女のいない男たち

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 病院というのは、本を読むのに最適な空間だ。
 読書という行為は、ある程度 “退屈な時間を持て余す” という気分に支えられるようなところがあるから、運動も外出も制限される入院中のやるせない気分を紛らわせるには、読書は理想的な時間のつぶし方といえる。

 昨年は肺血栓症の手術を受けるために、1月、6月、7月、10月と4回入院した。
 長いときは2ヶ月近く。
 じっくり本が読めた。

 入院中に読んだ本の1冊に、村上春樹の『女のいない男たち』がある。
 2014年に単行本として発刊され、2016年の10月に文庫化された。

 私が買ったのは、2年後に出た文庫の方である。
 昨年秋に、私が入院する前に寄った書店では、その文庫が平積みになっていた。
 村上春樹がノーベル文学賞を受賞すれば それを記念するフェアの目玉として準備されたものだったのだろう。

 春樹ファンには残念なことに、ノーベル文学賞はボブ・ディランのもとに去った。

 私は、村上春樹を少しは読んでいる方だと思うが、彼がノーベル文学賞に値するような作品を書いているのかどうかということに関しては、正直、よく分からない。
 私のイメージでは、村上春樹という人は世界の文芸史に名を残す “大文豪” というようなタイプではなく、本来は、少数のごくセンスのいいファンたちがこっそり評価し合うような作家に思えるのだ。
 そして、その方が、愛読者にとっては、かえって安心して「村上ファン」を名乗ることができるような気がする。

 で、『女のいない男たち』。
 六つの短編で構成されている。
 そのどれもが、基本的に、女に振られたか、女に死なれたか、女に自分の思いをうまく伝えられなかった男たちの話になっている。

 村上春樹は、なぜそのような男たちを取り上げる気になったのか。

 もしかしたら彼は、これからは男にとって、恋愛が不可能な時代が来ると踏んだのではなかろうか。
 つまり、男の恋心を受け入れてくれる女性が次第に少なくなりつつあると感じたのだ。
 『女のいない男たち』という一連の物語は、そういう状況を伝えようとしているようにも思える。

 六つの短編において、主人公たちから去って行った女たちは、いずれも男と一緒に迎える “ハッピーエンド” を拒否する。
 女たちは、他の男と不倫するにせよ、自殺するにせよ、いつの間にか姿を消すにせよ、みな男が用意したハッピーエンドの<外>に流れ出していく。
 そして、男たちは女が去っていく理由も分からず、途方に暮れるか、いつまでも懊悩するのである。
 それは、そのまま現代社会の男女関係をぞっているように思える。

 なぜ、男たちにとって、これほど恋愛が難しい時代がやってきたのか。
 
 その理由を、社会状況の変化に求めるならば、答はいくつでもすぐに見つかるだろう。
 リア充の生活を放棄したオタク系男子の増加。
 恋愛にチャレンジして、成就しなかったときのショックを回避したがる男たちの増加。
 要は、男の自閉である。

 そういうイマドキの男性心理は、たとえば「若者の経済的貧困」などという言葉を使えば説明できるかもしれない。

 しかし、そのような経済的視点や社会学的視点からだけでは、男たちの恋愛不可能性のすべてを語ることはできない。
 結論を先にいえば、それは現代社会が、「男の恋愛文化」を失ったからだ。
 すなわち、恋愛からセンチメンタリズム(感傷的情緒)が失われたのである。

 これまでの古典的な男の恋愛観は、すべて女に対する男の片思いやら女に振られたときのセンチメンタリズムをベースに構成されてきた。

 こういう言い方もできるだろうか。
 センチメンタリズムが保証されていたからこそ、男たちは孤独な片思いやら辛い失恋に耐えられたのだと。
 つまり、これまでの男たちは、思いを遂げられない心の痛みをセンチメンタリズムで濾過(ろか)できたからこそ、傷をしのぐことができたのだ。

 そのようなセンチな男文化が生き延びられたのは、(日本でいえば)せいぜい「昭和」の時代までではなかろうか。
 それも、ニック・ニューサの『サチコ』が生まれた昭和56年(1981年)までだったように思える。   
 
 

 この年(1981年)、『サチコ』のように男のセンチメンタリズムを強調した歌謡曲がヒットチャートで全面開花する。

 『ルビーの指輪』(寺尾聰)
 『もしもピアノが弾けたなら』(西田敏行)
 『みちのくひとり旅』(山本譲二)
 『帰ってこいよ』(松村和子)
 『スローなブギにしてくれ』(南佳孝)

 そのどれもが、恋を成就させることのできなかった男の自己憐憫を美化した歌である。

 1960年代から1970年代の半ば頃までの歌謡曲は、藤圭子の演歌に代表されるような、「騙された女/捨てられた女」の世界だった。

 しかし、1978年に杏里が『オリビアを聴きながら』を歌った頃から、男女の形勢が逆転し、80年代からの歌謡曲は「泣く男」の世界となった。
 80年代というのは、マッチョな言動で女たちを口説いていた一部の精力の強いバブル男たちの影で、大勢の泣く男たちが誕生した時代だったのだ。

 しかし、それは逆にいえば、1980年代までは、男のセンチメンタリズムを許容する余裕を日本社会全体が持っていたということになる。

 高度成長からバブルに向かっての一時期、日本はつかの間の “一億総中流社会” を実現する。
 その時代に、男が会社勤めに出て、女が専業主婦として家事を切り盛りできるような社会が誕生した。

 専業主婦というのは、女性の「無報酬労働」である。
 つまり、女が無報酬で家事というシャドーワークに専念できるほど、日本の家庭は見かけ上の豊かさを維持することができたのだ。

 この余裕が、男のセンチメンタリズムを育てた。
 専業主婦たちは、会社勤めのような “社会” を経験せずに暮らせたから、男の身勝手な甘えの文化に無頓着でいられたのだ。

 しかし、外で働き始めた女性たちは、次第にそういう男のセンチメンタリズムを許容しなくなっていった。
 そのようなセンチメンタリズムは、男の自己完結的な自意識の産物だから、それ自体に生産性がない。
 当然、バブル崩壊後に生まれてきたせちがらい世の中は、そういう情緒性のはびこる文化を許さなくなっていく。

 日本経済が津波に吞み込まれるように崩壊していくなかで、企業倒産が続出。男の安定した雇用が消滅していく過程で、男たちも「女に振られた悲しさ」を歌や酒や旅でまぎらわすといった情緒的な方法で処理できなくなっていく。
 つまり、女から受けた恋の痛手を、もっと即物的なストーカー行為などではらさなければならなくなっていく。

 そういう流れに呼応し、社会に出て行った女たちも、男の身勝手なセンチメンタリズムに付き合うバカバカしさに気づくようになる。
 

 村上文学とは、こういう時代が始まる前に成立した文学である。
 すなわち、男が女を失うときのセンチメンタリズムがまだ機能していた時代の文学なのだ。

 村上春樹が『風の歌を聴け』で群像新人賞を取ったのは1979年。 
 『1973年のピンボール』が芥川賞の候補になったのは1980年。
 つまり、村上春樹の初期作品は、日本社会が男のセンチメンタリズムを許容していたぎりぎりの年に生まれている。

 それらの作品に登場する “僕” と呼ばれる主人公たちは、女の理不尽な行動にも取り乱すことなく、ただ「やれやれ」とつぶやいて耐えている。
 しかし、それは見かけ上の冷静さであって、彼らの本心を占めているのは女々しさである。

 その女々しさが、あまりにも洗練された筆致で処理されるために、センチメンタリズムの上澄みが浄化され、そこにドライでクールな空気感が生まれている。
 それが、村上流 “喪失の文学” の正体である。

 
 そう考えると、村上文学の構造というのは、案外シンプルである。
 それほど奥行きのある世界ではない。
 ただ、そう思わせないテクニックを村上春樹は持っている。
 それは、「肝心なことは描かない」というテクニックだ。

 彼の小説作法を解き明かした名著のひとつに、『若い読者のための短編小説案内』があるが、そのなかで、彼はこんなことを書いている。

 「優れた作家はいちばん大事なことは書かないのです。優れたパーカッショニストがいちばん大事な音は叩かないのと同じように」
 
 まさに、これは村上春樹の小説作法そのものを表現した言葉であり、彼の全作品がこの作法に則って作られているといっても過言ではない。

 この『女のいない男たち』においても、その手法は貫かれている。
 たとえば、『シェラザード』という短編では、施設に閉じ込められた主人公の男性のもとに、身の回りの世話をする女が一人通ってきて、冷蔵庫のなかに食材を詰め、退屈しのぎのために読む本を用意し、主人公を相手にルーティンワークのような情事をこなし、そのあと、ベッドに寝たまま魅惑的な話を披露して去っていく。
 主人公にとって、その女の話の続きを聞くことが一番の楽しみになる。

 しかし、ある日主人公は、その女性がもう姿を現わさないのではないかと予感する。もちろん女性の言動からその兆候を読み取ったわけではない。あくまでも、予感にすぎない。

 しかし、その予感は、主人公を茫洋と霧が立ち込めるような哀しさのなかに沈ませていく。
 
 この短編には、けっきょく最後まで何も描かれない。
 主人公がどのような施設に閉じ込められているのかも語られず、彼がなぜそこから抜け出ようとしないのかも説明されず、主人公のもとを訪れる女性の正体も明かされない。

 実は、何も説明されないということが、ここでは “詩” になっているのだ。
 この短編には「情感」だけがあって、「ロジック」がない。
 つまり、物語自体が、壮大な “余韻” に包まれているのである。

 毎回楽しい話を続けてくれるはずの女性が、もしかしたら来なくなるかもしれないと、主人公はおびえる。
 そして、彼女が来なくなったとしても、その理由を主人公は永遠に知ることができない。

 何もかもがはっきりと描かれないからこそ、切ない。
 村上春樹のセンチメンタリズムというのは、そういう形で提示される。

 私はそれをとても心地よいと思うけれど、この先、この村上春樹的センチメンタリズムがどこまで通用するのか、それはまったく分からない。 
 
 

カテゴリー: 映画&本, 音楽   パーマリンク

女のいない男たち への4件のコメント

  1. 北鎌倉 より:

    『蛍』という村上春樹さんの短編があります。『蛍』は、自分には愛が禁じられているのじゃないかという疑念に傷つき、闇の奥に退却していく少女の姿を、自分の傷口のように悼み、見送る「僕」の物語です。そして作者は彼女と「僕」の姿を含む全体に、イメージの治癒をほどこそうとしています。それは最後の場面に象徴されていて、とても印象的な描写で作品を終えています。夜、「僕」は寮の屋上に立ち、同室の者からもらった蛍を闇の方へと放ってやる。「僕」と蛍は沈黙の底で何かを了解しあっているかのように。両者とも街のはなつ無数の光の上に浮かび立っています。やがて、蛍は無言のまま、魂のように虚空へと消えていきます。それを見送る「僕」の視線は、ただ少女の死を悼んでいるだけではなく、喪失という全体を見送っているのです。立体的な光のうごめきは小さな無数の生命たちのように見え、この作品の寂しい心地よさを作っていました。

  2. 町田 より:

    >北鎌倉さん、ようこそ
    『蛍』という小説の紹介、ありがとうございました。
    私はこの作品をまだ読んでおりません。
    しかし、北鎌倉さんの感想文があまりにも見事なので、読まないうちから、もうこの作品の持つみずみずしい抒情性、心地よいセンチメンタリズム、深い哀しみなどがすべて想像できるような気になりました。

    蛍という虫は、小説に登場する場合、よく「人間の生と死」を暗示する存在として描写されるようです。
    宮本輝さんの小説に『蛍川』という作品があります。
    もうずいぶん昔に読んだので、詳細は忘れましたが、確かおびただしい蛍の群れが、人の影を作るというような描写があったように記憶しています。
    そのときの蛍の群れが放つ凄絶な光の描写がいまだに忘れられません。

    おそらく村上春樹の『蛍』も、きっと印象的な筆致で描かれているのでしょうね。
     

  3. 北鎌倉 より:

    「死は生の対極にあるのではない。死は生の内部にある」
    この一節は村上春樹の『ノルウェイの森』にあります。もとの作品『蛍』の中にも出てくるのですが、その時はおさまりが良かったのです。でもなぜか『ノルウェイの森』の中で読むとさえないのです。間違っているとは思わないのですが、堅ぐるしくてウソっぽいのです。
    死は休みのことだ。
    私は、これで十分じゃないかと思うんです。生理的にいえば、死はただ自然に対する身体として固有性が解体するだけです。それは何の変哲もない基本です。精神とか内面のことを考えなければ、これで不足はありません。かって、最初の人間的な眼差しが生まれた段階では、生と死は眠りのような、または山や森や川のような、静かなすき間をはさんでつながっていました。次の段階(古代権力の時代、心の大分裂の段階)では、生と死は遠ざけられ、生は死への恐怖を象徴化し、死は生を意識的な秩序に中に入れます、それから次(近代権力の時代、内面と外面の分裂)は死を個人の内面に押し込み、外に死の形を管理する制度を作りました。こういう切り離しは極限までいくにちがいありません。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      いつもながら、面白い考察ですね。
      「生」と「死」が次第に乖離していく様子を、人間史の過程として捉えている視点はとてもユニークです。

      人間にとって、「死」が恐ろしいものとして認識されるようになったのは、キリスト教社会においては、中世が終わりかけて、近世に入ってからでしょうね。
      二コラ・プッサンの「アルカディアの牧人たち」(1640年頃)という絵はそういう時代背景によって成立しているように思えます。
      中世に生きた人たちは、「死」を考えることは神様の領域の仕事でした。
      しかし、近世から近代にかけて、「個人」が確立されるようになって、それまで「死の問題」を引き受けてくれた神様に代り、個人が「死の問題」を請け負わなければならなくなった。
      たぶん、「死の恐怖」というのは、ヨーロッパ社会においては、そこから始まったような気もします。
       

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