ピコ太郎、不思議

このエントリーをはてなブックマークに追加
はてなブックマーク - ピコ太郎、不思議
Share on Facebook
Post to Google Buzz
Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Livedoor Clip
Share on FriendFeed

 
  「ピコ太郎」って、何が面白いんだろう?
 すでに YOU TUBE の動画再生回数が、関連動画も含めて、1億3400万回(世界一)だとか。
 

 これだけ短時間のうちに、世界的に有名になった人も珍しいのではなかろうか。
 しかも、わずか1ヵ月ほど前まで、ほとんど無名だったにもかかわらず。

 でも、いったい何がウケたのか、今一つよぉわからん。
 
 誰もがそう思うらしく、ネットには「ピコ太郎」のどこが面白いのかということを論じたサイトがたくさんあるけれど、どれを読んでもピンとこない。
 おそらく、書いている人たちも、実はよく分かっていないのだろう。

 いくつかの “解析” はある。
 たとえば …
 ① 豹柄のコスチュームにパンチパーマ。怪しげなチョビヒゲに、えぐいフレームのメガネ。
 その “アブナイ” 外観の割には、人の良さそうな目と表情。
 要は、外しの美学。 

 そのミスマッチ感覚が面白いという人は多い。
 
 ② あと、世界中の人に理解できる簡単な英語だけで構成された歌詞。
 ③ わずか1分(ショートバージョン)というキレの良さ。
 ④ ほかに、ジャスティン・ビーバーが、この人の画像を見つけてSNSで拡散させたことがヒットの要因とか。

 ほかに、
 ④ リズムが耳に残る。
 ⑤ “良家のマダム” が顔をしかめそうな悪趣味があって、庶民派にはそれが心地よい。
 ⑥ ナンセンスの極みまで行きついているので、むしろ哲学的 !

 なんだぁ、それ ……?
 諸説いろいろあるけれど、どれも合点がいかない。
 まぁ、みんなが注目しているから、何? 何? 何? … という連鎖反応的な野次馬根性があちこちで生まれて、それがこのブームになっているのだろうな。
 でもけっきょくは、どこか面白いのか、謎。

 おそらく、この “どこか面白いのか謎 !” という違和感こそがピコ太郎ブームの正体なのだ。
 だから、何度も動画を見てしまう。
 どこが面白いのか探ろうとするために。
 自分も何度も動画を見た。
 何度見ても、けっきょくどこが面白いのか、よぉ分からない。

 しかし、まぁ何度でも見てしまうほどの “魔力” というのは、確かにある。
 このあまりにも芸のない、単純素朴な、ギャグ以前の不思議な “芸” (?)は、意味が溢れすぎている現代メディアの中では異色だ。
 そして、意味過剰のうざったいニュースばかり垂れ流すメディアのなかで、一服の清涼剤的効果がある。
 
 でも、ものすごい短時間のうちに、このブームは消えるだろう。
 おそらく、年末あたりに話題になる「今年の10大ニュース」で、「8位にランクインしたのはピコ太郎ブームです」とか取り上げられて、多くの人が、「あ、そういえば、そんなのあったあった」という反応になるのじゃなかろうか。
 
 

カテゴリー: ヨタ話   パーマリンク

ピコ太郎、不思議 への8件のコメント

  1. Milton より:

    ピコ太郎、すごい人気ですね(笑)。

    社会学者の宮台真司氏も彼のパフォーマンスを見て驚愕していましたが、見識ある大人たちを困惑させるような「何か」があるのでしょうね。彼が世界で大ブレイクした原因は、私にとっても「謎」です。

    しかし、ここからはかなり強引な推測なので、話半分で読んでいただきたいのですが、たぶん西洋人は「こういうの」が好きです。

    私にはフランス人の友人(男性、エンジニア、二十代半ば)がいるのですが、以前彼に日本の「ぶっとんだ内容のCM」の動画をシェアしたことがあります。そのときの彼の回答は、「Of course when we see this kind of video, we think that Japanese are just crazy, kids, strange, weird…」といった内容でした。

    つまり、彼らのクールジャパンに対する率直な感想って、こういうことなのかもしれないです。ちなみに私は、日本社会には「通過儀礼(たとえば徴兵制)」がないので、大人が大人として成熟しずらい環境にある、みたいな強引な解釈で彼に返答したんですけどね。

    なんであれ、私個人としてはけっこう好きです。くだらないでしょ(笑)。だけど、たとえば難解な本をいくら読んでも、なんというか結局のところ、思想なんて全部壮大なフィクションなんじゃないかと思うことがある。

    そんなとき、こういう動画を見ると、なんか笑っちゃうんですよね。そうだよな、くだらないギャグって大切だよなって、そう思うんです。共感しずらいかもしれないですけどね(笑)。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      ピコ太郎には、“見識ある大人たちを困惑させるような「何か」がある” というのは、鋭いご指摘ですね。
      おそらく、ピコ太郎氏のパフォーマンスには、“従来の見識” から外れてしまうようなものがあるということなんでしょうね。

      そして、それは、外国人から見ると、きわめて「クールジャパン」のテイストそのものであるということなんでしょうか。

      つまり、クールジャパンというのは、これまでの「見識ある日本の大人たちを困惑させる文化」であるということなのかもしれないですよね。
      そうなると、「ピコ太郎こそ、もっとも代表的なクールジャパン」であると。
      それは非常に面白いご指摘であるかもしれません。

      ≫「日本には通過儀礼がない」……
      なるほどね。
      現代日本には、かつて武家政権だった時代の「元服」とか「初陣」といったような、「今日からお前を大人として認める」というシステムがありませんものね。
      そうなると、外国人からみると、日本文化には永遠に「成熟しない子供の文化」というものがあるということになって、そこがエキゾチックに見えるのかもしれないと思いました。

      面白いコメントで、たいへん勉強になりました。
      ありがとうございました。
       

  2. Get より:

    お邪魔します。

    勿論、今時の ”お若けーの” はご存じないでしょうが。
    その昔のトニー谷とピコさん。
    何となく結びつけるのは無理があるでしょうか?
    トニー谷にピコさんと同じような口ひげを加えたら、、、。
    トニーさんのパフォーマンスを、タイムスリップのビーバーが観たら、、、。
    なんて、妄想然りです。

    他のヴィデオを観たら、トニーさん、かなりの英語力。
    発音も悪くないと思えます。

    https://www.youtube.com/watch?v=L4yHeMLDlrM

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      わぁあ、なつかしいトニー谷 !
      私のような昭和25年生まれぐらいになると、トニー谷をリアルタイムで見ている世代ということになります。
      だから、思わず「なつかしい !」という言葉が出てきました。

      紹介いただいYOU TUBEの動画を見ていると、現在のピコ太郎はすでに昭和40年代に登場していたトニー谷の再来ということになるのでしょうね。
      メガネ、ちょびヒゲ、外観もそっくりです。
      そしてノリ… というかリズム感も近いものがあります。

      Get さん、いやぁ、面白い !
      素敵なご指摘でした。
      ついでに、お見舞いのお便りもありがとうございました。
       

  3. Do-daro より:

    お久しぶりです。
    以前コメント欄で質問をいただいていたのですが、その後PCが壊れて最近まで使えなかったのでお返事が書けませんでした。ただアップデートを行っただけなのですが、コントロールパネルを開いても真っ白で何も出てこない状態になりました。Win8.1からWin10へのアップグレードを半年前にしたのですが、何かの原因でフォーマットがずれたようです。Windowsの初期化も全く動かず、結局NECの「出荷時の状態に戻す」設定で何とかなりましたが、原因が分からず、ウイルスの可能性も感じたので、バックアップを使わず、すべてのソフトを一から入れなおしました。町田さんのブログもブックマークしていたのですが、バックアップから復元しなかったので探すのに苦労しました。
    お返事しないままでほったらかしですみません。

    さてピコ太郎さんですか。私の第一印象は、「TV通販みたいだなあ。」という感じでした。何故そう思ったのかはよくわかりません。
    「何にもないから永遠。」なんてのもあるんじゃないでしょうか?
    例えばフランスの新古典主義の画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの絵画などの批評には「何にもないから永遠」といった言葉がよく使われます。レンブラントやダビンチになり切れない中途半端な画家の場合、モナリザのように人々に「謎(神秘性)を感じさせる。」微笑みには程遠い、陳腐なありきたりの微笑みになってしまう。陳腐な表現を評価することは、評価した本人の陳腐さまで露わにする。
    だとすれば、表現の中身などないほうが、むしろ「審美眼」を問われることもなく、見る側は楽かもしれません。表層の美とでも言いましょうか?
    キティーちゃんは何故受けるのでしょう?ミッキーマウスには口がありますがキティーちゃんには口すらありません。つまり表情を持ち合わせていない。キティーちゃん側から、見る側に対する何らかのアクションも、表現もない。喜怒哀楽もない。
    もちろんキティーちゃんの記号化された目鼻の配置は周到に計算された「かわいい」を表現してはいます。丸い顔、黒目の大きな中心に寄った目鼻の配置。
    犬でも子供の顔は丸い。そういった経験則からなのか?あるいは別の理由があるのか?人間の多くはある種の輪郭、目鼻の配置に、「かわいい」を共通理解する。ただそれ以外はキティーちゃんの中には何もない。だから楽ってのもあるかもしれませんね。俗世のしがらみの外でなごめるとでも言いましょうか。
    ピコ太郎さんにしてもあれだけの短いフレーズ。でも耳に残る時点でプロの仕事ですよ。キティーちゃんのデザイナーがプロであるように、ルイ・ダヴィッドに構成力や描画力が無かったわけではないように。
    まあそういった物を求める疲れた大人が多いと解釈するか?何か答えを求める町田さんのような姿勢を放棄したおバカが増えたと判断するか?
    何か自分の考えを表明するということには必ず反論もついてきます。ツイッターが流行ったのも、中身を薄めた当たり障りのない会話のほうが、ストレスにさらされることもなく、連帯感を味わえるからかもしれませんね。

    • 町田 より:

      >Do-daro さん、ようこそ
      まずはPCの回復、おめでとうございます。
      Windows10へのアップグレードはいろいろ問題があるようですね。
      私も、PCがいつの間にかWin10に切り替えられたとき、それまでと勝手が違ってずいぶん苦労しました。今はなんとかついて行っていますが、いまだに詳細をつかんでいません(;^_^A

      ピコ太郎氏への省察、非常に興味深く拝読しました。
      ピコ太郎氏を語ることが、新古典派の画家ダヴィッドを語ることになり、さらにキティーちゃんを語ることになるというのは、ちょっと意表を衝いているようでいて、案外まっとうな省察であるかもしれませんね。

      要するに、徹底的に様式化していくことで、その時代を象徴するような気分とか流行といったような属性を削ぎ落し、単純化・抽象化していくことで “普遍” を目指すというようなことなのでしょうか。

      要するに、“過剰な意味” をはぎ取るということなのでしょうか。
      「ナンセンス」というのは、意味に対する否定ですよね。
      ピコ太郎氏のパフォーマンスの核となるのが、この「ナンセンス」。
      つまり、その時代に「意味のあること」だと思われているものから限りなく逃走していくことで、ピコ太郎氏の芸は逆説的に “永遠” を獲得しているのかもしれませんね。

      そういった意味で、Do-daro さんが、「何もないから永遠」とおっしゃったこともよく分かります。
      “永遠” とは、すなわち「時間の外に逃げる」ということですから、経年変化によって劣化する宿命からも逃れることですものね。

      …… わぁ、自分でも何を言っているのか分からなくなりました(笑)。
      失礼しました。
      とにかく、コメント面白く拝読いたしました。
       

  4. HIROMITI より:

    「ピコ太郎」に関しては僕も大いに関心があり、このページの一読者として、ここにその感想を貼り付けさせていただきます。
    あなたに反応していただけるかどうかはわからないけど。

    「ピコ太郎」が世界中にネット配信しているお笑いパフォーマンス芸は、「この生の裂け目」を表現している。
    なんだか知れないけど面白い……彼は、そうやって「この生の裂け目」を切り開いてみせてくれた。そうしてその向こうにこの生の外の「非日常」の世界が広がっている。人の心は、この生の外に超出したがっているのであって、この生に執着してまどろんでいるだけでは、人としての知性も感性も官能性も停滞・衰弱していってしまう。
    驚異的に大ヒットした『ペンパイナップルアップルペン』のことを書こうと思ったのだが、すでに『ネオサングラス』という次の動画が出回っていて、こちらも、前回ほどではないにせよ、それなりに世界中で注目されているらしい。閲覧者の反応としては、「こちらの方が面白い」という人もいれば、「前回ほどのくせになる中毒性はない」という人もいるのだが、いずれにせよ、この「ピコ太郎」こと「古坂大魔王」というお笑い芸人の、「この生の裂け目を表現する」というオリジナルな才能は世界中で認知されつつあるのかもしれない。
    そしてこれはもう、現在の世界史的な問題を含んでいるのかもしれない。
    資本主義とと共産主義の対立という冷戦構造が終結した以後の世界は、平和で豊かな時代になるとともに、「生活者の思想」に覆われていった。そうやって「経済の繁栄を目指す」というかたちのグローバル資本主義が天下の世の中になっていったわけだが、今やそのかたちが批判されたり敵視されたりする動きも現れてきた。ISをはじめとするさまざまな民族紛争とか、イギリスのEU離脱とか、アメリカのトランプ大統領の選出とか、民族や国家のエゴイズムがむき出しになってきてもいる。
    しかし、グローバル資本主義だろうと、民族主義や国家主義だろうと、根は同じなのだ。この生やこの生活が大事だという「生活者の思想」に覆われた時代だからそうなる。どちらも「生活者の思想」として、生き延びるための「経済」の繁栄や安定を目指している。
    人は、ほんとうに生き延びたがっているのか?学問や芸術であれ、ただのお笑い芸であれ、人類の文化は、生き延びようとあくせくすることの精神的な停滞からの解放として機能しているのではないだろうか。
    生きてあることには、「ときめき」が必要だ。生き延びることにあくせくしていたくない。
    「ピコ太郎」の表現の真骨頂は、そのようなこの生やこの生活に執着しきった世界の情況(=閉塞感)に「裂け目」を入れることにある。今や人々は、この生やこの生活に執着しきっていると同時に、その停滞・衰弱した状況から解放されたがってもいる。
    「生活者の思想」なんかどうでもいい……ピコ太郎の動画が世界中で爆発的に受けたということは、世界中でそういう気分が露出してきていることを意味するのかもしれない。
    リンゴやパイナップルにペンを突き刺すことは、この生もこの生活もどうでもいい、ということの象徴だともいえる。この生やこの生活を笑い飛ばすということ、そういうことが注目されはじめている時代であるのかもしれない。
    彼は、この生やこの生活の「いたたまれなさ」をよく知っている。それは、彼が苦労をしたとかしなかったとかということよりも、持って生まれた資質・才能の問題であるのかもしれない。
    苦労をして生きてこようと、贅沢をして生きてこようと、現代人の多くは、この生やこの生活に縛られてしまっている。そうして、「この生の裂け目」に対する視線を失いかけている。その視線を欠いては、この生からの解放もときめき感動する心もない。
    まあ、イギリスのEU離脱やトランプ大統領の選出の問題を、富裕層と貧困層、グローバル主義と国家(あるいは民族)主義というような二項対立の図式では語れない。
    格差社会などといっても、誰もが「生活者の思想」すなわちこの生やこの生活に縛られてしまっている。生きることも生活することもどうでもいいことなのに、それこそが大事だという。そうやって、生きることも生活することも貧相になってしまっている。
    欧米の富裕層のラグジュアリーな暮らしには豊かな「ときめき」があるのか?もしかしたら貧乏人が生きることにあくせくしていることとたいして変わりはないのではないのか。この生やこの生活に執着してしまったら、どちらに転んでも、人間的な知性や感性や官能性の停滞・衰弱を招くほかない。
    ボードレールは、「人生なんか召使の女にくれてやれ」といった。
    生きることとも生活することとも決別することによって、生きることも生活することも豊かになる。世界は今、そういう逆説に気づきつつある。
    われわれは、すでに生きて生活してしまっている。われわれにとってそれは、未来の目標ではなく、決別するべき過去であり、そこから解き放たれて「今ここ」に心が自由にはばたいてゆくことこそ、人が生きることの差し迫った課題なのだろう。ピコ太郎は、『ペンパイナップルアップルペン』で、そのための「この生の裂け目」を鮮やかに切り開いてみせた。
    ピコ太郎は、世界中の子供や若者たちの圧倒的な支持を受けた。子供や若者は、今どきの平和で豊かな社会の大人たちが抱え込んでいるこの生やこの生活の「意味」に執着した「ゆるーい幸せ」なんかに興味はない。
    ピコ太郎は、「非生活者」である。彼の表現は、その衣装にせよ楽曲にせよ歌詞にせよ、「生活」の匂いがまるでない。ピコ太郎にはピコ太郎の心意気がある。この生やこの生活の「意味」をはぎ取り笑い飛ばしてやるんだという心意気、とでもいえばいいのだろうか。それによって彼は、「生活者の思想」すなわちその「ゆるーい幸せ」を軽々と超えてみせた。
    そのパフォーマンス表現は、とりわけ面白いわけでもはっきりとした「意味」があるわけでもないが、西洋人にとって「アップル」にペンを突き刺すことは、言葉の「意味」の呪縛から解き放たれることにもなっているのかもしれない。西洋人は、われわれ日本人よりももっと言葉の「意味」に縛られて生きている。彼らの社会では、言葉の「意味」が正確に機能していることの便利さもあるが、それに縛られて人と人の関係や社会のいとなみが不自由になっているということもある。
    それに比べて日本語の「意味」はあいまいで、人と人の関係にきっちり決着をつけることが上手くできない代わりに、あまりきつく縛られないというメリットもある。親子の関係も、男と女の関係も、あいまいで風通しよくしておくという作法で縄文時代以来の歴史を歩んできたわけで、現在のこの国にだってその伝統は残っている。まあ日本人は、中国人や韓国人ほどには、それらの関係の「規範」に縛られていない。それは、「言葉」の「意味作用」そのものがあいまいなお国柄だからだろう。
    日本人は、そういう「あいまいさ」と戯れることができる。これはもう、日本列島の伝統的な歴史風土であり、お家芸なのだ。「ピコ太郎」こと古坂大魔王というお笑い芸人は、この20年間をマイナーであることに耐えながら、つねにそういうところにある「笑いのツボ」を追求してきたのであり、実力も、この表現を生み出した必然性もあるのだ。陳腐な言い方だが、時代がようやく彼に追いついてきた、ということかもしれない。彼は、これからもきっと、そうしたあいまいで不思議な「笑い」のパフォーマンスをコンスタントに発表し続けてゆくに違いない。世界を相手にしてどこまで受けるかは未知数にせよ、とりあえず『ペンパイナップルアップルペン』は、この生やこの生活に執着してやれグローバル主義だ国家(民族)主義だと右往左往している世界に、それなりに鮮やかな風穴を開けてみせたのではないだろうか。

    • 町田 より:

      >HIROMITI さん、ようこそ
      お久しぶりでございます。

      「ピコ太郎」を論じたコメント拝読。
      一読し、現在日本で読める「ピコ太郎」の論考のうち、(たぶん)最もハイレベルなものであり、かつその思索の射程距離が長く、さらに掘り下げが深いものであると確信いたしました。

      おそらく、ピコ太郎の持っている起爆力を、これほど明確な形で論じ切った論評はほかに存在しないのではないでしょうか。
      感服いたしました。

      ピコ太郎の芸というのは、どのように論じようが、かならずその核心からズレていくようなところがありますよね。
      「人を喰っている」というのでもない。
      観客に媚びてもいないし、観客をバカにしてもいない。
      独特の浮遊感というか、この世の笑いから決別したような、異次元のお笑い感覚。

      その独特の芸風を、HIROMITI さんは、≫「生の裂け目」 とおっしゃった。
      そして、それは ≫「生に縛られているこの世界に風穴を開けて、その外に広がる “非日常” の世界へ脱出することだ」ともいう。

      それを別の言葉に置き換えると、≫「生活者の思想からの決別」。

      “生活者の思想” という言葉が即座には呑み込めませんでしたが、文脈をたどっていくと、それは ≫「生き延びようと執着する心」を指し、そういうあくせくした気持にとらわれて暮らしていると、≫「ときめきを喪失し、知性や感性、官能性の停滞・衰弱を招く」と。
      …… こういう理解でよろしいのでしょうか?

      もし、そうであるならば、基本的に私もまた同意いたします。
      HIROMITI さんのように健全な表現にはならないのですが、私が大切にしているものは「デカダンス(退廃)」と「アンニュイ(倦怠)」なので(笑)、「日々の生活を真面目ったらしく全うしていく生き方」にうんざりされているHIROMITI さんと同じ程度に、私もまた “生活者の思想” に辟易しているところはあります。

      ただ、そういう “生活者の思想” を人間に強いているのが、グローバル資本主義と、民族主義・国家主義の両方であるのかどうか。
      ここには微妙なものがあるような気がいたします。

      まず、行き過ぎたグローバリズムの流れに抗して再び台頭してきた「民族主義」や「国家主義」には、確かに “生活者の思想” を教育として取り込んでも自国民の団結を図っていく傾向は出てくるでしょう。

      ただ、グローバル資本主義というのは、「生活者の思想」を強制するよりも、むしろ、その放棄をうながすものではないか。
      そんなふうに思うときがあります。

      これまでの資本主義の歴史を振り返ってみると、いみじくもHIROMITI さんがおっしゃるように、「経済の繁栄を目指す」という「生活者の思想」でドライブされてきたことは確かでしょう。
      しかし、グローバル資本主義の時代になると、もう ≫「この生やこの生活が大事だ」などというイデオロギーすら機能しなくなる。

      私には、ひとつのイメージがあって、そもそも「資本主義」そのものが、人間などが介在することのできない、独立した運動体のように思えるのです。
      ましてやグローバル資本主義ともなると、もう国家理念も企業倫理も、人間の良心も、その核心には届かない “怪物” に進化している。

      だから、グローバリズムというのは、一種のニヒリズムではないか。
      「働くことの意味」とか、「働くことの大切さ」などを人間に問うたりはしない。
      「働くことの意味」を問う前に、「おカネを儲けることの大切さ」だけが叩き込まれる。

      だから、人間は疲れてくるわけですね。
      世界的な大手広告代理店に務めながら、残業に続く残業で、ついに自殺してしまった娘さんがいます。
      もし、彼女が “生活者の思想” にすがることできたら、自殺などしなかったのではないでしょうか。

      アメリカのトランプ現象も、イギリスにおけるEU 離脱派の台頭も、グローバリズムのニヒリズムに疲れた人々の “SOS” であったように思えてしかたがありません。

      そういった意味で、グローバリズムも悪夢。
      それに対抗するように台頭してきた排外主義的な国家主義・民族主義も地獄。

      我々はそのどちら側にも落ちないように、平衡感覚を研ぎ澄ましながら、細く絞られた隘路を歩いていくしかないようです。

      その隘路を通るときの “道しるべ” として、ピコ太郎氏がいる。
      そういう論考であると、理解しました。
       

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">