まっすぐな道はさびしい

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 俳句とか短歌が持っているなんともいえない情感が好きである。
 
 普段はめったに接することのない俳句・短歌のたぐいだが、退屈ざましにめくった週刊誌などの “俳句コーナー”などで見かけた句に、しみじみとした情感をかきたてられることがある。

 『サンデー毎日』(2016年10/30号)の “サンデー俳句王(はいきんぐ)” というページで、次のような句を拾った。

 まっすぐな道に出(いで)けり秋の暮れ

 作者は高野素十(たかの・すじゅう)。
 俳句とか短歌というこの手の文芸にうとい私にとってはじめて聞いた作者だったが、この句を選んだ石寒太(いし・かんた)氏の解説によると、高野素十は、1895年に生まれて1976年に亡くなった茨城生まれの歌人だとか。たぶん『サンデー毎日』を読まないかぎり、一生知ることのなかった作家であったかもしれない。

 この句のインパクトは何か?
 それは、100%情景しか詠(うた)っていないことの鮮烈さである。
 
 描写されているのは、「まっすぐな道」と「秋の暮れ」の二つだけ。
 それを見て、「面白い」とか「さびしい」とか「悲しい」とか「切ない」などという作者の詠嘆は一言も詠われていない。

 なのに、この句が孕んでいるとてつもない “さみしさ” は、いったいどこから来るのだろうか?
 これを読んだのは、入院していた病院のベッドだったが、鳥肌が立つような切なさに襲われた。

 目に浮かんでくるのである。
 晩秋の弱々しい陽射しに照らされた、何の変哲もない直線路の寂寥感が。
 
 とにかく、構成がうまい。
 最初の「まっすぐな道」という一言では、まだ何も語られていない。
 しかし、それに続く「に出(い)でけり = に出てしまった」という言葉で、にわかに読者の心にさざ波が立つ。
 おそらく、この句の読み手(主人公)である人間は、それまで、うねうねと曲がった見通しの悪い田舎道でも歩いてきたのだろう。
 
 ところが、突然視界が開け、そこに見通しの良いまっすぐな道が現われた。
 それは読み手に、なにがしかの驚きをもたらした。

 その驚きとは、“見通しが良いのに誰もない” という「さびしさの発見」がもたらすものである。

 「誰もいない」ということが、どうして分かるのか?

 もし、直線路に人がいたり、牛がいたりすれば、「道」ではなく、見たものが語られるはずだからだ。

 この “不在感” が、この句の最大のポイントである。
 「出でけり」 = 「出しまった」という途方に暮れた感じの言葉づかいが、詠み手の “心細さ” のようなものを表現してあまりある。

 そして、ひっそりとした直線路が、“弱々しい秋の陽光に照らされている” という終句で飾られることによって、寂寞たるさしびさが完成する。

 
 「まっすぐな道」はなぜさみしいのか?
 それは、見通しが良いのにもかかわらず、目が何も捉えることができないからだ。
 「見えるはずだったのに、何もなかった」
 人間の感じる “挫折” というものを一言で言い表せば、そういう言葉になろう。
 「視界が良い」ということは、「さびしい」ということでもあるのだ。

 この “一本道のさびしさ” は、また多くの画家が好んで取り上げる画材の一つでもある。
 たとえばエドワード・ホッパー(1882~1967年 アメリカ)の描く道。

▼ エドワード・ホッパー

▼ エドワード・ホッパー

 
 上のような一連の絵とからめて、再び前の句を読んでみると、また新しい感慨も湧いてくる。

 まっすぐな道に出(いで)けり秋の暮れ
 
 絵画などを眺めながらこの句を噛みしめてみると、見通しの良い直線路こそ、むしろ「迷宮の入り口」ではないかという気分になってくる。

 この句を取り上げた石寒太氏は、同じテーマを追求した句として、次の二句も挙げている。

 この道や行く人なしに秋の暮れ (芭蕉)

 まっすぐな道でさみしい (山頭火)

 ともに、秋の寂寥感(せきりょうかん)のようなものが色濃く立ち込めて来る句である。
 
     

カテゴリー: アート, 映画&本   パーマリンク

まっすぐな道はさびしい への26件のコメント

  1. Do-daro より:

    「意味のない空虚と向き合う勇気。」という町田さんのコメントを読んでなんとなくホッパーの絵を見に来ました。でもこれは空虚ではなく寂寥感かな?
    この人、何故寂しい絵ばかり描き続けたんだろう?中島みゆきの視点のような気もする。

    • 町田 より:

      >Do-daro さん、ようこそ
      コメントありがとうございます。
      ここにいただいた文面から、Do-daro さんが政治、経済、現代思想などの領域にとどまることなく、文学、音楽、絵画などの幅広い分野に関心をお持ちである様子がよく伝わってきました。

      そうですね、エドワード・ホッパー。
      この人はなぜ、寂しい絵ばかり描き続けたのか。
      謎です。
      ただ、昔、文芸評論家の川本三郎が、こんなことを言っていました。

       「ホッパーの絵が、見る者に恐怖と畏怖の入り混じった非日常的な感覚を呼び起こすのは、絵の中に、人間の作ったモノはあるのにもかかわらず、作った人間がいないという不在、欠如のためである」(『青の幻影』より「不在の風景」)。
       そして、
       「ホッパーは、アメリカのなかの最初の “疲れた都市生活者” と呼んでいいかもしれない。つねに新しさ、旧大陸とは違う新大陸、アメリカン・ドリームを追い求めてきたアメリカ人が、20世紀を過ぎたターン・オブ・ザ・センチュリーの時点ではじめて前に進むのをためらった。新しいものを追い求めるのを躊躇した。はじめて疲れを感じた。そしてその疲れを否定せず、むしろ新しい感覚として大事にしようとした。ホッパーの絵はその『疲れ』から生まれたものに思えてならない」
       … とまとめています。

       中島みゆきも、都市生活の華やかさとは無縁のところで生き抜く人たちの、ふと漏らす “ため息” のようなものを歌ったアーティストですよね。
       今のテレビやネットで流れる歌は、みな “テンションMAX” の歌ばかりですが、テンションMAXって、疲れますよね(笑)。そして、そのうちシラケてくる。
       中島みゆきの “暗く寂しい歌” の方が癒されることが多々あります。
       

  2. 北鎌倉 より:

    動物や他の生物には常に「道」があります。考えることもなく「道」はあり、その「道」を行くのが生きることのまっすぐを意味しました。人間だけが多様な道を見せられますが、どの道を行っても、それが消えるようにしか存在しない道しかないのです。カフカはそういう「道」について皮肉たっぷりにこうメモしていました。
    「真実の道は高い空中ではなく、地面すれすれに張られた一本の綱の上に伸びている。それは歩いて渡られるためというより、むしろつまずかせるためにあるようにみえる。」「秋の道のようだ。掃き清められたかと思うと枯れ葉に覆われている。」「一つの目標があるのにそこに至る道はない。ふつう我々が道と呼んでいるのは逡巡(迷い・ためらい)のことである。」
    こういうふうに「つながらない道」を道として持たざるを得ないこと、いろんな道がありそうでいて、その道からも切り離されて孤立しているような位置にいること、これを二―チェは病気と呼ぼうとしました。

  3. 北鎌倉 より:

    私たちは日々健康なのではなく、健康へと転化されています。現代の医学は健康から病気になるのだと教えていますが、違います。人は常に病気でありつつ健康なのです。ここに病気を健康にもち込む、自然治癒力が根源の力として作用しています。あなたは病気だ(たとえばガンだ)と医者に宣告された人は、まず自分がいま病気になったのではなく、自分の持つ自然治癒力がどこかで弱まってきたから、もっともっと自然治癒力に賭けてみる努力をすべきなのです。自然治癒力は決して抽象的なものではなく、その人の衣食住をみつめる姿の中でしか湧き上がってはきません。その人が書物や観念の中をさまよい自然治癒力を「待っている」のだとしたらその力はひときれもわき起ってはきません。カフカはこんなことも書き留めていました。
    「永遠の道をなんと容易に進めることかと自分で驚いている人がいた。その道を下に向かって突っ走っていたのである。」

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      「道」という言葉から、さまざまな想念を思い浮かべられるのは、人間だけだということなんですね。

      実際に、どこかの入学試験だったか、あるいは企業の入社試験だったか忘れましたが、論文審査の出題に「 “道” について所感を述べよ」という筆記試験が行われたようですが、似たような出題はいろいろな試験で試されていると聞きます。

      つまり、「道について語れ」というテーマがいろいろなところで繰り返されているということこそ、「人間は道に迷う動物である」という結論が前提になっているということなんでしょうね。

      おっしゃるように、人間が道に迷うということは、人間にとっては道が多様にあるということであり、多様にあればこそ選択不能という混乱が待ち受けているともいえるわけです。

      しかし、もし動物が道に迷うとしたら、それはいったいどういうことなんでしょうか。

      ヘミングウェイの小説『キリマンジャロの雪』の冒頭では、頂上近くに、ひからびて凍り付いた1頭の豹の死体があると記述されています。そして、「その豹がそんな高いところまで何を求めてやってきたのか、誰も説明したものはいない」と続きます。

      この豹は道に迷ったのか、それとも目的を定めて、一途に登頂したのか。
      この1行を添えることで、ヘミングウェイは何を書きたかったのか。
      この文章のそっけない不条理感が好きです。

      今回もまた北鎌倉さんから、物事を深く考えていくためのヒントをいただきました。
      古いエントリーまでいろいろ読んでくださるようで、いつもありがたいという気持ちです。
       

  4. 北鎌倉 より:

    町田さんの言葉の筋の通し方の明晰さにはもう驚くばかりで、印刷して繰り返し読ませていただいています。こちらこそ本当にありがとうございます。

    大気と水(海)は動いています。大気は気象として、海は海流として地球を巡り巡っています。太陽も長い眼で見れば、、地下のマントルの動きにそって隆起し、噴火し陥没し、移動しています。その流れとして存在する領域・環界のことを、「道」と呼ぶことができます。そこで呼吸することが道を行くことであり、生きることであることとして理解をしたいのです。
    太陽を渡る鳥や大洋を回遊する魚などは、その生態の壮大さによって不思議がられてきました。その驚嘆からくる最初の問いは、鳥や魚はどうやって「道」を知っているかというものでした。こういう疑問が出てくるのは、まず個体を想定して、それが遠くへ行けるのはなぜかと問うからです。そういう発想は私たちの側に根深くあります。でも、領域・環界を息(呼吸)するというものが、もともとは「道をゆく」ことなのだとしたら、鳥や魚の大移動もそんなに不思議ではなくなってきます。

  5. 北鎌倉 より:

    海で生まれた生物は、海流に乗って動かざるをえないわけで、「流れ」ははじめから生きる場面に組み込まれていました。大気もまたそうです。寒さや暑さ、湿度や乾燥、酸素、窒素、二酸化炭素の量や、紫外線の度合いなどの変化は、総じて「大気の流れ」の変化です。大気も常に動いています。こうした地球=自然のもつ地球上の周期的な変化、流れにそって小型の動物が動き、その動きにそって大型動物も動くという「生物の道」がつくられていきました。植物もまた動いています。花粉は飛び、つるや根は這い、一族を広げ境界争いをし棲み分けています。この植物の流れと棲み方にそって、動物たちもまた流れてゆき棲み分けています。植物と動物では動きの速度や形が違っているだけです。
    その点では、ベルグソンが「創造的進化」で言った、植物の本質は固着、動物の本質は可動にあるとした見解には同意ができません。

  6. 北鎌倉 より:

    どのような生物も自らの行けない所で、生きるわけにはいきません。行ける道を領域・環界とする生物にとっての具体的な息(呼吸)だからです。少し言いかえれば、からだは道としてつくられていて、道を行くことが息・行き・生きの実現になっています。
    からだは道です。一言で言えばそうなのですが、私たちの通常の感覚からでは、これはなかなか理解しがたいことです。なぜなら私たちのからだは、常に「個体」であり「一つ」として理解されてるからです。
    解剖学的にからだの仕組みを調べると、神経や血液の「流れ」を知ることができます。「からだには血が流れてる」と理解してしまいます。血が流れている、神経が通っている、という言い回しはどういうことなのか。端的に言えばからだには道があるということです。神経や血液の通る道が。
    でもそういうふうに受けとめるだけでは、からだのことを間違えてしまいます。神経や血液が「流れている」のではなく、実はからだそのものが「流れ」であり「道」としてつくられていたからです。新陳代謝という言い回しの方が、細胞や骨の再生を想起させる点でまだわかりやすい点があります。

  7. 北鎌倉 より:

    しかしながら血液といい、神経といい新陳代謝といい、そういう概念でもって理解できるのは、個体が個体として循環しているのだという姿だけであって、その姿が同時に領域・環界と循環しているのだとは想起させにくいのです。からだには道があるという理解と、からだは道であるという理解とは同一ではありません。私たちの理解したいのは、解剖学的にみてからだの中に道があるということではなく、からだそのものが道としてつくられているということについてなのです。
    植物は「遠」をゆき、動物は「近」をゆく、とはクラーゲスの言葉でした。ここに端的に植物と動物の「道」の違いが言い現わされています。つまり領域・環界を息(呼吸)するということは、その独自な領域・環界を道にすることでした。その独自な道を個体の姿に限定させているのがからだなのです。そこから私たちは、姿は道である、という理解を導くことができるのです。

  8. 北鎌倉 より:

    シカやウマやゾウやゾウの目はどうしてあんなにやさしいか?ヒョウやライオンやヘビやタカの目が、それらとは対照的に険しく鋭いのか?標本学、形態学からでは、その違いは問題にも意味も問いません。草を食べる生物は草を領域とするものであり、草の目つきをもつことになり、動くものを食べる生物は、動くものを領域とすることになり、動くものを追い続ける目を持つことになります。姿とは領域を息(呼吸)にすることの現れだからです。
    生物の姿(形態)には、その生物が生きるために相手にしているものの姿がそのまま刻み込まれているのに違いありません。だから私たちは姿をみて、その生き物のもつ「ねらい」を察してしまうのです。生物の姿は、それゆえに基本的には地球なる圏を領域にする姿と、他生物を領域にする姿の、二重の領域を姿として刻み込んでいるに違いありません。姿はそういう意味において、いつも「意識」されて成立しています。お互いの生物圏を領域とする限り、そういう相手の領域を自分の姿の中にもたざるを得ないので、動物のなかにも植物の姿が、植物のなかのも動物の姿が、あるいは植物のなかにも菌類の姿が、菌類のなかにも動物の姿が、必ず刻み込まれています。生物の進化は、様々な初源生物の合体過程だと考えざるをえません。細胞といった高度な姿そのものが多くの生物の合体の姿である、と。

  9. 北鎌倉 より:

    生物圏の不思議な共生のあり方は、ダーウィン説の弱肉強食の思想からは理解しにくいものです。ワニの口の中で掃除する鳥や、イソギンチャクの中に隠れる魚。こういう共存は不思議がられますが、動物の胃や腸に住んで消化を助ける原生動物や菌類のことは問題にされません。
    私たちは、個体というものはあまりにも一匹であり、一羽であり、一人であると思い込んでいる節があります。個の中に別な個が住んでいると考えるのは何となく不気味であり、それは本筋でない寄生の状態に過ぎないと思われてきました。でも細胞ができそれが多細胞化してゆく過程は、一が多に分裂してゆく過程であるだけでなく、多が一にまとまってゆく過程でもあったということを考えておきたいと思うのです。言ってみれば、一者は多者である、と。だから姿はつねに多者の姿をはらんでいる。「白血球がバイ菌を食べる」姿を拡大したフイルムをみる人は、それが一者の中の多者の「戦い」であることを知ってきっと驚くのです。

  10. 北鎌倉 より:

    2017年10月30日8:12PMのコメントの「太陽」は、「大陸」の誤字です、ごめんなさい。

  11. 北鎌倉 より:

    「その豹がそんな高いところまで何を求めてやってきたのか、誰も説明したものはいない。」
    ヘミングウェイの言葉には、「知る」ことと「確信する」ことの相克が含まれていると思います。説明という「知識」として問えば、ハッキリと確定できる答えはいつまでも得られないに違いありません。けれどもその問いは、「確信」の次元からみたら。何ら問いをなさないものにみえてきます。
    「豹の死体がある」という、その「ある」ことの確信だけで、何とも言えない豊かさにめぐりあっています。その<確信>は、知識としての<知る>ことに転化することはできません。知ることは確信するにとうていおよばないのです。

    生が「道」である限り、逆にいえばゆくてにのびる希望から動物も人間ものがれることができないのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      「道」というテーマについて、鳥や回遊魚の例をとり、「個体」を前提として発想する人間との違いについての考察、とても面白く拝読いたしました。

      ≫「人間以外の生き物(植物も含めて)は、常に大気の流れや海流に沿って動いているのであり、それが彼らにとっての本来の “道” なのだ」と。
      すなわち、彼らは、太古の昔から未来に向かって、道のように種が連続していく生命体として生きていると。
      つまり、DNAとは、種の「途切れない道」を意訳した言葉なのかもしれませんね。

      それなのに、なぜ人間だけが、「個体」という一代限りで完結した生存モデルを考えてしまうのか。この論旨の流れは非常にスリリングで見事でした。

      ヘミングウェイ作『キリマンジャロの雪』の冒頭で触れられる豹の話。
      「その豹がなぜそこまで登頂してきたのか、説明した者は誰もいない」。

      そういう表現に含まれている「豊かさ」を見逃さない北鎌倉さんの視線。それも素敵でした。
      私もまた、そのように思います。
      人間にとって、本当の豊かさは、「知」を超えたところにある、ということですよね。

      「知」というのは言語活動ですから、真の豊かさにたどり着くためには、言語の果てる瞬間を見つめなければならない。
      それをヘミングウェイは、『キリマンジャロの雪』において、“豹の死体” という寓意で示したかったのかもしれません。
       

  12. 北鎌倉 より:

    こんな短歌があるんです。
    「雨だから迎えに来てって言ったのに傘もささず素足で来やがって」
    これは怒っているのではなく、感動してるんですね。雨だから迎えに来てって電話で言ったら、それは傘二本持ってきてって意味ですね。だけど言われた方は一本も持ってこなかった。しかも裸足、靴も履いていない。ひどい。ひどいけど来た。迎えに来てって姉が言ったから、迎えに来た妹は。ちゃんと約束は守った。その約束は何の役にも立っていない。何の役かといえば、風邪をひかないため、「生きのびる」ため。風邪をひくと「生きのびる」のに不利だから。つまりここでは、「生きのびる」ためのファクターが無視されて、迎えに来てって約束だけが存在しています。果たされたのは「生きる」側の約束。私たちが生きている中ではごちゃごちゃしています。「生きのびる」ことと「生きる」ことが。こんなにもくっきり、「生きる」ことだけがつきつけられることはめったにありません。その証拠にこの人は忘れません、この日のこと。あの日あの人は来たけど、傘を持ってこなくて、二人で濡れて帰って一緒に風邪ひいた、みたいな。風邪ひいたら、「生きのびる」ためにはNGです。でも、「生きる」ためにはOKなものを測る尺度はシンプルなもので、それは忘れられないかどうか。
    裸足で迎えに来る人間のオーラ。人間ではないような、異様な輝き。その輝きの源というのは、「生きのびる」ということを顧みずに、「生きる」に純化した魂の輝き。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      「生きること」と「生きのびること」の違いを、雨の日に傘も持たずに向かいに来た妹と、それを待っていた姉の心情に託して解説された手腕はたいしたものだと思いました。
      人はみな「生きる」ことの純粋さや美しさに憬れるのでしょうね。
      それはまさに北鎌倉さんがおっしゃるとおりです。
      でも、実施の生活においては、「生きのびる」方を選んでしまうというもの悲しさ。たぶん、そういうものが、いろいろな文学や演劇などを構成するときのベースになるんでしょうね。
       

  13. 北鎌倉 より:

    素足で来る女の子。マンガを描いていたときこんなキャラクターまるでまったく思いつきませんでした。この短歌の女の子をどれだけ動かせるか、このトレーニングは自分を創作のうえで決定づけました。
    見る間にコロコロ表情が変わる。こちらが怪訝な顔つきをすれば、向こうも眉をひそめる。こちらが声をかけると、ハイと振り向いたときには微笑んでいる。他人から悲しい噂を聞けば、たちまち瞳を潤ませ、からかわれれば両頬をぷうっと膨らませる。まあ、その目まぐるしいこと、まるで小鳥。
    とにかく感情が豊か。でもそれを子供つぽいというけれど、子供のあどけなさとは、どこか違う。もっとしたたかで、いざとなれば、男が顔色を失うくらいに大胆である。直情的かと言えば、ひどく婉曲的な表現を好む。ウブではない清純ではない、けれどすれっからしでもなく不良でもない。
    こんなふうにキャラを造形して見ると、若い女のとりとめのなさを、私たちは十代で忘れてしまっています。
    妻となり母となり老いて尚、忘れてないように見える女性に、ドキリとさせられます。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      男からみると、一見とりとめもない存在である「少女」。彼女のすべての所為がこちらの思惑を裏切ってくるし、その内面世界がどのようなものであるか見当もつかない。
      そういうミステリアスな少女の存在は、創造的な仕事をしている男たちの想像力を無限に刺激してきますよね。まさに、アイデアが湧き出てくる源泉のようなものです。

      たぶん、こういう少女像というのは、もう古典の世界からあったのではないでしょうか。
      『竹取物語』のかぐや姫などというのは、そういう存在であったかもしれないですよね。彼女のもとに群れ集う婚約を望む公達たちは、いくら世俗的な利をちらつかそうとも、誰もかぐや姫の心に迫れない。
      「月から来た」というのは、すでにその設定自体が、少女の捉えどころのなさの比喩であるように思います。

      オスカー・ワイルドの戯曲のサロメなどという少女もその系譜ですよね。
      ただ、サロメの場合は、世紀末思想に彩られ、そうとう “邪悪な衣装” を着せられていますが。

      北鎌倉さんが追求されている「素足で来る女の子」は、そういう古典的な “謎の少女像” を超えて、さらに新鮮です。そういう少女が、妻や母、老いた婦人の中にも現れるという観察は素敵ですね。
       

  14. 北鎌倉 より:

    江戸の恋人同士が「雷門の前で暮れ六つに待ち合わそうね」と言います。暮れ六つは時間にして約2時間の幅があります。2時間待つ覚悟はあるんですね。現代の恋人たちは限度17分とか。百年でこれだけ変わったんですね。
    良い時間、悪い時間を区別したとき、私たちの良い時間は、ある点から点までの間にどれだけ多くのものを詰め込めるか、効率が時間のバロメーターになっています。江戸の人には「時間がない」の言葉がなかったんです。
    時間は無尽蔵にある。自分が生まれる前からあったし、死んだ後もずっとある。そういう感覚でした。時間はいくら使っても減らない。今の私たちは「本当に時間がなと手柄のように言ってますが、ずいぶん貧乏くさい価値観ですね。
    江戸の良い時間、これは、「ああ美味しかった」「ああ嬉しかった、面白かった」、つまり感動があった時間、何か感じた時間がとても良い時間で、記憶に残っていくんですね。何もなかった時間は止まっているも同然でという考えでした。
    100年以上前はこんな時間感覚で生きてたことに、驚きます。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      江戸時代の人々が持っていた時間感覚と、それから100年後の人々が持つようになった時間感覚の違い。
      どのように違うかというと、現代人の時間感覚には、江戸期の人には無縁だった「効率」という概念が忍び込んでいると。
      とても、示唆的なご指摘でした。

      これは私の個人的な発想ですが、その差こそ、「近代」という言葉で説明することも可能かもしれませんね。

      100年前といえば、ヨーロッパでは、ワットの発明した蒸気機関というテクノロジーが、蒸気機関車など様々な動力源に使われ始めた時代です。
      この頃に、イギリスなどを中心に労働集約的な工場が数多く建設され、そこに大量の労働者が集められるようになりました。
      その労働者を管理するために、始業と終業を決める時間が重要視されるようになり、その間、いかに生産性を高めるかということで「効率」という概念がクローズアップされてきたと考えられます。

      明治になって、江戸時代の人々の時間感覚が、近代ヨーロッパの時間感覚に染められるようになっていく。
      たぶん、それを体験した明治初期の人々は、さぞや息苦しい時代になったものだと嘆いたんでしょうね。
       

  15. 北鎌倉 より:

    「男たちは多くを期待し過ぎるけれど、私には応えてあげることができない。彼らは、鐘が鳴るのを、汽笛が鳴るのを期待する。でも私の体は他の女性たちと同じなの」
    こんなことを言えるマリリンモンローの、素の自分自身への眼差しは新鮮でたまらない魅力があります。
    「雪が顔にかかりながら、大歓声をあげている兵士たちの前に立ったとき、生まれて初めて何も恐怖を感じなかった」
    戦場で明日死ぬかもしれない無数の兵士たちの前で、はじめて解けたのは、それまで常に感じていた自分の恐怖でした。兵士もまた、セクシーだからの大歓声ではなく、降りしきる雪のなか、薄いドレス姿で微笑む女神に、死すべき運命を超える、永遠の姿を見たのかもしれません。
    そのドレスの上に兵士たちと同じ軍用ジャケットを羽織ったマリリンモンローの写真が残されていて、彼らと共に笑いあう表情が、死の、そして恐怖から解放された魂の証のように思われます。
    明日死ぬかもしれないのは、前線の兵士だけではないのですから。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      コメント拝読し、つい “降りしきる雪のなか、薄いドレス姿で微笑む女神” としてのマリリン・モンローの画像がありはしないかと、グーグルの画像検索で探してみました。
      探し方が悪かったのか、≫「兵士たちと同じ軍用ジャケットを羽織ったマリリンの写真」も見い出せませんでした。

      でも、北鎌倉さんの描写力はすごいですね。
      実写画像がなくても、文章を読んだだけで、そのときの状況が網膜に再現されます。
      漫画や絵画で鍛えた画像描写力が支えているのか、文章においても、描くべき対象物を “目に見える” ように描き出しています。

      文章における写実性というのは、細部が具体的に描写されているということではなくて、その文章を書いた描き手の世界観がそこに反映されているかどうかということにかかってきます。

      死すべき運命は、戦場の第一線で戦う兵士けではなく、すべての人に等しく降りかかってくるものだという洞察。それに思い至ったとき、誰もが死すべき運命を超えた “永遠なるもの” を発見する、という世界観。
      そういう “世界への眼差し” こそが、文章のリアリティーというものを保証するのでしょうね。
       

  16. 北鎌倉 より:

    胃に影があります。胃カメラを飲むことになった。再検査の日まで不安で何も手に付かない。よく聞く話なのに、わが身に降りかかると、まるで次元が変わる。最悪の結果になるのではと暗い想像が止まらない。やがて再検査の結果が、問題なしとわかる。病院を出て歩き出すと、風景がおかしい。鮮度がまるで違うキラキラなのだ。すべての雑踏の音が甘美に聴こえる。「問題ありません」の一言が引き起こしたことなのだ。恐怖から解放された目には世界は限りなく美しい。この気分のまま生きていけたら、自分には不可能はないんじゃないかと思う。でも長続きはしない。心配ごとの日々が再び始まって、元のどんよりしたか感覚に包まれてしまう。
    あのキラキラした鮮度の世界が、このどんよりの日々の裏側に確かに張り付いているのだ。「問題ありません」の一言で簡単にスイッチが切り替わるほどの至近距離にそれはある。でも手が届かない。世界の切り替えスイッチが見つからないのだ。
    一つだけ。キラキラ鮮度へのスイッチがある。拳銃に弾を1発だけ込めて弾倉を回し、銃口をこめかみに付け引き金を引けばいいのだ。耳元でカチリと冷たい音が響いたとたん、世界は再びその生命を取り戻しキラキラ鮮度の場所に変わる。この方法と効果にウソはない、でもちょっとした欠点がある。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      胃カメラを呑まなければならないような不安を抱えて検査を受け、「問題ありません」という結果を聞いた後に、世界がキラキラと輝いて見えるということは、重い病を患った人ならば、誰でも経験することなのでしょうね。
      私も、レントゲンで肺に異常な影があると医師から指摘され、「肺ガンの疑いもあります」と言われて、さすがに「ついにかぁ !」と絶句しました。煙草を1日40本、50年間吸い続けていましたから。

      でも、精密検査の結果、肺ガンではなかったことが判明しました。
      代りに、肺血栓という病が見つかり、2ヶ月近い入院生活に入りましたが。

      世界がキラキラ輝いて見える心の切り替えスイッチ。
      確かに、ロシアンルーレットのような究極の危険なゲームを切り抜けたときは、それはものすごい安堵感に包まれるでしょうね。
      でも、それに病みつきになって、何度も試してしまうと、確かにキラキラスイッチとはまた別の赤い閃光を身に浴びることになるのでしょう。
       

  17. get より:

    お邪魔します。

    これでいけると思いますよ。
    敵もさる者で、以前のように転載が思うに任せません。

    https://www.youtube.com/watch?v=oFWlyJQHJJk

  18. 北鎌倉 より:

    getさんありがとうございます。未見の映像で、写真とはずいぶん<受容と了解>の差異が際立つものだとビックリしました。

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