小さな巨人とジュラシック・ワールド

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 最近のテレビドラマで面白いと思っているのは、日曜日の夜に放映される警察ドラマの『小さな巨人』(TBS)である。
 政界・財界と癒着した警察機構の “闇” の部分に戦いを挑む正義感に燃えた一刑事(長谷川博己)と、彼の心意気に共感する同僚や部下たちの話だ。

 よくある筋書きではあるのだけれど、脚本も演出も非常に洗練されていて、先が読めない展開で飽きさせない。
 ついつい話に引き込まれてしまうので、一話が終了すると、即座に次の話が待ち遠しくなる。

 見どころは、やっぱり香川照之という役者である。

 香川照之は、長谷川博己が演じる真面目一辺倒の刑事の上司として登場。
 主人公とは対照的に、自分の上司や同僚を裏切る形で出世を遂げ、自己保身のために、ことあるごとに主人公の捜査を裏で妨害する。
 そういう “絵に描いたような” 悪辣な上司役を、香川という俳優はものの見事に演じ切る。

 表情がうまい。
 烈火のごとく怒った(振りをする)ときの顔。
 権力のあるものに媚びるときの顔。
 相手を油断させて罠にはめるときの甘い笑顔。
 どの表情にも、ヘドが出そうな嫌らしさがにじみ出る。
 
 こういう巧みな “顔芸” がこなせる役者は、いま日本の俳優陣の中でもこの人しかいない。
 「この顔芸に飽きた」という感想を持つ視聴者もいるようだが、香川照之の絶品ともいえる “顔芸” がなければ、おそらくこの『小さな巨人』というドラマ自体が成り立たないだろう。

 大ヒットドラマの『半沢直樹』(2013年)も、あの高視聴率の影には香川照之の顔芸があった。
 あのドラマは、主人公の半沢直樹を務めた堺雅人の個性が際立ったからドラマとしての評価も高かったが、この『小さな巨人』の場合は、主人公の長谷川博己が、堺雅人ほどの突出した個性を打ち出していない。
 長谷川が演じているのは、仕事を離れたら真面目だけが取り柄の退屈な男でしかない。
 
 つまり、長谷川博己は、敵役の香川照之の “嫌らしさ” が強調されることによって、ようやくその対比としての “正義の輝かしさ” を手に入れているのだ。

 そういう意味で、私にとっては、この『小さな巨人』というドラマの主役は香川照之なのである。
 
 
 また、この日曜日には、BS放送で、スピルバーグ監督の『ジュラシック・ワールド』(2015年)を観た。
 エンターティメントとしては、けっこう面白かった。
 少なくとも、シリーズ第一作目の『ジュラシック・パーク』(1993年)よりは楽しめた。

 『ジュラシック・パーク』では、CGで制作された恐竜たちがあまりにもリアル過ぎて、観ているうちに刺激に慣れてしまい、最後には動物園でライオンやキリンを見ているのと変わらないような気分になってしまった。
 そして映画館を出たあとに、「リアルすぎる恐竜というのは案外退屈なものだな」とつぶやいた記憶がある。

 そういった “退屈なリアルさ” は、この『ジュラシック・ワールド』にも引き継がれている。
 しかし、ストーリーの構成が『ジュラシック・パーク』よりは練れていたので、最後まで退屈せずに観ることができた。

 
 
 それにしても、ハリウッド製の怪獣映画というのは、やはり何かが足りない。
 日本の怪獣映画にあるものが、向こうの映画にはない。
 ハリウッド製の『ゴジラ』を観たときも、それを感じた。

 足りないものとは何か。
 それは現実感である。

 リアルであることと、現実感を伴うこととは若干違う。
 ハリウッド製の怪獣たちは、物質的なリアルさはあっても、心理的な現実感が乏しいのだ。

 確かに、ハリウッド製の恐竜や怪獣では、動き回るときの筋肉の動きまで巧みに映像化されている。
 さらに、やつらが近づいてくるときの息遣いや、吐き出す息の臭さのようなものさえリアルに伝えてくる。

 しかし、そういう物理的リアルさには、観客はすぐ慣れてしまうものだ。
 だから、観客は、「やつらは絶対スクリーンの外には飛び出してこない」という “安心感” を得ることができる。

 それに対して、昨年観た日本製の『シン・ゴジラ』は、ほんとうに多摩川を越えて、東京に迫ってきた。
 つまり、“もしかしたら、あり得る !” という心理的な現実感をかもし出すのに成功していた。

 その違いはどこから来るのか。

 シン・ゴジラは、生物としてのリアルさを描くよりも、その存在自体の不条理さを描こうとしたのだ。

 ジュラシック・ワールドの生物たちは、その存在が合理的な根拠によって説明できる。
 しかし、ゴジラは説明体系を拒む “闇” を抱えている。

 「いるはずがない生き物」が、もし見えるとしたら、それは “悪夢” でしかない。
 この世に存在する生物なら、最後には化学兵器のようなもので退治できるかもしれないが、人間の脳内に去来する “悪夢” を退治する兵器はない。

 合理的な説明がつく怪獣たちは、結局はスクリーンから抜け出てくることはないが、“悪夢” は映画を観た夜、寝ているときに脳内をはいずり回る。
 ゴジラの怖さは、悪夢の怖さである。
 だから、リアルなのだ。
 
 

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