛期のオスマン帝国の領土

 だいたい少女漫画で取り上げられるようになれば、まず “ブーム” って言っていいと思う。
 篠原千絵による『夢の雫、黄金の鳥籠』って漫画だ。

 これは、オスマン帝国でいちばん有名なスルタン(皇帝)であるスレイマンの妃になったヒュッレムという美女を主人公にした宮廷恋愛ドラマなんだけど、古代ローマでもなく、イタリア・ルネッサンスでもなく、フランス革命でもなく、よくまぁ、歴史好きでも相当マニアックな人しか関心を示さないオスマン朝に目を付けたものだと感心してしまう。

▼ 肖像画として残っているスレイマン大帝

▼ スレイマンの妃となったヒュッレムの肖像画。彼女には「ロクセラーナ(ロシア女)」という名前も付けられている

 どうやらこのオスマン帝国ブームというのは世界的な傾向らしい。
 2011年から放映されている『壮麗なる世紀』という大河ドラマが、母国のトルコだけでなく、世界的に注目されているところから、オスマン朝に再び世界的な注目が集まってきたと取る向きもあるとか。

▼ トルコの大河ドラマ『壮麗なる世紀』

 
 この『壮麗なる世紀』のテーマも、16世紀を生きたスレイマン大帝と、その妃であるヒュッレムを主人公にしたハーレムものである。
 「ハーレム」というのは、日本でいえば「大奥」みたいなものだから、ま、きらびやかで官能的で、それでいて陰謀が渦巻いたりしていて、ハラハラドキドキの物語を作るのに適している。

▼ 「ハーレム」っていうと、こんな絵を想像してニヤニヤしてしまうが、イスタンブールの冬はけっこう寒いらしく、実際には、こんな肌を露出しているような情景はほとんどなかったらしい。絵はアングル作『奴隷のいるオダリスク』

▼ ドラマ『壮麗なる世紀』で役者が演じるスレイマン

 で、スレイマン大帝というのは、どんどん領土を広げて、ヨーロッパのウィーンまで攻めていったスルタンであるから、ドラマのテーマも女性好みの “大奥秘話” にとどまらず、男性が好きな戦争劇や政治劇の要素も絡んでいて、けっこう見応えのあるドラマになっているようだ。(その一部はYOU TUBEなどで見ることもできる。ただトルコ語のようだから何を言っているのかはよぉ分からん)

 さらに、オスマン帝国に焦点が当たり始めたもう一つの理由には、トルコが国を挙げて壮大な歴史映画を作ったこともあるかもしれない。

 2012年に、オスマン帝国のメフメト2世によるコンスタンチノープル(現イスタンブール)の征服を映画化した『征服1453』というトルコ映画が、トルコをはじめとする西欧諸国のほかマレーシアやインドネシアでも公開され、大いに話題を呼んだという。
 
 
▼ メフメト2世の肖像画としてもっとも知られているもの。メフメト2世はヨーロッパ絵画を好み、ヴェネツィア派の巨匠ジェンティーレ・ベッリーニをイスタンブールに招待して、自分の肖像画を描かせた

 この映画『征服1453』は、制作費1700万ドル(約17億円)というトルコ映画史上最高の製作費をかけた大作であり、CGと実写を合わせた迫力ある映像がそうとう評価されたと聞く。

▼ 『征服1453』の一場面
)

 というわけで、ここ5~6年のうちに世界的に進行しているオスマン帝国ブーム。

 なんでそんなテーマのブログを書き始めたかというと、実はもう30年以上前から、私自身がオスマン帝国の大ファンであるからだ。

 1985年。阪神タイガースが西武ライオンズを破り、日本一を決めた瞬間を西武球場のスタンドで眺めていた私は、熱狂する阪神ファンの紙吹雪を浴びながら、「もうこれで思い残すことはないなぁ … 」という感慨にふけったまま20年間務めた “阪神ファン” を卒業することに決めた。

 その代わりになるものを探しているうちに、オスマン帝国ファンになることを思いついた。
 きっかけは、塩野七生さんの著作だった。
 『海の都の物語』(中央公論社)。

 ルネッサンス期から栄えたヴェネツィア共和国の歴史を描いたノンフィクションものだが、これが面白いのなんの ‼
 1巻450ページのボリュームを持つ上下2巻の重量級書籍だったが、ほほ一週間で2冊を読み通した。

▼ 『海の都の物語』

 なかでも『続 海の都の物語』と書かれた2巻目の冒頭から、面白さに一層の拍車がかかる。
 (ヴェネツィア人たちにとっての)「宿敵トルコ」と題された第八話から、オスマン・トルコの叙述がスタートするからだ。 

 それまで、トルコって国に対して、そんなに思い入れはなかった。
 それこそ、誤ったイメージによって言葉が広まった “トルコ風呂” の発祥の地ぐらいにしか思ったことはなかったのだ。

 だが、塩野さんの描く歴史本に登場するオスマン・トルコ帝国って、すっごく好奇心をそそられる国家だった。
 まず、民主主義がまったく機能していないのに、けっこう国が豊かで、文化レベルが高く、むちゃくちゃ戦争に強い。

 15世紀から首都になったイスタンブールでは、全ヨーロッパやアジアの商人たちが集まり、交易の一大拠点となったばかりか、そこを中継点として東西の文化が地球上に広がっていく。

▼ 絵画に登場するコンスタンチノープル(イスタンブール)
)
  
 だが、この国の当時の政治形態はずいぶん変わっている。
 帝国のボスたるスルタン以外、宰相からお妃、軍隊に至るまで、政権の基盤を支える人たちのほとんどが奴隷出身。

 スルタン自身が、ハーレムで暮らす奴隷身分の女性を母としているわけだから、いわば “半奴隷” 。
 そのハーレムに連れてこられた女性の大半は、当時世界でもっとも美人が多いといわれたスラブ系女性だった。

▼ ヨーロッパ人が想像で描いたオリエント系のハーレムの様子

 代々のスルタンの母がトルコ人ではないのだから、スルタンの体の中にも、トルコ人の血はほとんど流れていない。
 で、そのスルタンに使える宮廷人たちも、トルコの占領地であったギリシャやルーマニア、ブルガリアなどから徴発されてきた奴隷のような人たちだったから、これまた、政権の中枢部には生粋のトルコ人が少なかった。

 しかし、こういう制度は、わりと効率的な政権運営を可能にした。
 というのは、当時のヨーロッパ社会では国王と庶民の間に、特権的な身分を保証された貴族たちが君臨していたから、とても平等社会といえるようなものではなかった。

 そのため、貴族たちが自分の利権ばかりにこだわっていたヨーロッパ諸国では、なかなか国全体の政治を進めることができなかった。

 しかし、スルタン以下全員が奴隷であるようなオスマン国家では、逆にいえば、スルタン以外は “みな平等” であるということになる。

 要は、家柄抜きの実力社会が実現していたのだ。
 そのため、政権運営の効率がめちゃめちゃいい。階級が保証されなくても、貧乏な無名の若者たちは、才能にさえ恵まれれば、奴隷の身から一気に大宰相にまで上り詰め、政治や軍事の中枢を担うチャンスを与えられた。

 ただし、最上位にスルタンが君臨するかぎり、宰相たちの生殺与奪の権限もスルタン一人が独占することになる。
 政治の実務を取り仕切る大宰相であっても、スルタンから疑惑の目を向けられれば、あっという間に粛清。(そんな国、今でもどっかにあるよな)

▼ スレイマン大帝の忠実な補佐役でもあり、大帝の親友でもあったイブラヒム・パシャ(ドラマ『壮麗なる世紀』の役者)。イブラヒムは、オスマン海賊に誘拐されたギリシャ人奴隷だったが、スレイマンに見込まれて、一時オスマン帝国で絶大な権力をふるった。しかし、その後スレイマンに反逆を疑われて処刑された

 スルタンの権限は絶対的で、
 「あの国がけしからん !」
 とスルタンが怒りだせば、どんなに宰相たちが「困ったなぁ」と悩んでも、スルタンの号令一下、帝国の隅々から何十万という兵力がすばやく動員され、攻撃軍が編成されて東へ西へと征服地が広がっていく。

 一人の皇帝のちょっとした気まぐれで、宰相が処刑されたり、一つの国家が滅亡したり、何十万という人々が征服されて、殺されたり奴隷になったりする政治って、今日の “民主主義政治” ってものを一応勉強している我々にとっては、理解の範疇外にある政治だ。

 でも、そういうのって、「怖いもの見たさ」の好奇心をくすぐる。
 『海の都の物語』を書いているときの塩野さんも、途中からヴェネツィアとトルコの戦いを描かなければならなくなったとき、オスマン・トルコという国家に対して、猛烈な好奇心を抱いたようなのだ。
 ヴェネツィアとはまったく対照的な政治・文化・倫理を持つ国として。

▼ 執筆当時の塩野七生さん

 『海の都の物語』の2巻目は、塩野さんがイスタンブールの海軍博物館を取材したときの思い出から始まる。
 15世紀の地中海世界では最強の海洋国家を樹立したヴェネツィアと互角に戦ったトルコであったから、その海軍力もさぞや充実したものであったろうと塩野さんは期待し、カメラとメモ帳を携えて、わざわざイスタンブールの海軍博物館に出向いた。

 が、持って行ったカメラは一度もシャッターを押されることもなく、メモ帳には1行も文字が記載されなかった。

 「海軍博物館に展示されていたのは、スルタンの舟遊び用の実物の御用船だけで、そこにはガレー船の模型もなく、航海器具も海図もなく、海軍基地の見取り図などもどこにもなかった」

 博物館を出た塩野さんは、こう述懐する。
 「外に出て、一人。波立つボスフォロス海峡を眺めながら、私はその時、はじめて、私の主人公たち、ヴェネツィアの男たちを哀れに感じた」

 トルコは、徹頭徹尾、陸軍国家であったと塩野さんはいう。
 海にも、海軍にもまったく関心のない国だったのだ。

 それなのに、地中海世界最強の海洋国家であったヴェネツィアと互角に戦い合えたのは、膨大な支配地から徴収されてくる豊かな物資と労働力にモノをいわせ、海上で必死になっているヴェネツィアを、陸上であっけなく陵駕してしまうからだ。
 塩野さんが「ヴェネツィアの男たちを哀れに感じた」というのは、そのことである。

 オスマン帝国には、海軍を創建するという発想がなかったから、できあがった “海軍” も不思議なものになった。

 海軍とは名ばかりで、「海賊」を集めただけなのである。
 だから、帝国海軍の提督には、みなアルジェリアあたりの海賊の頭領が昇格した。

▼ オスマン海軍の提督を務めた海賊ハイレッディン(トルコドラマの役者)。ヨーロッパ人からは「バルバロッサ(赤ヒゲ)」といわれて恐れられた。イスラムに改宗したギリシャ人だったといわれている

 
 
 海の方は海賊に任せたオスマン帝国だったが、陸軍の養成には異常なほどの情熱を注いだ。

 実際、この当時のオスマン帝国の陸軍力は、世界最強といってよかったろう。
 その中核となったのが、有名なイェニチェリ。
 スルタンの近衛兵でもあり、征服戦争の中核部隊でもあり、オスマン帝国軍の柱となった部隊である。

 その大半は、バルカン半島あたりの領土から集められたキリスト教徒の少年たちであった。
 彼らは、奴隷のように徴集されて、イスタンブールに連行され、そこでイスラム教に改宗させられてから徹底的な軍事教育を施された。

 こうして、スルタンにのみ狂信的な忠誠を誓う、一種の洗脳された軍団が形成された。
 下の図は、そのイェニチェリの行進する姿。
 頭の上に船の模型を付けたりして、「わぁ、どういう軍隊なの !? 」という好奇心をくすぐられるけれど、頭に付いているのはパレード用のお飾り。別に船を頭に載せたまま戦場に行くわけではない。

 図で分かる通り、彼らは運動能力を高めるために、基本的に鎧などを身に付けなかった。
 この時代、ヨーロッパの騎士団は重装備であったために、突破能力には優れていたが、代わりに馬も兵士も重装備による疲労度が激しかった。

▼ ヨーロッパの重装騎兵

 このような重装兵と軽装兵の戦闘が長時間に及んだときは、軽装のオスマン兵の方が、疲労の蓄積を軽減されたことだろう。
 
 で、イェニチェリの軍事パレードには必ず軍楽隊が配置された。
 打楽器と管楽器を主体とした編成で、勇壮かつメランコリック。
 どこか哀しげな響きを持つ東洋風旋律を、激しい打楽器の力で戦闘的な高揚感に変えていく。


 
 攻城戦のとき、城のなかに立てこもったヨーロッパ側の民衆は、城外に流れるこの音楽を聴くたびに、自分たちに降りかかる暗い未来を予感し、胸に十字を切ったという。

 こうしてみると、イェニチェリ(↑)は、確かにおどろおどろしい顔つきの軍隊である。それは、敵を恐怖させるために、強面(こわもて)になるためのあらゆる工夫を凝らした結果だという。
 ヒゲも、唇以外には蓄えず、口ヒゲを異常に長く垂らして、太く伸ばす。そして残りの髪とヒゲはすべて剃り落とし、ことさら凶暴で残虐な印象を強める努力をしたのだとか。

 

 こういう凶悪的な顔つきの軍隊が、整然と隊列を組み、銃で撃たれても、槍で刺されても、ひるむことなくロボットのように正確に突き進んでくる姿を見ると、ヨーロッパの兵士たちはほんとうに恐怖におののいたそうだ。

 しかも、イェニチェリは、遠距離攻撃から接近戦に至るまで、状況に応じた戦いを自在に展開できる武器のプロ集団だった。

 彼らは基本的に歩兵であり、新月刀(ヤタガン)と斧を常時装備し、戦闘に当たっては銃身の長い小銃を構え、常に砲兵隊と一体となって戦線を構成した。
 その圧倒的な火力がもたらす破壊力に対抗できる軍隊は、当時どこの世界にもなかった。

 実際に、彼らの戦いぶりがどんなものであったか。
 それを示す動画を発見した。
 『モハーチの戦い』(このあと紹介)


 
 この動画は偶然YOU TUBEで発見したんだけど、3Dアニメというのだろうか。
 CGで作られているのだけれど、まるで実写フィルムによる映画を観ているかのごとく迫力がある。

 制作国はどこか?
 たぶんハンガリーである。
 
 ハンガリーは、歴史的テーマを扱ったアニメ制作が盛んなようで、YOU TUBEには、「Csataterek」(ハンガリー語で “戦場” ?)というタイトルの自国が関わった歴史的な戦闘を特集したアニメシリーズがある。
 この『モハーチの戦い』も図柄が同じなので、たぶんハンガリー製と思って間違いない。

 アニメだから、登場人物の顔がほとんどみな同じであることが唯一の難点。

 しかし、タイムマシンに乗って、実際の戦闘が行われた場所にたどり着いたならば、たぶんこんな光景が繰り広げられているはずだ。
 それほど、このアニメ技術はハイレベルだ。

 では、「モハーチの戦い」というのが、どういうものであるのか。
 簡単な解説をほどこす。 

 時は1526年。
 ヨーロッパ進出を果たしたオスマン帝国のスレイマン大帝は、さらにヨーロッパ中枢部に深く進攻するために、その “通り道” としてのハンガリー王国に足を踏み入れた。

 このとき、ハンガリー王国は、ただ1国で150年にわたり、オスマン帝国のヨーロッパ侵入を防いでいた。

 不退転の決意でヨーロッパ侵攻を目指したスレイマンは、イスタンブール(↑)に6万の兵力と300門の大砲を集結。
 スレイマンの号令一下、その大部隊がハンガリーに向かう。

 それを迎え撃つため、若干二十歳のハンガリー王ラヨシュ2世も、ハンガリー騎兵(↑)を中心とした3万の軍勢と、ランツクネヒトというドイツ傭兵、ポーランド兵の援軍の力を借りて、自慢の騎兵を展開するのに適したモハーチ平原に布陣する。

 その日の午後、オスマン軍(↓)もモハーチに到着。
 前方に広がっているハンガリー騎士団に向かって、同じく騎兵中心の布陣で相対する。

 ハンガリー騎兵団の突進が始まる。
 重装騎兵からなるハンガリー騎士団と、軽装のオスマン騎兵(シパーヒー)との戦いでは、突破力に優れたハンガリー騎兵がオスマン騎兵を圧倒する。
 重装騎兵の突撃に耐え切れず、オスマン騎兵は四部五列の状態で四散する。

 重厚な装備を誇るハンガリー騎士団は、長槍を水平に構え、いよいよスルタンの本営を目指して突進を開始する。
 このとき、ハンガリー軍は完全なる勝利を確信したはずだ。

 しかし、実はそれは用意周到に計画されたオスマン軍の作戦であり、彼らは勢いに乗ったハンガリー騎兵を自陣に深く招き入れ、騎兵の戦線が伸びきったところを強烈な火力の砲兵軍と、鉄壁なイェニチェリの防衛力で叩こうという計画を立てていた。

 それにまんまと乗ってしまったハンガリー騎兵団。大砲と小銃で火力の壁を作り出したオスマン歩兵の前で、少しずつ戦力を削がれていく。

 そのとき、散り散りになっていたオスマン騎兵(シパーヒー)も、いつのまにか再び結集し、弱り切ったハンガリー騎兵の背後から草を刈るように迫ってくる。

 騎兵団を失ったハンガリー軍には、熟練した歩兵軍団(↓)が残るだけ。
 オスマン軍の最精鋭であるイェニチェリとハンガリー歩兵との間に激しい白兵戦が繰り広げられる。

 しかし、大勢はすでに決まったも同然。
 敗走する自軍の兵たちを眺めながら、ハンガリーの若い国王ラヨシュ2世は側近たちを引き連れ、討ち死するつもりで、最後の突撃を試みる。
(このあたり、制作国がハンガリーであるせいか、国王の最後の突撃は美談めいた悲壮感漂う作りになっている)。
 
 ハンガリー軍の戦いは壮烈を極めたが、けっきょく国王ラヨシュ2世の戦士で終結。ハンガリー領の大部分がオスマン帝国のものになり、スレイマンはウィーン攻略のための橋頭保を築くことになる。

 ※ それでは、動画による「モハーチの戦い」(↓)をどうぞ。

 以上の動画からも分かるように、やはりオスマン軍の軍装というのは、実にエキゾチックだ。
 はじめて見ると、その異様な華麗さに目を奪われる。
 

 ハンガリー軍の軍装も華麗だが、こちらは理に適っていて、プライオリティーが「防御」におかれていることがすぐ解る。
 それに対し、イェニチェリの白いフェルト帽など、防御機能という面ではどういう意味があるのか、さっぱり分からん。
 たぶんに宗教的な意味があるらしいのだが、その “分かりにくさ” を含めて、エキゾチックである。
 
 
 次に、オスマン帝国の軍事的業績に触れた著作をいくつか紹介する。
 逸話として有名なものは、やはりメフメト2世によるコンスタンチノープルの征服だろう。

 これに関しては、現在2種類の良書がある。
 塩野七生氏の『コンスタンティノープルの陥落』(新潮社)と、スティーブン・ランシマンの『コンスタンティノープル陥落す』(護雅夫訳 みすず書房)である。

▼ 塩野七生 著『コンスタンティノープルの陥落』

▼ スティーブン・ランシマン著『コンスタンティノープル陥落す』

 塩野版は物語調で書かれ、ランシマン版は学術レポートのような文体で描かれているが、両者とも臨場感に富んでいて無類に面白い。
 
 
 海賊ものもなかなかいい。
 おすすめは、やはり塩野七生さんの書かれた『ローマ亡き後の地中海世界』だ。

▼ 塩野七生 著 『ローマ亡き後の地中海世界』

 
 
 特に下巻。
 先述した「バルバロッサ」ことハイレディン・レイスをはじめ、16世紀の地中海で勇名を轟かせたトルコ系大海賊が総出演する。
 プレヴェザの海戦で勝利し、地中海ではじめて “オスマン海軍” の実力を示したハイレディン(↓)。

 ヨーロッパ人からは「シロッコ」と呼ばれて忌み嫌われた海賊王モハメド・シャールーク。
 ガレー船の漕ぎ手として奴隷の身から船長にのし上がり、海賊行為で名を挙げ、最後はオスマン帝国海軍の大提督になったウルグ・アリ。

 このウルグ・アリ(↑)という “海賊提督” には、イタリアの貴婦人との実らぬ恋があったという小粋なエピソードが塩野さんの書かれた『愛の年代 「エメラルド色の海」』(↓)という短編にまとめられている。

 とにかく、この時代の海賊たちの活躍には、みな一級の冒険小説を読むようなきらびやかさがある。
 

 そのオスマン帝国海軍と、スペインやヴェネツィアなどのキリスト教連合軍が戦った『レパントの海戦』(↑)も、海戦読み物の白眉。
 これは常勝オスマン軍がはじめてキリスト教側の軍隊に負けた歴史的な海戦であるため、“オスマンファン” としての私には、ちと辛い。
 
 でも、大好きなウルグ・アリが、キリスト教連合軍の囲みを突破し、自分の指揮下にあった船団だけは無事に脱出させて、その後、トルコが失った海軍力をあっという間に取り戻して、トルコ海軍の総司令官になるという話が付け加えられているので、「良し」とする。

 ちなみに、この海戦に兵士として参加し、故国のスペインに帰った一人の男が、後にスペインを代表する作家としてデビューする。
 『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテス(↓)である。

 オスマン海賊に触れた書籍としては、ほかに、スタンリー・ルーン・プールの『バルバリア海賊盛衰記』(↓)がある。

 この本の帯には、
 「奴隷船、金貨、美女、トルコの半月刀、十字架、真紅の胴着、血で染まる地中海 … 今も心に残るなつかしい海の男たちの合戦絵巻」
 という言葉が躍っている。
 歴史書でありながら、もう立派な娯楽小説といえる。

 塩野さんは、キリスト教側の海賊を主人公にした話も書いている。
 『ロードス島攻防記』(↑)に登場する聖ヨハネ騎士団がそれ。
 
 名前から来るイメージは、とても高潔そうで、信心深そうな騎士たちの集まりに思えるが、どっこい彼らは、イスラム教徒たちに対してはそうとうおっかない海賊集団であった。

 この時代の「海賊」は、他国の船を奪って金品を強奪するだけでなく、お金持ちの乗客を捕虜にして、高額な身代金を取り立てることで生計を立てていた。
 ロードス島はイスタンブールとエジプトを結ぶ海路の要所にあったから、ロードス島騎士団は、トルコのお金持ちを誘拐するには格好の拠点を持っていたことになる。

 そのため、1522年に、オスマン帝国のスレイマン大帝は、400隻の船にイェニチェリを中核とした20万人の歩兵を載せ、ロードス島を包囲。
 7千人が立てこもるロードス島の要塞をめぐって、激しい攻防戦が交わされることになる。

 この話の展開も一級品の娯楽小説となっていて、何回読んでも楽しい。

 以下、オスマン帝国を知るために、自分が読んだ著作を下記に紹介する。
 いちいち感想を書くのに疲れたので、あとは、(著者や出版社には大変失礼なことながら)、本の装丁だけを掲載するという手抜きをお許しいただきたい。
 (ここまで長文のブログ記事をお読みいただいた方には感謝申し上げます)
 


 
 

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オスマン帝国伝説 への6件のコメント

  1. デルスー より:

    町田さんこんばんは。先日は、村上春樹の話題でお世話になりました。

    30年来の熱狂的オスマンファンというだけあって、非常に読み応えがある記事でした。とくに若かりし日の塩野氏の肖像写真というのを初めて見ましたが、割と予想通りにというか、なかなか強烈そうなご尊顔に若干ウケましたw

    ちなみに、オルハン・パムクの小説って何か読まれたことはありますか? 私はけっこう彼の小説が好きで、『雪』などはオールタイムベスト10に入れてもいいと思っているぐらいです。

    • 町田 より:

      >デルスーさん、ようこそ
      こちらこそ。
      「村上春樹」に関する情報には、こちらも本当に勉強させてもらいました。
      どうもありがとうございました。

      オスマン文化というのは、私にとって、西洋史と日本史の谷間に沈んでいた文化なんですね。多くの日本人にとってもそうなんでしょうけれど、オスマン文化って、西洋史的な分析では十分に語りつくすことはできなくて、もちろん漢民族の文化でもなく、我々が一般的に勉強するアラブ系のイスラム文化でもなく、… なんていうんでしょうね、… ユーラシアの騎馬民族的要素 + 東洋的専制国家の骨格 + 古代ローマ的な寛容性 + 古代アッシリア的な残忍性 …… と、まぁ、とても一つの要素に還元できない個性がいっぱいあって、なかなか一言では語りつくせないものを感じます。

      オルハン・パムク氏に関しては、恥ずかしながら、デルスーさんにはじめて教えてもらいました。
      さっそくWikipediaで検索してみました。
      すごく深いテーマを追求された作家のようですね。

      イスラム社会を考察するときに、日本では、それを「政治」と「宗教」の文脈で語るか、あるいは「歴史」の流れのなかで考察しようという方法しかないように思えますが、こういう「現代文学」としてとらえる方法もあるんだな … ということに気づかされました。

      さすが、デルスーさんですね。
      ただ単に文化的な情報をお持ちなだけでなく、文学作品としてもしっかり楽しんでいらっしゃるところが素敵です。
       

  2. デルスー より:

    オスマン愛が伝わるコメント、ありがとうございます。オスマン=トルコって、ずっぷりアジアというのでもなく、バルカン半島からハンガリーまで広がってるし、近代ヨーロッパの影と言えるような存在でもあって、うまく捉え切れない不思議な存在ですよね。

    そういえば昔、塩野氏の『わが友マキアヴェッリ』を読んでいて、一つだけ疑問に思ったことがありました。

    塩野氏によると、マキアヴェッリはオスマン=トルコの脅威を不当に軽視していたそうなんですが、当時、なぜトルコがあれだけ強かったのかといえば、一つには西欧の絶対主義国家に先立って、官僚制と常備軍をいち早く整備したから、ということが言えると思うんです。

    で、マキアヴェッリもそのことを知っていたはずなんですが、あれだけ傭兵を非難して常備軍導入を唱えていたはずの彼が、トルコのことは軽視していたというのが、どうも腑に落ちないというか・・。まあ、塩野氏はヴェネツィアLOVEな方なんで、陸軍国トルコにはとうとう、その何分の一かの興味しか持てなかったのかもしれませんが。

    ちなみに、パムクの作品で『わたしの名は紅』という、細密画師の間で起こる殺人事件を描いた作品があるんですが、これは時代設定が1591年のイスタンブールで、あまりよく知られていないスルタン・ムラト3世の宮廷が舞台になっています。今はなかなか本も読んでいられないかもしれませんが、この先ご養生される際、オスマンファンとしては読まれたほうがよいような気もします(笑)。

    • 町田 より:

      >デルスーさん、ようこそ
      やはり、デルスーさんのコメントには含蓄がありますね。
      ≫「オスマン帝国は近代ヨーロッパの影」 ……。うまい表現であるように感じました。
      おっしゃるように、たぶんオスマン帝国がヨーロッパに与えた影響は、モーツァルトの「トルコ行進曲」とかコーヒー飲料の習慣だけにとどまらないと思います。なのに、ヨーロッパに与えた影響はあくまでも「影」。

      ヨーロッパ諸国が大西洋航路に意欲的に進出するようになったのは、トルコに東地中海を牛耳られていたから始まったともいえるのでしょうが、もしヨーロッパの大西洋航路への進出が活発でなかったら、西欧の文化と産業はトルコ系のものになっていて、ヨーロッパの方が「トルコの影」になっていた可能性もありますよね。

      結局、ヨーロッパ諸国は大西洋に出たために、植民地獲得に励むようになったし、その富で産業革命を進めて近代国家の体裁を整えることが可能になり、20世紀になって、ようやくオスマン帝国を陵駕できるようになったわけですから。

      で、官僚制と常備軍の創設を提案したマキャベリが、なぜトルコを軽視していたのか。
      それは、私も同じように感じました。

      彼の『君主論』のモデルはチェーザレ・ボルジアだそうですが、この頃チェーザレもまだローマ教皇領の小領主。マキャベリは、イタリア国内の政治勢力がとてもトルコなどと比較できる状態には育っていないことを自覚していたのでしょう。

      それと、マキャベリが官僚制と常備軍を意識し始めたときに、その身近なモデルとなったのは、トルコよりむしろフランス絶対王政であったように思います。マキャベリにとって、(ヴェネツィアがトルコの脅威を防いでくれるかぎり)、遠いトルコよりもアルプスのすぐ北側に控えているフランスの方がやっかいな存在に思えたのでしょうね。

      オルハン・パムクの作品、本当に面白そうですね。
      時代設定が1591年 !?
      で、殺人事件 !?
      それって、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』みたいなものなんですか?
      トルコ文学もなかなかやるなぁ ‼

      いつもいろいろな情報をお寄せいただき、ほんとうにありがとうございます。
       

  3. Get より:

    お邪魔します。

    オスマン文化も歴史も何も知らないのです。
    ただ音楽や文化に影響を与えたくらいの知識しかありません。
    音楽においての影響は音律などに影響は与えてはいないようです。
    只、今まで見たことも聴いた事も無いマーチと共に進軍してきたトルコ軍。
    目の当たりにした感想は ”かっこいい” と畏敬の念を与えたのでは?
    と、夢をはせます。

    「ジェッディン・デデン」を初めて耳にした時は少なからず驚きました。
    興味が募り調べたところ、これがトルコ軍マーチと知りました。
    この曲のソースは 向田邦子作 「阿修羅のごとく」。
    さすがの向田邦子氏、意表を突いた曲の選定です。

    https://www.youtube.com/watch?v=_H-OyBoG2i0

    もう一つ、検索過程で思わぬ拾いものブログにぶつかったので、
    これも貼り付けます。

    http://9sais10.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-d972.html

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      すごいですねぇ ‼ 張っていただいた動画を観ました。
      『阿修羅のごとく』というドラマは、話題になっていたので、興味は持っていたんですが、観たことはありませんでした。

      しかし、紹介いただいた動画の一部分を見ただけで、打ちのめされましたよ。特に、トルコ軍マーチが突如鳴り響くシーンで。
      まぁ、ほんとうに、なんというインパクトのある音楽なのでしょう !
      西欧の文化に慣れ親しんで人たちにとっては、悪魔の鉄槌(てっつい)のごとく響き渡ったことでしょうね。

      もう一つのブログ記事も面白く拝読。
      特に、引用されていた中村とうようさんの文章が良かったですね。
      さすが、あの時代にロック・ジャズのみならず、様々なエスニックミュージックに関心を寄せていた中村さんらしい視点の記事だったと思います。

      面白い資料をご紹介いただき、ありがとうございました。
      こういう情報とリンクできることが、ネット文化の面白さですね。
       

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