パク大統領とマリー・アントワネット

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 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領への批判集会は、いったいどこまでエスカレートするのかなぁ、と思って、ずっと報道を見ている。

 ニュースの画面を見ていると、反パク・クネの集会には歌があったり、踊りがあったりして、まぁ、お祭りのような騒ぎ。
 古代の政治を「まつりごと」といったけれど、政治に参加するということは、まさに「お祭りに参加する」ことであったということが、よく分かるような気がする。

 それにしても、パク大統領というのは、どんな悪いことをしたのだろうか。

 その親友といわれる崔順実(チェ・スンシル)という人はほんとうに悪い人で、韓国の国民が怒り心頭に発するのもよく分かるのだが、パク大統領の方は、その親友といっしょになって私腹を肥やしたり、横暴に振舞っていたという印象がなぜか薄いのだ。
 むしろ、崔容疑者に操られ、いいように利用されていたという感じである。

 だからこそ、国民の怒りが収まらないのかもしれない。

 国民が怒りを感じる権力者というのは、必ずしもその権力者が狡猾で、腹黒で、残忍であるとは限らない。

 逆に、無知で世間知らずである方が、よけい民衆の怒りを買うことがある。
 「こんな無能なリーダーに統治されていたのかよ !」
 という怒りだ。

 ちょうど、フランス革命のときに、マリー・アントワネットとその旦那さんのルイ16世が民衆の怒りを買ったときがこれに当たる。

 「アントワネット様、いまパリでは民衆がパンを食べられなくて困っております」
 と臣下の者に言われても、
 「あら、パンが食べられなければケーキを食べればいいのに」
 と頓珍漢なことを言ってしまったマリー・アントワネットは、その発言だけで、もう断頭台で首をはねられる運命を手に入れた。

 もちろん、マリー・アントワネットが、実際に上記のような発言をしたという記録は残っていない。誰かの創作だといわれている。
 しかし、彼女の場合は、そういう発言がまったく違和感なく聞こえるような暮らしをしていたことが宮殿の外に漏れたのだろう。

 パク・クネという人の謝罪会見も、どこか民衆の感覚からズレているような雰囲気がある。
 本人にとって相当な政治危機が訪れているはずなのに、他人事を語るように、表情がどこか涼し気なのだ。

 その表情を見ているうちに、
 「この女性は、政治家としてもっともらしい発言を続けてきたけれど、普通の人間の暮らしというものをまったく経験することなく、ここまで来てしまったのかな」
 とふと思った。

 おそらく、彼女には、自分の置かれている立場を客観的に認知する力が育っていないのだ。その手の想像力に欠けているのだ。

 そうでなければ、謝罪会見時に、あのアルカイックスマイルにも似た意味不明の笑みを漂わすような表情など作れるはずがないのだ。

 もちろん、そういう余裕ある表情を見せたのはパク女史の必死の演技なのかもしれないけれど、そうだとしたら、これもまた判断ミス。
 上流階級のお嬢様政治家が泣きべそをかく表情を見て溜飲を下げたいと思っていた韓国の国民からすると、小憎らしく映ったはずだ。
 ここは、ウソ泣きでもして、みっともなく許しを請うような表情を作った方がホコ先をかわせたと思うのだが、お嬢様のプライドがそれを許さなかったのかな。
 
 マリー・アントワネットの場合も、自分の置かれている状況を客観的に眺める想像力に欠けていた。
 怒りに狂った民衆が宮殿に押し寄せてくるというのに、彼女とその旦那のルイ16世は、まるでピクニックに行くような気分で、逃亡用の馬車に乗り込んだという。
 だから、迅速に行動しなければならない脱出に、5時間も無駄な時間を費やしてしまった。
 それが災いして、この家族はけっきょく追手に捕まってしまう。
 
 こういう話から伝わってくるルイ16世一家というのは、きっとおっとりした人の良い人たちだったのだろう。
 庶民なら、その人の良さが愛される場合もある。
 しかし、国王の場合はそうはいかない。

 あまりにも度を越した “無垢と無知(イノセンス)” は、権力者の場合は立派な犯罪となる。
 「イノセンス」とは、「無実、潔白、無邪気、無害」などを意味するが、本来「無実で潔白」なはずのものが、どうして国王や王女の場合は「罪」となるのか。
 その不条理さが、人間の悲劇を強く訴えかけてくる。
 マリー・アントワネットとその旦那ルイ16世の悲劇は、そのもっとも分かりやすい例だ。
 パク女史の場合は、どうなるのかな。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

パク大統領とマリー・アントワネット への12件のコメント

  1. Do-daro より:

    「なるほどなあ。」と、感心しながら読ませていただきました。
    ただ私は少しだけ違う観点から今回の出来事を見ていたので、その事を書かせていただきます。

    私があの報道を見ていて、最初に頭に浮かんだのは、遠い昔のことですが、「ホリエモン偽メール問題。」で辞任され、その後自殺された民主党の永田議員のことでした。
    当時、永田議員は積極的に討論番組などに参加されていました。どんな意見をお持ちだったのかは残念ながら全く記憶にないです。ただ人のよさそうな好人物といった印象で、決して私は嫌いではありませんでした。

    ただソースを確認せぬまま、手に入れたインチキ情報を証拠として、武部幹事長に国会で辞任を要求したのではなかったか?と記憶しています。
    私はあの時の国民世論を思い出したのです。

    日本は西洋からソサエティー(社会)という概念を導入した。この前も書いたように、そこにある理念は、キリスト教における神の下の平等を土台に、時代を経て、法の下の平等に変化したものと考えます。
    ただ日本人の感性というのは、ソサエティーという概念を受け入れたからと言って「一神教由来のものではなく”世間の感覚“だなあ。」と常々感じます。”空気を読む。”とか、”和を尊ぶ“といった言葉の示す通りです。
    もちろん一神教由来の感性にも長所、短所は存在するように、世間の感覚にも長所、短所は存在するように思います。
    一神教由来の感性の短所は、おそらく善悪二元論に陥りやすい事。あるいは(個人レベルの小さな関係性の中では、本音と建て前を使い分けるのは日本人的世間の感性ですが)、(これは自信がない何となく感じていることで、間違っているかもしれませんが、)一神教的感性の弱点はバカでかすぎて気づかないくらい巨大な(例えば国際関係といった大きな)舞台で本音と建て前を使い分ける傾向にあるように感じます。(キリスト教国家を公言しながら、核兵器を保有するような部分を指します。)個人レベルを超えた巨大な本音と建て前なので、「個人レベルでは自覚がないだけ、あるいは気づかぬふりが出来るだけではないか?」と思うのです。
    結局、見え方の違いで双方本質的には同じことなのかもしれませんし、どちらの感性が優れているといった優劣をつける目的でこのような文章を書いているわけでもなく、「実際はお互いの持つ性質のよい部分をつなぎ合わせて私自身は使えれば良いなあ。」ぐらいにしか思っていません。
    こんな話を書くのには別の目的があるのです。

    では日本の“世間の感覚”の持つ短所を、どの部分に私が感じているかを書きます。
    確かにソースを確認せず偽情報で武部幹事長を追求した永田議員のやったことは罪であったのは間違いありません。
    確かに政治家は一般人に比べて、言葉や行動に大きな社会的責任を背負って当然なのかもしれません。
    でも私が不思議でならないのは、「そこまで日本中が一つの“世間”になって長期間、罵声を浴びせ続けなければならないほどの罪を、永田議員は果たして犯したのだろうか?」ということです。「功を焦った若気の至り程度の話ではなかったのか?」ということです。

    法治国家では“罪”は、それに相当する”罰“によって相殺されます。
    連日、報道で非難され、もう“罪”に見合った“罰”は十分に受けているように私には見えました。それでも、すぐに収まることもなく、国民全体が一つの世間になって、罵声を浴びせ続けるとしたら、それは私刑(リンチ)ではなかったのか?
    他にもサッカー選手のデート現場を、そのレストランで働いていたアルバイト従業員がネット配信したことに、日本中が世間(村社会)になって連日罵声を浴びせ続けたこともありました。それはもう私刑(リンチ)と呼べる質のものではないのでしょうか?

    「罪を犯した人間の行為を悪である。」ということは正しい。だから、法治の原則に照らし合わせれば、いくら非難しても反論を食らう危険はない。ただ非難というのは意見ではない。意見というのは反論を受けることもある。私は良く町田さんに反論を書くし、町田さんも私に反論を書くこともある。時にはへこまされプライドが高ければ傷つくこともあるだろう。でも正義に元ずく非難には反論がないから傷つかない。だから誰もがあたかも自分は意見を言っているような錯覚で非難を続ける。非難は楽なのだと思う。そして正義に酔える。永田議員を非難する日本という名の世間の仲間がいっぱいいて、村社会(世間)型特有の共感心理も味わえる。そのことによって罵声は終わることなくエスカレートした。
    私はこの部分は“世間の感覚”のとても醜い“負の側面”だと思っている。
    世間の感覚には災害時日本全体が一つの世間になって助け合うなど良い部分も多くあるので、醜い負の方向に世間の感覚が発動されることは残念に思う。どの方向に自分自身の内側にある世間の心理が動いたときは、注意して同調しないように気を付けたほうが良いか常に心に留めておくべきだと私は思っている。
    あれだけ日本中に顔を知られた人が、議員をやめて再就職をしようとしてもおそらく難しかったのだろう。数年後自殺された。予想された結末だと思う。私は、半分は彼を世間が殺したと思っている。私は当時の民主党の人々も何とかしてあげられなかったのだろうかと今思う。
    【永田議員という一人の人間の議員だけではなく生活する未来が無くなってしまいます。どうか武部幹事長、永田議員の肩を突き飛ばしてもかまいません。「馬鹿野郎と怒鳴りつけても構いません。」「でもこの話はこれで終わりにしよう。議員辞職してもう一度国政の場に帰ってこい。」とマスコミの前で言ってやってください。】と民主党みんなで頭を下げて頼んであげなかったのだろうか。それで世間の目も大きく変わった可能性もある。あるいは民主党議員のだれかが議員秘書として雇ってあげることぐらいできなかったのだろうか?
    武部幹事長にしても、心の広さを見せる事は決して政治家としてもマイナスにはならなかったはずだ。死なねばならないほどの罪を永田議員が起こしたとはやはり私は思えない。

    私はこう言った世間の感覚が悪い方向に発動した部分が、どうも韓国でも同じようにたびたび起こるのではないかと常々思っている。
    正義の非難がエスカレートして止まらなくなる。
    今回の韓国の出来事についての町田さんの書いた文章は、的確な分析だと思う。たぶんそうなのだろうなと思う。
    ただ私はその上に私が上に書いたような世間の感覚の負の側面がある程度重なって作用しているように見えて仕方ない。

    • 町田 より:

      >Do-daro さん、ようこそ
       Do-daro さんがこのコメントでお書きになったことは、私もまた書きたいと思いつつ、言葉として十分にまとまらなかったため、今回はあきらめた部分です。

       それを上手に整理された言葉で、適切に展開していただいたので、本文記事の足りない部分を補足していただいたような気分です。
       どうもありがとうございました。

       確かに、いま韓国の民衆の間で展開されているのは、「正義のための非難」という形を取りながら、実質的には私刑(リンチ)と呼べるようなものではないかと、私もまた思っております。
       自分の記事の最初の方に、“まるでお祭り騒ぎだ” と書いたのは、韓国民衆の行為がもう政治行動というものを通り越して、“神に生贄(いけにえ)を捧げて熱狂する” 祝祭のように感じられたからです。

       「革命」というのは、実は、「生贄(いけにえ)を要求する祝祭」のことなんですね。
       フランス革命で殺されたルイ16世一家も、ロシア革命で殺されたニコライ2世一家も、民衆の熱狂的な祝祭の中で、「革命」という “神” に捧げられた犠牲獣であったように思います。

       たぶんパク・クネ女史も、「革命的騒動」のなかで 神に捧げられる犠牲獣になりつつある。
       だから、彼女が利権誘導に絡んでいようがいまいが、国家的不正に関与していようがいまいが、もうそれはあまり関係ないのではないでしょうか。

       とにかく、“正義のために決起した” 韓国民の熱狂を完全燃焼させるための標的にされてしまったのだから、パク女史が最も悲惨な境遇に落とされるまで、この民衆の活動は止まらないのではないかという気もしています。(死刑や自殺という結果だけには至らないようになってほしいですが)

       こういう “正義の名を借りた誹謗中傷の祝祭” というのが、日本では永田議員を自殺まで追い込んだ民衆の怒りと、それを煽ったメディアの情報操作であったということなんでしょうね。

       人は、「正義」の御旗を掲げたときには、いったいどれほど敵に残酷になれるのか。また「正義」を振りかざして敵を倒すとき、どれだけ酔えるものなのか。
       今回、Do-daro さんは、この韓国の民衆デモからとても大きなテーマを導き出したと思います。

       今回、私がこのパク大統領の記事で書きたかったのは、彼女の負わなければならない「罪と罰」ではなく、彼女が背負わなければならない「悲劇」でした。
       普通の庶民ならば許される「無知」が、指導者ともなれば「犯罪」となるという悲劇。そこにマリー・アントワネットの背負い込んだ悲劇と同じようなものがあるように感じました。

       多少、大げさかもしれませんが、私はマリー・アントワネットの「無知」に「イノセンス」を感じます。
       イノセンスとは、「無実、潔白、無邪気、無害」などを意味しますが、本来なら無実で潔白なはずのものが、どうして国王や王女の場合は「罪」となるのか。
       その不条理さが、人間の悲劇を強く訴えかけてくるように感じるのです。

       本文ではそういうことを書きたかったのに、うまくまとまらなかったのですが、このコメントの返信のところまできて、ようやくまとまりました。それはDo-daro さんのおかげです。
       そこで、本文そのものも修正して、「イノセンス」という言葉を付け加えました。
       
       なお、今回のDo-daro さんのコメントで拝聴しなければならないと感じたのは、
       ≫「欧米人つまり一神教の人々は、日本人のように個人レベルの小さな領域で本音と建て前を使い分けるようなことはしないが、国家レベルのような大きな領域では平気で本音と建て前を使い分ける」
       という部分でした。

       これは面白いご指摘でした。
       確かのその通りです。
       
       もしかしたら、それが欧米の「社会」と、日本の「世間」の違いかもしれませんね。

       一神教の思想のもとに暮らしてきた欧米人は、「社会」というものは、意見も思想も異なる者同士で構成されていると幼いころから教えられてきた。
       だから、そういう人々が一度結託すると、そこにはもう本音と建て前を区別する必要がない。
       そのため、自分たちの「社会」とは異なる「社会」に対しては、もう “ヨソ者” と見なすことができる。
       だから、「本音」同士の戦いが起こる。
       さらには、いちおう「建て前」を掲げて相手を信じ込ませ、そのあと平気で相手を裏切ることも起こる。
       つまり、キリスト教的な “愛” もへったくれもなく、同じ宗教を信仰する者同士でも、平気で戦争が行える。
       ヨーロッパの近世~近代史はこれの繰り返しでしたね。

       それに対して、「世間」の中で生きてきた日本人は、いちおう同じ言語を話し、同じ文化を共有しようとする者は、すべて “仲間” として受け入れる。外国人であっても、日本語を話し、日本食が大好きという人間は、あっという間に仲良しになれる。
       そうやって、表面上の仲良しはすぐ成立するが、その表面上の仲良し状態を維持するためのルールというものがあって、それは、「とりあえずみんなが気に入っているものを尊重しよう」というもの。
       それが「建て前」。
       この「建て前」をすぐ察知できない “無粋” な人間は、「おい、空気を読めよ」とたしなめられる。
       だけど、「世間」というものは、本来は趣味も価値観も異なる者同士の集まりだから、周りの空気を無視して、あ~だこ~だと自分の価値観を一方的に主張し続ける人間が出てきたときは、「いやいや、ちょっとそれは困るよ」という形で、それぞれの「本音」が出る。

       で、欧米人は、最初から、「社会」というものは価値観の異なる者同士で構成されているという意識で生きてきたから、意見の異なる者同士は、もう最初のうちに議論やケンカを終えてしまう。
       そうやって、お互いの言い分を理解してから付き合いが始まるので、もうそこから先は「本音」と「建て前」の区別が必要でなくなる。

       「本音」と「建て前」を、さほど悩むことなく使い分けてきた日本人は、国内をうまくまとめることはできたが、ヨソの国に侵略すると、それができなかった。
       中国大陸や朝鮮半島では、もう “大東亜共栄圏” なる「建て前」は通用しなかったわけですね。「大東亜共栄圏とか言ったって、ほんとうは日本人だけが威張る国を作りたかったんだろ?」とすぐ見破られてしまった。
       そのため、大陸の日本型植民地は、あっというまに瓦解した。

       …… と、まぁ、勝手に推論してしまったのですが、どんなものでしょうね(笑)。
       Do-daro さんの定義した問題を完全に引き継ぐことができたとは思いませんが、自分は自分なりに、こう考えてみました。
       

      • Do-daro より:

        「社会性がない。」パク・クネ大統領について、町田さんの言葉を要約するならこの言葉にあたる解釈の部分が一番しっくり私にはしみ込んできました。おそらくこの印象は正しい。まったく対立する意味ではないのですが、私の印象は、お嬢さんかどうかはともかくとして、何となく人との関係の中を生きて来なかった?(来られなかった?) 人生が作り上げた人の顔?表情?をTV画面から垣間見た気持ちになりました。私の印象は、マリー・アントワネットの愛らしさ(イノセンス)とは少しだけ違うのですが、(何となくもっと頑なに心を閉じている要素を含むというか。)マリー・アントワネットの持つ庶民性からかけ離れているが故の生贄的イメージの部分で強く共感できました。
        ある程度、生い立ちを聞いているので先入観もあるのでしょうが、たぶんこの人、表舞台に立つまで、今までも一人きりで、一日中こんな顔をして生きてきたのかもしれない。と、私は何だか見ていて痛々しく感じてしまうのです。
        涼し気なのかなあ?「アルカイックスマイル。」私の感覚には、その言葉がドンピシャ!
        「そろそろリンチは終わりにしてあげようよ。」といった気分になります。
        彼女の心はたぶんもう牢屋に入っている気がします。おそらく今後一生、誰もこじ開けることのできない牢屋に。その場所に彼女の心はあまりに馴染んでいるから涼し気に見えるのかも?穏やかだけど消え入りそう。

        TVでパク大統領について、いろいろ解説を見たけれど、一番しっくり来たのは、町田さんの文でしたよ。

        一神教由来の本音と建前について解説してくださってありがとう。何となく感じているぐらいで、自分の中でうまく構造理解できてなかったのでとても勉強になりました。
        >欧米人は、最初から、「社会」というものは価値観の異なる者同士で構成されているという意識で生きてきたから、意見の異なる者同士は、もう最初のうちに議論やケンカを終えてしまう。その通りと思います。
        >さらには、いちおう「建て前」を掲げて相手を信じ込ませ、そのあと平気で相手を裏切ることも起こる。
        何となく思っていたことをうまく言葉にしていただいてすっとしました。さすがです。

        ただ、それ以外にも、もうちょっと何かありそうな気がするのでもう少し探ってみようと思っています。例えば「核保有が許される国と、許されない国。」これって実際は“差別”ですよね。あるものを“差別”と呼び、そのように呼ぶと都合の悪いものを違う呼び方する。こういった巧みさはどこから生まれるのか?今、興味を持っています。またその言葉に反論もなく一般社会が受け入れる理由も私には不思議です。何も考えてないだけですかね?その心理を丁寧に追いかけてみたいと今は思っています。
        大量破壊兵器といった呼び方。大量虐殺兵器では保有国の胸が痛むのでしょうが、巧みに仕組まれた言葉の世界を私たちは生きているような気もするのです。これが人々の心に建前を気づかせないように遠ざけている部分もあるように思います。いろいろ考えてみます。
        また何か思いつかれることがあれば是非教えてください。
        町田さんなら【巧みに仕組まれた言葉の世界。】で一本文章をかけそうですね^^

        • 町田 より:

          >Do-daro さん、ようこそ
           パク・クネ女史に対する印象について。まったく同感です。
           ≫「(彼女は)人との関係の中を生きて来なかったという人生が作り上げた顔ではないか」
           というDo-daro さんの観察は、たぶん当たっていると思います。

           そういった意味で、ほんとうに可哀想な人かもしれない。
           親戚・姉弟との関係を絶ち、結婚もせず、しがらみのない生活をしてきたのだから、国政に関しても私情を挟まない公平な判断を下せる、と彼女は思い込んでいたのでしょうね。
           ところがドッコイ!
           家族でも親戚でもないただの友人の女性に、いいように操られていた。
           
           問題は、いわば友人に裏切られたに等しいのに、このパク・クネ女史はその痛みを感じていないのではないかと思えるところにありそうです。Do-daro さん流にいえば、≫「頑なに心を閉じて生きてきた」ために、人間の狡さ、優しさ、怖さに気づかない人生を送ってきたのかな、… という気もします。
           
           ≫「そろそりリンチは終わりにしてあげよう」というDo-daro さんの気分にも同感です。
           テレビを観ていると、弾劾が可決になって涙を流して喜んだり、狂喜乱舞して地面を飛び跳ねている人たちが映っていましたが、なんだかすごい違和感を感じました。そこに国民性の違いもあるように思いました。

           で、核保有を実現した先進国が、自分たちのことを棚上げして、途上国の核保有を禁止するという身勝手さについてDo-daro さんが言及されていましたが、これもほんとうにおかしな話ですね。まさに、大国の身勝手さですよね。

           ただ、そういう “差別” の実情があるからこそ、逆に北朝鮮などの途上国はなおさら核保有にこだわるのではないでしょうか。
           なぜなら、それが「先進国」の仲間入りを果たしたことの証明になるわけだから。

           だから、核保有先進国は、遅れてきた核保有国に対し、「俺たちに追いつくなよ」と警告することで、逆に競争意欲を煽っていることになりますね。
           
           「大量破壊兵器」というのも、おかしな言葉。
           「駆けつけ警護」とかもそう。
           軍事に関係する最近の政治用語は、まさに本性を隠して煙幕を張ったような言葉ばかりですね。
           民間企業が軍事産業に技術協力することを「技術のデュアル・ユース」とかいうらしいのですが、ソフトな言葉を使って、危険な内容を隠ぺいしようとする風潮にはなにか “いかがわしい” ものを感じます。
           

  2. Do-daro より:

    ちょっと最後の部分で気を抜いて伝えるつもりのことが誤解されそうなので追加しておきます。永田議員とパク大統領では職責の重要性も違うし、問題の大きさも違うと思ってます。辞任もこれでは致し方ないと思いますし、おかしな癒着は解明しルートは解体できるといいなあと思います。韓国民の気持ちはわからなくもないのですが、正義の名を借りた、中傷的非難の暴発という構図はそろそろ日本でも、韓国でも無くなってほしい気分があり書いてみました。「退任後の大統領が自殺したりするような状況にはそろそろ終止符を打ってほしいなあ。」とは思います。

    • Do-daro より:

      何となく喉に小骨が刺さったような、書ききれてない違和感があってこの文章を追加したのですが、やっぱりうまく書ききれていませんでした。
      ただ、ようやく、そのもやもやを言語化できたので、追加しておきます。

      「韓国国民の気持ちもわかる。」「でも、パク大統領批判はもういいだろ。」
      何となく矛盾した気持ちがあった。
      では、ここに書いた、この「気持ちはわかる。」は、何を言いたかったのかを書きます。

      簡単に言えば、「韓国って、しょっちゅう大統領が、退任後つかまったり、ひどいときは自殺したり。」を繰り返している。
      人の国の政治に偉そうに意見できる立場ではないが、あえて書くなら、「それって政治に透明性がない。」といった、「一部ではシステムの問題でもあるのではないか?」とも思う。もちろん基本は個人の資質などの問題なのだろうけれど。
      政治が国民のものであるためには、政治の透明性や、行き過ぎを是正する何らかの法制化なども必要だと思う。
      【どうせ韓国も村社会型、共感パワーから切り離せないメンタルがあるなら、もうパク非難にそのパワーを向けるのをやめて、怒りの矛先を、幾度となく繰り返される不正や、癒着、様々な権力の政治介入、「こういった事が防止できないシステムを是正しろ!!」といった韓国政治(社会)の建設的な改善要求の部分に向ければいいのに。】と思う。

      いま韓国の大統領以外の政治家の頭の中にあるのは、おそらく次の政権のことで、「どのように行動すれば、今後自分たちが実権を握れるか?自分が再び当選できるか?」ではないかと思う。これは本当に韓国国民が政治家に今考えて欲しいことなのだろうか?

      むしろ国民がパク大統領に要求することは即時辞任ではなく、「もうこういった不正は二度と起こらない制度作りをパク女史が大統領という巨大な権力を利用できる退任までの時期に行え。」「自分のケツぐらい自分で拭いてから退任しろ!」ということ。怒ってもいいけれど、怒り方の方向性がずれている。
      パク大統領の今語るべきことも、「不正が二度と起こらない。起こそうとしても不可能な透明性のある制度作りを、贖罪の意味も込めて行ってから退任します。」ということではないか?

      これは同時に日本社会においても同じような出来事が起こるたびにいつも思うことです。例えば野々村竜太郎議員の号泣会見だとか。
      せこい悪事をいつまでも非難していじめていても仕方がないわけで、何故「制度に不備があるなら是正しろ!!」といった方向に共感パワーを使わないのか?と私はあの時思った。
      やっと言いきれてすっきりしました*笑*ようやく終わり^^

      • 町田 より:

        >Do-daro さん、ようこそ
         韓国政治のシステム的な問題について、なかなか鋭いご指摘であるように思います。
         おっしゃるとおり、本来ならば市民は「政治の不正」や「政権の周辺にいる人たちの利益誘導」、「企業との癒着」などに怒りを向けなければならないはずなのに、あたかもパク・クネ大統領個人が悪者であるかのように糾弾している。
         私もまたそこに、怒りの方向性がズレているものを感じます。

         たぶん、デモに参加している民衆は、巨大になりすぎた財閥支配の構造、格差社会の拡大といった大きな問題が、もう解決不可能なところまで来ているという諦めを持っているのではないでしょうか。

         確かに、巨大財閥はますます民衆支配を強めて、格差拡大を進めている。しかし、今の韓国経済はそういう財閥に支えられているために、悔しいながらもそれをつぶすわけにもいかない。
         そういう韓国国民のジレンマが、パク大統領への個人攻撃に収れんしていったという感じもします。
        、、
         それともうひとつ。
         今回、韓国政治のワイロ体質がますます明瞭に浮き彫りになりましたね。
         このワイロが横行する政治体質というのは、東アジア特有のものであるらしく、古くは中国の政治から始まり、東南アジア、韓国と広まっていきました。

         その東アジア諸国のなかで、唯一、そのワイロ体質にそれほど強く染まっていない国が日本だそうです。
         作家の司馬遼太郎氏は、その理由を「武士というきわめて特異な集団が日本の統治を担当した時期が長かったから」と言っているようです。

         中国も韓国も官僚国家ですよね。
         官僚というのは、基本的に試験に合格した者がなるものだから、一度合格してしまえば、その後の自分の使命というものにそれほど責任を持つことがない。

         一方、日本の武士には、幼いころから「世間に恥をさらすな」という倫理観を刷り込まれてきたから、ワイロを取ることを恥じる気風がある。
         この「世間に恥をさらすな」といういましめを、坂東武者の間では「名こそ惜しけれ」というそうです。

         司馬遼太郎によると、同じ東アジア諸国の政治でも、そこに日本と他国の違いが出てくるという話でした。
         もちろん、それだけですべて説明できるものでもないでしょうけれど、聞いていて、なるほどと思いました。
         

        • Do-daro より:

          あはは。町田さんと私は西洋社会で出会った段階で、バチバチ議論し、お互いの認識を深める段階ですね*笑*
          でもこれを避けると信頼なんてもの育たないと思う。

          これはちょっと私と考えが違うかな?
          >たぶん、デモに参加している民衆は、巨大になりすぎた財閥支配の構造、格差社会の拡大といった大きな問題が、もう解決不可能なところまで来ているという諦めを持っているのではないでしょうか。

          まあこのことは、数日前に私も書いていますね。
          『「金持ちのための国。ヘル朝鮮。」と韓国人は自国を呼んでいます。ただ、これらの大企業が無くなると韓国企業の屋台骨が崩壊する。破たん国家に転落することも彼らはわかっている。』とも書いている。

          ただワイロ体質、同族経営などの韓国企業の持つ負の体質はどこかで変換を図らなくては企業の未来もない。だいたい三代目は身上を潰すということわざがある。まあ適当なことを言っていることわざですが、一理はある。一代目の苦労を知らないからという意味だけではなく、三代目に変革の意思があってもすでに出来上がったシステムに慣れた従業員が、変革について来ない。というのもある。新たな体制なら受け入れるしかないですからね。

          日本企業などは、例えばカーボンファイバーを開発しても、まず何十年にも及ぶ使用実験の中で、その強度が理論的に導き出されたデータと合致するかを検証する。
          釣り具、ゴルフのクラブなど折れることがあっても、被害が大きく及ばない分野から検証する。カーボンファイバーが飛行機などに採用されるのは、何十年にも及ぶ使用実験の後。もちろん買う側にもそれだけの慎重さがあるから、必然的にそうなるのですだけど。

          ただ新興国企業はその労力を省く。だからスマホの爆発などが起こる。中国で言えば、ちょろっと作ったリニアモーターカーをすぐ実用しているが、安全性実証実験を長期行って来たとはとても思えない。これをしていると、大きな事故が起こる可能性もある。リコールで企業がつぶれる可能性だってある。

          もちろん日本も昔はそうだったわけで、例えば新田次郎の小説に、山で登山者が転落事故を起こすものがある。あれは引っ張る力には、やたら強いが、山肌などの鋭利な部分に触れるとスパッと切れる繊維で作ったザイルによる実際日本で起こった事故をもとにしている。実証実験が足りなかったのだろう。
          日本は逆に慎重すぎて、あるいは不必要な多機能を目指しすぎてダメになってきた部分もある。
          どちらにしろ体質の負の部分を変えられない変われない企業はいずれつぶれますよ。企業年齢なんて本来そんなに長くないですから。

          大企業が崩壊することと、ワイロ体質などを是正することは必ずしも同じではない。

          私はそこまで深読みする必要はないと思いますよ。
          単純に、パク大統領事件の場合、正義の非難に熱中しすぎて、その背景にある、韓国社会の構造的本質の改善に思いが至らなかっただけだと思いますよ。
          でなければ、野々村竜太郎元議員の文書交通費不正使用の説明がつかない。文書交通費の厳密化の法制化を、訴えたって企業もつぶれなければ、議員が飢え死にするわけでもない。野々村竜太郎元議員に向けられるリンチと同じ大きさで、国民が厳密な法制化に向けて大声あげてていれば、簡単に状況は変わったと私は思う。
          韓国だって誰かが声を挙げれば状況は変わっていたかもしれない。
          韓国はようやく「金持ちのための国。ヘル朝鮮。」という言葉を誰かが話し、共有できた段階。実感からずれたものでなければ、共有する意識を持ってくれる人は生まれますよ。
          圧倒的に事件の裏にある構造的本質について言葉を発する人間の数が少なすぎるだけではないでしょうか。

          >ワイロについて。
          まあ「島国だから。」ってことかなあ。内と外がなかったから政治というものが内だけ見て進行した。これは大きいと思いますよ。内敵の統治の仕方だけ考えればよかった。
          武士そのものは少数ですからね。戦国時代の武士はおそらく威張り散らしていた。でも島原の乱のようなものが起こって、威張り散らしていたらとんでもない反撃を食らう事に気づいた。民衆は圧倒的多数で、封建時代は現代ほどの、体制側と民衆の間の武力格差も存在しませんから。奴隷のように扱えば反乱で簡単に武士中心社会はつぶされてしまう。そこで、農民などからも尊敬されるような武士心得のようなものが生まれるに至った。「武士はこうあるべき。」という考えをシステム化した訳です。
          この考え方は歴史秘話ヒストリアを見ていると、学者さんたちが、現代の歴史学者の認識として伝えていました。私も以前から思っていたことなので、学者の意見に対しずれを全く感じなかった。

          アジアのワイロについては知識がなさ過ぎて何も言えない。ただ、すべてを説明できないけど、植民地支配の名残りという気もするなあ。植民地時代、良い生活をするということは、支配者国の側に立って、うまく立ち回ることを意味する。ここら辺の“小狡さ”が勝ち組の条件だった名残りが今まで残って来たんじゃないですかね?

          • 町田 より:

            >Do-daro さん、ようこそ
             今回のDo-daro さんからのご意見を承り、一つ気づいたことは、韓国というのは、政治においても企業形成においても、まだ “若い国” だったということですね。

             企業形成において “若い” ということは、たとえば日本企業のカーボンファイバーの開発とそれを商品化していくまでのプロセスの違いということから教えていただくことができました。
             サムスンのスマホが焼けてしまうという事件は、ある程度その企業の “若さ” で説明がつく。
             すなわち、後発で歴史も浅いがゆえに、日本などの先進家電メーカーに「追いつけ追い越せ」を急ぎ過ぎてきた結果であるということなのでしょう。

             また、政治が “若い” ということは、日本に統治されていたり、軍事政権が主導的役割を果たすことが多かったりして、民主政治の歴史が浅いということがいえるような気もします。
             国民の “反パク・クネ” 運動が見せたあのナイーブな熱狂ぶりも、民衆が政治に対して “若い” 情熱を傾けることができる状態にいることを示すものなのかもしれません。

             「韓国の政治が若い」という理由をさらにいえば、日本のような島国であることと、半島であることの違いがあるかも。
             朝鮮半島は、中国大陸とは地続きのために、常に中国の文化的影響や政治的影響を受けてきたわけですよね。
             その分、常に中国大陸の歴代の大帝国の影響をストレートに受けざるを得ず、なかなか朝鮮半島固有の政治思想や政治体制を確立する余裕が持てなかった。
             そういうことも多少影響があるような気もします。

             逆にいうと、日本が大陸の歴代帝国の圧力をさほど受けることなく、独自の政治体制や文化的風土を確立できたのは、もちろん島国であったという地理的条件が大きかったことはいうまでもないことですが、本来ならば日本まで侵食しておかしくはないはずの中国帝国の圧力を、半島の朝鮮が食い止めてくれたから、という言い方もできるかもしれません。

             中国帝国も、朝鮮半島を政治的・文化的に薫陶している間に疲れてしまい(笑)、日本まで手を伸ばそうという気力を失ってしまった(笑)。
             そういうこともあるんじゃないでしょうかね。

             唯一、元寇のときだけは、さすがに中国帝国の日本侵略をその時の朝鮮王朝も拒みきれなかった。
             元寇のときの朝鮮の高麗政権は悲惨だったようです。
             日本に渡る艦船をすべて作らされ、そのために山林は枯れ果て、多くの朝鮮兵が駆り出されて、彼らにしてはやりたくもない戦争に引っ張り出されたわけですからね。

             すいません、また余談でした。
             とにかくDo-daro さんのコメントで、勉強させてもらっています。
             ありがとうございます。
             

  3. Get より:

    お邪魔します。

    いろいろな視点から勉強させていただいてます。

    Ga! 
    しかし! 
    簡単に言えば!
    日本国民一億超、単なるですねぇ。 

    ”村社会” 

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      海外で暮らしていらっしゃるGet さんらしい一言だと思います。
      “村社会” 。
      日本がこのような村落共同体の意識で統一されてきたのは、やはり単一文化、単一民族、単一言語で統括される島国であったということなのでしょうね。
      日本は基本的にアメリカに占領されるまで、他国の支配を受けたことがない。そのため、西洋文化圏はもとより、隣の大陸や半島の人々のように、<社会>=「異なる価値観の人々が同居する世界」というものを知らずに来てしまいました。
      それが、日本が “大きな村” である理由かな、などと思う次第です。
       

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