軍事産業が世の中をリードする時代

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戦争は成長のチャンスである !?
 
 米国のトランプ次期大統領が掲げた公約のうちに、
 「日本や韓国など、アメリカ軍基地を持つ同盟国には、それ相応の防衛費を負担させる」
 というものがある。

 それに応じない同盟国からは米軍を撤退させるというのだが、テレビなどの報道を見ていると、これに懸念する日本人識者が多い。

 その大方の意見は、
 「現在日本は、米軍基地を維持するために、すでに相当額の援助をしており、これ以上の経済援助は負担が大きすぎる」
 というもの。

 その額がどのくらいかというと、(アメリカと日本では計算式が違うため、計上金額は異なるらしいが)アメリカの計算によると、同国が日本にある基地を維持するために計上される支出は、年間約55億ドル(約5850億円)。
 そのうち、日本が支援しているのは、その約半分で、約20億ドル(約2200億円)だといわれている。

 これは、地球上に展開しているアメリカ軍基地の支援額としてはそうとう高額なものであり、「トランプ氏はそのことを知らないのではないか」とつぶやく日本人も多い。

 だが、そのようなことを、ここで言いたいのではない。
 このような軍事費が、いま世界の国々の支出額のうち、いったいどのくらいの額になっているのか、という問題を考えてみたいと思ったのだ。
 
 
 ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)という機関がある。
 そこの試算によると、2015年度の世界全体の軍事費は1兆6760億ドル。
 その1/3強をアメリカ合衆国が計上しているという。

 アメリカの軍事費は、5960億ドルとか。
 これは世界の軍事費全体の35.6%に当たるらしい。
 
 ちなみに、その次が中国の2150億ドル(12.8%)。3位はサウジアラビアの872億ドル(5.2%)で、4位はロシアの664億ドル(4.0%)。日本は、409億ドル(2.4%)で8位であるそうな。

 こうしてみると、やはりアメリカの軍事費は突出している。
 トランプ次期大統領は、
 「アメリカはもう “世界の警察” として、平和維持のための軍隊を養っている余裕はない」
 と演説したが、この軍事費の出資額を見れば、それも当然、と納得できる。

 もし、世界各国が計上している軍事費の総額、すなわち1兆6760億ドルのせめて半分の8000億ドルを、現在地球上で蔓延している「貧困や格差の解消」などに充てると、どういうことになるのか。

 前述した機関の試算によると、次のことが可能になるという。

 ① 飢餓の8億人に1年分の食料費(980億ドル)
 ② 難民2千万人にテントと毛布(1億ドル)
 ③ 全人類に基礎教育(60億ドル)
 ④ 全人類に安全な水と下水道(90億ドル)
 ⑤ 全世界の女性の出産保険衛生費(120億ドル)
 ⑥ 全人類が健康に必要な栄養(130億ドル)
 ⑦ 全地球の砂漠化防止(87億ドル)
 ⑧ 全世界の兵器を廃棄(1720億ドル)
 ⑨ 全世界の地雷を撤去(330億ドル)
 ⑩ アフガニスタンの復興(250億ドル)
 ⑪ 貧困国の全債務を免除(4210億ドル)

 以上の政策を実行しても、なお22億ドルの余剰金が残るという。

 世界の軍事費を削るだけで、地球上に蔓延するこれだけの貧困や格差の是正が可能になるというのに、現在どこの国でもそれを目指そうという国はない。むしろ、どの国においても、軍事予算は増額傾向にある。

 それはなぜか。

 もちろん、古来より、「軍拡」は戦争の抑止力を維持するために必要なことであり、「軍拡」こそが平和維持の前提条件となる、という考え方は、どの国においても主流であった。

 だが、21世紀に入り、各国が軍事費を増大させているもう一つの理由が顕著になりつつある。
 それは、もう「産業の成長」が「軍事の成長」を抜きにしては語れなくなってきたということなのだ。

 こういう傾向を、「軍・産複合体制」などと呼ぶことがある。
 最近は、そこに大学などのアカデミックな研究機関が加わり、「軍・産・学」が三位一体となって機能する開発システムが確立されてきた。

 この流れは、第二次大戦後に、冷戦構造が誕生してきた頃から顕著になってきたものだが、最近はますますその三者の結合軸が強まり、もうそれぞれを分離して考えることは無理な状態になってきている。

 分かりやすい例を一つ出すと、自動車などのナビゲーションシステム。
 これはGPSという衛星信号を利用した技術だが、その衛星が軍事衛星であることはよく知られているところである。

 また、実用化が “秒読み段階” に入ってきた乗用車の自動運転システム。
 このシステムに必要なセンサーやカメラ技術も、軍事技術の転用である。
 某メーカーが研究中の自動運転車に搭載されるカメラは、イスラエルの企業が開発したものだが、これは無人爆撃機などを製作する過程で生み出されてきたものだ。

▼ アメリカの無人爆撃機

 現在、身障者のサポートや工場労働における人間の代替物として期待されているロボットの開発。
 このロボットも無人兵器として活用するために、軍需産業の要になりつつある。
 
 このように、民需として平和利用される技術の多くが、いまは軍事技術と並行して開発される時代が来ている。

 そうなると、技術開発の実験の場が “戦場” であるということも大いに起こりうる。
 そして、技術開発のコストを下げるために、開発された武器を戦場で大量消費しなければならないという産業側の要請も出てくる。

 事実、2003年から始まったイラク戦争は、このように進められた。
 あれは、ラムズフェルトやチェイニーらのブッシュ政権下にいた “ネオコン(新保守主義者層)” が、自国の軍事産業を育成・強化するために “発案” した戦争という側面があった。
 
 実際にイラクの戦場に投入されたアメリカの新兵器は、どれも最新型のものばかりで、その膨大なテストデータが開発企業側にフィードバックされ、さらなる技術進歩をうながすことにつながった。
 そして、そこから秘密裏に加工され、民需に回っていった新技術も、きっと数えきれないほどあったに違いない。

 このように、我々の生活レベルの向上は、戦場で試される軍事技術の発達抜きには考えられないようになってきた。

 これに、異を唱えられるだろうか?

 リベラル派は、「即座に “軍・産・学” 体制を見直し、軍事費を削減して世界の貧困の撲滅に当たれ」というかもしれない。
 しかし、それは、今となっては「口に言うはやさしいが、実行は不可能」に近いスローガンになりつつある。

 “世界平和” を口にするためには、産業の成長をあきらめ、生活水準を落とすことを覚悟しなければならない世の中を、いったいどう考えればいいのか。

 これは、「成長」という意味をどうとらえるか、という哲学の問題でもある。

 さあ、あなたならどうする?
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

軍事産業が世の中をリードする時代 への11件のコメント

  1. Milton より:

    相変わらず、興味深い内容ですね。勉強になります。

    まず、私自身はあまり、というかほとんど軍需産業には詳しくありません。時折、元自衛官の友人に、アメリカの軍需産業の「国内外」での影響力の大きさについて教わるぐらいです。

    友人曰く、アメリカで軍需産業に関わっている人々の数は大変多いそうで、ということは、政界への影響力も絶大なものだと言ってもよいでしょう。

    それと、町田さんの文面のなかで、「現在、身障者のサポートや工場労働における人間の代替物として期待されているロボットの開発。このロボットも無人兵器として活用するために、軍需産業の要になりつつある。」と書かれてありますが、個人的にはこの部分に強い関心を抱きました。

    なぜなら、これは私個人の意見ですが、ロボットはかつてナチスが本腰を入れて取り組んでいた「優生思想」の流れを汲むものだと思っているからです。なので、いま先進国では世界的に移民排斥の流れが出来つつありますが、本当に我々の将来にとって脅威になるのはむしろ、ロボット(人工知能)の存在だと思えて仕方がありません。

    たとえば、昨今の日本では、長時間労働が大きな社会問題として取り扱われています。過労死は、今や世界的に通用する日本語のひとつです。なので、共同体の利益だけを徹底的に追求するなら、自我の葛藤や肉体的な疲労によって参ってしまう「生身の人間」よりも、ロボット(人工知能)の起用を選択するのは自然な流れなのです。

    これって、やはり怖いことですよね。そういう意味で、町田さんの文面に書かれてある「最近は、そこに大学などのアカデミックな研究機関が加わり、「軍・産・学」が三位一体となって機能する開発システムが確立されてきた。」といった部分に、私は何か空恐ろしい感情を抱いてしまいますね。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      Milton さんの周りには、いろいろな情報をお持ちのご友人がいっぱいいらっしゃるようで、うらやましいかぎりです。
      特に、海外の生きた情報をもたらしてくれるお知り合いは貴重ですね。

      ご指摘のとおり、アメリカの軍需産業に携わる人の数はたいへん多いようで、兵器そのものの製造に関わる人々だけでなく、兵隊用の軍服、テント、兵隊用食料、その衣服・食料などの流通業など、軍需を支えるための民間企業で働く人々の数が膨大に膨れ上がっているそうですね。

      池上彰がレポートするテレビ番組で、そういうアメリカの軍需に関わる民間企業の労働者を取材した番組を観たことがあったのですが、そこで働いているオバさんやオジさんは、みなにこやかな笑顔で、「この世から戦争がなくなったら、仕事がなくなってしまうので困るよ」と答えながら、ミシンでミリタリー用の服を縫っていました。

      ナチスの「優生思想」とロボットの話、とても興味深い話に思えたのですが、やはり、そう言い切ってしまうと、過度な表現になってしまうのですか?

      それはともかく、最新テクノロジーの話題になると、必ず登場する「ロボット」と「人工知能」ですが、やっぱりこの二つのテクノロジーは、やがて「人間」にまつわる従来の哲学や思想、さらに宗教を変えていくことは間違いないでしょうね。

      これまでの哲学・思想・宗教は、常に「死すべき存在」としての人間をベースに思考されてきました。
      しかし、ロボットと人工知能は死なない。…というか、パーツを取り換えるだけで(原理的には)永久運動が可能になる。

      ということは、古来より人間の感じる最も “美しい不条理” であった「有限の存在である人間が、無限や永遠を知りえることができるのか?」という問も消滅することになる。
      そういう “美しい不条理” こそが、あらゆるアートや文学の源泉であったように思います。

      ロボットと人工知能が人間に変わって活躍する時代というのは、確かに便利な世の中になっているんでしょうけれど、それは今の人間からみると、味気ない世界になっているでしょう。
       

      • Milton より:

        なるほど、そうなんですね。私もその番組を見てみたかったです。やはり、映像で見ると実感として伝わってくるものが違いますからね。

        そのことを知ると、アダム・スミスの「我々が食事をできるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。」を思い出します。

        そういったオバさんやオジさんは、中東の混沌とした現実よりも自分と家族の生活を最優先しているに違いないのですから、この世から戦争が無くなって欲しくはないと思うのは自然な考えなのでしょうね。

        優生思想に関しては、ミシェル・フーコーが書いた「性の歴史(三部作)」という本がお勧めですよ。私も、この三部作から多くの事を学ぶことが出来ました。ただ、内容が難解なので、私の文章力では説明しずらいんですけどね。たぶん、会話のほうが説明しやすいように思います。

        そして、最後に書かれてあった「古来より人間の感じる最も “美しい不条理” であった「有限の存在である人間が、無限や永遠を知りえることができるのか?」という問も消滅することになる。」という部分が、いちばん興味深かったです。

        なぜなら私の場合は、 “美しい不条理”に対して、少しアプローチの仕方が違うからです。私の意見では、アダム・スミスのいう「神の見えざる手」の正体は、信頼(Trust)だと思っています。

        たとえば、貨幣にしても、みんなが「その紙切れ」に価値があるという共通認識(信頼)があるから、ただの紙切れに価値が生まれるのです。なので、価値に対する相互の信頼さえあれば、戦後間もない頃のドイツのように「煙草」が貨幣の代わりにも成りえるということです。マリア・ブラウンの結婚という素晴らしい映画に、そういう描写があります。

        つまり、「神の見えざる手」は信頼によって働くのです。それは、神輿や国旗、法律に公共善といった形で、様々な仕掛けとして共同体の中で機能しているように思います。

        その点では、 “美しい不条理”と呼べるのかもしれませんね。なぜなら、これが我々の象徴だとある共同体が強く思い込むことで、ただの柄物の布切れが国旗になるんですから。

        もしかしたら話が脱線してしまったのかもしれませんが、いつも勉強になります。ありがとうございました。

        • 町田 より:

          >Milton さん、ようこそ
          理念では「戦争はなくなってほしい」。でも戦争があることで自分の生活が保障されている人たちにとってみれば、戦争がなくなったら食べていけない。
          たぶん、そういう引き裂かれる存在が “人間” というものなんでしょうね。

          ミシェル・フーコーの『性の歴史』は有名な本ですよね。
          フーコーはフランス哲学の最後の巨人であったかもしれないですね。
          ただ、残念ながら、私はおじけづいて1作も読んでおりません(笑)。
          唯一、吉本隆明とフーコーの対談集というものを昔読んだかな。内容をよく理解できませんでしたが、「なんだか噛み合わない対談だなぁ … 」と感じた記憶はあります。
          たぶん、日本の閉鎖的言論域で活躍されてきた吉本さんにとって、当時の世界的な知の最先端にいたフーコーを相手にするのは無理だったのかもしれません。

          アダム・スミスの有名な言葉、≫「 『神の見えざる手』というのは、信頼(Trust)のことである」
          なるほど !
          私たちがこれまで理解してきた「神の見えざる手」というのは、市場原理の自動調整のことを指し、“小さい政府” を目指す新自由主義的な人たちの理論的根拠となる言葉ぐらいにしか思っていませんでしたけれど、むしろ「人間と人間の紐帯」に言及した概念だったのですね。

          市場原理は共同体的なものを解体していくというのが、これまでの一般的な経済学の認識でしたけれど、古典派経済学の巨匠は、それとは違ったものをも見ていたということなんでしょうか。
          またひとつ勉強になりました。
           

  2. Milton より:

    追記。。。「ロボットはかつてナチスが本腰を入れて取り組んでいた「優生思想」の流れを汲むものだと思っているからです。」の部分は、やはり過度な表現でしたね。訂正させていただきます、申し訳ないです。

    私は単に、優生学の側面を表現したかっただけです。ナチスという単語が持つ意味合いを、軽く扱うつもりはありません。

  3. HIROMITI より:

    話がずれてしまうかもしれませんが。
    おカネというのは、「意味」や「価値」の意識の上に成り立っているわけじゃないですか。その意味や価値に対する「信頼」というか「信憑」の上に成り立っている。もう「意味」や「価値」の権化みたいな存在でしょう。
    文明人は、「意味」や「価値」に対する信頼・信憑を持ちたがっており、お金の存在こそがそれを担保している。
    文明人は、なぜそんなにも「意味や価値に対する信頼・信憑」を持ちたがるのか。この世のすべてのものに意味や価値を付与しようとする。
    それはたぶん、生き延びたいからだろうと思えます。
    この生はほんらい「無意味・無価値」なものであるはずなのに、死にたくなくて、そこにどうしても「意味」や「価値」を付与しようとする。この生が「意味」や「価値」を持つことによって、生き延びようとすることが正当化される。
    この生の「意味」や「価値」を信じて疑わない人は幸せかもしれないけど、それがこの生の真実=本質=自然であるとはいえない。
    お金は、けんめいにこの生に意味や価値を付与しようとする文明人の、その悪あがきのアリバイとして機能している。お金によってその悪あがきが免罪される。
    「生きる」なんて、どうでもよくていたたまれないだけのことなのにさ。どうしてもそれを意味や価値のあるものにしてしまおうとする。そうして三流の生物学者の発言する「生命維持の本能」などという空疎な概念が世間に大手を振って流通することになる。さらには、マルクスの「下部構造決定論」にがんじがらめに縛られてゆく。下部構造すなわち政治・経済は生き延びるためのシステムであり、人類の歴史は生き延びるためのいとなみとして進化発展してきた、といえば、とりあえずはこの世の正論になる。
    とにかく、この生に意味や価値を付与しようとする文明人の悪あがきが、お金の意味や価値に対する信頼・信憑をより強固なものにしている。お金は、その悪あがきのアリバイというか免罪符になっている。
    グローバル資本主義の運動がなぜモンスター化するかといえば、あなたがおっしゃるように、お金の意味や価値にがんじがらめにされてしまっているからでしょう。そうやって現代人の心は、停滞衰弱してゆく。
    パソコンのキーボードを打つだけのマネーゲームで100億稼いだという若者を取材したテレビ番組があって、彼は都心のタワーマンションに住みながら、食い物はコンビニ弁当ですませ、恋も旅行も興味がないという。つまり、お金が持つ「意味」や「価値」にすっかり幽閉され、ときめき感動するということを喪失してしまっている。グローバル資本主義の正体を見せられた気がしました。
    グローバル資本主義も「生活者の思想」も、一皮むけば「意味」や「価値」に幽閉されているということにおいて、同じ穴のムジナでしょう。そのアプローチが「お金」にあるか「生活」にあるかの違いがあるだけで、どちらに転んでも「不条理の美しさ」に対する感動なんか何もない。
    感動とは、意味や価値が崩壊して、いわば「生命の危機」に陥る体験のこと。「美しきものを見し人は、早や死の手にぞ渡されつ」などという西洋の詩のフレーズもあるくらいで。
    アダム・スミスは間違っています。一流の肉屋や酒屋やパン屋は、できるだけおいしいものを提供してお客に喜んでもらいたいという願いというか情熱を持っている。二流三流が「生活が大事だ」と思っているだけのこと。
    一流の科学者は学問が好きで好きでしょうがなくてやっている人たちがほとんどで、人生や生活が目的でやっているのはけっきょく二流三流にしかなれないし、たとえ東大に入っても、そんな「利益の追求」という心がけでは、研究者のレベルにはなれずに、最後はふるい落とされてゆく。そんなものでしょう。
    俺はみんなに喜んでもらいたくてパンをつくっているんだ、といったらいけないのですか。「嘘つけ」と、あなたたちはいうのですか。
    まあ、三流の大繁盛するパン屋もあれば、一流のささやかなパン屋もあるわけだが、現代社会においてだって「心意気」の問題はやっぱりあるでしょう。
    今どきのグローバル資本主義で活躍している人たちのほとんどは研究者になれなかった落ちこぼれにすぎない、と僕の知っているある人がいっていました。本格的な学問である「基礎学」では通用しないから「実学」に走るとか、学者の世界にもいろいろあるみたいです。
    世界的な学者であれ下町のパン屋であれ、どんな世界でも、一流は「もう死んでもいい」という心意気を持っている。そのことが好きで好きでしょうがないという情熱を持っている。この生やこの生活の目標を掲げてどんなに頑張っても、好きで好きでしょうがないという勢いでひたすら熱中している人の情熱や集中力にはかなわない。

    というわけで、軍事産業の隆盛から連想されるのは、この国の憲法第九条のことです。
    何はともあれ、この国の半数以上の人は憲法第九条を肯定し受け入れてきたわけじゃないですか。それはたぶん、民族の歴史の無意識として、「もう(いつ)死んでもいい」という感慨がどこかにはたらいているからでしょう。その感慨なしにそれは成り立たない。その感慨というか心意気を見せたからアメリカの傘が守ってくれたのかもしれない。
    この先たとえそのせいでこの国が滅んでしまうことがあるにせよ、ともあれそれは「一流」の人間性というか、人間の本性にかなっているともいえそうな気がします。まあ「滅びの美学」という伝統もあるわけだし、人間として生きようとすればするほど生き延びることができなくなってゆく、という「不条理」がある。そして生き延びるための「利益の追求」という「非人間性」は、命のはたらきも心のはたらきも停滞・衰弱させる。
    人間というのは、「もう死んでもいい」という感慨を無意識の中に持っている。だから戦争をするし、憲法第九条も成り立つし、退廃とか倦怠の美意識も生まれてくる。そういう人間性の基礎を想定しないと成り立たないことがいっぱいあるような気がします。人間の歴史は「下部構造決定論」だけでは語れないんだというか、人間性の基礎は、形而上学的なところ(=上部構造)にこそある。。
    たとえば、人類史の「都市の発生」は、快適な生活を求めてそこに人が集まってきたのではなく、そこに「祭りの賑わい」が生まれてそれに引き寄せられるようにしてさらに大きな集団になっていったのがはじまりです。
    古代メソポタミアのもっとも原初的な都市で最初につくられた公共施設は、「祭殿」です。
    都市にあるのは、「祭りの賑わい」であって「快適な生活」ではない。住みにくさもいとわず人が集まってきて「都市」になったのです。現在でも、東京にあるのは「祭りの賑わい」であって「快適な生活」ではない。東京が「快適な生活」が保証されている場であるのなら、どんどん年寄りばかりが集まってくる。物価は高いし、家は狭いし、自然は少ないし、快適な生活の場であるはずがないじゃないですか。しかし若者たちは、それでもかまわない、と思って東京に集まってくる。おしゃれな服を着たり、かわいい女の子と出会ったり、いろんな娯楽があったり、そんな「祭りの賑わい」に引き寄せられて。
    つまり、「下部構造」が都市を生み出すのではない。「祭りの賑わい」という「上部構造」によって都市が生まれてくる。「祭り」とか「遊び」というのはひとつの形而上学的な行為で、「もう死んでもいい」という勢いで、この生の「意味」や「価値」を消し去ってしまう。その「もう死んでもいい」という勢いのダイナミズムとともに人類の歴史は進化発展してきたのであって、生き延びるための「利益」を追求する「下部構造」によってではない。
    現在のこの国は、世界の軍事産業に参入してさらなる経済の発展を目指すか、人間性の自然としての「もう死んでもいい」という勢いのパラドキシカルな命のはたらきや心のはたらきの活性化に身をまかすか、その岐路に立たされているのでしょうね。まあ前者の選択をして突き進めば、数百年のうちに人類は自滅してしまうのでしょう。「下部構造決定論」が正しいのなら、とうぜんそうなるしかない。
    それとも、人間性の自然に身をまかせながら、やがて「ジブリ映画」のような世界に軟着陸してゆくのか。
    「ジブリ映画の少女」は、いつだって「もう死んでもいい」というような決然とした表情を持っている。もしかしたら宮崎駿は、魅力的な人間のイメージをかなり普遍的なレベルでつかんでいるのかもしれない。死と生のはざまに立っている人間、ということでしょうか。それはまあ「イノセント」のことで、そこに立たなければ人類に未来はないし、今ここの命の活性化もない。
    人の心や命のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いで活性化してゆく。
    心がときめくということ、それは形而上学的な問題であり、人々の「ときめき」の総体によって歴史が決定されてゆく。つまり、現在の世界が「どれだけ経済的な利益が得られるか?」というかたちで動いている「状況」があるとしても、「最終的にはどのようなかたちに収れんしてゆくのか?」という問題として「決定論」が出てくるわけでしょう。「決定論」は、「状況論」ではない。最終的には「ジブリ映画の世界」のようになってゆく可能性が、ないわけではない。現在だってそのような「心意気」や「ときめき」で生きている人はいるし、それこそ「神の見えざる手」によってそういう世界に連れて行かれるのかもしれない。
    今をときめくグローバル企業の幹部として突っ走りながら天下を取ったつもりでいても、心のどこかしらで、そんなこととは無縁の世界で「豊かなときめき=イノセント」を生きている人に対する負い目のようなものを抱えているかもしれない。その負い目が、じわじわとボディブローのように効いてくる。一流のパン屋や一流の学者や芸術家や一流の若者や一流の子供はみな、「純粋で豊かなときめき=イノセント」を生きている。この世にそういう人たちがいるかぎり、グローバル企業の人気も活動もだんだんしりすぼみになってゆくかもしれない。5年10年先の今すぐということはないとしても、「神の見えざる手」によって導かれる歴史の落ち着く先は、何はともあれ「下部構造決定論」では話にならない。
    人は、「魅力的な人間=美しいもの=イノセント」に対する負い目を持っている。そうやって「意味」や「価値」に執着してゆくことや生き延びるための「利益」を追求することに対するうしろめたさをどこかしらに持っている。やっぱりそれは、美しくないわけで。
    「市場原理に自動調整がはたらく」ということだって、人の無意識の「美しいもの(=イノセント)」に対する負い目」がブレーキとしてはたらいているのかもしれない。そうやって「神の見えざる手」がはたらき、歴史が決定されてゆく。
    まあ「一流の人間=魅力的な人間」は、歴史の「生贄」のような存在かも知れない。「生贄」という「神」……つまり、この世のもっとも本格的な「一流の人間=魅力的な人間」とは赤ん坊や幼児のことだ、とひとまず僕は思っています。憲法第九条はそういう問題であって、平和が大事だとか、そういう「生活者の思想」で正義ぶってもしょうがない。それは、「イノセント」の問題であり、「滅びてもかまわない」という覚悟=心意気の問題なのだ、と思っています。
    昔も今も、人の世はいつだって、「イノセント」の存在と「イノセントに対する負い目」による「自動調整」がはたらいているし、またそれによって「命懸けの(パラドキシカル)ジャンプ=イノベーション」も起きてくる。それは、あなたが「哲学」といわれたように、「形而上学=上部構造」の問題です。「生活の利益=下部構造」の問題じゃない。
    誰だって、「生活の利益」を超えて生きていたいという願いを無意識の問題として持っているし、「生活の利益」を超えて生きている人に対する負い目を無意識のどこかしらに抱いている。たとえば「貴種流離譚」は、そういうところから生まれてくる。
    だらだらときりがない話を書きつけてごめんなさい。

    • 町田 より:

      >HIROMITIさん、ようこそ
       内容的にも分量的にも力のこもったメールで、問われているテーマの質の高さとその射程の長さに目のくらむような思いでした。メールというよりももう一つの立派な論文ですね。
       文意をたどっていく自分の力が及ばず、解釈の難しい個所や用語もありましたが、いろいろ勉強させてもらうよい機会が与えられたと思っています。

       いちおう、これが現在HIROMITI さんが追求されているテーマの集大成ということになるのでしょうか。
       共感できる箇所もずいぶんありました。

       たとえば、
       ≫「人間の生の本質=自然性=本質は生き延びようとすることにあるのではない」 というご意見。
       これはそのとおりかもしれません。
       
       「人間の本性は生き延びることだ」という主張が力を持ってきたのは第一次大戦後のことで、その時代にヨーロッパに台頭してきた新しいイデオロギーがベースになっていると聞いたことがあります。
       それまでヨーロッパの知識人たちの間で大事にされてきた「知性」や「文化」が、第一次大戦という惨たらしい現実の前で無力であったという経験から、悲惨な戦争を食い止めるためには「知性」や「文化」ではなく、「生命」や「本能」を優位に置かなければならないという考え方が台頭するようになり、それが「人間は生き延びようという本能を持っている」という説に帰着していったということです。

       しかし、そのような “生命賛歌” は、やがてナチズムの優生神話に取り込まれて、第二次大戦のナチスイデオロギーに純化していったといわれています。

       この「人間には生命維持の本能がある」という考え方が人間を一面でしかとらえていないことは、すでに1920年にフロイトが「人間の欲動には“生の欲動”と同時に“死の欲動”があるという仮説を立てて主張していました。

       フロイトの説はあくまでも仮説でしたが、今は分子生物学の分野で、「死の欲動」というのは、多細胞の生物の間に広くプログラミングされているものだということが実証されているといわれています。
       つまり、多細胞の生命体には、「死の遺伝子」というものがあり、不必要な細胞が自ら死ぬことによって、個体として存続できるようにプログラミングされているというのです。

       HIROMITI さんは、「もう死んでもいい」と華やぎときめくことが本当の意味での「命の活性化である」とお書きになっていらっしゃいますが、それは分子生物学における「死の遺伝子」のことを指しているのではないでしょうか。
       要するに、「死んでもいいという気持ちが生じてこそ、命の活性化も図られる」ということは、まさに「死の遺伝子が個体の存続に必要である」という最近の分子生物学のアナロジーになっていると思います。

       ただ、「人間の生は無意味で無価値である」という主張に共感できる人は、現代社会では、確かに少数派でしょうね。人生に意味を求める人たちが主流の世の中では、HIROMITIさんの主張は単なるニヒリズムとして見られてしまうことが多いのではないでしょうか。
       
       そう言った意味で、「人生は無意味である」といい続けるHIROMITIさんが、私には、町を離れ、荒野にたたずんで虚空にむかって神の福音を解く、旧約聖書の預言者のように思えてなりません。

       さて、そこでですが、本来意味などないはずの「人間の生」に、あたかも意味があるように見せかけているのはいったい何なのか? … という問が次には出てきますよね。

       HIROMITIさんは、その元凶を “おカネ” という存在に見出されています。
       私も大筋はその見方に賛成です。
       ただ、少しだけ、その説を補足するような形で、自分の考えも述べさせていただければ幸いです。

       確かに、おカネは、HIROMITI さんがおっしゃるように、「意味」や「価値」に対する人々の「信頼」とか「信憑」の上に成り立っています。

       しかし、人間にとって、その時代時代ごとに「意味」とか「価値」の内容が変遷していったのは、いったいなぜでしょう? 
       ある時代には大事にされてきた価値が、その次の時代には、あっという間に評価されてなくなってしまうようなことが、なぜ繰り返されてきたのでしょうか?

       私には、そういった価値の変遷の繰り返しもまた、おカネがうながしてきたものだと思えてなりません。

       実は、おカネは、「意味」や「価値」の体現者でありながらも、一方では「意味」や「価値」の紊乱者でもあり、破壊者でもあります。

       つまり、おカネが新しい「意味」や「価値」の “代弁者” のように振舞えるのは、必ずその一つ前の「価値」や「意味」を破壊しているからではないでしょうか。
       資本主義というのは、そういうおカネの持つ「破壊」と「創造」のダイナミズムを抜きにしては語れないように思えます。

       資本主義の歴史のなかで、「商品経済」をドライブさせてきたエネルギーは何だったのか?

       それは、「古い」と「新しい」という二つの概念の格闘から生まれるエネルギーですよね。
       つまり、「新しいもの」が良くて、「古いもの」は悪いという幻想を実体化して見せたところに、資本主義の狡知があるように思います。
       
       資本主義が十分に機能しない時代においては、「古い」ものは必ずしも「悪いもの」ではなかったはずです。むしろ古いものを大切にする心が、道徳や倫理の規範になっていたのではないでしょうか。

       しかし、商品経済が活発になって、それが人々の暮らしの中に定着してくるようになると、商品購入のモチベーションを高めるためには、「古いものは新しいものにとって代わらなければならない」というイデオロギーが必要になってきたわけですよね。

       そして、そういう思想が歴史の評価も変え、新しい考えをもたらした人物がヒーローになるという視点が生まれてきたといっていいでしょう。たとえば、「信長が楽市・楽座に着眼したところに彼が近代人の視点を持っていことが実証される」みたいな評価が生まれてきたように。

       しかし、そういう歴史評価もまた、現代社会の商品経済を前提とした歴史観であるように思います。つまり、「現在」の色眼鏡で見た「過去」でしかないということですね。

       ところで、HIROMITIさんは、なぜ ≫「おカネは “意味” や “価値” の権化みたいな存在だ」と思われるようになったのですか?
       この論考のしょっぱなの話は、おカネから始まります。
       ≫「文明人は、“意味” や “価値” に対する信頼・信憑を持ちたがっており、おカネの存在こそがそれを担保している」
       というわけですね。 

       そして、中盤の文章で、「おカネは、生に意味や価値を付与しようとする文明人の悪あがきのアリバイとして機能している」と書かれているところをみると、要は「おカネが人間性を損なう元凶である」と言っていると同じことですよね。

       もしそうであるならば、そういう考え方はHIROMITI さんに限らず、古来より根強くあったのではないでしょうか。
       
       “おカネを嫌悪する” 考え方は、基本的に、農村共同体の“商人蔑視” に端を発しているように思います。

       古代帝国の時代から、歴史の残る強力な国家は、その大半が定住者(農耕民)の国家でありましたから、基本的に税(年貢)を取れる定住農耕民のモラルを尊ぶイデオロギーを確立してきました。
       そういう社会では例外なく、農耕民のように労働することなく物の売り買いだけで利潤を得る商人を蔑視し、差別する思想をはぐくんできました。
       これは、カネまみれの世の中になった現代社会においても、「おカネ儲けを蔑視する」イノセントな風潮として、現在も生き残っているように思います。

       繰り返しになりますが、おカネを操る商人が常に農耕帝国の権力者から警戒されて忌み嫌われてきたのは、おカネが共同体の価値や意味を危うくさせるからです。

       おカネはある意味で “過激な平等主義者” です。
       というのは、貧乏人の若者ですら、カネを持つことによって、その共同体の権力者と同等の力を得ることができるようになるからですね。
       だから、近代社会以前の権力者たちは、常に民衆が過剰なおカネを持たないような社会を作り上げてきたといっていいでしょう。

       しかし、おカネには、従来の「価値」や「意味」を破壊する力があるからこそ、逆に、日々の生活に圧迫された人間にとっては “つかの間の興奮やときめき” を得る刺激剤になってきたという事実があります。

       そのような「おカネによるときめき」を求めて、人はある空間に群がり集まるようになりました。
       それが「都市」ですね。
       HIROMITI さんも、都市を「祝祭空間」として認知されていらっしゃいますよね。
       しかし、その祝祭性は、何によって保障されたのか?

       そこに多少の解釈を差しはさむことを許してもらえるのなら、
       「都市が『祭りのにぎわい』を持った “遊びの空間” として機能するようになったのは、そこがおカネを持った庶民が権力者たちの牛耳る農耕的共同体の束縛から自由になれる空間だったから」
       と付け加えたい気持ちがあります。
       この法則は現代でも続いており、都市の持つ “祝祭性” を享受するためには、やはりなにがしかのおカネを払わないと叶わないのは確かなことですから。

       もちろん、おカネには、それを物神化して、それを貯え込むことだけに倒錯的な価値を見出す哀れな人間を生み出す作用もがあります。というか、“文明人” にはそういう人間の方が多いのかな。
       HIROMITI さんはそういう人々やそういう風潮を、ここでは告発されているわけですが、前述したように、おカネは「新しい意味や価値」を創出し続ける一方、同時に古い「意味」や「価値」を破壊し続けている。

       このたびの論考には、恋や旅行に興味がなく、パソコンのキーボードを打つだけで100億円稼いでいるさびしい若者の例が語られていましたが、その若者のエピソードも、おカネが「恋」や「旅行」という “古い価値や意味” を破壊した結果が表れていると考えることはできないですか?

       私は、資本主義の本質はニヒリズムだと思っているのですが、そのニヒリズムというのは、けっきょくおカネが古い価値や意味をどんどん破壊し続けて、新しい意味や価値を創出しても、そういう “新しい価値(?)” が人間にとって「永遠不滅のものではない」というところを明らかにしてしまったところから来るものだ感じています。

       でも、近年その「資本主義」が地理上のフロンティアを失い、その終焉のときを迎えようとしているという論調を耳にすることが多くなりました。今はその主張にすごく興味を感じています。

       そういう主張を、ペシミスティックな悲観論として退ける意見もありますが、自分は「資本主義の終焉」を眺めることに知的な好奇心を抱いています。
       ただ、それは100年・200年かかるかもしれないそうとう先の話であるだろうし、そのときに現れた「ポスト資本主義」の光景を見ている人も、きっとその変化に気づかないかもしれないという気もしています。

       最後に、「下部構造(経済)決定論」という言葉がこの論考にはよく出てきましたが、これはマルクスの史的唯物論を説明するときに出てくる「下部構造」のことを指しているのでしょうか?

       もしそうだとしたら、「人間の歴史は下部構造が決定する」というのは、「マルクスを読んだことのない人がマルクスの史的唯物論を語るときに一番誤解している部分だ」という話があります。

       マルクスは確かに『経済学批判』などの有名な著作においてそう言及しましたが、それは歴史の変遷をすべて “人間の精神” から説明しようとしたヘーゲルを強く意識して、その批判が主眼であったときの見解で、後の『資本論』第三巻あたりでは、一般的な下部構造決定論とはおもむきを変え、「下部構造と上部構造は互いに影響し合うものであり、宗教、政治、人間の感情といった上部構造の反作用が下部構造に及ぶこともある」として、経済決定論だけですべてを語る態度を退けています。
       
       しかし、その部分はあまり知られていないようですね。
       だから、「下部構造(経済)が人間の歴史を変えてきた」と語っているのは、中途半端にしかマルクスを理解していない俗流マルクス主義者たちでしょう。

       ただ、確かに「マルクスの下部構造決定論は正しい」といまだに声高に語る人たちはいますよね。
       そういう人たちは、マルクス思想の信奉者とは限らない。
       むしろ、金融業者さんなんかにいます。
       要するに、彼らは、「結局はこの世はカネだ」と訴えているわけですね。
       HIROMITI さんが、そういう俗流下部構造論者に対して、「それは間違っている」というのはよく分かります。
       そういう気分は、私もまた共有しています。

       だから、≫「人間性の基礎は、形而上学的なところ(=上部構造)にこそある」というご意見には100%賛同します。
       私がこのブログでよく映画や文学や音楽を語っているのも、そういうつもりからです。

       繰り返しになりますが、力のこもった論考をいただき、こちらもいろいろなことを考える契機を得ました。
       ほんとうにありがとうございました。
       

  4. HIROMITI より:

    すみません、僕のほうもちょっと捕捉させてください。
    僕は、「都市の発生」と、その後の「都市国家の発生」とは分けて考えています。
    およそ9~8千年前のチグリス・ユーフラテス川上流域(初期のオスマン王朝があったあたり)には、すでに5千人を超える規模の集落が点在していて、現在の考古学者の発掘競争の場になっているそうです。これが、プリミティブな「都市の発生」だといえるとすれば、このときはまだ「農業」も「共同体」も「貨幣経済」も生まれていなかったのです。それでも「祭殿」だけはあったし、祭殿跡しか見つからない、という発掘例もあります。この国の弥生後期の卑弥呼の王朝跡だともいわれている奈良盆地の纏向遺跡も、まあそのような例かもしれません。近くに住居跡があるはずなのに、どうしても見つからない。しかしじつは、見つかるはずがないのです。纏向遺跡の場合、人々はまわりの山々に住んでいて、祭りをするためにあちこちからそこに下りてきていたのです。そのころの奈良盆地は一面の湿地帯で、干上がった土地なんかほんの少ししかなかった。そこは祭りをするための場所であって、人が住んでいる場所ではなかった。しかしそこに人々が集まってきたことによって、集団のエネルギーが生まれ、みんなして湿地を干拓し、やがて集落や畑をつくっていった。はじめに祭りの場所があって、そのあとに都市が生まれてきたのです。そうしてその増えすぎた人口の食料をまかなうために農業を覚えてゆき、そのあとにやっと大和朝廷の都市国家が生まれてきた。これはもう、メソポタミアで都市が生まれてきたときのいきさつも大差ないはずで、だから住居跡が見つからない。まわりの住居跡はすべて、もっと後の時代のものでしかない。
    人類の「祭り」の歴史は、とても古いのです。この話をしだすと長くなってしまうのだけれど、とにかく数万年前のネアンデルタール人のころからすでになされていたのです。
    「祭りの賑わい」が人類を地球の隅々まで拡散させたともいえるのだが、この話は今はやめておきます。
    とにかく「祭り」が先にあったのです。共同体の支配から逃れるために生み出されたのではない。メソポタミアでも、祭りの祭司がやがて都市国家の「王」になっていったのです。だから、政治のことを「まつりごと」という。共同体というか「政治」が先にあったのなら、「まつりごと」というはずがない。そのときの政治は「祭り」を知らないのだもの、論理的にありえない。祭りの延長として共同体の政治が生まれてきたから「まつりごと」という。
    祭りには、基本的にお金は必要ありません。歌い踊るだけだもの。この国の古代や中世においてその主役は、浮浪者や旅の僧や旅芸人たちだった。まあ、共同体からはじき出された者たち、というか、そういう者たちのほうが芸達者だし、何かも忘れて浮かれ騒ぐエネルギーも持っている。そうやって「河原乞食」がこの国の芸能をリードしてきた。
    お金=貨幣こそ共同体の存立を保証しているものなのに、あなたたちはどうして「共同体の外で生まれた」というのでしょうか。お金=貨幣など必要ないのが「共同体の外」でしょう。共同体の外では、お金=貨幣の意味も価値も解体される。共同体の中で、初めて意味や価値になる。だから、世界中で貨幣の単位が違う。共同体の外で生まれるものなら、とっくに世界中「ドル」で統一されている。
    利潤は、共同体どうしの格差から生まれるのであって、共同体の外で生まれるのではない。それを、共同体の「外部」とか、共同体と共同体の「あいだ」というのは、たんなるレトリック(言葉遊び)にすぎない。グローバル資本主義だろうとなんだろうと、商業とは共同体に「寄生」してゆく行為であって、共同体を解体してしまったら商業は成り立たない。貨幣が共同体を解体するものであるのなら、このグローバル資本主義の世の中で「国家(民族)主義」なんか生まれてきませんよ。貨幣に執着しながら「国家(民族)主義」になってゆくのでしょう。グローバル資本主義は、けっして共同体を解体しない。利潤を生み出す未開の共同体が存在することことこそ付け目であり、そこに寄生してゆく。グローバル資本主義こそが、「国家(民族)主義」を煽り立てている。
    といっても僕は、お金を否定しているわけではありません。「酒は飲んでも飲まれるな」というのと同じで、お金の奴隷になってしまったらおしまいだということはあろうかと思います。お金が悪いのではなく、お金に執着する人間はやっぱり魅力的じゃない。ともあれ、共同体の中で暮らすかぎり、お金の存在の必要性は受け入れるしかない。
    ある物理学者の人は、「マネーゲームをやったらそこそこ儲ける自信はあるけど、やる気にはなれないなあ」といっていました。マネーゲームに熱中している人とのこの差は、どこにあるのでしょうかね。マネーゲームの実力(高度な数学的予測の能力)そのものは、物理学者だってその道のプロなんだから負けていないでしょう。人間としての「品性」の差かな。
    「既成の意味や価値を破壊し、新しい意味や価値を生み出す」というのは、お金ではなく、資本主義の市場原理の問題でしょう。お金はもう、存在そのものがすでに意味や価値であり、それを生み出しも壊しもしない。あなただって「そのような変転めまぐるしい商品体系を制御する “普遍的な価値” として、『貨幣』があらゆる商品価値を規定する幻の上位概念として定着していく」とおっしゃってるわけだし。
    そこで気になるのは、今どきの若者たちは、「車」とか「ブランド物の服」とか「高級レストランの食事」とかの既成の価値を解体して衣食なんか「ユニクロ」や「居酒屋」でいいとしながら、新しい何に価値を見ているのかということです。
    それは、「都市の風景」が変わりつつある、ということでしょうか。
    「祭りの賑わい」とは、人と人の「出会いのときめき」が豊かに生成していること。都市の本質はそこにこそあるわけで、プリミティブな都市集団は、そのことの上に成り立っていた。それが、都市の起源であり、究極の都市のかたちでもあろうかと思えます。
    おそらく、人と人の出会いのかたちの変化とともに都市の風景も変わってゆくのでしょう。
    そして、都市における祭りの賑わいについて考えることに、さしあたって「お金」の問題は省いてもかまわないと思います。人と人が街ですれ違うことにも、ときには「出会いのときめき」を体験します。与謝野晶子の歌ではないが、街を歩いていて「今宵逢う人みな美しき」というような気分になれる風景こそ、理想の都市の風景でしょう。都市は、いつだってその風景を目指している。そこを歩く人々の表情を活き活きと輝かせたい、というコンセプトで都市がデザインされてゆく。東京の街並みもパリの街並みもニューヨークの街並みも、ひとまずそういうコンセプトの上に出来上がっている。また、そういう気分になってこそ、財布の紐も緩む。
    「都市論」はたぶん、「ポスト資本主義」について考える上でのとても重要なテーマになってくるのでしょう。
    われわれの若いころには羽仁五郎の『都市の論理』という本がベストセラーになっていたけど、あれは、「都市国家の起源」を「都市の起源」として考えられた論考で、それでは「ポスト資本主義」の「都市の風景」は見えてこないと思います。
    ひとまず現在でも「都市の起源=都市国家の起源」という問題設定(パラダイム)が主流で、まああなたもそのスタンスで考えておられるわけだが、僕としては、どうしても「都市国家になる前の都市」という問題を考えないではいられません。なぜなら「国家」とか「貨幣経済」というのは、都市の本質にまとわりついた不純物で、それを濾過して考えないと本質は見えてこない。
    「都市」というのは、ようするに「どこからともなく人が集まってきてできた集団」のことでしょう。コンサートやスポーツの試合に人が集まってくることだって、そこにひとつの「都市」が発生する現象だし、町の片隅のパン屋だろうと大きなデパートやショッピングモールだろうと、とにかくそこに「どこからともなく人がやってくる」という「都市の発生」以外の何ものでもない現象が起きている場でしょう。
    「どこからともなく人が集まってくる」という生態は、じつは人類固有のもので、猿にはない生態です。その生態とともに人類は地球の隅々まで拡散していったわけで、それを考えれば、都市現象は人類の本質的な生態だともいえる。というか、それこそが「グローバリズム」の原点だ、という考えも成り立つ。
    ヨーロッパ人が南米大陸で拾ってきた梅毒という病気は、20年後にはもう日本に上陸していたそうです。グローバリズムは、人間の生態そのものかもしれない。新大久保に行けば、世界中の女とセックスができる。これだって、グローバリズムでしょう。
    グローバリズムは、「都市」の問題でもある。人類の願いは、グローバリズムを解体することではなく、軟着陸させることにある。
    ああ、ごめんなさい。こんなにも書き込んでしまって。
    きっかけは、あなたが「ピコ太郎」のことを書かれたことだったのだけれど、そうしてあなたと誰かが「神の見えざる手」について語り合っていたことで、さらに深みにはまってしまいました。すなわち「歴史を決定するもの」の正体、僕はそれをあまり大げさには考えていません。人間を生かしているのは「世界の輝き」であり、それによって人間の思考や行動が決定されている、と思うばかりです。
    「世界の輝き」すなわちこの世に魅力的な人が存在しているということこそが人類の希望であり、人類の思考や行動は無意識のところでそのことに照射されている。
    といっても、自分も魅力的な存在になろうと努力するのが希望になるのではない。そんなのは、自意識過剰のただのスケベ根性にすぎない。そうではなく、ただもうひたすらこの世に魅力的な人が存在するというその事実を想うこと、それこそがわれわれの希望になるのだし、その事実によって人類の歴史はどこかに軟着陸してゆくのだろうなと思ったりしています。いや、人類滅亡だって、それはそれでめでたいことだとも思うけど。
    まあ、魅力的な人に対抗して、自分もそれと同じかそれ以上の魅力的な存在になろうとしながら人類は自滅してゆくのでしょう。軟着陸したかったら、自分のことなんか忘れて、ただひたすらこの世に魅力的な人が存在するというそのことを想うしかないし、「神の見えざる手」によって軟着陸させられるのかもしれない。
    この世に魅力的な人が存在するということは、われわれが考える以上に人の世の歴史に大きな影響力を持っている。この世に魅力的な人が存在するというその事実が、人類の歴史に軟着陸のチャンスをもたらすのだろうし、われわれが生きて死んでゆくライフサイクルにひとつのまとまりをつけるのでしょう。繰り返しますが、それは歴史上の偉人なんかじゃない。そんなことはどうでもいい。そんなことよりも、街ですれ違った「あなた」にふとわれを忘れてときめいたその体験こそがわれわれを生かしている。まあそうやって都市住民の知性や感性が育ってゆくのであって、自分が魅力的な人間であろうと悪あがきしているかぎり、その人の知性も感性もたかが知れている。自分の存在を消し去って他者の存在の輝きを想いきること、すなわち「世界の輝き」に身をまかせること、「今宵逢う人みな美しき」ということ、もともと人はそうやって生きて死んでゆく存在であり、そこにこそ「都市論」の本質があり、そこにこそ「貨幣の起源」や「恋愛の起源」があるのかもしれない。
    われわれはそろそろもう人生の店じまいをする段階にさしかかっているわけだが、それは、この世界と決別することであると同時に「自分」と決別することでもある。そしてそれこそが生きることを活性化させる契機にもなっている。「もう死んでもいい」という勢いを持つこと、すなわち「もののあはれ」ということ。それは、この世界が消えてゆくことであり、自分が消えてゆくことを指す言葉です。昔の人はうまいことをいったなあ、とこのごろつくづく思わせられます。「もののあはれ」は、この生のダイナミズムをあらわす言葉でもあります。

    • 町田 より:

      >HIROMITI さん、ようこそ
       今回お寄せいただいたメールは、前回の私の返信にプラスして、“恋愛の起源” というブログ記事のエントリーを二つまとめてご感想をいただいたものだと思いますが、まず、とても丹念に記事を読んでくださったことが伝わってきましたので、それに対して感謝申し上げます。
       素人の書いたブログ記事をこれだけ誠実に精読してくださる読者の方というのもそんなにいらっしゃらないので、とても貴重なご意見として承ります。

       ただ、やはり根本的な見解のところで、異なる部分が出てきますね。
       それは「共同体と貨幣」の関係、および「都市の生成」に関する部分です。

       しかし、それに関しては、「もうこれ以上踏み込まなくてもいいのかな … 」という気がしないでもありません。というのは、こういうテーマはたぶんに原理論的な要素が強く、考古学的なアプローチをいかにきわめようが、基本的には “思想” の問題になっていきます。
       そうなると、「どちらが真実か?」という問題設定はあまり意味がない。けっきょくは「両方とも真実」ということになるのではないですか。あとは、HIROMITIさんがよくおっしゃるように “ときめき” の問題ですね。すなわち、どういう解釈が自分にとって “ときめき度” が高いか、という選択だけのことだという気がします。

       そうは書きましたが、それだけでは素っ気ないので、いちおうHIROMITI さんのご意見に沿う形で私なりの考えを述べさせていただきたく思います。
       
       まず、都市論の問題のところで、冒頭HIROMITIさんが、「僕は “都市の発生” と “都市国家の発生” を分けて考えている」というのは非常に重要なご指摘で、私もまた同じように考えます。

       「都市の発生」に迫る方法には原理論的なアプローチしかなく、「都市国家の発生」とは異なり、考古学的な手法が届かない世界であるように思います。
       HIROMITIさんがおっしゃるように、「都市が発生したと考えられる場所に住居跡が見つからない」ということはよくあることで、人間が生きた痕跡は都市が発生した場所 … 仮にこれを “原都市” とでもいいましょうか … そういう原都市の「形」がどうであったかということは住居跡は教えてはくれない。

       ある程度の考察から先は、推論になります。
       つまり、原都市を考えることは、もう思想の問題なんですね。
       そこでHIROMITIさんは、
       「プリミティブな都市が発生した段階では、農業も、共同体も、貨幣経済もなかった。ただ祭殿だけがあった」
       と書かれています。
       つまり、「祭りの場所が都市に変わっていった」ということなんでしょうけれど、その祝祭的高揚というのは、いったい何がもたらすものなのでしょうか。

       それこそ、一つの共同体の住民が、別の共同体の住民と出会うという、「人と人との出会いのときめき」が祝祭的気分をもたらしたのではないですか。 
       つまり、プリミティブな都市(原都市)が発生した場所というのは、すでにそこが異なる共同体の人々の交わる場であったというふうに私は思います。

       もう10年以上も前のお正月の夜に観たテレビで、ものすごく印象に残っているドキュメンタリー番組がありました。
       それは、「都市の発生」をうながした要因は何だったのかということをテーマにした番組でした。

       レポーターを務めた学者(イギリス人だったかな … )は最初、「都市が生まれたのは戦争が激化してきたからだ」という仮説を立てました。確かにメソポタミアあたりの都市遺跡には城壁もあるし、武器庫も、包囲戦に耐えるための食糧貯蔵庫もある。

       その学者は、そういう “戦争仮説” を基に、ヨーロッパや西アジアを中心にいろいろ調査を行っていきましたが、HIROMITI さんもおっしゃっているように、西アジアあたりの古代都市というのは、過去の都市の石材をそのまま使って新しい都市をつくるため、時代的特徴が不分明になってしまいます。
       その学者は、やがて西アジアの遺跡をたどってみても、戦争が日常的になってしまった古代都市の遺跡しか見ることができないということに気づくわけですね。
       それは、自分が求めていた原都市とは違うと、彼は思い始めました。

       そこで彼は、インカやマヤという壮麗な都市を築いた民族のいる南米に飛びます。
       ここはヨーロッパや西アジアの地とは違って、戦争による民族の興亡の事例はそれほど多くはない。だから、こういう土地の都市で「戦争に対する備え」が発見できれば、都市の生成に戦争が関与したという見方はさらに有力になるだろうと。 
       彼がそう考えて調査を開始すると、インカやマヤ以外のもっと古い文明の遺跡がたくさん出てくるようになった。それこそ、時代でいうと、ヨーロッパ史ではトロイやミケーネ時代(紀元前10世紀頃)に誕生したと思われるような都市跡すら見つかった。

       ところが、そういう古代都市の遺跡からは見事に戦争の痕跡は発見されませんでした。
       逆に出たきたのは大量の綿花を栽培していたという証拠でした。
       その栽培された綿の量は、住民たちが消費する量をはるかに超えるものであったそうです。
       
       彼はそこから推論を開始するわけですね。
       これらの綿花は、いったい何のために栽培されたのか。

       答はやがて見えてきました。
       その都市から25kmほど離れた海岸で、綿で作られた大量の漁業用の網の痕跡が発見されたのです。炭素測定をしてみると、その網の製作年代は、ちょうどその古代都市が栄えた時代とぴったりと一致しました。

       つまり、海岸の住民と、都市の人々は交易をしていたのです。
       海岸の住民は都市まで出向いて綿花を手に入れ、それで網を作って、捕れた漁獲類を都市でさばく。
       実際に、都市の住居跡からは大量の魚類の骨が見つかり、海岸では、その周辺で採れることのない森の花から作った顔料などが大量に発見されました。

       つまり、都市とは、異なる共同体の住民同士がコミュニケーションを取る≪交易の場≫であったということなのです。

       そういう交易は、最初は物々交換のような形で始まったのでしょうけれど、海産物とか山の花の顔料などという物は常に手元に保存しておけるとは限らない。

       そこで、当日は交換する商品の持ち合わせがなくても、本物が用意されれば、いつでもそれと交換できるという “物の代理” の物質が用意されるようになってくる。
       最初は、貝殻とか陶片などという物質が、物の不在のときに交換される代替物として使われたことでしょう。
       それが貨幣ですね。
       物々交換はその始まりの時から、もう貨幣交換の形を取っていた。
       都市の発生と貨幣の発生は、ほぼ同時であったといえるでしょう。

       西アジアあたりでも、原都市というのは、こういう形で始まったのではないでしょうか。
       HIROMITI さんもお書きになっているように、あのあたりは歴史的にも有数な穀倉地帯でしたから、都市と農業の関係も密接でした。
       しかし、≫「増えすぎた人口の食料をまかなうために農業を覚えた」というのはどうか。
       むしろ、人類は農業を覚えたからこそ、人口を増やすことができたのではないか。

       ということは、農業は原都市において “発明” されたということも考えられますよね。
       前述したように、都市というのは異なる共同体の構成員同士の出会いの場でありましたから、それは当然情報交換の場でもあったわけで、異なる住環境の人々の総合的情報交流の結果、品種改良とか、異種交配といった農業の基礎知識が短期間のうちの交換されたと考えられます。

       HIROMITI さんが書かれていたことで、今一つ十分に把握できなかったことが一つあります。
       それは、≫「利潤は、共同体どうしの格差から生まれるのであって、共同体の外で生まれるのではない」というところ。

       この「共同体どうしの格差」という意味は何なのでしょうか?
       これは異なる共同体を並べたときに、そこに表れる格差という意味ですか?

       もしそうであるならば、「共同体どうしの格差から利潤が生まれる」という表現は、すなわち “共同体と共同体のあいだ” で利潤が生まれるという意味になり、当然一つの共同体にとっては、その“外部で利潤が生まれる” と考えて何の矛盾もないと思います。

       ここでいう “共同体の外” とは、「何もない空間」などという意味ではありません。
       それは、一つの共同体の磁場のようなものが途切れ、別の共同体の磁場のようなものと出会う場所というような意味です。

       これを地理的な空間イメージとして捉えようとしても、何も見えてこないでしょう。
       見えないのは当たり前。
       そのような “場” というのは考古学的な手法で特定できるようなものではなく、あくまでも抽象的な理念として存在するものですから。

       そして、こういう “共同体の外” に出ることによって、はじめて自分のいる共同体の姿も見えてくる。
       そのような認識が生まれてこそ、ようやく他の共同体との格差に気づく。

       そもそも、共同体の内部には格差がないのが通例です。
       仮に、未開共同体や原始共同体のようなものを思い浮かべてみると、部族集団のなかに首長がいて、それに従う家族やその縁戚関係の人間たちがいるかもしれませんが、そこには「権力格差」というものがほとんどない。
       同時に、そういう共同体のなかではおカネも必要がない。

       HIROMITIさんは、
       ≫「お金=貨幣など必要ないのが “共同体の外” でしょう。共同体の外では、お金=貨幣の意味も価値も解体される。共同体の中で、初めて意味や価値になる」
       とお書きですが、たぶんこれは逆であるように思います。

       むしろ「共同体の中こそおカネは必要ない」と考えた方が辻褄が合います。
       これは誰でもが簡単に想像できることだと思いますが、たとえば未開村落のようなものを考えると、そういう共同体の中においては、貨幣どころかそもそも商品交換という概念がない。
       
       未開村落や原始共同体のような社会においては、物のやりとりが生じるのは商品交換ではなく、贈与と返礼です。
       多くの未開村落の場合、物には呪術的価値が宿っていると考えらているため、ある共同体構成員から贈与を受けた同じ共同体の者は、その呪術的厄災を避けるために、同等の価値のある物を贈答者に返礼しなければならない。

       これが、閉じられた共同体の中の交換様式ですね。
       だから、共同体の構成員が、他の共同体と交易を始めるためには、自分たちの共同体における呪術的しきたりを、いったん「物」と切り離す必要性に迫られました。
       こうしてはじめて、呪術から解放された商品交換というものが成立してくるわけですね。

       そういう商品交換を、誰から見ても客観的に平等に実現できるのが貨幣です。だから、「共同体の外」でこそ、はじめて貨幣が必要となるのです。
       共同体の内部では、貨幣など生まれる必然性がないのです。

       さらに続けますが、HIROMITI さんがお書きになっておられる ≫「共同体には祭りが先にあったのであり、政治が先にあったのではない」というご説明にも、若干の補足をさせていだだく失礼をお許しください。

       ≫「祭りの延長として政治が生まれてきたから、政治のことを “まつりごと” という」
       
       この見方に関しては、まったくその通りだと思います。 
       ただ、これは正確にいえば、古代社会では「政治」と「祭り」はまったく同じものであったというべきなのでしょう。
       さらにいえば、政治は同時に宗教でもあり、芸術でもあったわけですね。

       しかし、そういう “祭りの場” と商品交換の場である “市場” は実は同じものでもある。
       「祭りの場」というのは、日常生活の「ケ」に対して、「ハレ」の場。
       いわば、この世と縁が切れるところです。

       実は、市場もまったく同じ。
       それまでの自分の生活圏内になかった珍しい文物が交換される場。
       そのときの華やぎやときめきが、人々を熱狂させた。

       よく歴史映画などに出てくるシーンですが、遠い異国の珍しい商品を売る商人のもとに、城下町の娘たちが群がって歓声をあげる。
       異国の商品を眺めることは、判で押したような共同体内の生活に倦んだ娘たちにとっては、まさにお祭りのようなもの。
       すなわち、商品交換の場も、また「祭りの場」であったわけですね。
       つまり商品経済が発達してできた「市場」は、“俗世との縁が切れる” 場所でもあったわけです。

       だから、都市の問題とおカネの問題は密接不可分。
       それがゆえに、≫「 “貨幣経済” というのは、都市の本質にまとわりついている不純物で、それを濾過しないかぎり(都市の)本質は見えてこない」というご指摘は当たっていないように思われます。

       市場が「祭りの場」であることは、実は現代社会においても続いている。
       企業が主催するイベントには、みな一様に「フェスティバル」の冠がかぶせられる。
       「感謝祭」、「記念祭」などという名を冠したイベントも多い。
       それらはみな、祭りの高揚感を武器に、来場者の財布のヒモを緩めさせようという魂胆から生まれてきたものばかりだと思うのですが、それほどまでに、現代社会においても、「市場」と「祭り」の親和性は高い。
       
       だから、HIROMITI さんのおっしゃるように、≫「祭りには基本的にお金は必要ありません」とは一概には言えないように思えます。

       もうひとつはっきりお聞きしたいのは、≫「共同体を解体してしまったら商業は成り立たない」という言葉の意味ですね。
       あるいは、≫「商業とは共同体に “寄生” していく行為」という言葉。
       HIROMITI さんは、これらの言葉にどういう思いを込められていらっしゃるのでしょうか?

       なにか “商人” という悪人が、 “商売” という悪い行為によって、“純朴な” 共同体員を騙して荒稼ぎしているというようなイメージをお持ちなのでしょうか。
       昔の西部劇などを見ていると、確かに白人の悪徳商人がネイティブアメリカンの部落を訪れ、そこで銃などを法外な値段で売り付ける話などが出てきましたけれど、そういうようなイメージなのでしょうか。

       これは「共同体」という言葉に、どういう規模の集団を代表させるかによって全然捉え方が違ってくるのでしょうけれど、たとえば呪術的世界観によって閉じられた共同体に、もし商人が他の世界の物品を携えて現れたら、単純にいえば、その共同体の呪術的世界観は解体していきます。

       また、封建領主のような貴族が村を仕切っているヨーロッパ中世の農村共同体のようなところに商人がやってきたら、貨幣経済の力によって、その領主の世俗的権威やらは相対化され、貨幣を頼りに独立しようとする土地に縛られない自由農民が生まれてしまい、そこでも封建的な農村共同体は解体します。
       ヨーロッパの場合、農村共同体の長の座から降ろされた封建領主たちは、宮廷貴族となり、新しく勃興していく近世絶対王政を支える存在に転じました。

       こうして、封建貴族の共同体は解体したかもしれませんが、そのような元の共同体が解体したからといって、商人はそれで商売のネタをなくした、などとは思わないでしょう。
       商人にとっては、自分の活動エリアが拡大していくだけの話なのですから。

       逆にいえば、近代資本主義の歴史というのは、そのような商人たちの活動エリアが広がっていった歴史でもあります。

       資本主義の利潤は、(繰り返しになりますが)、共同体と共同体の≪間≫に横たわる商品の価格格差から生まれました。

       イギリスの産業革命によって産業資本主義が台頭するまでは、初期の資本主義は、みな商品の価格差を求めるための遠隔地貿易だったのです。
       これは、ギリシャやカルタゴの時代からそうであり、ヴェネチア、ジェノバの時代もそうでした。
       つまり商人は安い物を仕入れられる場所に出向いて、それを安く買い、今度は同じ物が高く売れる場所で売っていた。同じ共同体内ではこの価格差が生まれないからです。

       分かりやすい例でいえば、胡椒が “二束三文” で売られているインドで胡椒を仕入れたヨーロッパの商人は、胡椒がインドの10倍~20倍で売られているヨーロッパに持ち帰り、その差額で儲けていたわけですね。 

       坂本龍馬の海援隊などもそうですね。彼は九州方面で売られている商品が大阪方面で売られるときは高く値付けされていることに気が付いた。だから彼は船を動かすだけで利潤が得られると考えた。

       要するに、共同体と共同体の≪間≫には、商品の価格差があったということなのですね。価値体系の格差です。
       だから、これは言葉遊びなどではないのです。

       商品の流通量が多くなると、次第にこういう価格差は解消してしまいます。つまり、それまで個別の共同体が維持していた商品の価値が平準化されてしまう。そうなると価値体系も平準化されてしまう。

       一つの価値体系を維持できることが共同体の証であるとすれば、価値体系が平準化されてしまうと、その共同体の個性も平準化される。つまり、文化も、人の心も平準化されてしまうということですね。
       言葉を変えていえば、画一化され、無個性になっていくということです。
       「資本主義による共同体の解体」とは、すなわちそのことを指します。

       グローバル資本主義というのは、その解体規模が、まさに地球クラスにまで拡大したものと考えていいのではないでしょうか。

       つまり、これまでの各共同体が固有に保持していた文化や民族の精神構造も平準化して、世界中がのっぺりした均質のものになっていくというのが「グローバル資本主義」です。

       その各共同体のいちばん大きなものは、現在「民族国家」ですから、グローバル資本主義というのは、個性の異なる民族国家間の特色を、みなおしなべて平準化していこうとする運動の総体だととらえていいように思います。

       具体的にいえば、EUに代表されるように、貨幣を統一する、関税などを撤廃する、人や物の流通をさらに自由にするという方向でグローバリズムは動き始める。
       要は、これまでの国と国によってはっきり分かれていた文化、経済、政治をみな統一していこうとすることです。

       でも、それって、自国の民族性や宗教体系にアイデンティティを感じていた人間にとっては不安ですよね。
       そこから、宗教の異なる移民が押し寄せてくるのは大反対という運動が始まるきっかけができる。
       それが現在のヨーロッパではびこる「国家(民族)主義」の正体です。
       アメリカのトランプ支持者の運動も同じです。

       だから、HIROMITI さんのおっしゃる ≫「グローバル資本主義が “国家(民族)主義” を煽り立てているという」のは言葉足らず。
       正しくは、「グローバル資本主義の運動に脅威を感じた人たちの不安が、“国家(民族)主義” を煽り立てている」ということなのではないでしょうか。

       ただ、≫「都市論はたぶん “ポスト資本主義” について考える上でのとても重要なテーマ」というご指摘は、まったくそのとおりだと思いました。

       そういった意味で、HIROMITI さんが、
       ≫「今どきの若者たちは、“車” とか “ブランド物の服” とか “高級レストランの食事” とかの既成の価値を解体して衣食なんか “ユニクロ” や “居酒屋” でいいとしているのは、“都市の風景” が変わりつつある、ということなのか」
       と問われているのはとてもよい視点だと思います。

       現在、ものすごい勢いで、世界中の都市空間が変容を遂げきてますよね。
       東京もしかり、上海もしかり。
       東南アジアの主要都市も変わりつつあるようです。

       それらの都市がどのように変わってきているかというと、昔は駅前繁華街と郊外といったように分かれていた生活エリアが、今はショッピングモールのような巨大な建物に覆われるようにして、のっぺりと際限なく大地に広がっているという変化として現れています。

       さらに、羽田空港のショッピング街とか、スカイツリーの商業エリアとか。さらには、現在高速道路のSAなどが、新しい街のスタイルとして進化を遂げている。

       若者たちは、このような「お洒落でありながら安価な商品が流通する市場」として整備されてきた新しい空間が好きですよね。
       私は、こういうショッピングモール的な空間は、どこも画一的に見えてあまり好きではないのですけれど、若者たちはその画一性を嫌うのではなく、むしろ、どこでも安心して、安価に便利な空間を楽しめるという合理性の方を評価しているように見えます。

       私には、現在の画一的なショッピングモールばかりが増えてきている現代都市空間に「人と人との出会いのときめき」があまりあるようには思えないのです。ショッピングモールというのは、「人」と「物」との出遭いはあるのかもしれないけれど、「人」と「人」との出会いは希薄なのではないか … などと思ってしまいます。

       しかし、未来の都市空間のデザインは、確実にこの方向に進んで行くでしょう。
       NYとかパリ、ロンドンはまだ違うのかもしれないけれど、アジア、オセアニアなどの都市は確実に “上海・東京化” の方向に進んでいます。私はそれが未来都市のデザインとして楽しいものなのかどうか、にわかに答える自信はありません。
       ま、人の好みなどは変わっていくものですから、今後好きになっていく可能性を否定はしませんが。

       最後に一言だけ。
       今回のメールのやりとりで、双方異なる見解を持っていることも判明しましたが、私としては、「どちらが正しいか?」というような問題はどうでもいいように思います。
       それこそ、HIROMITI さんではないですけど、“正しい意見” であることよりも、“輝いている意見” であることが大事。
       
       最初の方でも書きましたが、けっきょくはお互いに “わくわくする方の見解” に寄り添っていけばいいのではないですか?
       自分にとっては、都市論も、共同体論も、自分で書いた見解の方がわくわくするものなのですが、HIROMITI がご自分の説にわくわくされるのなら、それはそれでけっこうなことだと思います。

       今夏も長い返信になってしまいましたが、読むのにご負担をかけたとしたら申し訳なく思います。
       お許しください。
       

  5. HIROMITI より:

    ご丁寧な返信をありがとうございます。甘えついでにもう一回だけ書かせていただきます。
    僕は、妙に偏ったというか、世間の常識を無視したような言葉の使い方をする癖があって、あなたの頭の中にある言葉の意味とはだいぶ違うかもしれません。

    まず「共同体」という言葉をどう使うかどう解釈するかという問題がありそうです。
    「円共同体」「元共同体」「ドル共同体」「ポンド共同体」等々。貨幣がどこで生まれたのかという問題を考えれば、共同体の内部でしょう。古代の日本人は、中国の銅銭を溶かしてしまって銅鏡や銅鐸をつくっていた。中国の銅銭は、中国の内部でしか意味も価値も持たない。
    「貨幣制度」というくらいで、貨幣とは共同体の制度そのものでしょう。「貨幣=資本主義」が共同体の制度を解体するといわれるが、もしも「共同体」が貨幣の成り立たない空間であるのなら、それこそ「のれんに腕押し」で解体できるはずがないじゃないですか。共同体というのは貨幣制度の上に成り立った空間だからこそ、お金お金のグローバル資本主義に煽られると、極端な国家(民族)主義が生まれてきてしまう。

    村と村が貨幣で交易をしていれば、村が共同体であるのではなく、「村と村」が共同体で、ひとつの村はただの「集団」でしかない。僕は、ただの集団でしかない単位に「共同体」という言葉は使いたくないのです。
    「共同体」というシステムは都市で生まれたのであって、「村落共同体」という先験的な「共同体」があったのではない。
    共同体とは政治的な規範や制度を持った集団のことで、原始的な村落が「共同体」としての制度や規範を持っていたのなら、都市国家という共同体は、村落共同体の制度や規範を模倣して生まれてきたのか?そういうことになりますよ。村落共同体の構成員が集まってきてできた集団なのだから、とうぜんそうでしょう。
    原始的な村落には「呪術」があったのか?古代の都市国家の政治は呪術でもあったわけで、エジプトやメソポタミアで生まれた呪術は、村落の呪術を模倣したのか。そうじゃないでしょう。都市国家の段階になってはじめて呪術が生まれてきた。呪術は、とても文明的な観念のはたらきで、原始人の世界観や死生観から生まれてくるはずがないのです。そのころの呪術は、世界や宇宙の構造をあらわすもっとも高度な学問でもあった。まあ、アニミズムだろうと世界宗教だろうと、すべての宗教がそのことを説いて宗教たりえている。
    都市という大きな集団にならなければ呪術なんか生まれてくるはずがないのです。
    呪術とは人の心やからだとか自然とかを支配しようとすることであり、人類が「支配」とか「権力」というものに目覚めたことによって生まれてきた。原始的な村の民に、そんな支配欲や権力欲はなかった。また、支配欲や権力欲があるのなら村にとどまってそれを発揮しようとするにちがいなく、村からはぐれて出てゆくということはしない。
    まあ支配や権力は、その大きくなりすぎた集団をコントロールするための装置として生まれてきた。なにしろそんな大きな集団をいとなむことは人類史はじまって以来初めての体験だった。いろいろ混乱・混沌は生まれてくる。それをコントロールための権力であり支配であり規範制度であり、呪術だった。
    呪術は、都市国家の権力中枢部(=王のまわり)から生まれてきたものであって、原始的な村落に先験的にあったものではない。少人数の原始的な村落に、呪術など必要なかった。
    この国で呪術が本格化したのは平安時代になってからだが、それは権力中枢部で起きていたことで、権力中枢部にいるものほど迷信深かった。
    河童という妖怪は権力中枢部で発想されて、それが民衆のあいだに広まっていったのです。
    それと同じように、アニミズムはまず文明社会の都市国家で生まれたその観念が世界中の未開社会に伝播していって生まれてきたのであり、そういう意味で現在の未開人だって文明人であって、原始人ではないのです。

    山の村と海の村で物々交換がはじまった、と解釈するのは一般的な思考の当然のなりゆきだけど、最初にあったのは、たとえば山の民が山の産物をプレゼントとして抱えて海の村を訪ねていった、ということでしょう。それは、ただ海を見たかっただけか、海に移住して海で暮らしたかったからか、とにかくそれは「一方的なプレゼント」であったのです。山に帰るといって海の産物をもらったとしても、それもまた一方的なプレゼントで、原始時代に「贈与と返礼」とか「交易」という意識の生態はなかったのです。それは共同体の制度としての「私有財産」という概念というか意識が生まれてきてから起こったことで、この国の民俗学では、起源としての「市場=市」は「他者を祝福するための一方的なプレゼント」がなされていただけだ、という議論もあります。市場の本質は交易にあるのではなく他者を祝福することにある。起源としての市場は、たんなる歌や踊りの広場だったのであり、そのとき誰もが気に入った相手に対するプレゼントを抱えてやってきていたわけで、歌や踊りの延長としてのフリーセックスの空間だったのです。そのためのプレゼントであり、いちばんは、なんといっても首飾り等の宝石だった。
    生活必需品の交易が生まれてきたのは「国家=共同体」になってからのことです。
    「共同体」が生まれる以前は、物々交換のように見えても、ただもう相手を祝福して一方的にプレゼントし合っていただけです。だって、そのときは「等価」という判断ができる歴史段階ではなかったのだもの。人類は、貨幣を生み出したことによって、はじめて「等価」という判断ができるようになった。
    原始時代や古代は集落と集落はくっついていたのではなく、いわば緩衝地帯ともいうべきどちらの集落にも属さない空間があり、そこで祝祭空間としての「市場」が生まれた。そしてそこで出会うのは「共同体の構成員」どうしではなく、「共同体からはぐれてきたもの」どうしなのです。だからそこでは、共同体の規範(=意味や価値)は解体される。共同体の外に出ることは、共同体の構成員ではなくなることです。そうやって「無主無縁」の無礼講のお祭り騒ぎが生まれる。
    貨幣が平等をつくるのではない。「貧乏人でも貨幣を持てば……」だなんて、貨幣を持ったら貧乏人じゃないでしょう。その祝祭空間においては、貨幣を持っているか持っていないかの格差なんかなくなってしまうのです。
    すなわち「貨幣」に対する意識が解体される。まあそうやって財布のひもが緩み、共同体の内部なら100円で買える饅頭を500円で買う。しかし原初においては、貨幣=価値が存在しなかった空間なのです。だから、財布のひもが緩むわけだし、500円で買うのは、相手を祝福する行為というか、ようするにその土地に対するご祝儀でしょう。
    時代を経るに従って共同体=権力が祭りを仕切るようになってきた。日本列島なら、中世以降のことです。それは、そういう「緩衝地帯」がなくなってきたことと軌を一にしています。
    商人だって共同体=権力と結託して利潤を上げている。それを「寄生」といっているだけです。ユダヤの商人がアメリカの政治を動かしている、などというわけじゃないですか。貨幣は共同体の制度でしょう。
    商業は、不可避的に共同体に寄生してゆくほかない。現在のグローバル資本主義だって、その共同体に寄生しながら利潤を上げている。
    僕は「寄生」という言葉を文学的というよりどちらかというと生物学的な意味で使っているわけで、商人が「悪人」だなんて思っていませんよ。
    ヨーロッパの商人がインドに行ってヨーロッパの物を売って、現地の貨幣を得る。その貨幣で胡椒を買う。それだって、じゅうぶん共同体の内部に寄生している行為じゃないですか。べつに、いいとか悪いとか、そんなことはどうでもいい。とにかくそういう行為でしょう。

    共同体間の価格格差で利潤が生じる、ということなんか、言わずもがなのわかりきったことじゃないですか。だから僕もそういってるし、だけど原初の都市は、「共同体」のシステム(=制度・規範)など存在しない時代に生まれてきて、都市が「共同体=国家」になっていったのであり、「貨幣経済」を生み出していったのです。共同体とは貨幣経済が有効に機能している場所のことであり、商人はそこに寄生して利潤を得ている。
    ロンドンとインドで交易したって、ロンドンの市場で利潤が生じているだけじゃないですか。その「あいだ」の祝祭空間で利潤が生じているわけじゃない。
    しかし原初の都市は、集落と集落のあいだの何もない空間に集落からはぐれ出てきたものたちが寄り集まって生まれてきたのです。そこに、人と人がときめき合い祝福し合う「祭りの賑わい」が生まれてきた。べつに、たがいの持ってきたものにときめき合って交換していったのではない。あくまで人にときめいていったのです。だから、相手を祝福して一方的にプレゼントすることはあったかもしれない。
    そしてこの場合、わりと近在の似たような環境で暮らしていたものどうしだから、誰かが特に物珍しいものを持っていたというのではない。しかし、誰もが好きになるものがある。きらきら光る貝殻とか石ころとか、人類はもう、ほんとにきらきら光るものが好きで、10万年前からそんなもので首飾りなんかをつくっていたし、その伝統は現在の宝石や金本位制として受け継がれている。彼らは、そういうものを「一方的」にプレゼントしていった。そしてそれが、貨幣の起源になっていった。
    原初の「都市の発生」は、交易をして利潤を上げる場だったのではない。誰もが他者にときめき祝福し合うという、いわばフリーセックスの場だったのであり、それが原初的な「祭りの賑わい」の本質だった。

    まあ僕は、そういう「緩衝地帯=祝祭空間」を「外部」とか「あいだ」とか「すきま」といっているわけです。これもたんなる言葉の使い方の問題かもしれないけど。そこのところを考えないと、都市の発生の現場は見えてこない。
    チンパンジーのテリトリーとテリトリーのあいだには、「すきま=緩衝地帯」がなく、むしろ一部が重なっている「オーバーラップゾーン」というのがあって、そこでは壮絶な殺し合いが起きたりする。だから彼らは、いつまでたっても拡散してゆくことができないで、今や絶滅の危機に瀕している。。
    しかし二本の足で立ち上がった人類には、最初から集団と集団のあいだに「すきま=緩衝地帯」があって、その「すきま=緩衝地帯」をつくってしまう勢いで地球の隅々まで拡散していった。そこは、集団と集団の争いを回避する空間であると同時に、集団からはぐれ出てきたものどうしが出会って祝祭空間が生まれる空間でもあった。
    「緩衝地帯=祝祭空間」を無視してもらっては困る。そういう「空間=すきま」をつくるのが人間性の基礎というか、人間の本能のようなものだと考えています。その場所で都市が生まれ、やがて都市国家という「共同体」になっていった。そうして、もともと人と人が祝福し合うだけの場だった祭りが、どんどん共同体が延命するための呪術的になっていった。「五穀豊穣祈願」とか「厄病退散祈願」とか「商売繁盛祈願」とか「戦勝祈願」とか、そうやって呪術が生まれてきた。農業が発生する以前の段階の人類史においては、そんな欲望などなかったのです。
    交易の場として「原初の都市」が発生しただなんて、それではただの下部構造決定論じゃないですか。
    交易をするより先に、「人と人がときめき合う」ということがあったのです。交易のためなら、それが終わればみんなもとのところに帰ってゆくだけで、それでは永久に「都市」は生まれてこない。

    >人類は農業を覚えたからこそ、人口を増やすことができた<

    そんなことが、あるはずないじゃないですか。むちゃくちゃな論理ですよ。そういう下部構造決定論では説明がつかないでしょう。みんなそうやって、下部構造決定論に取り込まれてゆく。
    農業を覚えて余剰の生産物が生まれたから、それに合わせて人口を増やした、というわけですか?
    じゃあ、現在のこの国は、豊かさのぶんだけ人口を増やすことができているのですか?増やしたいのに増やせないでいるじゃないですか。
    人口なんて、増やそうとして増やせるようなものじゃない。増えてしまうだけでしょう。アフリカには、ろくな農業もなく増えても養えないのにどんどん増えていっている飢餓地域がある。
    この国の貧窮を極めた終戦直後に人口爆発が起きたことを、あなたたちはどう説明するのですか。
    農業を覚えて余剰の生産物を持てば人間の生殖行動が活発になる、とでもいうのですか。生殖行動は、むしろ衣食住が不如意であるときのほうが活発になる。セックスは、基本的に死と親密になってゆく行為でしょう。だから女は、オルガスムスのときに「死ぬ、死ぬ」という。
    ただ、初期の都市で人口が増えたのは、どこからともなくどんどん人が集まってきたからです。戦後の東京の人口が爆発的に増えたことだって、地方からどんどん人が流入してきたからです。
    人口が増えたから情報交換が活発になるのであって、人口が増えない段階で情報交換が活発になるはずもないでしょう。
    縄文人は、すでに米作りを知っていた。でも、趣味ていどにしか作らかった。集落の人口が少なかったからそんな大掛かりな農業はできなかったし、その少ない人口をまかなう量すらつくらなかった。それは、お祭りのときに食べていただけで、常食ではなかった。
    農業を覚えたって、人口は増えないのです。弥生時代の奈良盆地では、人口が増えたから、本格的に農業をはじめたのです。すでに農業を知っていたからこそ、すぐにそれに合わせて本格化させてゆくことができた。
    このことは人間性の問題でもあります。
    原始人は余剰のものを持つことは「けがれ」だと思っていた。いや現代人にだってそういう意識のいくぶんかは残っている。人は、プレゼントをしたがる生き物です。
    人間は、余剰のものを捨てて「生と死のはざま」に立って生きようとする。だから「練習」ということを飽きずにする。小学生の女の子が転んでも転んでも一輪車の練習をしているのは、まさに「生と死のはざま」に立っている状態です。海では生きられない生きものなのに、海水浴が楽しいということだって、そうでしょう。「なに・なぜ?」と問うことだって「生と死のはざま」に立っている状態で、猿は、人間ほどにはそんな問いは持たない。そして原始人は、まるで「生と死のはざま」に立とうとするかのように、どんな住みにくい土地にも住み着いていった。
    「生と死のはざま」に立つなら、余剰のものなど持ちたくない。余剰のものを持ってしまったら、「生と死のはざま」に立てない。
    だから縄文人は、余剰の食料を生産しようとしなかった。しようと思えばできたのに、しなかった。
    北米インディアンのある首長は、ある時突然みんなの前で狂ったように自分の財産をぜんぶ燃やしてしまうということをするらしい。それが首長としての「みそぎ」の儀式になっているのでしょう。
    首長とは、みんなの代わりに余剰のものを持つ「けがれ」を引き受けてやっている存在であるらしい。
    メソポタミアの都市国家では銀のインゴットがいちばんの貨幣だったのだが、それはいったんすべて王のもとに集められ、それからみんなに配分されていたらしい。これだって「けがれを引き受ける」というシステムでしょう。つまり、祭司でもある王によって浄められてから配分されていった、ということです。王はそれを、一方的な「祝福」として下賜していった。
    そして、王を通過した貨幣でないと使ってはいけない、ということで、王の横顔を浮き彫りにしたコインがつくられていった。
    まあ、貨幣は都市の中で発生し、都市の中で生成している、ということです。交易をするために貨幣が生まれてきたというのではただの下部構造決定論で、その思考では「人間とは何か」という問題が抜け落ちている。都市になって「貨幣」という下地ができたから交易をはじめたのであって、交易をするために都市が生まれてきたのではない。都市の発生は、人と人が出会って祭りの賑わいが生まれたからであり、それは交易のためではない。交易は都市発生の結果であって、原因ではない。
    断っておきますが、僕は芸術家じゃないから、きらきらした思考や思想なんか、なんの興味もないですよ。客観的な事実・真実が知りたいだけです。そしてそのためには、できるだけシンプルに合理的に考えたいと思っているだけです。
    先史時代の人々は、余剰の生産物は持たなかったのです。農業を覚えて余剰の生産物を持ってしまったことは、いわば「パンドラの箱」を開けてしまったことかもしれません。そして、その「けがれ」をそそぐものとして貨幣があった。けがれをそそぐというか、けがれの不在証明(アリバイ)=免罪符として、貨幣があった。貨幣が、けがれを肩代わりしてくれた。だから人は、お金が入ると使ってしまいたくなる。守銭奴が嫌われる。

    メソポタミアで本格的な都市国家が生まれたのは、チグリスユーフラテス川の南側の穀倉地帯ではなく、北の砂漠のような場所だったのです。そこでは、食料を得るための手段として交易が発達していった。彼らは、食料を得るために穀倉地帯に買い付けに行ったのではない。そこに集められてある銀のインゴットを求めて、穀倉地帯のほうから食料を売りに来た。その都市国家の中には、交易のための市場があった。つまり、貨幣は共同体の中で生成していた、ということです。

    貨幣という概念を最大限に見積もれば、貨幣の起源は、ネアンデルタール人が花を添えて埋葬したことにある、と考えています。
    それは、
    第一に、死者という他者を祝福するための「一方的なプレゼント」であったこと。
    第二に、生活必需品でもなんでもないものだったこと。
    この二つこそ、人間性に即した「貨幣の起源=本質」をあらわしている。
    そうしてそのあとにビーズの玉や貝殻などを添えるようになってくる。
    きらきら光るものは、物性を離れてこの生と死とのはざまで輝いている。人類は、満足に衣食住を確保できない歴史段階から、すでにそんなものを首飾りにしたりしていたのです。
    基本的に、消費することは、商品や商品を売る人を祝福する行為です。そういう「一方的なプレゼント」なのです。「贈与と返礼」なんて、市場の発生とも、人間性の基礎とも関係ないことです。
    交易が都市の発生の契機だとか人間性の基礎だと考えるなんて、人間性に対する冒涜であり、それは歴史の真実でもない。
    貨幣は、交易の道具として生まれてきたのではない。誰もが喜ぶプレゼントの品として生まれてきた。だから、交易の際の「普遍的な価値の象徴」になってゆくこともできたわけです。
    これは、きらきらした思考ではないですよ。シンプルに合理的に考えればそうなる、というだけのことです。
    何はともあれ、おもしろかったです。勉強になりました。
    付き合ってくれて、どうもありがとうございます。

    • 町田 より:

      >HIROMITI さん、ようこそ
      内容のある長文のコメントありがとうございました。
      読み応えのあるものでした。

      それに対する返信は、今回このコメ欄ではなく、本文記事として掲載しました。ご確認いただければ幸いです。
       

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