『高校三年生』

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 我々のようなジジババ世代だけが意識していることかもしれないけれど、最近やたら “昭和歌謡” の番組が多い。

 特にBSテレビ。
 8時台とか9時台。
 いわゆるゴールデンタイムと呼ばれる時間帯になると、多いときは3局ぐらい一斉に、昭和の歌番組みたいな企画を同時進行的に流している。

 で、こういう昭和の歌番組の時間帯というのは、ちょうど我が家の晩飯の時間帯に重なるから、ついついメシを食いながら観てしまう。
 そうすると、
 「この歌が流行っていた頃って、オレまだ高校生だったよなぁ」
 とかいう感慨にふけったりして、つい飯粒を拾う箸が止まったりする。

 この前、そういう番組の一つに舟木一夫(71歳)が出て来て、彼の代表作『高校三年生』(1963年)がヒットした時代の思い出を語っていた。

 彼の歌には、『修学旅行』、『学園広場』、『仲間たち』など、高校生活を歌った “学園もの” と呼ばれる一連の青春歌謡がある。

 そういう歌が大好きな友人が、昔いた。
 私は、小学生の頃から歌謡曲より洋楽に馴染んだガキだったから、舟木一夫よりも、ニール・セダカ、コニー・フランシス・ポール・アンカの方に興味があった。
 中学に入ると、もうビートルズの洗礼を受けていたので、そのままストーンズ、ジミヘン、ドアーズ、クリームの方にスライドしていった。

 だが、舟木一夫の青春歌謡 が好きな友人は、「ビートルズなどは音楽ではない」という。
 「心に迫るものがない」
 というのだ。

 と言い切ったところで、彼はいつも得意な歌をうたい出す。
 「♪ ああ~あぁ … 高校三年生。ぼくら離れ離れになろうとも、クラス仲間はいつまでもぉ」

 この舟木一夫の歌には “魂” があるという。
 「卒業式を迎えて、それぞれの道に進んで行く仲間同士の離別の悲しさと新しい旅立ちへの励ましを歌った舟木一夫の方が、ビートルズなんかよりも日本人の胸を打つ」
 というのが彼の持論であった。

 もっとも、彼はそういう言葉をそのまま使って自説を述べたわけではない。

 「ビートルズなんかいくらもいけねぇわな。それに比べてよぉ、『高校三年生』は心があるわ」
 というぐらいの表現でしかない。

 私は長い間、彼の音楽観を心に深く受け止めたことがなかった。
 だが、ある日、突然一つのことに気がついた。
 彼は、高校生活というものを、まったく経験したことがなかったのだ。 

 彼と私が、同じ学校生活を共有したのは小学校の6年間であった。
 卒業後、私は親の意向で都心の進学校に入学し、彼は地元の中学に入った。
 
 しかし、「ろくに授業に出たことがなかった」と彼は中学時代の思い出を語る。
 その学校で、“番を張っていた” という。

 つまり、他校の不良中学生から自校の生徒を守るため、昼は校門の近くに張り込み、放課後は繁華街にたむろして、いじめられそうな自校の生徒を守るため、他校の不良とケンカをしていたというのだ。

 だから、彼は中学生の頃から、歌でうたわれるような健全な学園生活など経験したこともなかった。
 
 武勇伝がある。
 他校の番長から呼び出されて、「タイマン」だという言葉を信じ、1人で決闘場に出向いたところ、10数人に囲まれてケンカになったという。
 そのとき、相手方全員に体を拘束され、口の中に丸太を突っ込まれたらしい。
 そのせいで、歯が全部欠けた。

 「オレ全部差し歯なのよ」
 飲み屋で昔話になると、彼はそう語りながら歯をむき出し、ニッと笑う。

 「でも、オレは一歩も引かなかったぜ。その後向こうの番長を町のなかで見つけ出してよ。しこたま仕返ししてやったわ」
 というのが自慢話。

 中学を卒業した彼は、やがて地元の旋盤工場に勤めて、機械工作の技術を身に付ける。
 ガタイもよいし、根性もあり、手のひらも大きく、器用な男だったから旋盤の扱いがうまく、優秀な工員として経営者にも気に入られたらしい。

 私が彼と再会したのは、そんなふうに、彼の仕事も充実していた頃だった。
 私はまだ親のすねをかじった大学生。
 私から見ても、社会人の彼は大きく見えた。

 そんな男が、酔うと、『高校三年生』をよく歌った。
 カラオケのない時代。
 居酒屋で飲んだ深夜の帰り道。
 あるいは、人気の絶えた夜の公園の野外ステージ。

 「♪ あかぁ~い、夕陽が、校舎を染めぇてぇ」

 彼がそう歌うとき、そこにはどんな気持ちが込められていたのか。
 高校生活どころか、中学の学園生活もろくに知らない男。
 クラスメイトとのなごやかな交流に背を向け、他校の不良たちと殺伐としたケンカに明け暮れた男が、『高校三年生』という歌に何を求めていたのか、私はいまだによく分からない。

 彼は、舟木一夫の『学園広場』や『修学旅行』もよく歌った。
 「学園生活」というものを、まるで歌を頼りに想像するかのように、思い入れたっぷりに歌うのだ。

 それらの歌が、求めて叶えられなかった自分の青春を取り戻す歌だとしたら、もう一つの流れとして、自分の今の心情を吐露する系列の歌もあった。

 「♪ 夜がまた来る。思い出を連れて。オレを泣かせに足音もなく」
 (小林旭 『さすらい』)

 「♪ 窓は夜露に濡れて。都、すでに遠のく。北へ帰る旅人ひとり、涙流れてやまず」
 (小林旭 『北帰行』)

 これらのいくぶんセンチな歌が、彼の本当の “心の歌” であったのかもしれない。

 “さびしい自分” に酔う。
 といえば酷な言い方になるかもしれないが、彼には、若干自分自身を演歌のヒーローに仕立てるような傾向があった。

 しかし、やはり実際に孤独な男だった。
 幼くして父親を失い、兄はヤクザになって家を飛び出し、母親は飲んだくれで働くこともせず、彼がなけなしの給料で買ったスーツを勝手に質屋に売り飛ばして飲み代に替えていたという。
  
 私が付き合っていた頃、彼に恋人やガールフレンドの影は見えなかった。
 だが、想い人がいることだけは、なんとなく気配で伝わってきた。
 もちろん、その相手との関係が現在進行形なのか、それとも過去の淡い思い出なのか、それは分からない。

 ただ、女に対して何も語らないことが、かえって彼の本気度を表しているような気もした。 
 彼が『北帰行』や『さすらい』を歌っているときというのは、たぶん相手の面影をいちばん強くたぐり寄せているときだったのだろう。 
 歌い終わると、話しかけても振り向きもせず、公園の湖面に映る月影をいつまでも眺めていることもあった。

 やがて、彼は仕事を辞め、私が通っている大学のキャンパスに昼間から顔を出すようになった。
 私のマージャン仲間とマージャンを打つためである。
 学生相手では、たいした稼ぎにもならなかっただろうが、それでも日々の飲み代ぐらいはマージャンで稼ぐようになった。
 
 しかし彼は、それを自分のふところに全部入れるわけではない。
 ゲームが終わった後、付き合った学生たちを引き連れて、盛り場に繰り出すのである。
 そして、自分がマージャンで稼いだ金で、学生たちに奢る。
 なんということはない。
 我々は自分たちの飲み代を、事前にその男に預けていたようなものだった。

 彼は大勝したときは、女性のいる高い店にも我々を誘った。
 ボトルを入れ、店のホステスたちにも酒をふるまい、豪勢なツマミをたくさんテーブルに並べて、彼は悦に入っていた。
 学歴のない自分が学生たちに奢ってやるという立場を得ることが、彼の自尊心をいたく刺激したことは確かだったろう。

 地味な旋盤工を辞めた後、彼はしばらくそうやって遊び暮らし、やがて半場を流れ歩く工事現場の建設員になった。
 バブル前。
 建設系の仕事はいくらでもあっただろう。
 彼の金遣いはさらに派手になった。

 この頃、彼の歌う歌が少し変わった。
 学園歌謡や演歌だけではなく、洋楽が加わったのだ。
 サイモンとガーファンクル。
 あるいは、ボブ・ディラン。

 「歌ややっぱり歌詞だ」
 と彼はいう。
 ROCKの歌詞には “心” がないが、サイモンとガーファンクルやボブ・ディランの歌には “魂” があるといい始める。
 
 この頃から、彼は読書家にもなっていた。
 「三島由紀夫や大江健三郎はつまらないな。せいぜい読めるのは五木寛之だ。あんたら学生は五木寛之をバカにしているけれど、五木は演歌という世界をよく分かっている。それって、人情が分かるってことよ」
 一緒に飲みだすと、よくそんなことを語っていた。

 さらにいう。
 「あんたらが教祖だといって崇めているヨシモト・リュウメイだっけ? あれはバカだな。難しいことを言うことが偉いことだと勘違いしているぜ。それよりも、本当にすごい作家は色川武大(阿佐田哲也)だ。マージャン小説だって、人の心を凍らせるようなことを書くぜ、あいつ」

 どういう角度で文学に接しているのかよく分からないが、彼には独特の文学観というものがあった。

 時に、とんでもない難解な文学者の著作を口にする。
 埴谷雄高の名が出たり、ドストエフスキーの名が挙がったり。
 どれほど理解していたのか。あるいは本当に読んだのか。
 そういうことまで私などにはよく分からなかったが、少なくとも、さまざまな文学者の吐いた言葉、演歌の歌詞、広告系のキャッチなど、面白い言葉を拾うセンスには長けた男だった。

 彼はその卓越した言語感覚を生かしながら、人を恫喝するような表情でジョークを言い、人を小ばかにしたような表情でマジな心境を語る男になっていった。

 勉強をしないまま中学で番を張り、旋盤工から建設業を渡り歩き、マージャンで稼いだ金で学生たちに酒を奢る。
 短い生涯だったが、彼は、それなりに充実した人生を楽しんだのかもしれない。

 晩年は生活費に苦しみ、ほぼホームレスに近い生活を続けていたが、昭和が終わる頃に亡くなった。
 酔って、歩道からいきなり車道に飛び出したという。
 自殺か事故か。
 それはいまだに分からない。

 私の昭和歌謡には、そういう思い出がある。
 そして、彼のマージャンを打っていた時代の姿は、多少のアレンジを加えられながらも、桐野夏生氏の小説『抱く女』に描き込まれている。
   
  

  
  
参考記事 『抱く女』
 
参考記事 「伝説の麻雀師」
  
参考記事 「風に吹かれて」
 
 

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