芸術としての音楽は消えていく

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 人々の音楽の聞き方が変わってきている。
 もうかなり前から、そう思っていた。

 うまい言葉が見当たらないのだが、少し難しい表現をすると、「音楽文化の相対的な価値が下がってきている」ということなのだ。
 つまり、音楽が「知性とか教養を育むための芸術」という役割を終え、単なるBGMとして消費される時代が来たといえばいいのだろうか。

 かつて、… まぁ40年ぐらい前までは、映画、アート、文学、演劇などという文化的娯楽のなかで、音楽の占める位置も大きかった。
 音楽好きの若者たちが集まって、自分の好きな音楽やアーティストに熱い思いを寄せ、時間が経つのを忘れて音楽談議にふける光景などをよく目にしたものだが、今は(たぶん)若者の間では、音楽をテーマに議論するなどということもほとんどなくなっているのではないか?

 そういう状況を反映してか、「音楽評論家」という人たちが姿を消した。
 一部、クラシックとかジャズなどという分野ではそういう人たちがまだ活躍する場が残っているのかもしれないが、少なくともポップス( … の中でも特にJ ポップ)批評で商売している専門家などほとんど見当たらない。

 リスナーの音楽の接し方も変わった。
 それまで音楽ソースのメインであったCDが市場から消え、いま音楽はスマホの音楽配信かYOU TUBEで聞く時代になった。

 CDは売れなくなったが、代わりにミュージシャンのコンサートやライブ活動などは、昔と比べものにならないほど盛んだという。
 だから、CDから得られていた音楽収益は、今はライブの入場料やその会場で売られる人気アーティストのグッズ類が補っているとも。
 つまり、産業としての音楽は、けっして衰えていないということらしい。

 でも、このような傾向をすべてをひっくるめて、いま起こっているのは「音楽のBGM化」ではないかと、私は思っている。

 ライブというのは、リスナーとミュージシャンのコミュニケーションを密にするものだと思われがちだが、最近のライブはショーアップ傾向を強める反面、曲そのもの価値は相対的に下がっている。

 特に、観客動員数の多いコンサート会場は、音楽会というよりサーカスの会場というおもむきを深めている。

 そういうライブ会場での主役は「曲」そのものではなく、主役はまず歌手たちであり、次に音響効果であり、振り付けなどの演出であり、出演者たちのトークであり、ライティングであり、ときにダンスであったりする。
 そういうショー全体を彩るBGMとして「曲」があるにすぎない。

▼ AKB48のライブでは、「歌=音楽」は完全に彼女たちのパフォーマンスのためのBGMとして機能している

 
 このような音楽のBGM化に対して、「若者が音楽に求めるものが変わっただけ」という人もいる。
 
 「“誰のどういう音楽を聞くか” ということよりも、“どんな状況で音楽を聞くか” ということの方が大事で、そういうニーズを満たすように今の音楽配信システムも編成されている」
 というのだ。

 たとえば、スマホの音声入力機能を使って、「ドライブに適した音楽」などと検索すれば、たちどころに、それに見合った音楽がピックアップされてくる。

 この前、そういうことを試しながら、少し遊んでみた。
 確かに、便利ではある。
 「静かな癒しの音楽」、あるいは「テンションMAXの音楽」などとリクエストすれば、いちおうそれらしき音がチョイスされてくる。

 なるほど。これが音楽の新しい楽しみ方か … とも思った。
 これなら、どんな環境にいても、それに合わせた音楽が瞬時に取り出せる。
 
 通勤・通学中の電車の中。
 恋人と海水浴に行った海岸。
 職場や学校の昼休みのデスク。
 家族とドライブに行った湖畔の駐車場。
 人と待ち合わせるときの駅の改札口。

 どこでも、スマホにイヤホーンを接続した場所が、“リスニングルーム” となる。
 だから、どんな状態でも音楽が聞ける。

 歩きながら。
 食べながら。
 人と話しながら。

 要は、音楽の完全BGM化が進行しているわけだ。
 そのこと自体を批判するつもりはないが、私には個人的な違和感がある。

 私(60代)たちのような、レコードやCDという再生装置を使って自分の選んだアーティストの曲を自分の部屋で聞くことを繰り返してきた世代は、お仕着せの音楽をあてがわれて満足するという習慣がない。

 レコードやCDという固定的な再生装置で聞いていた音楽は、リスナーとアーティストの一対一の緊張を強いる要素があって、一つの肉声、一つの和音、一つの楽器操作そのものに触れたときの “対話” があった。
 そういう対話を通じて、アーティストたちの生きざまが浮かび上がり、そこから教えられるものも多かった。

 ただ、そういう音楽の接し方に固執はしない。
 私自身はそのようにして音楽を聞いてきたが、今の若い人たちは、そういう精神修養のような音楽との接し方に堅苦しさを感じて引いてしまうという気もする。

 たぶん、音楽を気楽なBGMとして生活の中に取り入れるスタイルは、もう止まらないだろう。
 また、それが本来の音楽との接し方であるかもしれないのだ。

 そもそも音楽の成り立ちからいって、最初は、神との交信を行うための祭儀のBGMであったはずだ。 
 やがて、王侯貴族の酒宴のBGMとなり、庶民の勤労のためのBGM(労働歌)となり、教会の敬虔な空気を演出するBGM(ミサ曲)となり、ときに軍隊の威容を誇示するときのBGM(軍楽)となったりして、音楽は人々の暮らしの中に浸透していった。、

 BGMは「アート」ではない。
 だから、昔は音楽家を「アーティスト」などと呼ぶ習慣もなかった。
 バッハは教会でミサを行うときに背後で流すBGMをつくる職人であったにすぎず、モーツァルトは貴族の楽しむオペラや食事時のBGMを作る職人でしかなかった。
 
 「俺は職人ではなくアーティストだ」と言い出したのは、ようやくベートーベンからである。

 だから、音楽が、文学や絵画、演劇などと肩を並べて “芸術” の仲間入りしたのは19世紀から。
 そして、それがリスナーの人生観やら世界観にも影響を及ぼすようになったのは、ようやく20世紀からだといっていい。

 そこに至るまでに何が起こったのか?

 音楽が「文化」として認められるようになったのは、先進国を中心に裕福な近代的家庭が生まれ、それぞれの家庭が、子供に勉強部屋ともなる「個室」を与えるようになったからではないか? と私は考えている。

 「個室」と「レコード」のような音楽再生装置は、いったいどういう関係にあるのか。

 「個室」とは、基本的に他者が干渉することのない、自分だけに約束された自己完結型の空間である。
 こういう空間を手に入れることによって、近代人の「内面」というものが確立されていったのではないか、と私は思う。

 実際に、上流階級の子弟の間に、読書という習慣が定着したのも、近代家族の住居内に「個室」という空間が作られてからである。

 レコードという音楽再生装置は、その「個室」を手に入れた近代人を直撃した。
 そういう空間では、誰もがたった一人でモーツァルトや、バッハや、ベートーベンと向かい合うことになる。
 そこには、ライブ会場にいるときのように、他人と共有し合う情報がない。
 ということは、逆にいえばリスナーがどのようにモーツァルトを聞いてもまったく自由なのだ。

 こうして、人間は一人で読書をするような時間を、音楽に対しても持つようになった。
 それは、言葉をかえていえば、「音楽」がようやく「文学」や「哲学」と並ぶような精神性を持ったことを意味する。

 そのような一つの例として、日本では小林秀雄の「モーツァルト論」がある。
 小林秀雄は、モーツァルトの音楽を、まさに “文学” として語った。
 モーツァルト論として小林が取り上げた交響曲第40番ト短調は、演奏会で聞いたものではなく、まさにSPレコードで聞いたものではなかったかという研究が今日あるらしい。

 小林秀雄のモーツァルト論に触発されて音楽評論を書いた吉田秀和も、やはり音楽を “文学” として語るようになった。

 吉行淳之介は、あるエッセイのなかで、東京大空襲のときに腕に抱えて持ち出したのは、布団や衣類ではなく、ドビュッシーと ショパンのレコードだったと書いている。
 こういう文人たちの話からも、音楽が人間の精神文化にとって重要なアイテムになっていったことが伝わってくる。
 
 
 しかし、そういう文学と音楽の蜜月が続いたのは「昭和の時代」までだという気もしている。
 つまり、レコード(もしくはCD)が市場に出回っていた時代までのことだ。

 音楽が「人の人生を変える」くらいに尖がった時期というのは、実はこのレコードやCDという再生装置が普及したわずか100年のことだけかもしれない。
 そういう機器が生活空間から消えようとしている現在、音楽は再び人が何かの作業をするときのBGMという役割に戻っていかざるをえないだろう。

 そう考えると、「音楽」が「アート」や「文学」と並んで評価された時代の方が、きわめて特殊な時代であったというべきかもしれないのだ。

 ボブ・ディランがノーベル “文学賞” を授かったというのは、ひょっとしたら、音楽文化が最後の光を放った、まさに夕焼けの輝きだったのではなかろうか。
 それは、音楽と文学が珍しく両立した “奇跡の20世紀” が終焉したことを暗示する出来事だったのではなかろうか。

 今後、ボブ・ディランの歌詞のような文学性を持つ音楽が出てくるかどうかは定かではない。
 将来のことは分からないが、私個人は、そういう時代に自分の人生が間に合ったことに幸せを感じている。
  
 

 

カテゴリー: コラム&エッセイ, 音楽   パーマリンク

芸術としての音楽は消えていく への12件のコメント

  1. Milton より:

    いつも有意義な情報を教えていただき、どうもありがとうございます。「個室」が近代人の内面に与えた影響に関しては、全くもってその通りだと思いますね。

    私も音楽が大好きなので、今の現状には思うところがあるのですが、ひとつここで興味深いインタビューをコピーしたいと思います。以下、一部抜粋。

    近藤等則(ジャズ・トランぺッター)…大自然の中で演奏することについて。
    2008.10/01

    1990年代に入ったころから、「都市にいること」の意味がよくわからなくなったんですね。

    20世紀というのは、地球レベルで人類史始まって以来の大都市文明が花開いた時代でしょう。その中で、音楽も大都市から生まれ、ジャズやロックが盛り上がった。つまり、ある時期までは大都市が人間にとってイマジネーションやインスピレーションの原点になり得たんだと思う。特に50〜60年代は。

    でも、大都市から得られるインスピレーションは、70〜80年代になって枯渇してきた。人間の心の遊び場みたいなものが大都市にはなくなって、ビジネス一辺倒の装置みたいになってしまって。90年前後から、「都市はもう終わったな」と思い始めていたんです。

    それで、俺はミュージシャンだから、21世紀の音楽のあり方みたいなものを追求してみたくなった。20世紀に都市から生まれたジャズやロックやポップスは、もうエネルギーが飽和状態だし、ほかの人がやってくれればいい。自分はそうじゃないやり方を模索してみよう、と思ったんですね。

    。。。。。。。。。補足ですが、現代にも面白いミュージシャンはいます。個人的にその動向に注目しているのは、Hilary Hahn と Jessie Ware ですね。この二人の新作は、めちゃめちゃ気になります。

    いちど、Jessie Ware 「If You’re Never Gonna Move」のミュージック・ヴィデオをチェックしてみてください。個人的な感想ですが、今世紀でも屈指の名曲だと思っています。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
       こちらこそ、いつも有意義な情報をお教えいただいております。
       感謝するのはこちらの方です。

       今回も、ジャズ・トランぺッターの近藤等則氏の談話は興味深く拝読いたしました。
       氏のいうように、確かにジャズやロックというのは、20世紀の都市から生まれた音楽ですよね。
       そして、その頂点が、1950年代~60年代であったというのは、きわめて納得できるご指摘であると思います。

       というのは、これは1970年代に青春を送った私自身が感じることとして、1950年代~60年代の映画、音楽、文学の方が、私が過ごした70年代のものより圧倒的に面白いということなんですね。

       映画でいうと、フィルムノワールの流れ。音楽でいえばバップからフリージャズあたりにかけての流れ。文学でいえば、日本だと第一次戦後派から第三の新人あたりへの流れ。
       そういうものを追いかけている方が、70年代のヒッピー文明、サブカルチャー文明よりも面白い。

       だから、≫「大都市から得られるインスピレーションが、70年代~80年代になって枯渇してきた」というご意見は、70年以降の流行の中で生きてきた私ですらよく分かるのです。

       こういう視点の都市論は、またいずれやってみたいと思っています。

       Hilary Hahn と Jessie Ware

       さっそYOU TUBEで当たってみました。
       おっしゃることよく分かります。
       いいですよねぇ ‼

       今後もまだ期待できる音楽アーティストがたくさん輩出して、音楽文化が終わることなどないということは、私自身が信じています。
       だから “芸術としての音楽は消えていく” というのは、あくまでもセンセーショナルなインパクトを狙った理論上のモデルに過ぎず、自分の本心は、そんなふうには感じていません。
       ただ、ちょいと、いつもの “いたずら心” が出たかな (笑)
       

      • Milton より:

        なるほどですね~、実は私もだいぶ前におなじような分類をしていたのですが、ちょっと正確さを欠くかもしれないですけど(笑)、時期的には1958年前後から1963年ごろまでの西側諸国の文化(日本も含む)と、それ以降の文化って同時代を過ごしていない私にとっても、濃さの違いがわかるんですよね。

        セックス、ドラッグ、ロックンロールで失った、ある種の厳格さというか、モノクロ画面に漂う殺気というか、反代々木系の流れともリンクするのでしょうが、そこまで突き詰めては調べきれていません(笑)

        なんであれ、いまおもえば私が青春を過ごした90年代って、結局は過去の巧妙な「焼きまわし」にすぎなかったですね。それでも今の、あえていえば惨状よりも遥かにマシですけどね。

        おおー!ヒラリーとジェシーを聴いてくださったんですね!嬉しいです、ありがとうございます!

        本当は、Boiler Room のような新しい音楽の動きを町田さんに紹介したいのですが、長くなりそうですので、ここで私の尊敬するヒラリーのインタビューの抜粋で終わりたいと思います。少し難解な英文ですいません。

        I don’t care. I really don’t look at things from that perspective. It doesn’t matter how a melody is constructed, it’s still a melody. It doesn’t matter whether a structural element is there because a composer woke up with it from a dream, or they sat down and mapped it out. It doesn’t really matter. That’s all in the music, and it’s all there to be interpreted. People draw their inspiration from different areas, and whatever helps them express what they want to express musically should not be the determining factor for how it’s interpreted.

        -Hilary Hahn

        • 町田 より:

          >Milton さん、ようこそ
          とても、面白いご指摘です。
          ≫「1958年前後から1963年頃までの西側諸国の文化と、それ以降の文化では濃さが違う」
           そして、
          ≫「そのことが、その時代を過ごしていない自分にはよく分かる」

          なるほど !
          これは、逆に50年代末~60年代初頭の文化をリアルタイムで見ていた私などには、かえって盲点になっているところでした。

          Milton さんが指摘されたこと、つまり「50年代~60年代までの文化には、後の70年代的なセックス、ドラッグ、ロックンロールで失った、ある種の厳格さというか、モノクロ画面に漂う殺気があった」ということは、とてもよく分かります。
          たぶん、キーワードは「モノクロ」ではないでしょうか。

          私が感じる50年代~60年代文化というのは、イメージとしてモノクロなんですよね。
          モノクロって、シャープでストイックじゃないですか。
          あの “天真爛漫な” ビートルズでさえも、いま残っているYOU TUBE などの画像はほとんどモノクロですしね。

          モノクロ映像というのは、陰影だけで成り立っている世界で、文字通り、光と影の交差する人生そのものの比喩になっているような気がします。

          70年代になって、ドラッグの幻覚症状をデザイン化したカラフルなサイケ意匠が普及するようになって、映像表現の幅はすごく広がりましたが、その分、Milton さんのおっしゃる “殺気” がなくなって(笑)、退屈になりました。

          50年代~60年代の文化のすごみというのは、やっぱり第二次大戦の残した爪痕が深さだという気もします。
          映画でいうと、『ゴジラ』の第一作(1954年)、キャロル・リード監督の『第三の男』(1949年)、ネビル・シュート原作によるスタンリー・クレイマー監督の『渚にて』(1960年)、アンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』(1958年)。
          みな大戦の爪痕がテーマとなったモノクロ映画ですね。
          そして、それらはみな東西冷戦がはじまる頃の不安定な政治状況を反映しています。だから、どれも鬼気迫るような緊張感がありますね。

          70年代というのは、冷戦の安定期なんですね。
          自由主義陣営も共産主義陣営、いちおう相手の出方が分かったから、にらみあったまま様子見になりましたよね。
          たぶん70年代カルチャーの退屈さというのは、冷戦の安定期がもたらしたものだという気がしないでもありません。

          まぁ、こういう古い話しか私にはできませんので、Milton さんから教えていただく新しい世界の動きはとても勉強になります。
          いつもありがとうございます。
           

  2. ご無沙汰しています。
    お元気そうで何よりです。
    しかし、時代が変わるにつれて町のレコード屋もなくなり音楽はレンタルCDやPCからのダウンロードで賄えるようになると少々寂しいモノですね。
    これも時代ですね。
    ウチの窓から風景は昔は、田んぼしかなかったモノが高速道路が家の前に走りアパートが立ち並ぶ、便利になっていく反面、昔の面影が無くなるのもホント寂しいです。
    音楽も時の流れと共に変わってのは納得できます。
    ところで、キャンカーのネタですが10月末にハイエースバン(4ナンバー)を新車でオーダーして今月の25日のクリスマスに納車予定です。
    今回は、あえて8ナンバーのビルダー製は購入しませんでした。
    それと言うもののハイエースベットキット16万のをオーダー(11月中旬に頃)しましたが納品は1月中旬。
    世の中景気が今一つと思える反面、ベッドキットなんかも売れているんですね。
    まぁ~日経平均が19000超えるのを考えると景気は良くなっているのかも知れません。
    これだけお金を掛ける予算があれば、どれほどのホテルや旅館に泊まれるのでしょうか?
    おねぇ~ちゃんの飲み屋にどれほど行けるのでしょうか?
    でも、それはキャバクラやホテル、旅館に無いモノが裏付けとしてあります。
    それは、自由ですね。
    これから、鄙びた秘湯や山の奥地に突っ込んで行こうと思っています。
    また、お会いして一緒にお酒飲みたいですね。

    • 町田 より:

      >カッチさん、ようこそ
      いやぁ、なつかしい !
      コメントありがとうございます。

      ついにハイエースバンを購入されることになったんですね。
      クリスマスの納車といえば、もうすぐですね。
      それにベッドキットを組み込む。
      とても、いい選択だと思います。

      実は、いま自分も、もう少し簡易な装備のキャンピングカーでいいかな…という気持ちになっています。
      装備類の充実度や居住性も大事ですが、この年(66歳)になってくると、それ以上に、やはり取り回しの良さというもののプライオリティーが高くなってくるように思います。
      両隣りに止まっている車の位置を計算することなく、コンビニの狭い駐車場にスルスルスルと収まるサイズ。
      東京都内に住んでいるとそういう要素も大事だな… と思えるようになりました。

      私も、病気の1年が終わる年末をひかえ、ひなびた秘湯や山奥の温泉などでのんびりしたいと思うようになりました。
      ほんとうに、一度いっしょにお酒など酌み交わしたいですね。
      お元気で年末をお迎えください。
       

  3. よしひこ より:

    音楽が文化的な重みを失っている、ボブ・ディランのノーベル賞受賞は、音楽が輝かしい文化であった時代の終わりを示している、というご指摘は考えさせられます。
    まあ雑感的なことしか言えないのですが、昔はロックにも評論家がいて、例えば渋谷陽一が「キングクリムゾンがアンコールで「21世紀の精神異常者」を演奏するのは、彼らの自己確認である」とか言うと、おお~という感じがしたものです。まあ、何でも「自己確認」だ、と言えば言えるのですが。(苦笑)
    今の若い人はiPhoneやらiPadやらで何でもやってしまうのでしょうが、自分(50代)はテレビもCDもカメラも、相変わらずそれぞれの機器を使う分業制(?)を維持しております。(苦笑)
    ご指摘のように音楽の聴き方は、昔は作品を通してアーティストと向き合っていたものが、今は自分の気分や状況に合わせてBGMとしてチョイスして消費するものになっている。音楽の聴き方もそうだけど、ケータイやスマホで日本人はますます自己チュー化して、行き着く先はどうなっちゃうのかなあと。

    • 町田 より:

      >よしひこ さん、ようこそ
      それぞれの音楽が “評論家” を抱えていた時代というのが、いちおう文化的な重みを背負っていた時代の基準になるのかなぁ、と漠然と感じています。

      で、今の音楽はどの分野からも “評論家” というものが姿を消しましたよね。
      それは、もう音楽は「語るべきものがない」ということなのかもしれません。

      こんなことを書くと、揚げ足取りの好きな人が、「音楽は語るものではなく、聞いて楽しむものだ」とか、よく言うんだよね。
      だけどさ、俺はさ、そういう言論こそ反知性主義だと思うわけ。

      で、話題をもとに戻しますが、よしひこ さんが挙げられた渋谷陽一さんなどは、ROCKの評論家としてほんとうに光っていましたよね。
      彼が主宰していた『ロッキング・オン』などは、よく買って読んでいました。

      けっこう難解な記事も多かったんですよね。
      でも、その難解な文章を読み解くことは、ROCKの何たるかを知るにはとても有意義なことだったし、何よりも、その読み物自体が(音楽を離れても)面白かったように記憶しています。

      よしひこさんが、おっしゃるように、今は音楽を聞くのも情報を集めるのも、iPhoneやらiPad の時代。
      それはとっても便利なことだと思うのですが、逆にいえば、それだけ集められる情報の幅が狭くなっているのではないかという気もします。

      現に自分なんかも、もう言葉の意味を調べるときはWikipediaなどに頼って、辞書や事典を開くことがなくなりました。
      そのため、作業効率は無類によくなったのですが、調べようと思ったこと以外のものには無頓着になる。

      調べものをするとき、昔は百科事典などを使っていましたけれど、そういう作業をしていると、必ず、「調べたいことの隣りにある項目」も読んじゃうんですよね(笑)。それで時間も取られてしまうんですが、そのぶん求めていなかった知識まで得られる。

      “アナログ” というのは、そういうものだという気もしています。
      つまり、必要なものと不必要なものが、地続きにつながっているのがアナログ。
      そういうアナログ的手法で情報に接することは、確かに作業的には非効率かもしれないけれど、知識そのものは豊かになる。

      一方、デジタルな手法で情報を得ようとすると、必要な情報に瞬時にアクセスすることは可能になっても、その周辺情報までには目配りが及ばない。
      だから、デジタル的世界だけにアプローチしていると、知的財産がだんだん乏しくなっていくのだろうと思っています。
      まぁ、時代の趨勢で、それはもう止めようもないんでしょうけどね(笑)。
       

  4. Get より:

    お邪魔します。

    芸術”論” というのは。
    ある個人があるものを鑑賞して ”おお!まさしく芸術的レベル” とか、
    ”こんなもんは何ですわ” とかを論じるわけでして。
    この”論”を鑑賞する第三者が、”いゃー!まさしく芸術的論” とか評価する訳ですね。
    で、これにより”芸術論”ランキングがなされる。
    芸術論全てが論じ手個人の主観そのもで、
    別にスタティスティックス学的な視点ではないので、これまた読み手の主観一つです。

    若いうちは年長者の論を有難がって読んだり聞いたり。
    歳古々と他人の論にそうそう共感を覚えなくります。
    なので何かの”論”を読んだときに若き頃のように素直な気持ちでは解釈しなくなる。
    これは一般的に言えば 年寄りのひねくれ根性なんて言われますが、、、。
    芸術論なども然り。

    で、私自身は芸術論を読むのも論じるのも程遠い人間です。
    何が芸術で何がそうでないのか?
    この辺は世の論客諸氏にお任せしましょう。

    ジャズピアニストの本田竹広氏
    彼の残された作品で.
    ‘Round Midnight’ 。
    原曲は Thelonious Monk です。
    本田作品を聴いたときに驚いたのは、余りにもクラシックピアノのテクニックでの表現が濃い。
    彼は音大生の時、クラシック・フィールドでは、世界レベルでのコンクール参加の新鋭として将来を嘱望されていたようです。
    彼は音大生当時からジャズにはまり込み、国分寺のクラブでジャズピアニストを展開。
    モンクの純朴なアランド・ミッドナイトの原曲とは違う解釈での演奏は、それはそれで面白い。(好き、嫌いは別として)。

    https://www.youtube.com/watch?v=9yHYu-XINLc

    同曲、Sting and Andy Summers- Round Midnight

    https://www.youtube.com/watch?v=TIe5S3ZTDuA&list=RDTIe5S3ZTDuA

    これがまた、素晴らしい解釈で面白い。(ロック・バラード)で雰囲気があります。

    Sonny Rollins の ”OLEO”
    私の敬愛するジャズピアニスト、Phianis Newborn Jr.

    https://www.youtube.com/watch?v=uINEYWRecJo

    これを本田氏はフィニアスのパフォーマンスを土台にして食いついていっています。
    これも面白いと思われます。

    https://www.youtube.com/watch?v=uRCrUVbeLHk

    以上はわたくしの門外漢としての主観と偏見ですので、悪しからず。
    古いところの楽曲に終始しましたが、諸氏が仰るとおり最近の曲で論じるに値する作品、
    勉強不足を基礎にしても、ピックアップできるもの、なかなかないですね、、、。

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      ピアニストの本田竹廣氏、もちろん名前だけは知っていましたが、じっくり聞くのは今回はじめてでした。
      モンクの『Round Midnight』、非常に面白く感じました。
      もちろんモンクのオリジナルのフレーズもしっかり聞かせてくれて、さらにクラシック風の展開あり、現代音楽的な挑戦もあり。 非常に意欲的な演奏ですね。
      いつも音楽のことでは教えていただくことばかりです。

      スティングとアンディー・サマーズの『Round Midnight』も素敵。
      全体的に、明け方の冷気が漂ってきそうな仕上がりぶりですね。ヴォーカルパートが終わってからのギターワークが印象的。

      『Oleo』は、Phianis Newborn Jr.のものも本田竹廣氏のバージョンも、ともにジャズならではの疾走感がスリリングです。
      こういう、空中を軽やかに飛翔していくようなスイング感 … というのか、グルーブ感? というのはジャズ独特のものですよね。ロックの疾走感というのは、一方通行のハイウェイを飛ばしていくようなものかな。
      それに対して、ジャズの疾走感はもっと自由で軽快。
      とても心地よいです。

      芸術 “論” に関していえば、私個人は、「芸術論」そのものがすでに文学であるように感じます。
      もちろん、よくできた「芸術論」に限りますが。

      よくできた芸術評論というのは、ときに、論じられる対象がもたらす感銘以上のものを与えてくれることもあるように思います。

      ま、そう感じるのは、けっきょく自分が、絵も描けず、音楽を奏でることもかなわず、文字しか扱えない人間であるせいかもしれませんが、そういう文字的な関わり方で芸術論を見ていくと、芸術論の中には小説などよりもスリリングなものもあります。

      自分もそういうものを書いてみたいなぁ … とか思うこともあるのですが、やっぱりこの年になってくると、基礎的な勉強をしていないと何も書けないということが少しずつ分かってきました。
      日暮れて道遠しです(笑)、トホホホ … 。
       

  5. Get より:

    お邪魔します。

    ”日暮れて道遠し”? いえいえ、なんの何のです。

    ”夜道に日は暮れぬ” とも申しますから。

    さらなるご活躍を楽しみにしております。

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      ありがとうございます。
      そうですね、頑張ります。

      やはり、病気などで体力が衰えてくると、物事を多少悲観的に考える日が訪れるときもあります。

      Get さんには、いつも励まされています。
       

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