最近のCMは完成度が高い

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 日本の「テレビCM」というのは、ものすごく高度な表現を獲得していると思うことがある。

 なんていえばいいのか。
 たとえて、いえば、わずか15秒から30秒で完結する “映画”、あるいは “ドラマ” 。
 そんな凝縮した完成度を感じることがあるのだ。

 たとえば、長澤まさみと松尾スズキが登場する「虫コナーズ」(キンチョウ = 大日本除虫菊)のCM。

 

 古びた日本家屋で暮らす娘と父。
 2人の会話は、こんなふうに進む。

【長澤まさみ】 虫コナーズが、ほんまに効いてんのんかどうか。 いっぺん外してみるわって、去年言うてた吉田さん ……
【松尾スズキ】 ほぉ

【長澤】 どうなったと思う?
【松尾】 どうなった?

【長澤】 どうなったかは知らんねんけど
【松尾】 知らんのんかいなっ?

【長澤】 知らんねんけど ……………今年、またぶらさげてはるわ
【松尾】 ほぇ~

 これって、はたしてCMなのだろうか?
 おそらく、大半の視聴者はなんともいえない違和感を感じるだろう。

 もともと、キンチョウのテレビCMは、視聴者があえて違和感を感じるようにつくられているものが多い。
 その違和感から生まれる奇妙な笑いが、キンチョウのCMの個性でもある。

 だが、この虫コナーズの「どうなったと思う?編」は、もう違和感を通り越して、不条理に近い。
 ことさら奇妙さが強調されているわけでもなければ、笑いへの誘導線もない。
 ここにあるのは、まさに、日本の家庭のどこにでもありそうな、親子の日常会話をそのままなぞったような自然さだ。
 ただ、その “自然さ” は、けっきょくこの世のどこにもない “自然さ” なのだ。


 
 このCMに、なんともいえない不条理感をもたらしているのは、“間” である。
 娘が、父親に「知らんねんけど」といってから、「今年またぶらさげてはるわ」という言葉につながるまでの、異様に長い “間” が、このCMに一種の不条理感をたぐり寄せている。

 CMというのは、15秒もしくは30秒の間に商品の訴求ポイントをしっかり視聴者に記憶させるという使命を持っている。
 だから、商品の特徴を詳しく訴求するためには、できるかぎり無駄な時間を省きたいと思うのがCM制作者たちの偽らざる心境だ。

 なのに、このキンチョウのCMは、その貴重な30秒のうち、なんと7~8秒を親子がただ見つめ合うシーンに費やしている。
 その間、音は途絶え、出演している2人の姿勢も、ほぼ凍結したままだ。
 最大30秒しか許されない貴重なCMの時間の中核に、常軌を逸したような異様な “間” がどっかりと居座っているというのが、このCMの不条理感の正体だ。

 結果的に、このCMは視聴者の記憶にこびり付く。
 「虫コナーズ」という商品名が、強い違和感として、視聴者の脳裏に刻み込まれるのだ。
 テレビCMにおいては好感度を得ることよりも、商品名を覚えてもらうことの方が重要だとするのなら、結果的にこのCMは成功したと言わざるを得ない。
 
  

  
 印象に残るCMのほかの例を挙げるとすれば、パナソニックのロボット掃除機「ルーロ」のCMがある。
 俳優の西島秀俊を起用した作品で、「ルーロ」の三角の形状が、床の隅々に溜まるゴミを効率よく吸い込むのに適しているということを訴求するCMだ。

 

 ルーロが床掃除をしている状況を、部屋の主である西島が観察している。
 「あんな隅まできれいにされたら、ゴミも逃げ場がないな」
 と、彼はそう思いながら、掃除機の動きを目で追う。

 ところが、彼は突然ルーロに吸い込まれるゴミに “感情移入” してしまうのだ。
 画面が一気に変わり、ゴミになった西島は、ゴミ仲間と一緒に部屋のコーナーに追い込まれて絶叫する。

 一瞬にして、彼は現実に戻るのだが、ゴミとなって逃げまわっていたときの感覚は心の片隅に引っかかったままだ。
 それが、ゴクリッと唾をのみ込む西島秀俊の表情からうかがえる。


 
 なんと繊細なCMだろう。
 ゴミに感情移入して、ゴクリと唾を呑み込む主人公の映像など、商品を訴求することを考えるならば何の意味もない。
 
 しかし、このときの西島秀俊の表情には味がある。
 ゴミでなかった自分に安堵するわけでもなく、掃除機の能力に感心するのでもなく、視聴者の憶測を突き放すような “空白の心” が、一瞬顔に現れている。
 その表情が視聴者の脳裏に “謎” として残り、結果的にCMで訴求される商品を印象付ける。

 ここにも、“間” がある。
 西島が、人間からゴミになり、ゴミからまた人間の戻るときの “間” だ。
 そして、その “間” から、かすかな不条理感が浮上してくる。

 けっきょく、この不思議な不条理感があってこそ、このロボット掃除機の吸引力の強さが強調されるのだ。
 これなど、もう15秒で完結する “ドラマ” そのものといってよい。
 
  
 
 
 同じように、“15秒ドラマ” として印象に残ったCMをもう一つ挙げてみたい。
 それは、山田孝之が演じるフリマアプリの「フリル」のCMである。

 
 
 フリーマーケットで商品を買った女性が、売り主の女性に5000円のお金を渡そうとする。
 すると、どこからとなくやってきた男が2人の女性の間に割り込み、おカネを払おうとする女性から5000円を取り上げ、売り主に4500円だけ渡すのだ。
 その男が俳優の山田孝之。

 セリフはこうだ。

 「ハイ、5000円ね。販売手数料引いて、ハイ、4500円」

 4500円に差し引かれた女性は、山田孝之のあまりの図々しさに言葉を失ってしまう。
 その不信感をあらわにした女性に向かって、山田が諭すようにいう。
 「なんだよ。販売手数料ね」

 このときの山田孝之の表情と、そのセリフの語調が絶妙。
 ニヤリと不敵な笑いを浮かべ、言外に「文句は許さねぇぜ」的な脅しをチラリとほのめかしたまま、表面的にはあっけらかんとした笑顔で取りつくろう。

 そういう歴戦練磨の男の図々しさが、「なんだよ」ととがめるときの笑顔や、「販売手数料」と言いくるめるときの口調。そして、肩のあたりで軽く外側にカールしている長髪などから、見事に伝わってくる。

 視聴者は思う。
 「あぁあ~ …… 。いるよな、こういう男。働かずに女のヒモになって食いつないでいたり、闇金の取り立てて暮らしているようなチンピラ」
 視聴者の誰もが、そういうずる賢い男の姿を山田孝之に重ねてしまう。

 山田孝之にとっては損な役割なのかもしれないが、逆にいえば、それだけ俳優としての演技が冴えわたっているということになる。

 そして、チンピラ役の山田に対し、終始無表情のまま沈黙の抗議を貫く女性の表情もいい。
 彼女もまた、視線を動かすだけの演技で、山田の好演にしっかりと応えている。
 だから、2人のやり取りを見ているだけで、短い “ドラマ” を見ているような気分になる。

 いずれのCMにも共通していえることは、“間” の作り方に長けているということだ。
 CMに限らず、漫才やコントのようなお笑い芸においても、面白さを誘い出すのは芸人たちが生み出す “間” だ。
 この “間” が、長すぎても短すぎてもダメ。
 生物の命の波動から生まれくる絶妙の “間” には、人はどうしても快感を感じるようにできているのだ。
 
 “間” はタイマーのようなもので割り出されるものではない。
 メトロノームでも測れない。
 その頃合いを見つけるのは、その人間の感性である。
 だから、そういう “間” を自在に操れるプロを、我々は「役者」とか「芸人」とか呼ぶのである。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

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