美しい不条理

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 ベルイマンやアントニオーニの映画について
  
 
 若い頃、理由もなく、“難解な映画” が好きだった。
 50年以上も前のこと。
 1960年代の話だ。

 当時、新宿に「ATG(アートシアターギルド)」という映画館が生まれ、そこでは、あまり観客動員できそうもないヨーロッパ系のマイナーな芸術映画などが上演されていた。

▼ アートシアターの映画パンフレット

 
 
 その頃、映画や演劇の世界で、“アンダーグラウンド” という言葉が流行った。
 「表に出ない文化」といえばいいのだろうか。
 一般的な人々が好む商業主義的な文化を軽蔑し、一部のマニアだけが評価する、地下に根を張ったような暗い芸風を追い求めるところに「アンダーグラウンド文化」の特徴があった。

 そういう “アングラ系” の映画が脚光を浴びるなかで、突出した人気を誇るようになったのが、イングマール・ベルイマンやミケランジェロ・アントニオーニの映画であった。

▼ ベルイマン『第七の封印』

▼ アントニオーニ『太陽はひとりぼっち』

▼ アントニオーニ 『BLOW UP』

 
 暗くて、重くて、哲学的めいて、何が言いたいのかよく解らない。
 しかし、その難解さを愛することが、“一般大衆のレベル” をはるかに超えた知的エリートの条件であるかのような風潮が、当時はあった。

 しかし私は、そういうエリートたちのスノビズムとは別のところで、こういう “難解系” の映画に魅せられていた。
 
 それは、一言でいえば、「美しい不条理」に出遭うことへの期待のようなものだった。

 「有限の存在である人間が、無限や永遠を知りえることができるのか?」

 もし、そういう問があったとしたら、この問には間違いなく美しさが秘められている。

 そういう美しい不条理こそが、私はあらゆるアートや文学の源泉であるように思うのだが、難解系のヨーロッパ映画は、みなこの不条理感を持っていた。

 そういう映画から得た教訓というのは、
 「人間が何か新しいものを感じたり、新しいことを考えようとするには、わけの解らないものに接するしかないのだ」 
 ということだった。

 「難解だ」
 と感じることは、思考が飛翔するためのジャンピングボードに立ったことを意味している。
 
▼ ベルイマン『沈黙』。当時神の沈黙を問うた作品といわれた

 たとえば、ベルイマンは映画のなかで、「神の存在」について問おうとする。
 欧米人にはともかく、まぁ、日本人にとっては、もっとも難解なテーマの一つであっただろう。
 「神」なんて、キリスト教的文化が希薄な日本にいれば、真剣に考えようという気にならないものだ。

▼ ベルイマン『沈黙』

 しかし、あのどんよりとした北欧の情景をバックに、登場人物たちの陰々滅々とした表情で語られる重いセリフを聞いていると、「神を問うことがどういうことなのか」という登場人物たちの気分が伝わってくる。
 それは、心が、この世を離れたものを想像する契機となるものだ。

 ―― この世を離れたもの ――
 すなわち、難解系ヨーロッパ映画というのは、「超越的なもの」を心に受け入れるための準備体操みたいなものだった。

 人間の脳が刺激を受けて、そこから新しいイマジネーションやら新しい思考が生まれてくるときというのは、必ず「超越的なもの」に触れているときである。
 
 映画監督のベルイマンにとって、ほんとうは「神」などどうでもよかったのかもしれない。
 彼は、映画のなかに「神」というテーマを設定することで、観客に「超越的なものの気配」を感じ取ってほしかっただけなのだろうと思う。

 その「超越的なものの気配が訪れる」ことを、俗に「インスピレーションを授かった」などという言葉で、われわれは理解している。
 それは、人間の頭のなかに天空から雷光のごとく降りてくる “ひらめき” のことをいう。
 哲学者のカントは、それに対し、「サブライム (Sublime)=崇高」という言葉を当てた。


 
 誰かが何かの書評で書いていたけれど、カントは『判断力批判』という書物で、こんなことを言っているらしい。

 「崇高なものとはいうのは、人間が激しい雷や巨大な渓谷のように、圧倒的な何かを見て、呆然自失のまま、怖いとか、美しいと感じるときに現れるものをいう。つまり、相手があまりに大きくて自分とは比較できないときに感じるもの」
 … だとか。

 これこそ、人間の想像力の根源にあるものではあるまいか。
 つまり、人間が「世界」を測るために考えた尺度を、軽々と超えてしまうような圧倒的なスケール感に触れたとき、我々の想像力は活発に動き出す。

 そのスケール感というのは、向き合うもの物理的な大きさだけを意味しているのではない。

 “ありえないこと”

 日常生活のなかではありえない現象と向き合っているという感覚。 
  

 そのときに感じる “息を吞むような畏れ” のなかに「超越的なるものの気配」が忍び寄ってくる。

 で、「難解」といわれた1960年代のヨーロッパ芸術映画というのは、みなこのような観客の想像力を刺激する “超越性” を持っていたように思うのだ。

 つまり、難解であるということは、「すぐには言葉で表現できないもの」に接することである。
 そして、「言葉に表現できないもの」こそ、実は「魂が表現を求めている」ものなのだ。

 これは、自分の体験だが、たとえばモノを書くとき、なかなか最初にひらめいたイメージを言い表す言葉が見つからないときがある。
 で、あ~だ、こ~だと、言葉を探す。
 
 そのうち、「なぁ~んだ、みんながよく使う言葉があるじゃないか」と思いつく。
 しかし、万人に理解してもらえるような「言葉」を思いついたときというのは、実は、最初に心を襲った、あのうまく言葉にならないような “得体のしれない” 感動は忘れさられている。
 要するに、「言葉」を思いついたとき、何かが死んでいる。

 多くのもの書きの多くは、そこのところを誤解している。
 たくさんのボキャブラリーを持つことが、もの書きの条件だと思い込んでいる人は多いが、それは間違いだ。
 そうではなく、ボキャブラリーとして獲得される前の<原初の風景>をどれだけ感受できるかが、もの書きの条件となる。

 言葉にするということは、実は、妥協することである。
 どう処理したらいいのか分からないような原初の<感動>を、とりあえず、みんなが知っている言葉に置き換えて言いつくろうことである。

 最近よく聞く会話。

 「あの映画どうだった?」
 「感動した !」
 「泣けた ! 」
 「元気がもらえた !」
 …… というような会話によく出てくる、「感動した」「泣けた」「元気がもらえた」などという言葉は、まことの意味での「豊かさ」の敵である。

 おそらく、「愛」とか、「友情」とか、「思いやり」とか、「美しさ」、「正義」といった、誰にも否定できない(だからこそ退屈な)言葉も同類である。
 それらもほんとうの「豊かさ」とは相容れない言葉だ。

 「豊かさ」とは何か。
 それは、人が簡単に納得してしまうような “退屈な言葉” がまったく通用しないものと出遭うことだ。

 1960年代に流行っていたヨーロッパの “難解系” 映画には、みなそのような「豊かさ」があったと思う。

 
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カテゴリー: 映画&本   パーマリンク

美しい不条理 への5件のコメント

  1. Milton より:

    じつは、町田さんのブログを知ったきっかけは、アントニオーニ映画の批評(《 昔の映画の現代的鑑賞法 15 》「赤い砂漠」 )でした。

    その内容から、町田さんのたしかな審美眼を感じ取ることが出来たし、それから町田さんのブログに注目するようになりました。つい最近の話です。

    今回ブログに書かれてある内容には、ほとんど賛成なのですが、私が気になったのは「映画監督のベルイマンにとって、ほんとうは「神」などどうでもよかったのかもしれない。」という部分です。私の考え方は(大いに理解できるのですが、)少し違っていて、彼の父親が牧師(おそらく、ルター派)であることに注目しています。

    まず、プロテスタントは告解(カトリック: ゆるしの秘跡)に対して、「プロテスタント教会では罪の告白という言い方がされる。プロテスタント教会では、一般にサクラメント(礼典)とは認められておらず、また義務もない。」のです。

    つまり、罪を牧師に告白しても、ゆるしの秘跡にはなりません。なぜなら牧師は、カトリックの神父(聖職者)とは違った立場にあるからです。なので、マックス・ウェーバーの本ではないですが、プロテスタントはかなり内面的な禁欲(自己規律)が問われます。

    それと、今回のブログで町田さんが書かれていたことにも関連するのですが、「予定説」を調べていただくと、プロテスタントが、「崇高なものとはいうのは、人間が激しい雷や巨大な渓谷のように、圧倒的な何かを見て、呆然自失のまま、怖いとか、美しいと感じるときに現れるものをいう。つまり、相手があまりに大きくて自分とは比較できないときに感じるもの」と、どう向き合って
    きたかを理解する一端になるのではないのかな、と思っています。

    なので、ベルイマンの「神の沈黙」は、私にとっては自然な展開です。ただし、私が西洋人なら、もっと実感としてベルイマン映画に入り込めるのでしょうけどね~。

    なんであれ、これからも町田さんの映画批評を、楽しみにしています!

    “Film as dream, film as music. No art passes our conscience in the way film does, and goes directly to our feelings, deep down into the dark rooms of our souls.”

    ― Ingmar Bergman

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      びっくりです ‼
      Milton さんが、キリスト教の神学体系にこんなにお詳しいとは !

      私は、カトリックとプロテスタントの教義の違いもほとんど分からず、ましてやルター派とカルヴィン派の違いなど、ほとんど知識を持ち合わせません。
      だから、Milton さんにプロテスタントの「告解」の位置づけを教わり、非常に勉強になりました。

      要するに、ルター派の牧師の父親に育てられたベルイマンは、キリスト教の教えとして、非常に内面的な自己規律を強いられながら成長してきたということなんですね。
      そのことが、やはり作品に反映されていると。

      分かる気がします。
      例えば、塩野七生氏の描くイタリアのカトリック聖職者や信者たちを見ると、(ボルジア一族のように)、信仰と自己の欲望をデジタルに切り離して生きてきたように感じます。

      しかし、厳格なプロテスタントとしての教育を受けたベルイマンの場合、信仰と欲望のせめぎ合いの中で格闘してくると、欲望の強さが増せば増すほど宗教的・倫理的な自己処罰の激しさも増してきますよね。

      一方、その自己処罰の力によって欲望を押し殺してしまえば、いっときは平安が訪れるかもしれませんが、しかし灰の中で炭の種火が消えないように、何かの拍子にわき頭をもたげてきた欲望は、今度は身を亡ぼす業火のように燃え盛ってしまい、消すことができない。

      『沈黙』 とはそういう映画だったんですね。
      本来は一人の人格のなかに現れる「欲望」と「自己処罰」を、分かりやすいように、姉妹という象徴的な二人に分けて語って見せたということなんでしょうね。

      素晴らしいですよ。
      Milton さんの解説で、『沈黙』のテーマがようやく分かりました。

      つまり、「難解であること」、それがそのまま「良い」というわけではない。
      難解に感じられたときに、やはり、そのテーマに肉薄していく努力が大事であると。

      最後は “教養” ですかね。
      たとえば、カトリックとプロテスタントの教義の違いをさりげない基礎知識として持っている、といったような。

      “難解なもの” を読み解く力やチャレンジしていく気力を生むものは教養なんですね。
      いつも勉強になります。
       

      • Milton より:

        いえいえ、私の神学的な知識など、まだまだ未熟です。ただ、西洋文明とは「主義の闘争(資本主義、共産主義、新自由主義、フェミニズム、etc)」であり、理性を大変重んじる文明であると勝手に解釈しています。

        なので、この理性の枠組みからドロップアウトすると、神経をすり減らして心の病を患ってしまいかねません。だから、あらためて仏教の教えである「空・縁起・無我・無常」といった概念の凄さを実感する次第です。

        ちなみに、宗教改革(16世紀)から啓蒙主義の時代(17世紀後半 ~ 18世紀)を経て、どんどん強力になっていく「理性の枠組み」が、人々の「告解」の在り方を教会から精神分析学の世界へと変換していったのではないかな?と推測しているのですが、実際そこまではよくわかりません。西洋人ではないので(笑)

        町田さんが書かれていた、「『沈黙』 とはそういう映画だったんですね。本来は一人の人格のなかに現れる「欲望」と「自己処罰」を、分かりやすいように、姉妹という象徴的な二人に分けて語って見せたということなんでしょうね。」の部分は、私も、なるほど!と膝を打つような思いでした。たしかに、言われてみればその通りですよね。

        以前、(もし間違えてたら申し訳ないのですが)エッセイストの中野翠さんが、ベルイマン映画の「深刻さ」を非難していた記事をだいぶ前に読んだ記憶があるのですが、個人的にはそれは本当に勿体ないなと思いますね。

        やはり、ベルイマンには凄まじい内面の葛藤があったはずだし、その点に関してもっと私も肉薄していきたいです。

        • 町田 より:

          >Milton さん、ようこそ
          相変わらず鋭いところを衝かれますね !
          ≫「西洋文明とは、主義(資本主義、共産主義、新自由主義 … )の闘争の歴史」。

          まさにその通りだと思います。
          たぶん、それは他者(他神)の存在を許さない一神教の伝統も少なからず影響しているのではないでしょうか。
          ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教もすべて究極の形として、他者に対して非寛容を貫く “原理主義” を持ってますものね。
          原理主義的な主張がぶつかり合うようになると、もう収拾がつかないということになります。

          西洋の “イズム” は基本的にキリスト教的な原型を持っていて、たとえば共産主義などはまさにキリスト教の構造そのものをなぞっているようなところがありますよね。
          たとえば、労働者と資本家という「神と悪魔」のような対立軸を根幹に置き、信者は絶えず “永久革命” としての自己変革を迫り、目指すべき理念として、「最後の審判」のような終末論的ユートピアを持っている。
          その思想的渦中に放り込まれると、おちおち寝ていてはいられない気持ちになるでしょう(笑)。
          こういう過酷なダイナミズムが、西洋近代を押し上げていく原動力になったのでしょうね。

          で、「告解」と精神分析の関係。
          これも面白いご指摘でした。
          フロイトが発見した「無意識」とか「深層心理」などといったものも、Milton さんがおっしゃるように、宗教的な「告解」が精神分析の世界に変換されたものかもしれません。

          何かで読んだことがあるのですが、人間の「内面」というものは、そもそも最初から人間に備わっているものではなく、「告解」という “制度” が確立されたあとに、「告解すべき内面」というものが事後的に作られたという話を聞いたことがあります。

          ホントかなぁ … とも思うのですが、「告解すべき内面」というものが成立した頃に、ちょうど近代文学が生まれてきたことを考えると、そういう考え方も、あながち間違っているとはいえないのかもしれません。

          フロイトが精神分析学で「深層心理」というものを発見したタイミングと、探偵小説の主人公であるシャーロック・ホームズが “真犯人” ということを言い出したタイミングはぴったり合うそうですね。
          これにマルクスの政治・文化を支える “下部構造” の発見を重ねると、19世紀末~20世紀初頭というのは、表に現れてくる現象の裏側には、必ずその現象を背後から支える「深層=真相」があるという考え方が広まってきた時代といえそうです。

          エッセイストの中野翠さんの件、確かに、 “もったいない” という感想がいちばん合っているかもしれません。センスのいい物書きさんなんですけどね。
          しょせん日本という閉域を超えられない方なんでしょうね。
           

  2. Milton より:

    追記。「予定説」に関して、より平たく言えば、「崇高なもの」との向き合い方と言っても良いのかもしれません。ただし、これはジャン・カルヴァン(派)の神学思想なので、プロテスタントで大きく括るのは問題なのでしょうけどね。

    その点が、ベルイマンにどう影響を与えたかは、私も気になります。

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