ヴェルサイユの宮廷庭師

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庭園のコスモロジー

シネマ漂流(映画感想記) No.13 
『ヴェルサイユの宮廷庭師』 2015年公開
 
 
人類初のテーマパーク !?

 今から300年前に造られた「ヴェルサイユ宮殿」は、実に不思議な空間である。
 それは、“おとぎの国” を実現するために造られた人類初のテーマパークだったのかもしれない。
 広大な敷地内は、どこを見渡しても、まるでディズニーリゾート。
 これほど莫大な建築費をかけながら、これほど生活感覚の乏しい宮殿というのは、ほかにない。


 
 特に、あの庭園を埋め尽くす幾何学模様の光景を見ると、人間が触れてはいけない “宇宙の法則” を図面化したもののように感じられて、めまいのようなものを覚える。
 
 そんなことを常に感じていたものだから、WOWOWの番組表で『ヴェルサイユの宮廷庭師』という映画タイトルを見つけただけで、それがどんな映画なのかも分からないまま、反射的に録画の予約ボタンを押していた。
 
 
庭園とは “失われた楽園” の復活

 ヴェルサイユ宮殿は、17世紀の後半に、「太陽王」といわれたルイ14世が建てたものである。

▼ 映画のなかの「ルイ14世」(中央)

 
▼ 「鏡の間」

 「宮殿」というから、建築物の方が “主役” に思われがちだが、あの施設の本当の主役は庭園である。
 実際に、宮殿を建設する以上の労力が庭園の造営に注がれたといわれている。
 宮殿建築に割かれた労働者の数は25,000人。
 それに対し、庭園の噴水建設に割かれた労働力は、建物よりも1万人以上も多い36,000人であったとも。


 
 この『ヴェルサイユの宮廷庭師』という映画のなかで、ルイ14世に扮した役者(アラン・リックマン 写真下)がこういうのである。

 「庭園とは、エデンの楽園を追われたアダムとイブが、自分たちの故郷を取り戻すための場所だ」

 聖書において、原初の人間であるアダムとイブは、神との約束を守らなかったために罰せられ、人間にとって理想郷とされるエデンの園を追われたことになっている。

 なのに、ルイ14世はその “楽園” を、人間の手で取り戻そうというのである。
 すなわち、ヴェルサイユ宮殿の庭園を造るということは、人間を罰した神への挑戦なのだ。
  
  
建築士の男と庭師の女との恋
 
 ストーリーは、ルイ14世の命を受けて “楽園” の建設に励む庭園建築家と、その助手を務めることになった女性庭師の話という形を取っている。

 男の名は、アンドレ・ル・ノートル。
 ヴェルサイユ宮殿の庭園をデザインした建築家として名が残っている人らしい。
 女の方は、サビーヌ・ド・バラ未亡人。
 こっちはどうやら架空の人物のようだ。

 彼らは、具体的にどのような仕事を任されたのか?
 ヴェルサイユの庭園そのものは完成していたのだが、一ヵ所だけ、国王や貴族たちがお忍びでくつろぐ野外の舞踏場のデザインが残っていた。

▼ 映画の終了間際に完成した野外舞踏場。水のないところに水道管を埋めて自然の滝が流れるように配置している

 その頃の国王のいちばんの関心事は、自分の自慢の庭の中のそのエリアをどう創造するかという一点にのみに集中していた。
 庭全体をデザインしたアンドレも、最後に残った野外舞踏場の作業がこれまでの工事とはまったく性格が異なることを感じていた。

 工事責任者のアンドレには、自分の仕事に助言を与えてくれる有能な助手が必要だった。
 彼がその助手を募集し、その面接に応じたサビーヌ・ド・バラ未亡人と出会うところから、この話は動き始める。

▼ 正装して面接会場に訪れるサビーヌ

 面接の現場で、2人は、お互いの造園に対する思想がまったく違うことをすぐに知ることになる。
 それは2人の対立をも生み出したが、仕事を進めていくにしたがって、お互いに共感し合うようになる。
 つまり、恋愛が発生する。
 そして、幾多の障害を乗り越えて恋愛を成就させ、その仕事ぶりもルイ14世に讃嘆されて幕を閉じる。
 
 
秩序ではなく、カオス(混沌)を !

 出会いがあり、互いに使命(ミッション)を受け、障害が降りかかり、それを克服して恋が成就する。
 話の流れは、ハリウッド映画流のハッピーエンドパターンであるが、その底に流れているものは、“世界観の対立と融合” というかなり硬派なテーマである。

▼ 一見、フランス貴族の優雅な日常を描いた “おとぎ話” のような映画なのだが ……

 
 
 どういう世界観の対立なのか?
 アンドレとサビーヌが面接の現場で顔を合わせたとき、アンドレは彼女に向かって、こう尋ねる。
 「景観の秩序を重んじるか?」
 

 
 この質問の意味は、ヴェルサイユ宮殿の庭というのは、幾何学模様のように精密な秩序の上に成り立っているのだが、「お前はそれを理解しているのか?」ということなのである。
 
 それに対して、サビーヌはこう答える。
 「秩序の重要性は理解しています」
  
 彼女は、答をその一言だにとどめて、ほんとうに言いたいことには口を閉ざす。
 すなわち、
 …… 秩序の重要性は理解しているが、庭園というものは秩序だけでは成り立たない。秩序と、その秩序を壊そうとするものとのせめぎ合いの中から、本当に面白いものが生まれてくる ……
 彼女はそう言いたいのだ。
 
 アンドレは、サビーヌの沈黙の意味を理解してしまう。
 そして思う。
 …… この女に任すと、ここまで造り込んできた庭園デザインを台無しにするリスクもある。だけど、行き詰った仕事に突破口を設けるには、彼女に賭けてみるのも手だ ……
 
 サビーヌは、庭園の “秩序” にいったい何を加えたかったのだろう?
 
 それは「混沌」である。
 実は、この映画の原題は「A Little Chaos (小さなカオス)」である。
 カオスとは、日本語に訳すと「混沌」だ。

 私流の言葉に言い直すと、すなわち「ノイズ」である。
 彼女は、庭園のデザインを面白くするには、「秩序(静けさ)のなかに混沌(ノイズ)を導入しなければならない」と言いたいのだ。
 
▼ 原題は「A Little Chaos (小さなカオス)」

 
 
カオス(混沌)とは自然なり
 
 では、その「混沌」とは、具体的に何を指すのだろうか?
  
 それは「自然」である。
 ヴェルサイユ宮殿の庭には、植栽も池もあるが、それは人間の手によって積み木細工のように配置されたものばかりで、本来の「自然」というものは皆無だ。
  
 サビーヌにとっては、それは「退屈」以外の何ものでもない。
 もし彼女が雄弁家ならば、こう言ったことだろう。
 
 「ヴェルサイユの人工的な庭というのは、自然を征服できると思い込んでいる人間の愚かさの象徴であり、むしろ手つかずの “自然” こそが神のもたらすより大きな “秩序” なのだ」 … と。
 
▼ ヴェルサイユ宮の庭

 
 ここには、二つの考え方の対立がある。
 一つは、アンドレやルイ14世の主張する「理性の力」で自然をねじ伏せ、自然の中に人間的な秩序を打ち立てようとする考え方。
 もう一つは、サビーヌの主張する「混沌とした自然」を受け入れることで、人間と自然が共存するような世界を目指す考え方。
 
 前者が意味するのは、合理的で明晰なフランス的思考が支配する世界だ。
 後者が意味するのは、経験則と直感を重んじるイギリス的な感性が支配する世界。

 つまり、この映画は、フランス的知性とイギリス的感性の衝突を描いた映画なのだ。
 
 
頭脳的なフランス人
経験的なイギリス人

  
 フランス人とイギリス人の世界観の違いは、まさに度量衡の取り決め方などに象徴的に表れている。
 たとえば、「子午線の長さの1千万分の1をもって1m」とするなどという規則の決め方は、フランス人でなければ思いつかない。

 “子午線の長さ” などといっても、誰もそのスケールを実感的にイメージすることなどできない。
 その代り、そのような基準値を定めることは、人を沈黙の重みで押し殺すような科学的説得力がある。
 フランス人は、こういうクールで抽象的な理念が好きなのだ。

 それに対して、イギリス人は、人間が肌触りとして感知できるような経験的なものを好む。
 それが度量衡にも表れていて、たとえば、「1フィート(30.48cm)」というのは(大男ではあるが)人間の足裏のサイズである。
 また、重量を計るときの「ポンド」という単位は、「大麦1粒の重さから換算して人間が1日に消費する食料の重さ」を割り出したものだといわれている。

 何事もにおいても、イギリス人は、生物が自然環境のなかで生き抜くときの皮膚感覚を思考の軸に置いている。
 
 
幾何学的なフランス庭園
写実的なイギリス庭園

 
 このことは、庭園デザインそのものに、二つの考え方があることも示唆している。
 その一つが、合理的で明晰な秩序を思考するフランス式庭園。
 その突出した例がヴェルサイユ宮殿の庭であるが、それとはまったく異なる理念で造形される庭園があって、それを「イギリス式庭園」と呼ぶ。
 
▼ イギリス式庭園を愛する人たちが、造園の模範として憬れたクロード・ロランの風景画

 
 イギリス式庭園とは何か。
 それは、自然の景観を尊重して、人間の作為をできるだけ排し、人工と自然の交わりぐらいをバランスよく配合させていく庭園形式である。
 今日一つのブームなっている「ガーデニング」などは、イギリス式庭園の思想を受け継ぐものだ。
 
 そして、それこそ、まさに、この映画のヒロインであるサビーヌ・ド・バラ夫人の思想そのものというわけだ。 
 映画自体は、甘い “糖衣錠” でくるんだラブロマンスそのものであるが、それは体裁だけであって、実は、フランス庭園のイデオロギーとイギリス庭園のイデオロギーがぶつかり合って、交じり合い、新しいものに生まれ変わっていく過程を描いたドラマなのだ。
 
 監督・脚本は、イギリス人のアラン・リックマン。
 彼は自ら俳優としても、ルイ14世役で映画に出ている。
 
 サビーヌを演じた女優のケイト・ウィンスレットもイギリス人俳優。
 アンドレを演じたマティアス・スーナールツはベルギーの役者だが、それ以外の脇役の大半はイギリス人で占められている。
 ヴェルサイユが舞台であることからして、フランス人が作った映画のように思われがちだが、実は、これはイギリス映画なのである。
 
▼ 役者としてルイ14世を演じ、かつ映画の脚本・監督を引き受けたイギリス人のアラン・リックマン

 
 
イギリス女のメランコリー(憂鬱)
フランス女のコケットリー(媚態

  
 そういう視点で、この映画を振り返ってみると、一見、きらびやかなフランス宮廷風俗を描いたような映画に見えながらも、あちらこちらにイギリス的メランコリー(憂鬱)が顔を覗かせている。

 たとえば、ヒロインのサビーヌの表情。
 いつも思いつめたような緊張をたたえた彼女の顔からは、メランコリーの影が消えることがない。
 この顔は、伝統的なイギリス人好みの顔なのだ。 
 

 下は、19世紀のイギリスで、ラファエル前派の画家として活躍したロセッティの描く女(「プロセルビナ」)。どこかこの映画でヒロインを演じたケイト・ウィンスレットと似てはいまいか。

▼ ロセッティ 「プロセルビナ」

 イギリスの女はたくましく生きる。
 もちろん、フランスの女もたくましく生きる。
 しかし、「たくましさ」の質が違う。
 フランス女は、自分の望みを実現するためには、時に男を上手に利用してまでもスマートに生き延びる。

 それに対して、イギリスの女は、自分の野心を実現するためには、ゴツゴツと社会とぶつかる。
 男ともよくぶつかり、時として自分の方が折れてしまい、悩んだり泣いたりする。
 ロセッティが描くのは、そういう「憂愁」を理解しているイギリス女なのだ。

▼ ロセッティ 「窓辺の少女」

 
 この映画に登場するサビーヌ・ド・バラン夫人も、「メランコリックなイギリス女」の系譜に入る。
 彼女たちは、常に自分たちの力の届かない世界と戦っている。
 そのことへのいら立ちと、不安と、緊張と、疲労が、彼女たちの表情を覆っている。
 だからこそ、イギリス女たちには、自然による “癒し” が必要なのだ。
 家庭のなかに “自然” を取り込もうとする「ガーデニング」という園芸文化を生み出したのは、イギリスの女たちである。

▼ サビーヌ役のケイト・ウィンスレット

 イギリス人の描く女は、たとえ少女であろうとも憂いがある。その目には、成人したときの労苦をすでに知っているような憂いが漂う。
 
▼ ジョン・エヴァレット・ミレイ作 「ベラスケスの想い出」

▼ ジョン・エヴァレット・ミレイ作 「花嫁の付き添い」

▼ ロセッティ作 「レディ・リリス」

 
 
今日的な「恋愛」の原型は
ヴェルサイユ宮殿で生まれた

 
 上のイギリス人画家たちが描く憂鬱なイギリス女たちに比べ、フランス人の描くフランス女は明るく、屈託がない。

▼ フランソア・ブーシェ作「春」(部分)

 
 彼女たちは、どんな相手に対しても、その心理の軌跡が手に取るように分かるからだ。
 あどけない顔をしていても、宮廷文化になじんだ少女たちは、物心がついた頃から貴族の男たちと交わす恋のゲームのルールを知り尽くしてしまう。
 だから、成人すれば、男のどのスイッチを、どう押せば、どこのライトが点滅するのか、すべて見えてしまうのだ。

▼ ヴェルサイユ宮での貴族たちは、男も女も恋愛ゲームに明け暮れた(映画「マリー・アントワネット」)

  
 下はルイ15世の愛妾として、フランス宮廷で権勢を奮ったポンパドゥール夫人。
 華やかさと美貌、機知とファッションセンス。女としての武器をことごとく手に入れた彼女は、この時代、もっとも人々の注目を集めた女性だった。
 そして、ヴェルサイユ宮殿の宮廷文化を今日に残るまでに洗練させた “影の実力者” だった。

▼ フランソワ・ブーシェ作「ポンパドゥール夫人」(一部)

 下は、同じくフランソワ・ブーシェが描く少女(「オダリスク」)。フランス宮廷で生きる女性たちは若い頃から国王や貴族の男たちの気を引く姿勢を自然に身に付けてしまう。

 同じ女性ながら、絵画的表現に写し取られたイギリス女性とフランス女性ではこれだけの違いが出てくる。
 フランス女の洗練されたセンスと思考様式は、たぶんにフランスが地理的にも歴史的にもイタリア・ルネッサンスの文化と近かったということが挙げられるかもしれない。

 我々が今日、ドラマや小説、さらに流行歌などから学んでいる「恋愛」というものの原型は、このヴェルサイユ宮殿で暮らした貴族や女官たちが繰り広げた心理ゲームから生まれている。


  
 彼らフランス人セレブたちの恋愛哲学というのは、次のようになる。
 
 「恋愛といえどもゲームであるから、駆け引きが必要だ。駆け引きの基礎は “計算” だから、そこには常に合理的でクールな分析力と洗練されたテクニックが必要となる」
 
 そう感じているフランス人の恋愛は、いつもヴェルサイユ宮殿の庭のような華麗さを帯びる。
 そこには、お互いの心理の底までは見せない仮面舞踏会のような楽しさがある。


 
 しかし、イギリス人にとっては、そういう恋愛は「つまらない」ものらしい。 
 彼らはこういうだろう。
  
 「恋愛は、山あり谷ありという大自然に似た起伏のある心理状態をいくつも重ねていくことによって燃え上がっていくものだ。ヴェルサイユの庭のような、超フラットな幾何学模様の世界からは情熱的な恋愛など生まれない」
 
 そういう考え方にも一理ある。
 二つの考え方のどちらに共感できるか。
 この映画をつくったイギリス人たちは、ただの恋愛ドラマと思われがちなストーリーに、ひそかにそんな大それたテーマまで潜り込ませたようだ。
 
  
参考記事 「官能美の正体 (ロココの秘密)」(フランス美術について)
  
参考記事 「ターナー、光に愛を求めて」(イギリス美術について)
 
参考記事 「ロイヤル・アカデミー展を観る」 (イギリス美術について)
  
参考記事 「クロード・ロラン」
 
   

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ヴェルサイユの宮廷庭師 への11件のコメント

  1. Milton より:

    おひさしぶりです、大変興味深く読ませていただきました。

    じつは最近、心理学の勉強とプラトンのイデア論への関心が個人的に高まっていまして(笑)、いろいろ思うところがあるのです。

    たとえば、「イデア」と「ロゴス(論理)」を足すと、「イデオロギー」になるなとか。恒常性(ホメオスタシス)を肉体と心理の両サイドで調べていくと、それはイデオロギーにも適応できてしまうなとか。プラトンの政治観はファシズム的だったなとか。あるいは、古代ギリシャ人の健康への強い関心とかですね。

    なので、あらゆるイデオロギーには不寛容(異端への断罪と修正)の要素があるのか、とかですね(笑)。最近も、フェイスブック上で英語を使って「フェミニズム」をイデオロギーだと批判したのですが(笑)。

    それらの概念は、古代ギリシャ人が思索した秩序(ロゴス)と混沌(カオス)を紐解く上でのカギになるのかなと、今は思うんですよね。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      風邪を引いてしばらく寝込んでおりまして、返信が遅れてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
      プラトンのイデア論、面白そうですね。
      イデア+ロゴスで、「イデオロギー」。
      なるほど ! 納得です。
      イデオロギーが不寛容なのは、「イデア」と「ロゴス」という絶対的で盲目的な信念が結合したものだからなんでしょうね。

      秩序=ロゴス=コスモス
      カオス=混沌=無秩序
      という対比も面白くうかがいました。

      秩序がコスモス(宇宙)であるというのは、とてもいいヒントでした。
      ならば、カオスというのはコスモスの中のブラックホールのようなものかもしれない。
      「秩序」と「混沌」というのは、現代宇宙論の構造そのものだったんですね。
       

      • Milton より:

        実は昨日、あるメッセージを友人に送ったのですが、町田さんにも読んでいただきたいので、ここに抜粋させていただきます。

        以下抜粋。

        いま、心理統計学の勉強をしてるんだけど、なんかいろいろ見えてきたわ。

        たとえば、常識って何?正気って何?ってなったときに、それを判断できるのは数式に則った統計しかない。そのサンプルを引き出すために、各機関や企業がアンケートを取るわけやん(例・国勢調査)

        その質問は実際には数値化されていて(いくつも質問技法の本はあるよ)、それぞれのグループ(年齢別、性別、職業別 etc……)からサンプルを抽出(つまりアンケートの回答)、それを総合して割り出された最頻値や平均値から、さっき書いた「常識」や「正気」を測定する。

        で、そこ(基準値)から著しく外れた人たちに対して、心療内科医が介入してくるわけ。

        たとえば昔なら、「キ●ガイ」「おかま」「ボケ老人」といった蔑称で差別されてきた人たちに対して、彼らが社会的に承認されるように「適応障害、自閉症、統合失調症、性同一性障害(あるいはLGBT)、認知症」といった病名を動員するわけよ。

        つまり、数式において基準値から外れた、外れ値にいる人々を、社会が成熟すると「ケア」する必要が出てくる。というか、言い方を変えれば、社会が成熟することは統計学が成熟することだから、必然的にそうなるんだよね。オバマさん肝入りの政策でもあった。

        これが、おそらく社会が堅苦しくなった理由よ(笑)。

        とまあ、こんな内容なのですが(笑)、こういったテクノクラート(技術官僚)的な考え方って、いかにもフランス的なんですよね。

        西洋文明を掘り下げるのは、絶えず知的好奇心をくすぐられます。

        • Milton より:

          それと、御身体にはご自愛ください!返信は、いつでも構いませんよ。

          • Milton より:

            あらためて自分のコメントを見直して気づくところがあったので、訂正・補足させていただきます。公開されているので。

            まず、LGBTは病名ではありませんし、私も病気だとは思っておりません。かつてはよくゲイバーにも通っていましたし、何ら偏見もないです。

            なので、性同一性障害という医学的な疾患名についても、個人的には違和感があります。

            そして、なにより私が言いたかったのは、私自身としましては、ポリティカルコレクトネスには反対の立場なんですよね。

            そういった「正しさ」を行政あるいは社会が率先して定義することに対して、違和感を感じます。それぐらい、個人で判断できるだろうと。

            もちろん、私は差別反対です。ただし、イデオロギーや党派をバックボーンにして戦うのではなく、私個人として差別と戦っていくつもりなので、ここまで書かせていただきました。

        • 町田 より:

          >Milton さん、ようこそ
          いつも示唆に富んだ面白いコメントをいただき、ありがとうございます。
          いろいろと考えるべきネタがばら撒かれているので、脳を活性化させるには最適なコメントですね。感謝いたします。
          今回のお話も、「秩序」vs「混沌」というテーマのバリエーションになりますね。

          「世界」というものを総括的に捉えるためには、まずその「構造」を把握せねばならず、「構造」とは、すなわち数式モデルに還元される、… というのが、現在のテクノクラートの基本的な認識であり、統計学というのも、まさにそこから出て来るということなんですね。

          このような “世界解釈” は、基本的にラテン語の系統の文化から生まれてくるように思えます。すなわちフランス語であり、その元となっているローマ語ですね。
          ラテン系の言語は、確立された規範を背景に持っているから、多義性を許さないし、あいまいさを排除する。
          すなわち、古代ローマから連綿と受け継がれてきたギリシャ文明 + ローマ文明 + キリスト教徒文明が、その柱になっているということなんだと思います。

          それに対して、アングロサクソンの言葉 …… すなわち英語ですけれど、これはヨーロッパ大陸の辺境に位置していた島国の言葉ですよね。
          イギリスは、文化的には、ローマ文化が十分に浸透しきれなかった場所ですし、それだけヨーロッパ大陸の古民族であったケルト人の文化の残滓が残りやすかった地といえるでしょう。
          だから、ここの言語は、ローマ・キリスト教的な言語文化と土着的な言語文化が混沌と混ざり合っている。
          ま、いわば “魑魅魍魎” の言語です(笑)。

          … ということは、逆にいえば、 “ユダヤ・キリスト教的なドグマ” に捉われない独自の言葉が、次第に輝きを帯びるようになっていった。
          つまり、イギリス語から導き出された感性が、合理的な着地点を持たない “恋愛” という神秘的な心の軌跡を追うことを可能にした。
          そんなふうに思うこともあるんですね。
          ヨーロッパ最古の恋愛文学といわれる「トリスタンとイゾルデの話」(アーサー王伝説に収録)が、恋愛文化の爛熟したフランスよりも先に、イギリスで生まれていたというのも、なにやら示唆的な話のように思えます。
           
          このあたりは、外国語に強いMilton さんの方がよりしっかりした考察をされることでしょうけれど、コメントをいただき、ぼんやりと上記のようなことを考えた次第です。
           

          • Milton より:

            仰る通りですね!こちらこそ、とても勉強になります。回答していただき、どうもありがとうございます。

            本当に、イギリスとフランスのコントラストは興味深くて、法概念でもイングランド法(自然法)と大陸法(法実証主義)といった大きな違いがあります。

            新自由主義者から言わせれば、フランスから多大な影響を受けたイギリスの社会主義思想を脱したのが、ハイエク思想(つまり新自由主義)の熱烈な信奉者であったサッチャーだったのでしょう。いわゆる、ルネッサンス(再生)運動にも見えますね。

            いま日本でも「忖度」といった単語が話題になっていますが、言語的に固有な概念が、その国の思考回路に多大な影響を与え続けているのは間違いないでしょう。

            それと、統計学を熟知したテクノクラート的な思考の源流には、間違いなくあのプラトンがいます。

            そんなプラトンは、あのフーコーが絶賛した名著「パイドロス」のなかで、愛を賛美しているのが実に興味深い。やはり、古代ギリシャはすごいです(笑)。その材料も準備していたのかという。

            いつものように脱線ばかりしてしまいますが、本当に町田さんとのやりとりは大きな刺激になっています!ありがとうございます!

  2. Milton より:

    「カオス」(無秩序)の対義語は「コスモス」(秩序)でしたね。

  3. いとうゆうこ より:

    こんにちは。
    拝読させて頂き、深く共感いたしました。
    私は、大学での専攻がフランス文学なのですが、むしろ、文学よりも、哲学、思想を学びました。
    自分として、けっこう徹底的に学んだかもしれない、と思うのですが、それで結局何を得たかというと、「私、これ、好きじゃない」という感想と、西洋文明に対するちょっとした冷め感でした。
    アメリカの精神的源流はフランスですよね。独立記念の自由の女神、フランスからもらったものですもんね。
    アフリカの公用語、フランス語のところが多いと思うのですが、植民地だったから。
    あの、フランスの、何でもかんでも支配してしまえ、自然も人間も支配してしまえ、という、私から見ると、傲慢に見えるところが好きじゃないのです。
    人間を支配するということは、社会的存在である前に自然の生き物である動物である自分自身の命をも閉じ込めてしまいませんか?それ、窮屈じゃないですか?と思うのです。
    私は今のところに住む前、競技場として設計された公園の近くに住んでおり、大きい公園があるだけありがたいとはいうものの、あの人工的過ぎな感じが正直、好きではありませんでした。
    今は、古墳がそのまま公園になっている公園の近くに住んでます。とても自然な公園で、井の頭公園と似ています。好きな公園です。

    • 町田 より:

      >いとうゆうこ さん、ようこそ
      これまでのいとうゆうこさんのコメントを拝読するたびに、とても深い教養を身に付けられた方だと思っていたのですが、その秘密を教えられたように思います。
      いとうさんの思索の背景にはフランス哲学があったわけですね。
      しかも、同時に西洋文明に対する懐疑も持たれたとか。

      アメリカという国は、イギリスと同じアングロサクソン民族が主体となって形成された国で、イギリスの文明思想を受け継いだ人々が多いと思い込んでいたのですが、むしろフランス文明との親和性が高いというのはいとうゆうこさんにコメントで始めて気が付きました。

      いわれてみれば、その通りですね。
      アメリカ大陸というのは、ヨーロッパ以上にむき出しの「自然」がゴロンと広がっていた世界だったので、それを必死になって征服・開拓しているうちに、知らず知らずのうちにフランス的な秩序志向が身に付いていったのかもしれませんね。
      自然と共存して狩猟採集生活をしていたネイティブ・アメリカンの人々を、無理やり居住区の中に閉じ込めて、強制的に農業をやらせた白人たちの仕打ちなどを見ていると、そんな気がしてなりません。

      さらにいえば、アメリカのディズニーランドというのは、やはりフランスのヴェルサイユ式庭園文化を受け継いでいるように思えます。
       

  4. Get より:

    お邪魔します。

    例のごとく、コメント送信をクリックしたら本文が消滅しました。
    ”エラーが発生しました”。
    なので、怒り狂って上記を記入送信。
    ”コメントが見つかりましたが、重複されています。
    とのことでして、本文ではないものを送信してくれたようです!*#@!
    すみません、消去してください。
    興奮すると日本語がダメになります。
    悪しからず、、、。

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