雨月物語

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黄金色に輝くモノクロ画像

シネマ漂流(映画感想記)No.12
『雨月物語』
 
 
 前回の映画レビューでは1958年の作品を取り上げたが、今回も昔の作品を。
 今日は邦画。
 『雨月物語』。
 1953年に溝口健二監督が手掛けた大映作品である。

 またしても、60年以上も前の映画だ。
 
 しかし、この時代は、ある意味で、邦画の黄金時代だったかもしれない。
 黒澤明の『七人の侍』(1954年)も、初代の『ゴジラ』(1954年)も同じ時期に生まれている。

 『雨月物語』も、その黄金時代の代表作に入れてよい作品。
 さすがに、映像表現は古い。 
 なのに、その “古さ” が、逆に美術品のような香りを伝えてくる。

 本物の “手触り” といっていいのか。
 長らく地中に埋もれていた高級土器を掘り出し、きれいに磨いて床の間に飾ったらこんな感じか … という映画なのだ。

 戦国時代を扱った作品だが、村や町の風景がまず違う。
 大道具で作った建物のかなたに広がる風景からは、見事に “現代文明の匂い” が消し去られている。
 CGで作られた画像とは違う本物の “土ぼこり感” 。
 1953年の日本には、まだ戦国末期のような風景が残されていたということなのだろう。

 そのことが、この映画に独特のエキゾチシズムを添えている。
 言葉で表現すれば、「戦国時代に、南蛮船に乗って日本を訪れた外国人の見た “日本”」 といったところか。

 脚本のベースとなったのは、江戸時代後期の作家である上田秋成が書いた『雨月物語』という小説。
 その中に収録されている「浅茅が宿(あさじがやど)」と「蛇性の婬(じゃせいのいん)」という二つの物語を組み合わせたものだという。
 ともに怪異譚である。

 しかし、単なるホラー映画ではない。原作がきわめて洗練された美意識に貫かれた文学だけあって、その艶やかな香りは、映画の中にもしっかり取り込まれている。
 
 
 以下、簡単にストーリーを紹介する。
 
 戦国時代末期、琵琶湖北岸の村に暮らす百姓の源十郎は、陶芸の才を発揮し、焼物を町まで売りに行くことで生計を立てていた。
 いつものように源十郎は、妻と子を村に残し、町まで焼物を売りに行く。

 町の路上で自作の焼物を売っていると、公家風の衣装を着た姫君と召使の老女が源十郎の前に立つ。

 二人の女は、「いくつの焼物をまとめて買うから、屋敷に届けてほしい」と告げる。
 源十郎が屋敷を訪ねると、そのまま奥の間に招かれ、酒肴の接待を受けることになる。


 
 そのとき、源十郎をもてなすために姫君が披露する日本舞踊が圧巻である。
 昔の上流階級が楽しんでいた、あの変化に乏しい “退屈な舞踊” が、当時はどれほど淫靡で妖艶なものだったのか。
 それをはじめて理解した気になった。

 この見事な舞を披露した姫の名は「若狭(わかさ)」といい、織田信長に滅ぼされた朽木氏の生き残りだという。

 美しい姫君の心づくしの接待に乗せられた源十郎は、そのまま朽木家に居ついて、“浦島太郎” 状態になってしまい、夜は屋敷内で酒を酌み交わし、昼は湖畔で陽光とたわむれて過ごす日々を繰り返す。

 もちろん、この姫は幽霊である。
 しかし、源十郎にはそれが分からない。
 むしろ、幽霊だからこそ備わっている “この世のものとは思えない” 妖艶な色香に惑わされ、次第に「このまま死んでもいい」という境地に引きずりこまれていく。
 

 この幽霊美女を演じるのが、「当代きっての美人女優」といわれた京マチ子。
 洋風の顔だちの人だが、それだけに、平安女性のような眉化粧を施すと、かえって妖艶さが引き立つ。

 現代女優で、このような公家風眉化粧を施しながら、それでも「美女」を維持できる女優さんなんて、ちょっといそうもない。
 
 この公家風女子のメイクで登場する京マチ子の顔を見ているだけで、いい意味でも悪い意味でも、鳥肌が立つ。
 能面の目の部分だけに、人間の心が宿ったような恐ろしさがあるからだ。

 女神か魔物か。
 いずれにせよ、人間界のルールとは別の生存原理を持つ「魔性の女」を京マチ子は巧みに演じる。

 ある意味で、エロ映画すれすれ。
 制作陣は、かなり色っぽい映画を意識したらしく、当時公開された宣伝ポスターには、下のようなものもあったようだ。

 ただ、映画のなかでは、京マチ子が肌をさらすようなシーンは一度も出てこない。
 なのに、源十郎を演じる森雅之(もり・まさゆき)と濃厚な “濡れ場” をたっぷり演じたな … ということを匂わせる演出が随所に施されている。

 たとえば、最初に泊った日の夜が明け、朝の寝所を訪れる姫君に対し、目を覚ました源十郎は問う。
 「はて、私はどうしたんでしょう?」

 魔性の姫は、はじめて恋を知った少女のようにうつむき、「まぁ、何もかもお忘れになられたようで … 」と恥ずかしそうに頬を赤らめる。

 ちらりと源十郎を振り向くときの動作はうぶな乙女のものだが、その目は妖怪の目になっている。
 おお、こわっ ‼
 でも、こういう女の怖さに男は弱いものだ。
 
 町に買い物に出た源十郎は、すれ違った旅の僧に呼び止められ、「あなたの顔には死相が出ている」と告げられる。

 朽木家の姫君は、やはり魔性の女なのか?
 旅の僧から体中に経文を書いてもらった源十郎は、姫の正体を探るべく、朽木屋敷に戻る。

 出迎えた姫は、源十郎の体に触れるや否や、その肌に経文が書かれていることを知り、電気ショックを与えられたようにのけ反る。

 「源十郎様 ‼、なんと恐ろしいことを … 」
 怒りの悲しみが、姫の心を襲う。
 正体を知られ、次第に悪鬼の相貌に変わっていく姫君。

 だが、その表情からは、大切なものを失う痛切な悲しさが溢れてくる。 

 この映画の美しさというのは、もしかしたら、モノクロフィルムであるところから生まれてくるのかもしれない。
 白黒画面なのに、色を感じるのだ。
 実際の色よりも、さらに鮮やかで艶やか(あでやか)な色。


 
 ブラック&ホワイトだけの世界なのだが、その玄妙な濃淡を見ているうちに、白黒画面が金糸銀糸の織り成す黄金色に輝き始める。

 その幻の色使いに、何度まぶしい思いをしたことか。
 ここでは「色情報」の欠如が、かえって鑑賞者の想像力を刺激し、モノトーン画面が満艦飾に光り出すというマジックが披露される。
 映画の豊かさとは、そういうものだと私は思う。

 魔性の姫の正体を知り、その呪縛を断ち切って気絶した源十郎は、朝を迎え、自分が寝ていたところが荒野に打ち捨てられた焼け跡だったことを知る。

 ようやく目が覚めた源十郎は、家に残してきた妻子を思い出し、焼物を売った金もなくし、無一文のまま故郷に戻る。
 (それはそれで衝撃的な結末が待っているのだけれど、ここでは触れない)。

 映画全般を通じて、主人公を演じた森雅之(もり・まさゆき)の演技力もたいしたものだ。
 この人、泰然とした優雅な紳士こそ似合う役者なのに、腰をかがめて歩く卑しい百姓を見事に演じきる。

 動作だけでなく、百姓の心も上手に表現する。
 町の人間に対してあこがれる気持ちと、それとは裏腹にわき起こる都会人への猜疑心、嫉妬心、対抗心。
 そして、そこから生まれる百姓のずるさと、したたかさ。

 そんな田舎者の心の動きを、森雅之は無言で演じ切るのだ。
 京マチ子といい、この森雅之といい、この時代の役者はほんとうに芸達者だとつくづく思う。

 昔の映画を観ることは、ほんとうに豊かな気分にさせてくれるが、残念ながら、今のBSやWOWOWでは、その上映本数が少ないのがさびしい。
 
 
▼ 京マチ子の妖艶さはこちらの画像で。

 
 

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