トランプ以前とトランプ以降

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トランプ報道が刺激的なのはなぜ?

 トランプ大統領が誕生してから4日経ったというのに、いまだ日本のメディアでは “トランプネタ” が尽きることがない。

 今後、日米同盟はどうなるのか?
 米軍は日本の基地から撤退していくのか?
 米軍基地を維持することになったとしても、日本が負担する基地の維持費はどれだけ膨張していくのか?
 TPPはどうなるのか?

 戦後70年続いた日米関係が大きな転換点を迎えることになるのだから、メディアがこのネタを手放そうとしないというのも、よく分かる。
 
 しかし、このメディアの過熱報道ぶりは、それだけでは説明がつかない。
 もっと根本的なこと。
 つまり、トランプ大統領の誕生というのは、国際政治や国際経済が大きく変わるということ以上のものを、我々に突きつけたのではないか?

 ひょっとしたら、我々が考えてきた「人間」という概念が、“トランプ以前” と “トランプ以降” では変わっていくのではないか?

 そういう “匂い” を、おそらくメディアはかぎ取ったのだ。
 理屈ではなく、感覚として。
 
 ちょうど夏の風が、いつのまにか秋の風に変わっていたことに気づくように、メディアは、トランプ氏の登場に今までと異なる風の匂い、風の温度、風の強度を感じ取ったのだ。
 だからこそ、この話題はいつまで経っても尽きないのだ。


 
 
パクスアメリカーナの終焉

 トランプ大統領の出現は、後世になって、これを歴史的に見るとどういうことになるかというと、それは「パクスアメリカーナ」の終焉である。
 それまで掲げてきた “アメリカによる世界秩序” の旗がおろされ、世界の法と秩序を守ってきた(と彼ら自身が思ってきた)「アメリカによる正義」が終わりを告げることになる。

 欧米民族の間で、この「パクスアメリカーナ」と規模的にも理念的にも匹敵する “世界秩序” といえば、それは2000年ほど前にヨーロッパに誕生した「パクスロマーナ」しかない。
 ローマ帝国の軍事力と経済力によってもたらされた平和。
  
 2000年前、そのローマ帝国の覇権が衰え、「パクスロマーナ」が消え去った後にヨーロッパを襲ったのは何だったのか?

 それは、ゲルマン諸族による国境分断と領土争いの世界だった。
 5~6世紀から始まったゲルマン民族の熾烈な闘争の繰り返しによって、ヨーロッパのローマ的文化・伝統・教養は闇の中に葬り去られ、時代は一気にローマ帝国以前の蛮族の時代に逆戻りした。

 たぶん、それと同じことが起こる。
 もし、トランプが選挙戦を戦ってきたときの公約をそのまま実現していけば、アメリカ国民の分断どころか、それに呼応して、EU諸国においても分断化が進む。

 イギリスのEU 離脱派の台頭に始まり、いまイタリアにおいても、オランダにおいても、ドイツにおいても、フランスにおいても、「他国民」「他文化」に対して門戸を閉じ、自国内の結束を図ろうとする政治党派が勢いを得ている。

 オランダでは「自由党」。
 イタリアでは「北部同盟」。
 ドイツでは「AfD (ドイツのためのもう一つの選択)」
 フランスでは「国民戦線」。
 
 これらの政治勢力は、基本的に、反ユーロ、反移民・難民、反イスラムを掲げ、EU が目指す方向と厳しく対立する。

 それらの政治党派の役員たちは、アメリカの大統領選の始まる少し前あたりから、トランプ陣営に足を運び、「他国民」や「他文化」を排除して、自国内の民族だけで結束していく戦術をトランプの周辺にいる側近たちから勉強していたという。

 そして、トランプ大統領の誕生と同時に、彼らは自国内で集会を開き、「トランプに習って自国から移民や異文化を排除し、自分たちの新しい国家秩序を構築しよう !」とシュプレヒコールを挙げたとか。   
 
 
他国に非寛容な強いリーダーが求められる時代

 彼らが求めるのは、これまでにない強い指導力を持ったリーダーで、自分たちの利益に反するものを容赦仮借なく葬り去る実行力だ。
 そういった意味で、ロシアのプーチン大統領やフィリピンのドゥテルテ大統領などもその部類に入るだろう。

 そういう “強いリーダー” たちの進める排外主義的なプロパガンダが、いま世界の人々に心地よく聞こえる時代が近づいてきている。

 こういう “自国優先主義” 的な指導者たちが運営する国家というのは、はたして、どういう国家になっていくのだろう。

 異民族・異文化的なものをいっさい排除していこうとするわけだから、まず国内の文化的価値が一元化されていくだろう。
 
 「文化」というのは、異種交配からしか生まれない。
 他の世界からもたらされる不安に満ちた刺激。
 それまでの体験をくつがえすような違和感。
 そういう、一見ネガティブな感情をともなって心に突き刺さってくるものこそ、新しい文化を想像する原動力となる。

 ところが、排外主義的な国家思想は、まずこの未知の世界から来る刺激をシャットアウトしていこうとするだろう。

 トランプ大統領が誕生した翌日、アメリカの大学では、イスラム教の信仰を意味するヒジャブ(頭髪を覆い隠すスカーフ)を巻いた女子学生が2人の男性に襲撃され、財布などを盗まれたという。
 襲った男たちの言葉は、「もうじきトランプの世の中になるのだから、お前ら覚悟しておけ」というものだったそうだ。

 この話は、アメリカの排外主義思想は、もうイラスム的なシンボルであるスカーフという文物さえ許しておけなくなることを伝えてくる。

 こうして、排外主義的な言動を繰り返すリーダーの元では、次第に単一的な価値観しか許されない空気が蔓延していく。
 
 
アメリカ文化は2016年が頂点だった

 では、トランプ政権下のアメリカ文化はどうなっていくのか? 

 たぶん、それは “他国との接点を失った” アメリカ文化になる。
 東部のインテリたちが好む日本食や、若者たちが喜ぶジャパンクールのアニメなどは排撃の対象となり、食事はハンバーグかフライドチキンのようなファーストフード、観る映画は『スターウォーズ』だけという人たちが主流派になるだろう。

 映画でも、演劇でも、音楽でも、アメリカ文化の頂点は2016年となる。
 この年にトランプに反対したレディー・ガガも、ビヨンセも、反体制派に与する過激芸能人ということで、これからは「マイナーアーティスト」のレッテルを貼られ、年を追うごとに活躍の場を奪われていく。

 それ以降は、眠気を誘うようなノスタルジックな “古き良き時代” の文物がアメリカ国内に蔓延していき、トランプ支持者たちは、これぞ「Make America Great Again」の成果だと評価することになるだろう。

 そういう文化的停滞に怒りを感じた若者たちは、60年代の学生反乱のビデオなどを探し出して、研究を重ね、再び街頭闘争を始めたりするかもしれない。
 
 ま、ほとんどは冗談である。
 しかし、排外主義的な思想が立ち込める国の文化は、どうしても多様性を失っていく傾向になる。
 「多様性を失う」ということは、「人間性を失う」ということでもある。
  
 
ビジネスマンの考える「文化」がダメな理由
 
 「トランプはビジネスマンだから、これまでの政治家にはない発想で政治に取り組むだろう」
 と、トランプ大統領に期待を寄せる発言もある。

 しかし、ビジネスマンだから、困るのだ。
 ビジネスマンというのは、無駄が嫌いである。
 商売になることしか考えない。
 
 困ったことに、実は「文化」といわれるものの大半は、無駄からしか生まれない。 
 「有益性」や「効率性」から生まれた文化など、一つとしてあった試しがない。
 
 「有益性」や「効率性」の追求をモチベーションとして生まれてくるのはテクノロジーである。
 ところが、世の中にはテクノロジーのことを「文化」だと勘違いしている人がいる。
 特に、ビジネスマンの多くはそうである。
 
 で、ビジネスマンたちが考える文化は、「何万台売れたか?」とか「何万人動員したか?」という “文化” でしかない。
 
 トランプ大統領的な人間観が目指すのも、けっきょくは、そういう “何万台売れたか文化” である。
 そういう “文化” で育った人間たちが、「優秀な人間」として評価するのは、新しいマーケットを創出した人々でしかない。
 彼らがいう「ブレークスルー」とは、生産性を上げるための新しいテクノロジーが誕生したことをいういすぎない。
 
 もちろん、それは大事だ(当然である)。
 だけど、そういう人間評価からは、松尾芭蕉の句から季節を感じたり、シェークスピアの表現に潜んだ哲学に驚愕したりする感性は抜け落ちていく。

 私( … のような偏見で固まった鼻持ちならないエリート主義者)から言わせれば、それは「文化の劣化」である。
 劣化した文化は、劣化した人間しか育てない。 
 トランプ以前と以降では、「人間が変わる」といったのは、そういう意味だ。
  
  
参考記事 「トランプ候補の出現によるアメリカン・ドリームの終焉」
 
  

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

トランプ以前とトランプ以降 への12件のコメント

  1. Milton より:

    これは難しい問題ですね。私の観点では、また違った意味で民主主義に対して失望しています。

    たとえば、10月に名優ロバート・デニーロが、トランプを罵倒する動画を配信しました。その発言内容は、“I mean he’s so blatantly stupid. He’s a punk, he’s a dog, he’s a pig, he’s a con, a bullshit artist, a mutt who doesn’t know what he’s talking about, doesn’t do his homework, doesn’t care, thinks he’s gaming society, doesn’t pay his taxes.” というもので、まあ罵詈雑言に近い。

    以前にも似たようなコメントをさせていただきましたが、こういった汚い言葉の羅列は、まちがいなく人々にネガティブな形で伝染します。反トランプ側の有権者なら、デニーロに感化されて「あの豚野郎を許すな!」となる人もいるでしょうし、逆にトランプ支持者なら、自分の友人を侮辱されたような極めて不快な感情を抱きかねません。

    若手女優のジェニファー・ローレンスがTVで発言した「Hey Trump FUCK YOU」も、ハッキリ言ってかなり幻滅しましたし。まあ、分断を招くだろうなと思いました。

    こういった、チャイルディシュなセレブリティの言動が、(アメリカ)民主主義の言論を劣化させてしまった大きな要因のひとつだと、個人的には思っています。まるでこれじゃあ、チャイルディッシュ・デモクラシーだと。こんな無責任な発言をして、彼らは自己宣伝をしてるだけだと。

    そんな程度の低い言論に振り回される青年たちを思うと、複雑な感情を抱いてしまいます。

    なので、こういった無責任な言動、というか罵倒や侮辱をアメリカ人ひとりひとりが改めない限り、民主主義の劣化は何にも改善されないだろうなと思っています。もちろん、我々にも言える事ですけどね。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      トランプ報道を、主にテレビと日本のネットニュースで見ている私などは、Milton さんから教えていただく英語の情報からずいぶん色々なことを教えていただけると感じます。
      どうもありがとうございます。

      ロバート・デニーロの “対トランプ発言” 。
      まぁ、現代を代表するいい役者だと思っていたので、発言内容が分かると、確かに残念です。
      聞くに堪えないというか、大人げない、というか。
      これは英語文化圏のだけの問題でもないのかもしれませんね。
      フィリピンのドゥテルテ大統領も汚い言葉を使う政治家らしいし。

      罵倒に使う言葉の選択は、その人の品性が最も出てしまうところですが、どんなに汚い言葉を使っても、そこにユーモアが感じられるような罵声の浴びせ方というのもありますよね。

      しかし、最近は選挙戦においても、テレビのトーク番組においても、もちろんネットの議論においても、ほんとうに聞くに堪えない言葉の応酬ばかり目にします。

      たぶん、攻撃したい人に向かって意地汚い罵声を発するというのは、人間の快感なんでしょうね。
      私にとっては、それは一番恥ずべき “快感” なのですが、その快感に酔いしれて、いいように悪口ばかり垂れ流す人がどんどん増えているように思います。

      たぶん、ネットの影響でしょう。
      匿名の隠れ蓑を使って、攻撃対象が炎上するまで執拗に追い回すという暗い快感に酔いしれる人が増えてきていますよね。

      民主主義の劣化というのは、おそらく、そういう “暗い情熱” でしか自分を発散することのできない我々現代人の病理がそのまま反映されたものなのかもしれません。
       

      • Milton より:

        どういたしまして!私も普段は、誰かのブログにコメントしたりはしないのですが、町田さんのブログからは学ぶことがとても多いので、気になったことはコメントしていきたいと思っております。

        ちなみに、私はプロレスファンなのですが、トランプってWWEという世界最大のプロレス団体に、特別ゲストとして参戦した過去がある。ここからは個人的な意見ですが、プロレスって興行やTV放映を盛り上げるために、レスラーやゲストのブラフ(はったり、威嚇、こけおどし)が必要なんです。

        「ぶっ潰してやる!」とか「俺の首をかっ切ってみろ!」とか、そういった類です。ちなみに、モハメッド・アリも、プロレス的なブラフから影響を受けていると言われています。

        つまり、アメリカのショービジネスの世界でブラフとは、世間に対する有効なアピールのひとつなのです。

        しかし!これってあくまでショービジネスの世界だから許されるのであって、それを政治のような、もっとも言論の質が問われるシビアな世界に持ち込むと、やばいことになります。結果、なってます。

        だから、アメリカで人気のある「リアリティ・ショー(TV番組のジャンル)」が、いよいよ(アメリカの)政治の中枢にまで浸食してきたというのが、私の率直な感想です。

        • 町田 より:

          >Milton さん、ようこそ
          ありがとうございます。
          Milton さんのような博識をお持ちで、かつ教養あふれる方からお褒めの言葉をいただくなど、多少気恥ずかしい思いもありますが、素直に感謝申し上げます。

          で、今回のトランプ氏とプロレスの話。
          とても興味深く拝読しました。

          なるほど! ≫「プロレスには興行を盛り立てるために、フラフが必要」。

          そうなんですね。
          トランプ氏の “暴走発言” も、ショービジネスのセオリーをそのまま踏襲したものだというわけですか。
          すごく納得できました。

          思えば、アメリカの大統領選はジョン・F・ケネディがテレビ放映を意識した戦術をとって以降、みなテレビショー的なインパクトを強める方向にシフトしてきたという話がありますが、それがトランプの時代になって、ついに極限にまで登りつめたということなんでしょうね。

          これぞまさに “政治の劣化” ‼
          だけど、それが時代の趨勢だと諦めなければならないのでしょうかね(笑)。
           

  2. Get より:

    お邪魔します。

    Milton氏、然りですかね?

    彼の君(、Milton氏)へ。
    勿論、ロック歌手である、ボノ氏へのチャック・ローズのインタビューも勿論ご覧になっていらしゃるでしょうか?(私も又、英語圏内のブログなどはあさり読みしています)。

    以下の添付はチャーリー・ローズのボノへのインタビューです。
    これは、エレクション以前に目に留めて留意しおり、内心の感銘がありました。
    ボノ氏のCALM DOWN な答弁。
    彼は右でも左でもなく?(そんなことはありません!)、鋭く論点を突きます。
    これのインタビューはエレクション以前に目に留めて留意していました。

    私はチャック・ローズのファンです。
    持論は抑えて、インタビューする相手の本意にフォーカスして答えを誘き出します。
    うまいですね~!!

    この後の4年間が見ものです。
    良し!と出るか、無し!と出るか?
    さあ、他国の政治(勿論、それにより我が日本国が風邪をひくか否か)。
    少し静観いたしましょう。

    https://www.youtube.com/watch?v=2bY8qGvhIFk

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      U2でその名を知られたボノ氏が、このようなインタビューに答えていたということをGet さんの紹介ではじめて知りました。
      チャック・ローズさんというインタビューアーは、恥ずかしながら知識がなく、はじめてその名を耳にする方です。

      いつもながら、アメリカで生じている社会、文化、政治、そしてRVの情報をいつもリアルタイムで教えてくれるGet さんのレポートには感謝です。

      インタビューの具体的な内容は、正直、聞き取り能力の不足のため十分に咀嚼できませんでしたが、「Trump has hijacked the party」と言っているところを見ると、「トランプがアメリカという “グレイトなパーティー” の世界をハイジャックしてしまった」ということなのでしょうか。

      いずれにせよ、アメリカ人のこの選択が、「吉」と出るか「凶」と出るかは、4年経った後になってみないと、分かりませんよね。

      私としては、「良い」とか「悪い」という判断をする前に、「これは歴史の必然である」と思っています。
      歴史というのは、なるようにしかならない。

      「歴史をつくるのは人間である。ただ思うようにではない」(マルクス)

      という言葉があるようですが、歴史は人間の営みの蓄積でありながら、たいていの場合、人間たちの意図した方向とはズレていくもののようです。
      要するに、「歴史の勝手でしょ ! 」というわけですね。
      歴史には、人間の関与できない歴史なりの必然がある。

      そう考えると、トランプ氏による新しい世界の創造がどういう形を示すのか。
      Get さんがおっしゃるように ≫「静観するしかない」ようですね。

      なお、後続のメールでご連絡いただいた重複部分の削除の件、了解いたしました。
      ご確認いただければ幸いです。
       

  3. solocaravan より:

    多様な文化の受け入れもゆっくりと慎重にやらないと、やはり軋轢や混乱は避けられないのではないでしょうか。というと人種差別主義者のレッテルを貼られてしまいそうですが、事実そうした不満を抱えている中間層が大勢いるからこそトランプ氏が当選し、ヨーロッパ各国で排外主義の勢いが増しているのでしょう。それはやはり、急速で過激なグローバリズムのペースにふつうの人間が追い付けなかったからにちがいありません。だからといって、鎖国をして異文化との断絶をするのも間違い。国境や国家は文化の進展を妨げる障壁になるとともに、文化を守り、落ち着きを担保してくれる保護膜でもあるはず。可能なのはソフトで弾力のある半透膜のような国境をいかに維持するかでは。繰り返しになりますが、漸進的かつ慎重なアプローチしかないと思います。

    • 町田 より:

      >solocaravan さん、ようこそ
      おっしゃることよく分かります。
      移民・難民の増加、そしてそれを嫌う排外主義的な運動の激化。
      グローバル時代になって、世界が大きな混乱期に突入しているのは確かなことですね。
      そういうときに、バイアスのかかったメディアの主張に引っ張られるように、私たちはいっぽうの立場だけを感情的に支持しそうなりますが、solocaravan さんのおっしゃるとおり、性急な判断は危険を招きかねませんよね。
      私たちはほんとうに慎重な舵取りが要求される世界を生きていくことになりそうです。

      こういうときは、“判断留保” も勇気ある賢い選択かもしれません。
      「判断留保」というと、物事を真剣に考えない臆病な人がとる態度だと思われがちですが、「昔の100年が今は1年で過ぎていく」といわれるほど目まぐるしく現代社会を観察するには、10年単位ぐらいで物事を眺めるような、“ロングスパン” の思考様式も必要かもしれませんね。
      昔から「決断を急げ !」というのがビジネスマンの鉄則でしたが、それが通用しない世の中になってきているような気もいたします。
       

  4. Do-daro より:

    「軍事産業が世界をリードする時代」も含めてコメントします。

    社会(ソサエティー)という概念はヨーロッパで生まれた。そこにある理念は、もともとはキリスト教における神の下の平等を土台として、時代を経て法の下の平等に変化したもので、「民主主義の根本はそこにある。」と言い切っても過言ではないと私は思っています。
    たかが理念。されど理念です。
    理念は法制化され【民主主義】の基盤となる、報道や言論の自由。平等。基本的人権などの約束事が作られた。

    対する【資本主義】は【富における差別化装置】だと私は思っています。すべてを平等に分け合う【同じ】を強制された共産主義的経済なんて理想の中で美しいだけで、現実的には息苦しく感じるものではないかと思います。
    町田さんの文章で「これって考え違いかもしれない?」と感じた部分を書きます。ビジネスの本質は「有益性」や「効率性」の追及とはずいぶん乱暴な意見だと感じました。「有益性」や「効率性」だけを追求したのは【共産主義】ではないですか?

    わかりやすい例を挙げます。
    この世界から飢えに苦しむ人を無くしたければ、世界中の人間が昆虫を食えばいいのです。栄養価は高いし、簡単に増殖する。牛を一頭飼育しようと思えば、膨大な量の牧草が必要となる。牛は生産に極めて【非効率】な食材です。しかし昆虫の飼育は比較的簡単で、増殖率が高いので【手間】や【コスト】もかかりません。【効率的】です。しかも「栄養価が高い。」という【有益性】もある。
    理屈の上では、世界中に食べ物が行き渡り、飢えに苦しむ人などいなくなります。それはある種の左翼的理想ではあります。
    つまり共産主義的理念とは、牛を食うのは「ブルジョワ嗜好だ。」「みんな虫を食え。」と言っているようなもののように感じます。【効率】と【有益性】なのです。
    しかし買い手の好みを無視し、【効率】と【有益性】のみを追求すれば、民衆は【食べる】という楽しみを奪い取られます。生産者は作る喜びを阻害されます。
    製品の良し悪しという買い手の好みに合わせた、売るための差別化の情熱がない世界です。作る喜びのない世界です。社会から活力は消え、ろくな商品は生まれず働かなくなります。それが共産主義の崩壊(冷戦の終結)を招いたと思います。

    【資本主義】とは「富の部分のみは (実際には実現されていませんが、建前上は) 機会均等の上で自由競争しましょう。」ってことではないのですか?
    料理人なら、(一例として)、よりおいしい料理を作ることで他店との【差別化】を図り、利益に繋げようとしたり、お客さんに喜んでもらう喜びを得る。競争がうまい料理を生み出す側面もあると思います。芸術家だろうと料理人だろうと、誰もが孤高に美にのみ魂をささげ、霞を食って生きているわけではない。
    芸術家であろうと料理人だろうと、美の追及という”快“、金もうけという”快“、社会的評価という”快“などを同時に併せ持ち、創作のモチベーションにするのが、ほとんどではないでしょうか?
    あほみたいな純粋論に意味なんてありませんよ。世界中の人間に「食うや食わずで自画像を描き続けたレンブラントになれ。」といって実現するわけがないでしょう。
    町田さんは、「レディ・ガガは別。」だとでも思っているのですか?
    もちろん差別化(ここではおいしい料理の提供)に向けられたお客さんからの称賛を料理人が喜ぶことは“差別”として糾弾されることはない。

    町田さんの言うように「有益性」や「効率性」のみがビジネスの本質かと聞かれれば、「そんな馬鹿な事は絶対にない。」と断言してもよいですよ。【効率化】も、「作業などから無駄なプロセスを省き、必要経費を抑え安い料金で商品を売る。」という「買い手の求める、少しでも安く買い物をしたい。」というニーズに合わせた差別化の一側面でもある。(もちろん自分の利益の追及でもありますがそれだけではない。)
    買い手があって初めてビジネスは成り立つもの。買い手が求めるのは、吉野家のキャッチフレーズじゃないけれど、【うまい】【安い】【早い】であったり、【かっこいい】というデザイン性であったり、【頑丈】という耐久性であったり様々です。
    【有益性】と町田さんが語られるのは「利益率」の意味も含むのでしょうか?もちろんビジネスマンは人件費などを押さえ利益率の向上を目指す。グローバル企業などによる労働者階級従業員に対する「有益性」や「効率性」しか考えない姿勢は大いに問題がある。ただそれだけではビジネスなど成り立たない。

    トランプ自身もガラス張りの当時珍しいデザインのビルを作ることで、有数の大富豪になった人ですよ?そんなものは【効率性】とも【有益性】とも何の関係もない。むしろ地震でも来ればガラス張りのビルはおそらく危険ですよ。「カッコよい」ビルを作ったのが受けて、金もうけにつながったのだと思いますよ。

    私にとって資本主義と民主主義はセットでようやくまともに機能するものです。いわば両輪として一体のもので、片輪だけではうまく機能しないものだと考えています。

    私は資本主義の問題だけでなく民主主義がうまく機能していないことを合わせて考えなければ何の意味もないと思っています。
    つまり民主主義社会なのに「一部の人しか幸せを感じ取れないのが問題だ。」と思っています。
    「誰に票を投じても自分自身の幸せに関係がない政治が行われる。」と感じる人が多数いる問題です。
    それは「努力すらせずに文句だけを言っている人間が多いことが問題。」なのか?あるいは努力が正当な評価につながらない社会システムの問題や社会福祉などがなおざりにされた社会の問題なのか?おそらくすべての要素を内包していると思います。
    まずその見極めも必要だと思います。
    ちなみに私はトランプ支持者を善良な市民階級などとは捉えていません。「様々。」だと考えています。少し勘違いされているように感じたので訂正しておきます。

    これまでも何度も言ってきたようにグローバルをつけようが付けまいが「資本主義は人間の性質上グローバル化する方向しか存在しなかった。」と私は思います。何度も書いているので、理由説明は省きます。
    ではグローバル企業の誕生は、何を意味するのか?
    いくつもの特徴はあるでしょうが、一番わかりやすい一例は「人件費が安い国で製品を作り、高く売れる国で売る。」って事ではないでしょうか?当然、製造に関連する労働者は、「人件費が安いか高いかという効率判断。」ですので、使い捨てです。後進国の経済成長を支援した半面、先進国にいる人件費の高い労働者はお払い箱になり国内産業の空洞化を招いた。単純に言えばこのような問題があると私は思います。
    ろくすっぽ働かない人間が失職するのは当たり前でも、懸命に働いても会社が海外移転してしまえば失職してしまう。

    国家をまたぐグローバル企業のような存在に対し、国家内を法治する民主主義では対応しきれない。アップルのような大きな多国籍企業であれば、世界200か国の国家収入(歳入)をすでに上回っている。国家を超えた巨大共同体化したグローバル企業も存在するということです。また多国籍企業による租税回避の額は世界で22兆円?になるとも試算されている。これもとても問題です。

    グローバル化した資本主義に対応できるのは、グローバル化した国際民主主義であるはずですが、そんなものは存在しない。これが問題だと私は思います。言うならば国際社会の共通理解としての法や共通理念が存在しないし、民衆一人一人の意思が国際政治に反映できないのに、経済のみがグローバル化している事が問題だと思います。

    例えばトランプはフォード自動車が工場をメキシコに移転すれば、輸入車に35パーセントの関税をかけると言っています。保護主義ではあるけれど、国内労働者としたら支援したくなる気持ちはわかります。仕事を失いたくないのでしょう。
    ただほかの国の企業がグローバル化している中、「他国の安い労働力で製品を作って売る。」という部分を阻害されれば、国際競争力を失いフォードそのものが傾きかねない。つまり国内大企業がつぶれることはアメリカそのものに大きな経済損失をもたらす。
    かといって企業はグローバル化すれば租税回避の問題が出てくる。簡単に言えばテクニックを使い合法的に安い税制の国で法人税を払う。
    そんなことをされれば国が経済政策を作り、企業が国内に悪い影響を与えるような身勝手を許さない規制をかけ、法人税によって得られた金を公共福祉などの不採算部門に投じ、国を健全に発展させるという本来の国の目指す構図が壊れてしまう。経年劣化した橋やトンネルを補修するのも税金です。租税回避によって自国の税収が落ち込めば、消費税を上げるぐらいしか確実な財源は確保できない。それはさらに庶民の家計の負担となる。
    現在の問題は、簡単に一国の政治だけでどうにかできる問題ではないと私は思います。ただ、だからと言って、世界を民主化する可能性など、現状では一切ない。

    韓国などを見ていればそのような一般市民のジレンマはもっと鮮明に見えるのではないでしょうか?
    韓国ではいくつかの大企業は同族経営で世襲制です。国民の大半が腹立たしく思っています。しかしその企業がつぶれてしまえば、韓国経済そのものの屋台骨が崩壊し、破たん国家に転落することも国民は理解している。「一部の金持ちのための社会。ヘル朝鮮。」国民たちは行き場のない気持ちをそのように表現しています。
    機会均等がなく、“生まれ”で将来が決まってしまう要素が大きい社会への不満です。
    少し前提条件は違いますが、こういった要素もアメリカのトランプ支持者の心情に通じる部分があるように思います。

    確かに資本主義の先行きは問題だらけかもしれません。ただ、競い合い差別化が許される領域を、(建前上でごまかしだらけであっても)資本主義の内側だけに限定しようという先人の考え出したシステムはどうしようもない欠陥システムだったのでしょうか?
    もちろん、人間の考えだしたシステムですので、ベストでも万能でもないシステムなのは確かです。でも他に選択肢があったのでしょうか?
    いかに問題があっても現状で資本主義に代わる、よりすぐれたシステムを誰も提言出来ていないし、もちろん私ごときがそんなものを思いつかない。

    まさか町田さんは共産主義経済に移行しようとでも提言したいとも思いませんが、町田さんはどんな経済システムを考えてられるのですか?語れるなら聞かせてください。その部分の提案がないから、ものすごく空虚に聞こえるのです。

    資本家は法的に認められた範疇であれば、あらゆる手段を使って金もうけを目指してかまわない。
    ただそれだけでは、国内的に見ても、金持ちなどにのみ都合のよい社会になってしまう。
    議員になるにも金が要る。政治家になるための資金援助を金持ちに求めれば、当然それらの層を優遇することになる。法改正も当然のことながら金持ちなどに都合のよいものが優先的に採用される。そういった権力と金、あるいは権力と知性の関係への取り残された人々の反発。つまりこれは資本主義だけの問題ではなく、国内民主主義内の政治権力といわばインテリ階級との関係に対する庶民の不満でもあるのではないかと考えます。
    もちろんこのようなものの見方は、国を運営する側から見れば、国家に経済力をもたらしてくれる存在を厚遇するのは当たり前の必要な選択ではあると思うのですが、アメリカ(あるいは世界全体的)は格差社会が極端になりすぎバランスを欠いていることに問題があるように思います。国の国際競争力を保つことと、格差を是正することは相反する方向性のあるものなので、大変難しいって事だと思います。
    ごく一部の極端な富裕層がいる反面、以前なら中産階級といわれた人々まで、生活が苦しい状況になりつつある、あるいはすでに苦しくなっている問題ではないかと思います。

    今回の出来事で、そんな金持ち優遇政治に対し民衆はついて来ないことがはっきりした部分は大きいと私は思っています。

    私はトランプに投票した人すべてがトランプの考えに全面的に賛同していたとは思えない。そんな人は一部でしょう。
    トランプ自身の排他的国家主義的傾向が強いことも感じている。差別主義者である事も感じている。ただそういったトランプの性質にNOを感じながらも、トランプを選んだ人もおそらく相当数いると思います。
    「誰に票を投じても自分自身の幸せに関係がない政治が行われる。」そのように感じている人は、普通なら政治に無関心になり、投票にも行かなくなる。森喜朗が総理時代に発した「政治に無関心で寝ていてくれたらいい存在。」として扱われる。
    ただトランプという無茶苦茶な人物が出現し、無茶苦茶な発言をし、無茶苦茶な態度をとった。ネットの時代というのは、以前なら「政治に無関心で寝ていたはずの人々。」が、そういったトランプに反応し匿名の過激な連帯感に流れやすい時代ともいえると思いますよ。
    トランプ支持者の多くは、トランプによって、「アメリカが素晴らしい国に生まれ変わる。」と考えたというより、おそらく現状の停滞した秩序を無茶苦茶に破壊して欲しかったのかもしれない。革命を期待した。既存の政治家に任せていては、何一つ変わらない苛立ちや、「今より悪くなり得ない。」という開き直り。

    ヒラリーへのNOは既存の政治にうんざりしている人々が多くいるということにも一つの大きな要因があると思っています。
    トランプ、ヒラリーの二者択一で仕方なしにトランプを選んだ人もおそらく大勢いた。いわば政治不信も一つの要因だと思います。

    もちろん排他的国家主義の拡大というのは間違いない事実だと思います。そういった傾向のある人々の心をトランプの言葉は刺激した。
    投票活動にもつながった。ただそれは崩壊しだした世界秩序の結果起こる心の動きであって、具体的にシステムを是正しなくてはどんどん拡張するだけだと思います。

    ただトランプが「何を考えているか?」は、まだ具体的に活動が明確には開始されていない現状では私には話せません。でも、あえて勝手な推測でよければ書いてみます。

    世界の警察を自認していたアメリカは、中露の経済的台頭やイスラム国の出現により、一国で世界秩序を支配するだけの、かつての力を失った。そこでオバマの目指したのは基本的には国際協調主義だと思います。ただ少なくともアメリカ国内での、オバマに対する評価は低い。多くの国民からは「何も出来なかった。」と認識されている。
    トランプは、「世界の警察なんて、もうやらない。国際協調主義も、もうやらない。自国の利益だけを追求する。」と発言しているように私には見える。

    私は「トランプは歴史の流れの中で必然的に生まれた。」と思っています。もちろん良いことだとは思っていないですよ。もっと世界は不安定化する可能性を感じていますよ。でも「トランプNO。」を叫んでいたって、現状では何も変わらないとも思います。
    そもそものボタンのかけ違いはどこから発生したのか?私はずいぶん以前に分岐点があったと感じています。トランプを分岐点とは感じていません。

    民主主義国においても公務員はいわば国家内共産主義的システムだと思います。国民全員が公務員ならその国は、かつての共産主義国です。適切な大きさと、不正を監視するシステムが必要なだけで、民主主義国にも公務員という共産主義的システムは必要です。
    必要なのは極端な思考ではなく、バランスとサイズ、そしてうまくそれぞれのシステムの負の要素を取り除いて良い部分だけ機能させるための監視システムの法制化だと思います。
    同様に筋論で言えば、今できることって資本主義と民主主義の法のバランスをうまく取りなおすことだと思います。「グローバル化した資本主義には国家よりもっと大きなグローバル化した民主主義が必要だけどそれがうまく行く可能性が現状では存在しない。」問題だと思います。

    一例をあげるなら、冷戦終結時、中国は共産主義経済崩壊の危機にあった。
    そこで中国は資本主義経済の一員への参加を望んだ。

    しかし「資本主義と民主主義はセットで機能するもの。共産主義システムを捨てない限り資本主義経済の一員と認めない。」と国際社会は突っぱねるべきだったと私は思っています。
    これは他国を排除するからといって保護主義とは少し意味が違う。
    共産主義とは、「分かち合う。」という経済システムそのものが思想であり理念であったように私には思えます。
    しかし「資本主義に変更する。」ということは、「分かち合う。」という共産主義的理念が消えるということではないでしょうか?理念の存在しない今の中国では、資本主義の持つ競争原理のみが存在している。たかが理念されど理念なのです。今の中国には理念が存在しないのではないでしょうか?
    それに対抗しようとすれば、アメリカも理念なき資本主義にならざるを得ない。ひとつボタンを掛け違えると、簡単に世界は崩壊しだす。制御不能な多国籍企業の問題だけではないのです。それがトランプの台頭を招いた遠因の一つかもしれないと思いますよ。

    もちろん当時中国には飢えた民がいたので、今、国際社会が北朝鮮に対して行っているような、しかるべき機関を通じての食糧支援は行う必要であっただろう。(あれだけの人数の国民の胃袋を満たす食糧支援は相当な負担を国際社会は強いられたとは思う。「それが可能だったかどうか?」は難しいところです。また中東の石油産出国などとは、民主主義国家でなくても交易をそれまでも続けていたことを考えれば、ダブルスタンダードとの批判も生まれたことだろう。それでもやるべきだったと思う。)

    もともと中国が民主主義を拒否した理由は、大きすぎる人口を抱えて民主主義では意思決定に時間がかかりすぎるという側面だけでなく、おそらく「体制が腐りきっていたということではないか?」と、私は考えます。
    報道の自由が解禁されれば、それまで甘い汁を吸い続けてきた役人たちの過去は、白日の下にさらされる。天安門で学生を殺した体制も断罪され、かつてのエリートたちはほとんどすべて牢屋に繋がれかねない。民主化できない理由には体制側の人間の自己保身があったと思う。だから簡単には民主化を認めなかっただろう。それでも民主化を条件にすることを譲ってはいけなかったと私は思う。

    民主主義という安全装置を持たない資本主義は、システムとして食らい尽くすことしか知らない。中国ではどれだけ貧富の格差が拡大しようが、不満を言える自由すらない。体制の汚職を告発するまともなメディアもない。システムが強欲資本主義しかなければ、国民も食らい尽くすことを目指さなければ生き残れない。

    中国民族がどうのこうのという差別的な発言がよくあるが、個人の資質や民族的特徴の問題ではない。【システムが人の心を作る。】ってことだと私は思っています。ひどいシステムの内側にいれば人の心も荒んでいく。
    人間そのものの持つスペックは中国人だろうと、アメリカ人だろうと、日本人だろうと基本的に同じですよ。もちろん文化的特徴による差異は軽視できないけれど、システムによって構築される心のありように比べたら些細な問題だと私は思う。

    私はロシアをあんなややこしい国にしてしまったのも、国際社会の民主主義軽視にも一因があると思っている。
    冷戦終結後、共産党体制を維持した中国は窓口が一元化されているので、ビジネス交渉なども迅速に進む。対するロシアは体制の変換の混乱の中にあり、ビジネスの民間取引相手がまだ存在しなかった。つい先日まで国営の枠の中にいた人々なのですから、民間人がビジネスを立ち上げるにはそれなりの時間が必要だった。結局ロシアとビジネスをするということは、民主主義内の共産主義にあたる役人との交渉することになる。つまりロシアに共産主義的強い政府を再び作り出したのは西側民主主義陣営ではなかったのか?
    共産主義体制を維持した中国があっという間に発展し、民主主義化したロシアでは外資の協力による民間ビジネスがなかなか成長しなかった。

    ロシアの復活はあくまで天然ガスなどの資源関連主体だ。これではロシア国民もまた再び国家に頼ってしまう。
    民主主義というシステムを定着するということは、公務員という国内共産主義を監視するシステムが正しく機能することが最低条件だと思う。
    少なくとも既存の体制に対してNOのいえるアメリカはロシアに比べ、まだ健全さを持っているとも言える。

    では民主化に舵を切らない中国を資本主義の仲間に入れたのは誰なのか?
    もちろん新たなフロンティアを中国に求めた西側の強欲資本主義者たちも関与しています。彼らにとって民主主義なんてどうでも良かったのでしょう。儲かれば。安い労働力と市場が欲しかった。

    でもそれだけでしょうか?
    良い人ぶりっ子左翼も世論を作り、後押ししたと思いますよ。
    「人同士の交流が進めば、中国の人々の意識も変わりやがて民主化せずにはおられない状況が訪れるであろう。」という精神論的希望的観測。
    マスコミも当時“中国の素朴な民”というイメージ映像ばかり、たれ流していましたよ。
    みんな手をつなごう。ハンドインハンドだ。人の思いの連帯が社会を変え、国を変え世界を変える。いわゆる根拠なき理想主義。「命がけ。」なんて言葉を軽々しく口にする人々。
    私はアメリカのインチキ臭い部分の一つに、宗教的心情と法治のダブルスタンダードがあると思っている。
    いわゆる「銃そのものに善も悪もない。持つものの気持ちの問題だ。」的心情論と、銃規制の関係にあたる。
    「この世で大切なのは愛です。一人一人が愛する気持ちを持てば世界から争いは消えます。」こんなこと2000年以上前からキリスト教が言っているではないですか。でも争いは現実に消えてない。
    それを「いやそれは人々が本当の愛に目覚めていないからです。」こんなこと、いつまで言っていても国際社会は変わりませんよ。そうゆう奴って、右翼も左翼も決まって「命がけ」を口にする。
    左翼の大好きな平和運動といった種類のものも、基本はこの手の“愛の運動”の延長戦の主張なのではないでしょうか?
    別に私は”愛”を否定しているのではないのです。“愛”は人が人と関係を結ぶ上で大切な心の動きです。ただ、何度も言うように、地球の裏側の名前すら知らない誰かの事故死をニュースで見ても、自分の身近な誰かの事故死と同じ痛みを持って捉えられるほど、人間はご立派な存在ではない。わが子を交通事故で無くしたご両親は、何年もの間、その痛みを抱えて暮らすかもしれない。ただニュースで名前も顔も知らない誰かの事故死を知ったところで、私なら5分後には忘れている。
    本当に戦争をなくしたいなら、「人間は身勝手だ。」という前提からものを考え、「もっとほかの方法を探せよ。」と思う。
    「人々の思いが社会を変えるという考えに固執するな。」と言っているにすぎません。

    あえて言います。「人の思いが社会を変えることより、システムが変わることで人の心が変わることのほうが何倍も大きい。」と私は思っています。

    人間ってのはきれいごとだけが見たいんですって。だって“快”ですから。

    植民地解放は本当にガンジーなどの無抵抗の愛の運動などによって成し遂げられ、人権を守る事が国際的コンセンサスになったのですか?
    違うでしょう?
    もちろん第二次大戦時の日本の侵略行為を肯定する意図など私には微塵もありません。
    ただ極東の小国日本が欧米に牙をむいた。それは西洋社会にとってまさかの、とてつもない衝撃だったと思いますよ。
    このまま植民地支配を続ければ第二第三の日本が生まれることを欧米社会は危惧した。
    再び戦争が起こり、わが子や兄弟、夫が戦場で死んでいくかもしれない。それは間近に戦争を体験して身近な人々を失った“実感”のある心の痛みです。
    このまま植民地支配を続け、富を収奪し続けることがもたらす”快“を選択するか、また戦争が起こって身近な誰かが死んでいくリスクを避ける”快“を選択するか、二つを天秤にかけて、より“快”の大きなほうを選択したに過ぎないでしょう?
    もう一度言います。人間は自殺というある種、究極の状況下でも、「このまま日々、借金取りにおびえて生きるか。」「死ぬか。」どちらが“快”であるかを選択している。
    つまりご都合主義の”快”の選択です。

    それまでは植民地という遠い共同体の人間が死のうが生きようが、いかに虐げられようが、話を聞けば一瞬心が痛むだけの実感のない知識や情報だったのでしょう?だからこそ、それまで植民地支配をやめなかった。でも「自分の夫や子供が死ぬ可能性を間近に感じた。」となれば話は別になった。
    ガンジーの登場は、さも“愛”が世界を変えたかのようなプロパガンダとして語られる。でも現実は植民地解放に世界が動き出した後の、流れに乗っての出来事に過ぎないのではないですか?
    最初に植民地解放した国はまだ解放していない国に対し「お前らだけずるい」「お前らは人間の持つ人権が分かっていない。」と手のひらを返したようにわめきだす。突然“正義”になる。
    中露に先立ち、仮にアメリカが核を手放すようなことがあれば、おそらく明日にでも手のひらを返したように、「核保有は人類愛に背く。」と叫びだしますよ。それが人間ではないですか?

    「西洋の奴らはご都合主義で小汚い。」と排他主義的な馬鹿右翼のような主張をしたいわけではないのです。
    西洋だろうが日本だろうが人間はご都合主義だし、私も含め小汚なく多かれ少なかれ自分に都合のよい物語を選んで生きている。極端な左翼や右翼ほど激しくなくても、誰もが自己性愛的特徴を多少なりとも持っている。
    ただ、どのような経緯で基本的人権が世界のコンセンサスになったかなんてどうでもいいこと。過去は過去。
    大切なのは国際社会が、欧米を中心にした一部であっても【基本的人権を守る】というコンセンサスを手に入れたこと。
    システムとしてコンセンサスとして手に入れれば、人の意識も少しずつ変わるって事です。今その構図が壊れかけていることが問題なのですが、それは従来あった国家単位の理念を法制化したシステムでは国際社会に対処できなくなったということではないかと私は思いますよ。

    もっとわかりやすい例を挙げましょうか?
    「核兵器廃絶。」なんて叫んでも核兵器は無くなりませんよ。
    核兵器は脅しという外交圧力に使える。この間書きましたよね。逃げ場のない飛行機の中で銃を片手に好きな要求を出すテロリストも、逃げ場のない地球上で、核兵器を片手に他国に高圧的な要求をすることも、構図的には全く同じ。わかっていても保有国には自分たちが得をする“快”があるから屁理屈をつけて手放さない。そして「身を守りたい。」という思いは、誰にでもある基本的な思いだから手放さない。核戦争でも起こって身近なわが子でも失って身をつまされない限りね。人間は馬鹿で小汚い一面を持っていますから。

    でも一つ極端な例を挙げれば、「いかなる理由があろうとも他国に侵攻した国の国民は、すべての国が軍事力を総動員して、民間人子供の区別もなく皆殺しにすることを国際ルールとする。」このような国際法があったなら果たして侵略戦争あるいは侵攻を行う国はありますか?

    確かに超大国の場合、2つ3つの国が連携すれば世界相手に戦争しても勝つ可能性はあるかもしれません。でも壊すのは簡単でも、その後、壊した世界全体を統治できる国など存在しますか?
    イラクなんてあっという間にぶっ壊されました。
    ただそれ以降の統治は別問題です。たった一国に対して超大国アメリカですら統治しきれなかった。ましてや世界相手に戦争すれば、すべての国が自国を狙う火薬庫ですよ。支配国側の視線から見れば世界中でテロ、テロ、テロの嵐です。被支配国にとってはレジスタンスです。侵略国を弱体、崩壊させるために戦争するようなものです。得るものは何もない。いかなる国も戦争なんて出来なくなるのです。
    たとえ戦争したい意思がある国が存在しても戦争できない国際法を作る。アメリカのような“正義の戦争”なんて認めてはだめなのです。いかなる理由があっても侵略,侵攻は許されない国際法を作ればいいのです。内戦に関してのみ、国連平和維持軍を派遣すればよい。

    絶対戦争できない国際法があるのなら核兵器なんて持っていても、脅しという名の外交圧力にすら使えない。メリットを失うのです。
    多額の維持費を使って保有する理由が失われる。すべてを手放すかどうかは別にして、少なくとも核軍縮は劇的に進みます。軍事産業云々すら関係ありません。需要がなければつぶれるだけです。
    つまり戦争したい欲望を持つ国があっても絶対に戦争が出来ない国際ルール作りを目指す方が、何倍も国際社会は健全化する可能性は大きい。アメリカ国内の銃規制と構図は同じです。「銃に善悪はない。持つものの心のありようだ。」なんて精神論をぶちかましても物事は改善しない。「戦争、核兵器。いらない。」「想像してごらんなさい。あなたの大切な人が、戦争に巻き込まれ命を落とす未来を。」なんて、精神論ぶちかまして変わるのなら、大宗教の信者はこの世に山ほどいて、それらは基本的に”愛”を解いているのだから、すでに世界は変わってなくてはおかしいのです。

    国家間の戦争がなくなることに何か問題がありますか?
    日本も軍隊を持つことになります。でもその軍隊は絶対に他国と戦うことがないのなら、問題はないはずです。
    ただこういった考え方、実現しようとするのも難しい道ではあります。
    右翼だけではなく左翼も頭が固いですからね。きれいごとがないと動かない。

    これが「システムが変われば人の心も変わる。」と私が言う意味です。
    侵略という欲望を持つことが無意味なら、欲望を向けるベクトルは自ずと他の分野に移行します。人の心は変わるのです。

    ずいぶん脱線しましたが、つまりね、中国の共産主義体制を認めたまま、資本主義経済の一員である事を認めた時点で、世界は崩壊し始めていたと私は思いますよ。作ってはいけない強欲資本主義システムを生み出してしまったわけだと私は思います。

    中国の体制を認めてしまったことにより、グローバル資本主義のもう一つの翼である、グローバル民主主義を構築できなくなったと私は思いますよ。
    しかし嘆いても無駄なことで現状の上に、どんな未来を構築するか?そのために、どの部分を動かせばいいのかを考えなくては、「資本主義は崩壊する、排他的国家主義は拡大している。」なんて不安を煽っても何の意味もないと思いますよ。

    ただ新しい秩序構築への動きもすでに始まっていますよ。
    スペインのマリナレダ村で行われていることです。
    方法論は「新しい形で民主主義内部に共産主義的システムを定着しよう。」という動きです。衣食住に関する生活必需品は共産主義システムで管理しようというものです。つまり生活必需品については資本主義的な競争原理の外側にそれらのものを置くという考え方です。
    例えば住居はすべて村の所有物であり、村人は家賃を払って家を借りるわけです。つまり「ビバリーヒルズにありそうな豪華な家を建てたい。」といった欲望は満たされませんが、そこそこ満足の行く大きさの住居を村が提供する物件の範囲で選択し、比較的安価で住むことが出来る。日々の生活に必要な食材も、同じような方式ですので比較的安価で手に入れられます。
    ただ村はその他の部分では住民の起こす民間産業を支援し、資本主義である外部との競争社会に打ち勝つ差別化商品開発を支援しています。
    昔の中国に似ているようですが大きな違いは、国家という民主主義社会の内側に村が位置するため、村の持つ権力の暴走への監視システムは村民にあるということです。村人は民主主義国家という上位の共同体ともつながっているため無力ではないのです。
    中国のように権力が同時に権力の監視を行うというあほ臭いシステムでは、不正など無くなるわけがありません。

    「とても小さな共同体の形から変えていく。:」という方向性は素晴らしいのですが、ある程度、食、住に関して地産地消的な要素が実現できる共同体でしか、実現不可能な方法ではあるようには感じます。
    ただ中央から取り残された地方都市の再生などのヒントにはなるかもしれません。野党のあほ議員なんて、政権をとったところで、どうせ国際社会の中で自分たちの持つ理念に沿って具体的には何一つ出来ないのですから、限界集落にでも移住して、このような小さな共同体作りから始めればいいと思うのですけどね。その方が、こういった村で生活したいと望む人々も増えるのではないかと思います。まず具体的成功例を提示しなくてはいつまでたっても理想主義的精神論馬鹿としか思われません。

    • 町田 より:

      >Do-daro さん、ようこそ
       いやぁ、実に力のこもった長文のコメント、もうこれは立派な論文ですね。

       これだけの力作を、私のようなほとんど無名の素人ブログにお寄せいただくなど本当にもったいないという気持ちもありますが、逆にいえば、あまたある媒体の中から、わざわざ当ブログを選んでくださったということはとても光栄なことだと思っております。
       その意味で、厚く御礼申し上げます。

       精読するのに時間がかかりましたが、その分たっぷり勉強させていただくことができたと思っております。
       本当にありがとうございました。

       さて、いただいたコメントの内容に関してですが、お寄せいただいた大半のご意見には、ほぼ私も同様の見解を持っています。共感できるところも多々ありました。鋭いご指摘だと思えたところでは、本当に「ごもっとも !」と膝を打ちながら拝読しました。

       ただ、多少は私の方からも少しだけ説明を加えさせていただた方がいいと思える箇所も散見しました。
       以下は、Do-daro さんの論考を補足するようなものだとご理解いただき、こちらの意見もお聞き届けいただければ幸いです。

       さて、Do-daro さんの本稿は、「社会」という概念の定義づけから始まります。
       それにはこう記されている。

       ≫「社会(サエティー)という概念はヨーロッパで生まれた。そこにある理念はキリスト教における神の下の平等であり、時代を経て、法の下の平等に変化した。そして(それが)民主主義の根本となる」

       まったく異論を差しはさむ余地のない見方であると思いますが、私が付け加えたいのは、「<社会>の構成員はみな平等である」という前に、「<社会>というのは、世の中には自分とは違うことを考え、違う生活原理で生きている人間がいる」という認識がなければ成立しない概念だということなんですね。

       同じように「民主主義」というのも、「世の中には自分と違う政治思想の人間もいるし、自分が好ましいと思う社会とは異なる社会を望む人もいる」という認識が前提となって、はじめて成立する政治形態です。

       つまり、どちらも基本的には、「この世には他者がいる」という認識が基底に置かれています。

       「他者」というのは、こちから積極的に努力してコミュニケーションを取ろうとしないかぎり、放っておけば、こちらの存在に無頓着のままでいるか、もしくは敵意を持っている人間ということですね。

       だから、「社会」というのは、お互いに「相手の他者性」に気づき合う “場” ということになります。
       つまり、「社会」とは、自分の利害だけを一方的に主張するのではなく、相手もまた利害を主張してくるやっかいな存在であると認めるところに芽生える概念です。 

       そして、そういう “ややっこしい” 相手と意見を通わせ、ときには議論し、そしてお互いに “独りよがり” の考え方に気づいて、両者が歩み寄る(妥協点を見出す)というのが民主主義の原理です。

       では、その民主主義というのは、いったいどういう経済システムから生まれてくるのか。
       それについて、Do-daro さんはこうおっしゃるわけですね。

       ≫「資本主義と民主主義はセットでようやく機能するもので、資本主義の問題だけでなく、民主主義がうまく機能していないことも合わせて考えなければ何の意味もない」

       つまり、民主主義がうまく機能していないというのは、それとセットになっている資本主義にも問題があるということですよね。 

       では、資本主義側にはどういう問題があるのか?
       それについて、Do-daro さんはこう表現される。

       ≫「ごく一部の極端な富裕層がいる反面、以前なら中産階級といわれた人々まで、生活が苦しい状況になりつつある」

       つまり、「今の資本主義諸国では、格差社会が極端になりすぎて、バランスを欠いた社会が生まれている」ということなんですね。

       私もまた、これが民主主義を阻害する最大の要因と考えます。

       前述しましたが、民主主義というのは、基本的に、「世の中には自分の考えとは異なるやつらがいる」ということを認めることが前提となりますが、中流階級が没落していくと、そういう認識を持つ人も少なくなっていくということなんですね。

       経済格差は教育格差にもつながっていきます。それは当然、教養格差にもなっていくわけですから、「世の中には自分とは異なる人間がいる」という余裕のある認識を持てない人も増えていく。

       要は、「金持ちを恨むビンボー人」と「ビンボー人を軽蔑する金持ち」に分かれていったり、あるいは「宗教」や「人種」が異なるだけで、非妥協的に対峙し合う世の中が生まれてきてしまう。
       そうなると、民主主義は成立しない。
       意見の合わない者、出自が異なる者はみな「敵対者」となってしまうからですね。

       民主主義が機能する社会というのは、同じような教育水準を維持し、同じような生活水準を持つ多数の中間層の存在が前提になります。
       1970年代ぐらいまでのアメリカはそうでしたし、1960年代から80年代ぐらいの日本もそうでした。
       だから、その時代ぐらいまでは、日本でもアメリカでも、政治対立・思想対立があったとしても、「民主主義」を素直に信じることができました。

       しかし、Do-daro さんがご指摘されているとおり、現在はそのアメリカの中間層の没落が止まらず、格差社会が急激に広がっている。日本もそれを追い始めている。
       
       このように中間層が没落していくと、社会を冷静に見つめるような教育を受けていない人々が増える。
       そうなると、どうなるのか? 
       
       人間の感情をはげしくゆさぶり、敵の存在をはっきりと打ち出し、それに対して過激な戦闘モードを煽る政治家が人気を集めるようになります。
       いわゆるポピュリズムですね。
       トランプ現象もこれに当たります。

       これについて、
       ≫「トランプ支持者は善良な市民階級などではない。“さまざまである”」
       と、 Do-daro さんはお書きになっています。

       そのとおりです。
       でも、その “さまざま” な支持者がそれぞれの立ち場や出自を超えて、消去法でいやいや選んだにせよ、トランプのあの差別主義的で、排他的で、他民族・他文化に非寛容な発言を繰り返したトランプに票を入れたわけですよね。

       Do-daro さんもそのことについては、
       ≫「(トランプ支持者は)現状の停滞した秩序を無茶苦茶に破壊して欲しかったのかもしれない。革命を期待した。既存の政治家に任せていては何一つ変わらない苛立ちや、今より悪くなり得ないという開き直りで投票した」
       とお書きになっている。

       でも、それはもう民主主義の危機そのものではないですか?
       アメリカといえば、世界の民主主義思想のリーダーとして、20世紀の政治秩序を策定してきた国ですよね。
       そのアメリカの民主主義が危機だということは、いったいどういうことなのか。

       一方では、確かにトランプ氏に期待する声も多い。 
       彼は、長年つちかってきたビジネスマンとしての経歴を生かして、今後アメリカの政治にもビジネスとしての視点を導入していくと期待する声もあります。

       そこで私は、このブログの本稿で、次のように書きました。
       ≫「ビジネスマンだから困るのだ。ビジネスマンというのは、無駄が嫌いである。商売になることしか考えない。
       困ったことに、実は『文化』といわれるものの大半は、無駄からしか生まれない。『有益性』や『効率性』から生まれた文化など、一つとしてあった試しがない」

       このとき、私が何を念頭に置いていたかというと、政治にはビジネスだけでなく、やはり<理想>や<理念>が必要だということでした。
       それをひっくるめて<文化>といっていい。
       そういった意味で、私は、アメリカ国民に嫌われているといわれるオバマ大統領をやはり評価しています。

       彼は「核兵器廃絶」を謳った。
       Do-daro さんは、≫「核兵器廃絶なんて叫んでも核兵器はなくなりませんよ」とおっしゃる。
       そんなことはわざわざ言い出さなくても、誰だって分かることだと思いますよ。
       ただ、政治というものは、ガンジーが唱えたような “意味のない愛” が必要なんですね。

       「無抵抗主義」も「核兵器廃絶」も、それが “物語” となって人間の心に灯を射すのなら、それはそれでリアルな真実なんです。
       政治から、そういう “空しい理想論” を取り下げてしまうと、単に「国が国を出し抜き、人が人をあざむく」世の中になっていくことを止められなくなるんですね。
       
       そういう弱肉強食の流れに歯止めをかけるためには、空しくてもいいから「政治の理想」を掲げ続けることが必要なんです。

       「核廃絶」と唱え続けることは、核兵器を持つ国の人々に「核装備に対する意義」を意識させるというだけでも重要であると思います。

       「核兵器はほんとうに抑止力になるのか?」
       「核兵器が暴発する可能性はないのか?」
       など様々な議論を巻き起こすきっかけになるのだったら、「核廃絶」を訴えることは無駄ではない。
       それが「政治のリアル」というものでしょう?

       少なくとも、
       ≫「いかなる理由があろうとも他国に侵攻した国の国民は、すべての国が軍事力を総動員して、民間人子供の区別もなく皆殺しにすることを国際ルールとする」
       というアイデアよりは「核兵器廃絶」の方がリアルであるように思います。

       今回いただいたコメントの全般にわたって、Do-daro さんのご意見は、多少私の意見とは異なるところがあっても、大半は納得のいくものばかりでした。
       しかし、この国際ルールのアイデアだけは、ちょっと理解に苦しんだことを正直に告白します。

       ≫「戦争したい意思がある国が存在しても戦争できない国際法を作る。いかなる理由があっても侵略,侵攻は許されない国際法を作ればいいのです。内戦に関してのみ、国連平和維持軍を派遣すればよい」

       このルール、いったい誰が作るのでしょう?
       もし仮に、各国の合議によって、こういう国際法ができたとしても、それに従わない国への強制力はどこから出てくるのでしょうか。

       「すべての国が軍事力を総動員して、制裁する国の民間人や子供の区別もなく皆殺しにする」というルールができたとして、それに従って行動する国が、果たしてあるのでしょうか。

       「皆殺し」って、どういうことか分りますか?
       それを実行するというのは、人道的な問題が出てくるということ以前に、関わる国に大変なコストを強いるということですよ。
       
       シリアの内戦ひとつとっても、どこの国も収拾できない今の状態を見てみれば、こういう提案が “ロマンチックな(?)” 夢想でしかないことは誰でもすぐ分かることだと思います。

       脱線しましたので、話を元に戻しますが、政治というのは、「有益性」や「効率性」だけでは語れないところがあり、その二つを一義的に優先するビジネスとは一線を画すということをいいたかったわけなんですが、どうもそこのところがDo-daro さんの感情を逆なでしてしまったようで、次のようなご叱責をいただきました。

       ≫「ビジネスの本質は “有益性” や “効率性” の追及とはずいぶん乱暴な意見だと感じました。(中略)“有益性” や “効率性” のみがビジネスの本質かと聞かれれば、“そんな馬鹿な事は絶対にない” と断言してもよいですよ」

       その反措定の材料として、Do-daro さんはトランプ氏の建てたビルに言及されていらっしゃいますよね。

       ≫「トランプ自身もガラス張りの当時珍しいデザインのビルを作ることで、有数の大富豪になった人ですよ? そんなものは、“効率性” とも “有益性” とも何の関係もない。むしろ地震でも来ればガラス張りのビルはおそらく危険ですよ。“カッコよい” ビルを作ったのが受けて、金もうけにつながったのだと思いますよ」

       確かに、おっしゃるとおりですね。
       こちらも少し軽率なことを、誇大に挑発的にいってしまったきらいがあります。
       文章に傲慢さがにじむこともあえて辞さない気持ちもありましたので、Do-daro さんが反発されるのも当然かとも思います。

       ただ、こういうことは言えるのではないでしょうか。
       すなわち、ビジネスの成否の条件を探ることと、ヒット商品の成功の秘密を探ることは同じではないということです。

       トランプ氏のガラス張りデザインのビルが「カッコいい」という評価を受けて、それが金儲けにつながったとしても、そこで得た成功をさらに持続化させるためには、その成功した秘訣をデータ化したり、マーケティング調査をしたりするなどして次の事業のヒントにしていくことが重要であり、それを行わない事業家はいないはずです。

       繰り返しになりますが、「ヒット商品」はアイデアとひらめきで生まれるかもしれませんが、ビジネスはアイデアとひらめきだけでは持続できない。そのアイデアとひらめきの成功率を高めるためには、「効率性」と「有益性」という視点からアイデアを練り直す必要がぜったい出てくるはずです。

       
       そこで問われるのは、「効率性」と「有益性」というのは、果たして資本主義の理念なのか、それとも共産主義の理念なのか? という問題ですね。

       Do-daro さんは、次のようにお考えです。

       ≫「“有益性” や “効率性” だけを追求したのは『共産主義』ではないですか? (共産主義は)売るための差別化の情熱がない世界です。作る喜びのない世界です。社会から活力は消え、ろくな商品は生まれず働かなくなります。それが共産主義の崩壊(冷戦の終結)を招いたと思います」

       そういう面は確かにあります。
       それは誰も否定できないでしょう。
       ただ、かつて歴史上に誕生した共産主義国家 … 今でも多少残っておりますけれど(笑)… などと比べ、資本主義国家の労働者ならは “売るための差別化の情熱” とか “作る喜び” を確実に手に入れているかというと、そんなことは一概にはいえないようにも思えます。

       現在、資本主義国家といわれる国であっても、ただ食べるために情熱なども持ちようもない製品を作り続けている労働者は多いだろうし、仕事にありつけるだけでもましという状況が生まれつつあります。

       Do-daro さんのいうような「自己の生産物に情熱を持てるような労働」に携われる人というのは、資本主義国家においてもそう多くはないでしょう。
       密林のなかの陽の差さないような汚れた工場で、1個1円とか2円の商品を作り続けている労働者を、新橋あたりのサラリーマンと同一に考えてはならない。

       だから、「共産主義の崩壊(冷戦の終結)」という現象も、「労働者の作る情熱の欠如」というだけでは説明しきれないものがあるように思います。

       もちろん、資本主義社会と比べ、共産主義国家の場合は、個々の労働者の仕事に対するモチベーションが低く、それが生産性の低下を招いているというDo-daro さんの指摘には十分うなづけるものがあります。

       しかし、そのこと以外にも軍事費の面で、アメリカとの軍拡競争についていけなくなったなど、複合的なものがあるように思えます。
       もちろんアメリカも旧ソ連との軍拡競争で巨額の財政赤字を背負うことになりましたが、幸いアメリカの場合は、日米同盟を組んでいる日本の企業がファイナンスすることによって、ソ連とのチキンレースを切り抜けることができました。

       そのため、東西冷戦は、アメリカの勝利に終わり、社会主義経済ブロックと資本主義経済ブロックというふたつのブロックが合流して、それこそグローバリゼーションの時代が幕開けするわけですが、これはある意味、全世界が資本主義化したともいえるわけですね。

       それによって、格差社会、環境破壊など資本主義が原因と思えるさまざまな問題がより鮮明になってきました。
       でも、Do-daro さんは次のような問題意識を持たれるわけですね。

       ≫「確かに資本主義の先行きは問題だらけかもしれません。ただ、競い合いや差別化が許される領域を、資本主義の内側だけに限定しようという先人の考え出したシステムはどうしようもない欠陥システムだったのでしょうか?
       もちろん、人間の考えだしたシステムですので、ベストでも万能でもないシステムなのは確かです。でも他に選択肢があったのでしょうか?
       いかに問題があっても現状で資本主義に代わる、よりすぐれたシステムを誰も提言出来ていないし、もちろん私ごときがそんなものを思いつかない」

       まさに、おっしゃるとおりです。
       これは、現在世界の政治リーダーたち、企業経営者たち、学者たちが知恵を奮っても、誰一人有効な答を出せない問題だと思います。

       だから、
       ≫「町田さんはどんな経済システムを考えてられるのですか? 語れるなら聞かせてください。その部分の提案がないから、ものすごく空虚に聞こえるのです」
       といわれても、これには困りました。
       「語れません !」と天を仰いで絶句するしかないわけです(笑)。
       もちろん、開き直っているわけでも質問者をからかっているわけでもありません。

       経済学者でも、社会学者でも、企業プランナーでも、誰かが提案できるような問題であるならば、もうすでにどこかの優秀な人たちがそれをプランニングし、それに移行すると世界はどうなるのかなどというシミュレーションをしているはずでしょう。

       それがどこからも出てこないというのは、今のところ「答がない」ということです。
       「ベーシックインカム」のような弱者を救済する方法が議論されることもありますが、まだそれもはっきりした形をとっていない。
       要は、社会主義体制が失敗したことが分った今となっては、もう資本主義に替わるシステムというものがそう簡単には見つからないという状況です。

       これに関しては、少しずつ地道なところから実験的な思考錯誤を重ねていくしかないのではないでしょうか。
       その一つが今回Do-daroさんが取り上げていらっしゃったスペインのマリナレダ村で行われている実験なんでしょうね。これは、私もテレビで見たことがあります。
       
       ただ、今までは、こういう民衆レベルから立ち上がってきた理想郷建設というのが成功したという例はあまりありませんでしたね。
       だから過度な期待はできないかもしれないのですが、こういう運動の行く末は見守っていていく必要はありそうですね。

       とにかく、「資本主義以外のシステムを提案してください」というご依頼には、上記のような答しか出せなくて、本当に申し訳ないです。

       また、≫「資本主義に替わるシステムの提案がないから、(言っていることが)ものすごく空虚に聞こえます」 
       というお気持ちはよく分かりますが、しかしまぁ、提案のない空虚さに耐えることも人間には必要ではないですか(笑)。

       現代人は、「意味」というものに過剰にこだわり過ぎて、「意味のない空虚さ」と向き合う勇気を失っていないでしょうか。

       そのことに関して、Do-daro さんは、こうお書きになられています。

       ≫「“資本主義は崩壊するとか排他的国家主義は拡大している” なんて不安を煽っても何の意味もないと思いますよ」

       おっしゃることも分かるような気もするのですが、資本主義が崩壊すると聞いただけで不安だという人は、もう少し頭と身体を鍛え直した方がいいですよ
      (笑)。

       資本主義が生まれるまで、人類はさまざまな経済システムを経験しながら、それなりに生きてきましたよね。
       だから、現在の資本主義がいつまでも続くなどと考えなくてもいいのではないかと私は思います。

       それに資本主義が終わるという予測が、仮に人の不安を煽ったとしても、人間はそういう不安に備える耐性を持たなければこれから先生きていけないのではないでしょうか。

       
       以上、Do-daro さんと多少意見の異なる部分のみ感想を述べさせていただきました。
       しかし、それ以外は、ほんとうに勉強になりました。
       世界情勢に関しても、さまざまな政治潮流に関しても、ほんとうにしっかり把握していらっしゃる。
       その博覧強記には目を見張る思いでした。

       またいろいろなことに関してご指導ください。
       今後ともよろしくお願い申し上げます。
       

  5. Do-daro より:

    本当に丁寧に読んでいただいてうれしいなあ。
    でもいろいろ書いていただいたことは、ほとんど反論すらないぐらい納得いくものでしたよ。一部だけ反論と説明をします。
    >ビジネスマンの説明、言いたかったことはわかりました。それ以外はすべて納得いきましたよ。私も大げさプラス思い込みプラス読み飛ばしのあった部分がありました。(読み飛ばしの心境はのちに書きます)一言もない。

    >「世の中には自分と違う政治思想の人間もいるし、自分が好ましいと思う社会とは異なる社会を望む人もいる」
    これは私の物言いに対するものとも受け取れました。
    耳が痛いなあ。その通りだから。この部分も一言もない。ただすぐ私はいらいらする。
    でも
    >そしてお互いに “独りよがり” の考え方に気づいて、両者が歩み寄る(妥協点を見出す)というのが民主主義の原理です。
    って言葉はそのとおりです。怒りっぽいからなあ。難しくて自信はないけどそれをいつも心に留めるように努力はします。傲慢と言われてチクチク痛い部分が一杯ある。痛みを感じるのだからその部分はきっと治せます。すぐに変われなくてもまた指摘してください。

    >Do-daro さんもそのことについては、
     ≫「(トランプ支持者は)現状の停滞した秩序を無茶苦茶に破壊して欲しかったのかもしれない。革命を期待した。既存の政治家に任せていては何一つ変わらない苛立ちや、今より悪くなり得ないという開き直りで投票した」
     とお書きになっている。
    でも、それはもう民主主義の危機そのものではないですか?

    もったいぶったのが失敗だったのかな?伝わらなくて残念。
    「中国の話、グローバル資本主義の話などを含めた資本主義および民主主義のセットの崩壊の必然として一国主義のトランプの誕生。」という図式で書きたかったのです。へたくそにトランプを上部の文で語ったことが問題ですね。読み返してみると少し変ですね。私、下に書いた世界情勢から繋げてトランプが何かを浮かび上がらせたかった。だからあまりトランプと民主主義単独を絡めて最初にある上部の文では書いてないのです。単独で書くことを避けたのです。
    そうか「分岐点とは考えてない。」といった言葉を使っているからわかりにくいのか。でもこれは町田さんの「トランプ分岐点説。」を受けて、分岐点はもっと昔にあったのではないのか?と問い返しがしたかった部分があるのですよ。
    町田さんは「トランプによって民主主義は崩壊の危機を迎えた。」という言葉が私の文章のあの部分に必要だったと思ってられると考えていいのですか?
    私は「トランプが選ばれたということはアメリカにおいても、すでに資本主義および民主主義のセットは崩壊していた。」とたぶんいいたかったのです。分岐点の相違と、セットで語るか、単独で語るかの違いではないですか?上のトランプ項目の文章を書くときには、「なるべく抑え気味にトランプそのものには触れるようにしよう。」ぐらいの意識ぐらいしか持ってなかったのが本当のところです。「個人攻撃的に書きたくないなあ。」程度の気分です。ただなんとなく文章全体のイメージはあった。
    “必然”という言葉の意味ってそれしか受け取られないと思った。わざととがった言葉を選択したのにはそんな意味があったのです。必然といった言葉で「何故トランプを肯定するかのような書き方をしやがる。」と一度思わせておいて下まで「読めばなるほどこんなことが言いたかったのか。」と思われる文章にしたかった。壊れたセットの必然がトランプなのだと書きたかった。
    違う分岐点の設定を見せたかった。わざとおとなし目にトランプについてをぼかして書いて、下まで読めばなるほどそんなことが言いたかったのか。と思わせたかったのです。文章そのものがトランプについて語りたいものではないです。民主、資本主義セットの崩壊とそれが招いた必然的秩序崩壊です。文章が下手で伝わらなかっただけです。

    ただ、やっぱり私はヒラリーが何も言えなかったことが悲しい。腹が立ってしまう。これはおそらく、町田さんが今までグローバル資本主義を扱った文章の中で民主主義(理念、理想)ついては語らなかったことへの私のイライラ感に似ている。というより町田さんは語っていたのに気づかなかった私の問題なのかな?難しかった。
    もう一つ、今わかったのは文化を語れるほど今の時代の新しい文化に私はついていっていないし関心がない。昔の文化なら結構わかるだけ。おっさんになって自分の中に人の書く文化論に何か解釈を加えられるだけの何かが足りない。レディ・ガガの顔を知っていても音楽聞いたことないですもの。「ガガさんだっていろいろ欲があるだろ。」ぐらいの一般論が関の山。
    理解力不足+知識不足で文化論に新しい芸能人名が展開されると怖気づきおっさんはスルーしました。まともにあの項目読んでなかった*笑*町田さんはちゃんと読んでくれたけれど、「私が文章を書いている途中で持っていた漠然とした不安定な意図。」に不満を持ったように、私も町田さんの意図がわからなかったし、その部分については読み解こうとちゃんと向き合いすらしなかった。
    例えばパスクロマーナとか言われると、一般人のものを知らないおっさんは、難しすぎて怖気づくのです。気持ちが固くなって言葉が流れ込んでこなくなるのです。単なる基礎知識の勉強不足でしょうが
    そういった側面が一般人にはたぶん私以外にもある事をご理解ください。

    ただヒラリーは民主主義の崩壊について語るべきだったと思う。ストレートにわかりやすく。世界で民主主義が崩壊しだしている事。アメリカだけはそれを守る最後の砦でなくてはならない事。必死でそれだけ伝えればよかったと思う。でもしなかった。負けるのは決まっていたとしても【ヒラリーはあの時こう言っていたよなあ。」という言葉は必要だったと思う。私はヒラリーの語った言葉で印象に残ったものが一つもない。本当にやるべきことをやったといえるのだろうか?

    私はクリントン(夫)のイメージも極めて悪く、どうも単純に「ヒラリーと夫婦でも別人格だから切り離して考えるべき。」と思い切れない気持ちを実際は持っている。偏見と言われればそれまでですが。夫もヒラリーのアドバイザーである事に変わりはない。
    クリントン時代のコソボ紛争への介入。「人権を守るための戦争。」という名目だが、戦後発覚した出典を提示した事実を丁寧に集めた記事などを読むとまともな中身を感じなかった。「コソボ紛争における虐殺者はNATOおよびアメリカではなかったのか?」という思いは今もある。
    あの戦争においては、「セルビア人政府によるアルバニア人の民族浄化が行われている。」といった根拠なき宣伝、20万人近くが殺されたという根拠なき宣伝に大衆の気持ちも踊らされた、「人権。」を叫ぶ世界中の人々が踊らされた。
    “おせんちゃん”と私が呼ぶセルビア人のペンフレンドにもいろいろ聞いたが、ずいぶん欧米メディアの報道とはかけ離れた印象を持った。それを鵜呑みにする気はないが、「セルビア人=悪。」といった世間一般に言われていた単純図式ではなかったとは思う。
    これが私自身、ヒラリーに相当マイナスイメージを持っていた部分でもある。大手を振って応援する気持ちになれない部分だったのです。陰でこそこそ悪事を働きそう。それも、とんでもないことも平気でやりそう。本当に複雑な気持ちだったのです。その事もご考慮くださいね。
    民主主義の崩壊か?「スキャンダル隠しの戦略のため戦争を行った。」(と一部では揶揄されていた。)夫を持つ側を選ぶか?
    選挙民だったとしても簡単には私は選べなかったなあ。ヒラリー、トランプともに「どっちもどっち。」気分は本当に私の中にあった。まあ私はおせんちゃんと仲が良いので、あの地域への思い入れが強いのもあるのです。

    博識な町田さんにこんな事を言っては失礼ですが、コソボ紛争に関する記事はネットにもいくつかあると思います。もし御存知でなければ是非読んでみてください。戦争が終わるまでは関心があっても、みんなの関心が無くなってから真実の多くは掘り起こされることもあります。私は心の一部では、何故ヒラリーをそこまで信じられるのか理解に苦しんだ要素もあるのです。
    ただ私はこんな事は一切今まで文章で書いてない。むしろヒラリーという個人については、トランプ以上にぼやかした書き方をこれまでしている。町田さんの扱うテーマが、あら探しの中傷合戦的、あの選挙でのTV公開対話みたいなものではないと思っているから。是非その気分だけはご理解ください。

    >政治の理想を掲げることも大切なのです。ガンジーが唱えたような “意味のない愛” が必要なのです。
    勘違いしないようにお願いします。「ガンジーによって世の中が変わったのじゃない。」とは書いたけど「ガンジーが必要でない。」とは一言も書いてないですよ。「ガンジーは憎しみを押さえた。」のだと思いますよ。ガンジーがいなかったら憎しみの感情は拡大して今も根強く残ったかもしれない。その時、民衆が本気で言葉を聞こうとする尊敬される指導者がどんな美意識を提示するかで民衆の感情は大きく変わることもある。その部分への文章がなく配慮はなかったことは認めます。まったくその事を書く必要もある事が頭の中になかったことも認めます。立派な人だという私なりの思いがあり、「誰もがそのように思っているだろう。」と甘えがありました。一つの方向性に文章を進めることにばかり気をとられました。私はガンジーの行為を少なくとも意味がないとは思わない。
    日本及び韓国両国間にある憎しみの連鎖のような一部国民感情を見ると、それがいかに根深いものかが分かる。一度火を噴くと修復は難しい。でもそれを左翼全般に一般化していた部分は認める。批判は傲慢でした。

    でも「私の書いた逆の半面の認識が必要な人々も大勢いる。」と私はやっぱり思いたいし、思っている。私はこういったことって表裏一体でどちらも必要だと思う。その事を考えるとき、やはりコソボの頃の「人権を叫んだ。」人々のことを思う。腹立たしさは今もある。私も含めてです。私もその一人だった。私にはその甘さが許せない気持ちが今も自分自身に対してある。
    夢や美意識って私にとって消そうとして消える代物でもないし、そんなことしても無駄と思っているものなのです。むしろまず美意識ありきかな。だいたいこの文章を書こうとする原動力がどこから来るかと言えば、やっぱり美意識ですよ。世界がどのようであって欲しいという夢ですよ。町田さんなら「受け止めてくれそう。」という直観(甘え?)と、対話への痛切な願望です。
    おそらく同じような消そうとして消えない夢や美意識を持つものに対して、ぼろくそ言われたからと言って「そんなものが消えるほどやわではないでしょ?」という、なんか信頼みたいなものはある。ついぼろくそ言ってしまうのは、そんなところから来る甘えかな?

    > Do-daro さんは、≫「核兵器廃絶なんて叫んでも核兵器はなくなりませんよ」とおっしゃる。
     そんなことはわざわざ言い出さなくても、誰だって分かることだと思いますよ。

    私、昔、平和運動の集会に一度行ったことがある。演壇から語られることにがっかりした。私本気で腹が立ちました。演壇で女の子がしゃべる。下から「違う違う。」のヤジが飛ぶ。町田さんの言われるようなわかってやってる人は尊敬する。でも本当に誰だってわかっていることだったのですか?私は会場で全くそのように感じなかった。またあの中に歩み寄りの心なんてあったかな?かけらも感じなかった。ああいった酔いしれた熱狂はどうも好きになれない。
    やはりコソボ当時の熱狂的に「人権」を叫んだ人々を思う。はたして、その人たちは、戦後、事実がどこにあったかの確認をしたのだろうか?
    でも見方を変えてみます。一度の体験で思い込みは良くないですね。長年こつこつ続けている人々まで非難することになる。反省します。これはものの見方が変わったからすぐにでも実践出来ると思います。これは本当に傲慢でした。納得いきました。また必要性がよくわかりました。極端なこと言って反省。焦るとこれを繰り返す。私、気持ちに余裕がなさすぎです。
    藤原信也さんの本を若いころ読んだ。その中でシスターがコレラで死にゆく子供を抱きしめ続けている姿を見た藤原信也さんが、そんなことをすれば自分も発病し、救えるはずのより多くの命も救えなくなるのではないかと思う。でもシスターは一人で死にゆく子供の最後の瞬間までその手のぬくもりを感じさせてあげることを大切に思っていた。私、感動しましたよ。町田さん、私は意味がないなんて思わないし無駄とも思わないですよ。
    >「皆殺し」
    表現がひどすぎますね。このように考えてください。少なくともすべての国に共通しているのは「外敵から身を守りたい。」という思いではないかと思います。「圧倒的な軍事力で他国を脅してやろう。」と思っている国にもこの思いはある。北朝鮮だって「外敵から身を守りたい。」という思いはある。「その思いは馬鹿になんてできない。」と思うのです。共通認識は存在する。
    もう少しましな「戦争したくても戦争できないルール。」って探せばどこかにあるかもしれないとまだしつこく私は探しています。
    簡単に言えば、とんでもなくひどい例しか探せなかったのです。書かなければよかった。町田さんひどすぎて引いてますね。当然ですが。
    「はい。侵略から自衛しなくてはならない理由がこのルールによって無くなりました。」というルールを考えたいってことです。
    「システムが人の心を作る部分もある。」というのも、本気で思っていますよ。中国のことを書きましたが、あれはやっぱり結論的に私の中で変わらないのです。本当に可能だったかは別の話で、あらゆる方策を探って国際社会は中国との新しい関係を模索したとも思えない。
    ただ何の脈絡もなく突然「戦争したくても戦争できないルール。」のまともなものを考えついても、すべての国が受け入れるわけがない事もわかっていますよ*笑*言われるように、すべての国が同時に受け入れなければ意味がないですしね。そんな夢物語はないのです。そもそも私にそんな国際社会に意見するパイプなんてないですし。机上の空論です。
    でもその部分にも、ひょっとしたら何か可能性がないだろうか?とは考えてはいる。可能性のないところに無駄な労力を注いでいるのかもしれないけど、まあそれも有りじゃないかと思います。私ほど「無駄。」に労力を注いで生きている人間いないと思いますよ*笑*
    私しつこいのです。
    「意味を探すな。」と言いたくなる気持ちはわかります。

    >意味のない空虚さと向き合う勇気
    ごめんなさい。難しくってわからないなあ。上の文章にあるわたしの性質に向けられた言葉だとだけはわかったのですが。
    言葉は受け取ったので、心にとどめておきます。こういった言葉は数年後急に「そういうことか。」って思った経験があります。

    ≫「“資本主義は崩壊するとか排他的国家主義は拡大している” なんて不安を煽っても何の意味もないと思いますよ」
    あはは。これはこの間の文に関しては出だしから相当大げさだったと今でも思いますよ。私としては不安を煽られたというより、大げさすぎて少し白けた気分があった。 
    >こちらも少し軽率なことを、誇大に挑発的にいってしまったきらいがあります。
     文章に傲慢さがにじむこともあえて辞さない気持ちもありましたので
    こういうのを感じちゃった。なんかプロパガンダ的に感じた文章への警戒心が私にはものすごくある。コソボを思い出す。何か私の頭には常にコソボがあるのです*笑*
    スカイプで話していると、おせんちゃんは言いました、【コソボはセルビア人にとって日本人にとっての京都なの。セルビア正教の聖地なの。】民族間の衝突は年間何十件も起こっており死人も多く出ていた。問題がありました。ただし政府主導の計画殺害といった質のものではなかったと思いますが。
    でもプロパガンダに乗せられて、「当時、民族浄化を進めているセルビアは悪だ。」なんて何の疑いもなく思っていた私は私を許せない。誇大広告臭に異常なまでに反応する。怖いのです。戦争に加担しそうで。「民族浄化が行われているなら武器の使用も仕方ないのかな?」なんてせんべいを食いながらTVの前で当時思っていた私がいたのです。

    私、資本主義と社会主義に関してはこれ以外ない気がしています。haveとwithだと思う。
    素人考えですが、組み合わせ以外に手はないかもしれないとこの部分については結構新しいスタイル提案の出現を諦めていますよ。見つかればいいなあ。
    ただ小さな共同体は町田さんより期待しています。その手の活動は今までもあったし、私もそんなことをしている人と話したこともあるのです。環境団体の主催者がもとそんな団体にいた人で、たまたま知り合って飲み屋で話を聞きました。でもその時、感じたのは、ルールでがんじがらめの印象だったのです。ほんの一つ二つの項目のみで、小難しい精神論を絡めずに、この部分だけ分かち合おう。といったスタイルなら可能性はあると思います。ただ子供の学校といった本人を取り巻く環境との連続性がむつかしい気がします。話を聞いていてその部分の問題を感じました。
    町田さんもあのドキュメント見ていたのですか。あはは。書いていることがほとんどあの範疇にしかない私の薄っぺらさが見えちゃいますね*笑*まあ以前から言っているように、ほとんど本も読まないし、たまにあんな番組を見るのが情報源の普通のおっさんですので。

    私は町田さんの言葉に対し本当に美しいと正直思いました。いいなあ。心が洗われる。まあ文句ばっかりこれからも書きますが適当に相手してください。

    • 町田 より:

      >Do-daro さん、ようこそ
       素晴らしい返信をありがとうございました。
       最初にいただいたコメント以上に、Do-daro さんの主張したかったことが明確に伝わってきましたし、またその背景にあるDo-daro さんの思想のようなものもしっかりと浮かび上がってきたように思います。

       このコメントでは、前回ご自身の言葉が足りなかったところを正直に認められ、詫びるところは詫び、反省するところは反省し、それでも伝えきれなかったことに関しては最後まで粘り強く説明しようと骨を折られている。
       その真摯な態度と勇気に頭が下がりました。

       おかげさまで、こちらも自分の表現の傲慢さや不親切さを身に染みて感じることができました。
       とてもよい勉強の機会を与えてくださっと思っています。

       以降、Do-daro さんの書かれた文章に対するこちらの感想も述べさせていただきたく思います。

       まず、
       ≫「 『世の中には自分と違う政治思想の人間もいるし、自分が好ましいと思う社会とは異なる社会を望む人もいる』 … これは私の物言いに対するものとも受け取れました」
       という部分。

       <社会>に対する見解は、別にDo-daro さんに対する物言いというわけではありません。
       だから、「耳が痛い」などと思わないでください(笑)。

       <社会>の他者性について言及したのは、「民主主義の精神は意見の異なる他者の言葉に耳を傾けるところにある」ということを強調せんがためでした。
       とりあえずそう振っておいて、「一人の政治指導者のアジテーションに国民が同じように反応するポピュリズム」を批判するときの伏線にしようと考えたわけですね。
       しかし、書いているうちに趣旨がボヤけてしまい、狙い通りの構成にならなかったように思います。こちらこそ申し訳ないです。
       
       
       ≫「町田さんの “トランプ分岐点説” を受けて、分岐点はもっと昔にあったのではないのか? と問い返してみたかったのです」

       「トランプの登場の前に、民主主義崩壊の危機と考えられるような分岐点があった」というDo-daro さんの意図は、しっかり伝わっていました。
       なのに、それに対する返信の文章が下手だったので、混乱させてしまいましたね。ごめんなさい。
       でも、ご安心ください。Do-daro さんの主張はしっかり受け止めているつもりです。
       
       
       ≫「ヒラリーが何も言えなかったことが悲しい。腹が立ってしまう。(この気分は)、おそらく町田さんが今までグローバル資本主義を扱った文章の中で、民主主義(理念、理想)ついては語らなかったことへの私のイライラ感に似ている」
       
       確かに「資本主義」を語るときに、私には「民主主義」という視点が抜け落ちていたかもしれませんね。これはDo-daro さんに指摘されてはじめて気づきました。
       そこで、Do-daro さんへの返信を書くときは、急いで「中間層の没落が民主主義の崩壊につながる」という論理を付け加えたわけです。
       ただ、この理論は、別に私が思いついたものでもなんでもなく、経済学者の水野和夫さんという方が言ってらっしゃったことです。
        
         
       ≫「昔の文化なら結構わかるだけ。おっさんになって自分の中に人の書く文化論に何か解釈を加えられるだけの何かが足りない。レディ・ガガの顔を知っていても音楽聞いたことないですもの。理解力不足+知識不足で文化論に新しい芸能人名が展開されると怖気づきおっさんはスルーしました」
       
       Do-daro さん同様、私もまた、今の時代の新しい文化というものがよく分かりません(笑)。特に若者が関心を持つ文化というものに馴染みがないですね。これは自分でも問題だと思っているところです。
        
        
       ≫「 『パスクロマーナ』とか言われると、一般人のものを知らないおっさんは、難しすぎて怖気づくのです。気持ちが固くなって言葉が流れ込んでこなくなるのです。単なる基礎知識の勉強不足でしょうが。
       そういった側面が一般人にはたぶん私以外にもある事をご理解ください」

       これは、貴重なアドバイスでした。
       こちらも、少し難しい言葉を使って、「どうだ? エッヘン」と気取っていたところがあったかもしれません。これには気を付けます。
       
       
       ≫「ヒラリーは民主主義の崩壊について語るべきだったと思う。ストレートにわかりやすく。世界で民主主義が崩壊しだしている事。アメリカだけはそれを守る最後の砦でなくてはならない事。必死でそれだけ伝えればよかったと思う。でもしなかった。
       負けるのは決まっていたとしても、『ヒラリーはあの時こう言っていたよなあ』という言葉は必要だったと思う」

       ヒラリーに関してのご意見は、100%同意いたします。彼女は民主主義の世界的危機を訴えるべきでしたのに、選挙演説時間の大半をトランプの個人攻撃に費やしていましたよね。そのため、公開討論会も質の低いものになってしまいました。
       これはヒラリーの失策であると同時に、民主党の失策です。
       民主党は、ほんとうはヒラリーではなく、サンダースを候補として擁立するべきだったのではないでしょうか。
       そうなれば、選挙に負けとしても、トランプの思想との違いがより鮮明になる。ひょっとしたら、サンダースだったら勝っていたかもしれませんね。
       
       
       ≫「クリントン時代のコソボ紛争への介入。『人権を守るための戦争』という名目だが、戦後発覚した出典を提示した事実を丁寧に集めた記事などを読むとまともな中身を感じなかった。『コソボ紛争における虐殺者はNATOおよびアメリカではなかったのか?』という思いは今もある」
       
       コソボ紛争についての詳しい経緯は不勉強なため、あまり知りませんでした。
       しかし、今回Do-daro さんに触発されて、ほんのわずかですが、調べてみました。
       やはり、アメリカを中心とした欧米諸国は、一方的にセルビア側を被害者に仕立て上げ、アルバニア系住民に不公平な肩入れをしたようですね。
       
       欧米が、紛争地域に軍事介入するときは、必ず倒すべき政権を非難する材料として「人権侵害が行われている」ということを挙げますよね。
       そして、軍事行動を起こす理由として、「民主化を促進するため」という言葉を掲げ、侵略を正当化しようとします。

       しかし、その「人権」と「民主化」というスローガンがいかにインチキ臭いものか、それを告発するような声もあります。

       むかし、堤未果という人が書かれた『政府は必ず噓をつく』という本で、アメリカが「人権の擁護」と「民主化の実現」というスローガンを掲げて、世界の反米政権を打倒する理由をねつ造していたということが告発されていました。

       著者によると、そもそも現在泥沼状態になっているシリアの内戦をはじめ、エジプトやリビアの “独裁政権” が次々と倒れていった「アラブの春」も、陰で動いていたのはアメリカであったそうです。

       それは、アメリカで生まれて世界に根を広げているグローバル企業の思惑なのだそうですね。

       石油企業や製薬会社、軍産複合体やアグリビジネスなどのグローバル企業が南米、中東、東ヨーロッパなどでのマーケットを確保するために、どうしても親米政権を作らねばならなかった。

       近年のアメリカの歴代大統領は、民主党も共和党も、各グローバル企業から巨額の献金を受け取ってがんじがらめに縛られてしまったがゆえに、大企業優遇政策を退けることができなくなってしまった。

       それはクリントンに限らず、オバマ大統領も例外ではなく、実はTPPなども、オバマがどれだけグローバル企業の言いなりになっていたかを示す証拠だといわれています。

       だから、私の先の返信では「核廃絶を謳ったオバマ大統領を評価する」とは書きましたけれど、オバマ氏も中途半端なところがあって、政治理念には格調高いものを掲げたけれど、経済的には大企業寄りの人間であったということなんですね。
       ヒラリーも「オバマ路線を踏襲する」と謳っていたから、現状に満足していないアメリカ人には人気がなかった。

       そのために、多くのアメリカ人は大企業の献金を受けずに自前で選挙戦を戦ったトランプを支持したともいえるでしょう。

       トランプ氏がTPPに反対していることもアメリカ人は高評価で、輸出するべき産業が衰えてきている今のアメリカがTPPに加盟すると、現状よりさらに失業者が増えるというデータもあるようですね。
       だから、反オバマを打ち出したトランプが選挙に勝ったのも、それなりの理由があったと思えます。

       こういうふうに考えてくると、Do-daro さんが「人権」という言葉に懐疑的なものを感じる気持ちにも共感いたします。
       アメリカの民主党は、共和党よりも「人権」という言葉を口にすることが多いですよね。
       しかし、アメリカのグローバル企業が政府を利用し、「人権」という “隠れ蓑” を使って反米政権を倒し、自分たちのマーケットを拡大するのに有利な政治体制をつくってきたという事実も見逃せないかもしれません。

       
       ≫「意味のない空虚さと向き合う勇気 …… ごめんなさい。難しくってわからないなあ。上の文章にあるわたしの性質に向けられた言葉だとだけはわかったのですが」

       「意味のない空虚さと向き合う勇気」というのは、そんなにすごい思いを込めた言葉でもなかったんですね。
       単に、Do-daro さんが「 “資本主義は崩壊するとか排他的国家主義は拡大している” なんて不安を煽っても何の意味もないと思いますよ」とお書きになった文末の “意味がない” という言葉にひっかけてだけで。

       こんなことを明かしては失礼に当たるのかもしれないけれど、言葉の遊びみたいな感覚で書きました。

       しかし、もともと自分は「意味がない」という概念に魅せられているようなところはあります。
       正確にいうと、「意味がない」というよりも、「意味がよく分からない」といえばいいのかな。

       具体的にいうと、ミケランジェロ・アントニオーニとかベルイマンの作る映画。あるいはガロの時代のつげ義春の漫画。
       こういうアート系の作品は、何を訴えたいのか、テーマが何なのかということがすぐには分かってこない。

       でも、そういうのって、逆にいえば「テーマ」とか「主張」から解放されているということですよね。
       そういう場合は、自分で「テーマ」とか「主張」を探さなければならない。
       それが私にとっては楽しい作業なんですね。

       簡単に理解できるテーマや主張よりも、簡単には答の出ないものと向き合うことの緊張と楽しさ。
       それをなんとなく「意味のない空虚さと向き合う勇気」という言葉で伝えてみたかったんですね。

       でも、これも独りよがりの表現ですよね。
       自分は、丹念に説明することが面倒になってくると、ついついこういう “煙に巻く” ような表現で逃げてしまうことがあります。お許しください。

       またDo-daro さんのコメントへの感想、さらにお聞きしたいことなどいろいろありますが、それはまたの機会に譲ります。

       いただいたコメントへの返信を書くのは楽しい作業でした。
       日暮れが早いさびしい季節。
       こういう作業に没頭して、ぐいぐいと闇の濃さを増す夕暮れの寂寥感から解放されるのも心温まるものです。
       ありがとうございました。
        

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