団体戦に強い日本アスリートたち

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 2016年のリオ・オリンピックももうじき閉幕。
 残すところ2日となったこの19日の午後3時現在、日本のメダル獲得数は、金・銀・銅合わせて41個だという。
 これは、大会史上はじめてのことだとも。

 それにしても、男子の400mリレーは圧巻だった。
 個人で出場した100m走では、9秒台を出した選手が一人もいないというのに、4人合わせたタイムが37秒60。
 1位となったジャマイカチームが全員9秒台の選手をそろえたのに比べ、9秒台を出したこともない日本の選手たちが、リレーではジャマイカチームにまったく遜色のない戦いぶりを示して、銀メダルを獲得した。

 日本の勝因はどこにあったのか。
 個々の走者のレベルアップもさることながら、バトンタッチの技術に磨きをかけたところにその勝敗を分かつ理由が秘められていた。

 このブログの前の記事でも書いたことだが、今回のオリンピックでは日本人アスリートたちが団体戦においてめざましい力を発揮したことが大きな特徴であった。

 団体戦といっても、個人競技もある種目での団体戦である。
 陸上の男子400mリレーしかり(銀)。
 男子体操しかり(金)。
 あるいは、女子&男子卓球(銅)。
 さらには、女子バドミントンのダブルス(タカマツペア 金)。

 要するに、「ペア」「デュオ」「ダブルス」「チーム」と呼称はさまざまながら、複数の人間が仲間と呼吸を合わせながら試合を進めていくときに強さが発揮された。
 柔道やレスリングは個人戦ではあるが、日本の場合はチーム一丸となった練習や応援の積み重ねがメダル獲得につながっており、そういった意味で「チーム力」の勝利といえよう。
  
 これは、やはり、日本人が昔から大切にしていた「和の精神」の復活といえるのではないか。

 昔から、身体能力に優れた欧米アスリートに立ち向かうためには、日本はチーム力を強化することでしか勝機をつかめないといわれ続け、ひたすら団体訓練を続けてきた日本人選手団ではあったが、ここにきて、単なる連携プレイの強化だけでなく、個々の選手間が交わし合う「信頼」とか「愛情」、「尊敬」といったメンタル面がものすごく強くなってきたように思うのだ。

 400mリレーで銀メダルをとった選手たちが勝利インタビューで口々に語った言葉は、「とにかく仲間を信じて自分のベストを尽くすだけに集中した」というものであった。

 こういう表現は、日本人選手ならば昔から口に出していたものだが、2016年次においては、彼らの語る “仲間” という言葉が温かくなっているのを感じた。
 昔は、「仲間を裏切ったら申し訳ない」という悲壮感が漂っていたものだが、今の若いアスリートたちにはそれがない。
 たとえ誰かが失敗してチームが敗退しても、やはりメダルを取ったときと変わりなく健闘をたたえ合おうという大らかさが感じられるのだ。
 
 それは、現代っ子たちの “たくましさ” ともいえるだろうが、それ以上に仲間に対する「信頼」「尊敬」「愛情」の強さが表に出てきたからだろう。 

 前のブログで書いたことの繰り返しとなるが、やはり日本人の何かが変わってきている。
 個々人の人生を、社会的な地位や所得の多寡で評価し、無慈悲に「勝ち組・負け組」で分類してきた1990年代的思考から、ようやく日本人が抜け出してきたようにも見える。

 “失われた20年” と呼ばれた1980年代後半から2000年代の初頭にかけて、日本人の人生観や価値観はガラリと変わった。
 
 その時代においては、「グローバリズム」を標榜する英米の新自由主義的な政策が日本の経済界を席巻し、そういう経済社会が生み出す人間像が、その時代の新しいスタンダードとなった。
 それは、市場経済の競争原理をあからさまにむき出して、他者を出し抜いていくことを “正義” とする人間像だった。

 その時代に大手を振ってまかり通っていた言葉は「自己責任」。
 つまり、世界の紛争地帯に取材で出かけてテロリストに拉致されて殺されても、それは「自己責任」。
 学歴や経済的問題で一般的な企業に就職できず、労働条件の不安定な非正規雇用で働くことも、「自己責任」。
 
 1990年代後期には、脱落者を「自己責任」という言葉を使って置き去りにすることが、何か社会人のモラルであるかのような風潮がまかり通っていた。
 
 しかし、今の2010年代を生きる若い人たちは、社会から受ける厳しさを他者になすり付けて自分だけ生き残ることよりも、他者といっしょに手を取り合って脱出する方向に舵を切ったように思える。
 リオ5輪の団体戦を勝ち抜いた若いアスリートたちからは、まさにそういう決意が強く伝わってくるような気がする。 

 もちろん、仲間の置かれた立場に思いを馳せるという “共感能力” は自分と他者の絆を固める武器ともなるが、弊害も生む。
 
 かつて、集団や組織のなかでは「空気を読む」ことが大切だとされ、場の状況を敏感に察知する能力が珍重されたが、それが逆に、「空気を読めない人間」を排除するという排他性、閉鎖性を生み出す原因となった。

 また、場の空気を読むことが優先されたために、自分の気持ちを押し殺して仲間と表面的な統一行動に従事する風潮(=同調圧力)も問題となった。

 そのように、他者の “心を察知する” ことは、時と場合によっては、面倒なことに巻き込まれることもあるのだ。

 しかし、「空気を読むこと」の弊害や、同調圧力の息苦しさを経験してきたからこそ、今の若い人たちはそれを乗り越える処世術も身に付け始めたのではないか。

 どんな場合でも、メリットとデメリットは、メダルの裏と表の関係にある。
 仲間の気分を察知して、いやいや自分を押し殺すことは「同調圧力」に負けたことになるが、仲間と呼吸を合わせ一致団結することは「結束の固さ」の確認となる。

 「ポジティブ・シンキング」とは、メリットのみを妄信することではない。
 メリットの裏側に潜むデメリットを洞察しながら、メリットを選ぶ勇気。
 それが「ポジティブ・シンキング」の本当の意味だ。  

   

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

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