ジェームズ・ブラウン ~最高の魂を持つ男

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 BSテレビのWOWOWシネマで、2014年に公開された『ジェームズ・ブラウン ~ 最高の魂(ソウル)を持つ男』という映画を観た。
 
 ジェームズ・ブラウン。
 60年代~70年代のソウル音楽シーンをけん引したスーパーミュージシャンだ。

▼ 映画の予告編

▼ 映画ではなく本物のジェームズ・ブラウン 「セックスマシーン」

 映画の原題は『Get on Up』。
 ジェームズ・ブラウンの最大のヒット曲「セックスマシーン」(↑)の中で連呼される掛け声だが、要は “勃起しろ !” と叫び続けているわけで、彼の音楽思想の原点をなすような言葉だ。
 しかし、ジェームズ・ブラウンも「セックスマシーン」も知らない観客にとっては意味のない掛け声なので、「最高の魂(ソウル)を持つ男」というごく健全な邦題に落ち着いたとみられる。

 ジェームズ・ブラウンがどういうサウンドを築いてきた人かというのは、上の動画が端的に語っていると思うが、聞いて分かる通り、これは “音楽” ではない。

 では何か?

 「リズム」である。
 彼の音楽の大半はワンコードで構成され、基本的にメロディーというものがない。
 延々と続くのは、果てしないリズム。

 だが、そのリズムは炎のリズムであり、それこそ魂を焦がすリズムであり、人を狂気と歓喜に導くリズムである。
 言い方を変えれば、「グルーブ」という言葉も使えるだろうし、「ファンク」といってもいいのかもしれない。

 こういうリズム …… すなわち、観客が立っていようが座っていようが、無意識のうちに腰が左右に浮き始める画期的なリズムを創出したという意味で、彼は天才なのだ。

 で、この『ジェームズ・ブラウン ~最高の魂を持つ男』という映画は、「彼がいったいどういう天才なのか?」ということをガムシャラに描こうとした作品ともいる。

 「天才」は、常人の生き方のコード(規則)に縛られない。
 のみならず、周囲にいる人間のコードを乱暴に破壊し、時にその心をへし折り、失意の底に突き落とす。
 
 この映画に登場するジェームス・ブラウンという男は、まさにそういう魔性の生き方を貫いた人間で、自分の欲望のおもむくままに、妻も恋人も取り換えひっかえ。親友の友情も平気で踏みにじるし、バンドメンバーにはやたら強圧的な態度で臨むためにバンドマンたちからは何度も愛想をつかされ、固定的なメンバーにも恵まれない。

 気持ちが激高してくると、彼の言動には見境がつかなくなる。
 ささいなことで一般市民を銃で脅し、警官隊とカーチェイスを繰り広げたすえに銃撃戦に及び、人気が最高潮に達した時代に刑務所暮らしも味わう。

 ま、“ヤクザ者” の典型ともいえるキャラクターの持ち主なのだが、そのつくり出すサウンドとダンスパフォーマンスだけは革命的に斬新なもので、その音と踊りに魅せられてしまうと、けっきょくどんな女たちも、興行師たちも、マネージャーも、バンドマンも、まさに魔神にひれ伏す盲目的な信者として拝跪してしまう。

 彼を動かすエネルギーは、どんな逆境においてもマグマのように噴きあがる揺らぎのない自信と自己中心的な上昇志向。
 その思想は、基本的に女性蔑視に通じる “男根主義的” なマッチョイズム。

 そのような “負” のエネルギーともいえる諸々の感情が、火薬庫が爆発するような強烈なリズムをつくり出すという一点に集約してしまうところに、彼の偉大さがある。

 映画のなかで、印象的なシーンがある。
 バンドマンたちとの練習風景を描写したシーンだ。

 練習曲は「コールド・スエット」。
 出だしが気に入らなかったのか、ジェームズが不機嫌な顔で、「やめ ! やめ !」と叫ぶ。
 「お前らは、俺の音楽をまだ理解していない」
 ジェームズが怒る。

 彼のバンドでは、ギター、ドラムス、キーボードなどのほかに数々のホーンセクションが参加しているのだが、ホーンを担当するミュージシャンたちにはそれなりにプライドがあって、いつもジェームスのサウンド構成に納得しているわけではない。
 
 この日も、過酷な練習が続いていることに嫌気がさしてきたサックス担当のメシオ・パーカーが、ジェームスの要求する音合わせに異論を差し挟む。
 「メンバーのなかに技量の劣っている者が混じっているために、音が不安定になる」とメシオは指摘する。
 のちにファンキーなサックス奏者として名をはせることになるメシオ・パーカーだけに、彼の意見にはそれなりに建設的な意図があったのだろう。

 だが、それがジェームズ・ブラウンにとっては生意気な態度に映る。
 つまり、ジェームズは、個々のメンバーの演奏レベルなどを問題にしてはいなかったのだ。
 そうではなく、楽器に対する思想を問題にしていたのだ。

 ジェームズは、おもむろにメシオに対して質問する。
 まず、ドラムスを指して、
 「この楽器は何だ?」
 メシオが答える。
 「ドラムス」

 「よし。では、この楽器は何だ?」
 と、次にギターを指して尋ねる。
 「ギター」
 とメシオが答える。

 「違う ! ドラムスだ」
 ようやくジェームスが声を荒げる。
 「では、この楽器は何だ?」
 次にジェームスが差したのはメシオのサックスだ。
 
 「サックス ……」
 という答に、ジェームスの怒りは頂点に達する。
 「違う ! これもドラムスだ」
 そういって、オルガンを指し、トランペットを指し、
 「これもドラムス、こちらもドラムス」
 と、ジェームスは形相すさまじく連呼するのだ。

 このシーンは、非常に分かりやすくジェームス・ブラウンのサウンド哲学を表現した場面だった。
 つまり、彼にとって、すべての楽器はドラムスに代表されるリズム楽器だったのだ。
 そこから、彼の「ファンク」も「グルーブ」も生まれてくる。

 不承不承ながら、メンバー全員がそれを意識して、再度「コールド・スエット」がスタートする。
 そこにはジェームズ・ブラウンの思想が乗り移ったサウンドが生まれている。
 観客はみなそこで鳥肌が立つのを感じるのだ。

 ジェームズ・ブラウンを演じるのはチャドウィック・ボーズマン。
 声も似ている。
 ダンスもうまい。

▼ チャドウィック・ボーズマンの演じるジェームズ・ブラウン

 しかし、本物のジェームズ・ブラウンに比べると、いくらか顔が “端正” である。
 あのネイティブ・アメリカンの血も混じっているといわれるジェームズの荒くれた顔に、チャドウィックはビジュアル的に届かない。

▼ 本物のジェームズ・ブラウン

 私は、ジェームズ・ブラウンのヒット曲をリアルタイムで追っていたし、ディスコでよく踊った。
 武道館で行われた東京公演も見に行っている。
 そういった意味で、ジェームズ・ブラウンの “本物の質感” といったようなものをずっと体感しながら生きてきた。
 だから、映画に出て来るチャドウィック・ボーズマンの顔には、最後までなじめなかった。

 でも、この映画は、ファンがどう思おうと、ジェームズ・ブラウンの “負のエネルギー” こそが彼の想像を絶するサウンドの源泉となっているという秘密を解き明かしたという意味で、それなりに真面目につくり込んだ映画であったと感じる。
  
  
▼ 『ジェームズ・ブラウン ~最高の魂を持つ男』 スペシャル映像 

 
 
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カテゴリー: 映画&本, 音楽   パーマリンク

ジェームズ・ブラウン ~最高の魂を持つ男 への21件のコメント

  1. くどう より:

    ご存知かもしれませんが、2003年の邦画に「ゲロッパ!」ってのがありますね(笑)。
    主演で西田敏行が出てて、彼がヤクザの親分なんですが、
    話の中(一応クライマックスなのか?)で、ジェームス・ブラウンのSEX MACHINEをやるんですね。
    ストーリーはどうってことないし、わざわざジェームス・ブラウンの曲をモチーフにする必然性も全く感じられないし(他の曲でもストーリー上は全く問題ない・・・はず。裏になんらかのテーマがあるのかもしれませんけど私には予備知識もないし理解できませんでした。ヤクザの親分が監獄に行く話なんでそのイメージと結びついたのか?)、
    個人的には「だから何?」って感想だったんですが、あの映画は一体全体何だったんろう(笑)。監督の趣味だったんでしょうか。
    関係ないですが、ジェームスブラウンが15回も来日しているというのも地味に驚きです。日本人の感性とはさほど相性がいいとも思えないんですが、人種だとか民族とかを超越して根源的に五感に訴えかける、そんな音楽家(律動家と呼ぶべきか?)だった印象です。

    • 町田 より:

      >くどう さん、ようこそ
      井筒和幸監督の『ゲロッパ !』は、確かに話題になりましたね。
      私はまだこの映画は観ていないのですが、JBの音楽をテーマにしたということは、おっしゃるように、監督自身が若い頃、ジェームズ・ブラウンの音楽に共感を感じていたことを示すものかもしれません。.

      ジェームズ・ブラウンの音楽が、≫「日本人の感性とさほど相性がないいとは思えない」というご指摘は、まさにその通りであるように思います。日本人はどちらかというと、リズムよりはメロディー志向であり、しかも情緒性のあるマイナーキーのメロディを好むというのが定説です。
      しかし、だからこそ、そういう日本人的感性とは無縁の音を炸裂させたジェームズ・ブラウンの音楽が当時の日本人には際立って刺激的に聞こえたということはあるかもしれません。

      人間が体内に心臓を持ち、その機能を軸に生命活動を行っているとしたら、その心臓の鼓動を象徴する “リズム” というのは、人間にとってまさに「生命のサウンド」なのでしょうね。だからこそ、リズムは、人種も民族も超えていくのかもしれません。
      そして、そういうリズムを追求していったジェームズ・ブラウンのことを ≫「音楽家ではなく律動家」と指摘されたことは言い得て妙であると思いました。
       

  2. 木挽町 より:

    やっぱJBは臭さが魅力でいいですね。当時は無我夢中で先輩のステップを覚えました。

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      おっしゃるとおりです ! 
      ≫「臭さが魅力」
      それこそ世界の人々がJBに求めたものですね。
      ファンキーというのは、この “臭さ” を意味する言葉ですものね。
       

  3. ようこ より:

    こんにちわ~町田さん

    しばらくブログのアップがなくて、不調なのかと
    心配をさせて~え
    それで、こんな元気そうな !(笑)

    随分前になるけど、いつだったか
    この映画の事をお話をしたように記憶しています。
    そうです彼の売りは何と言っても泥臭さですよね。

    彼の曲が始まると尻の下からリズムが突き上げ
    じっと座っていられないという感覚がありましたね。
    そうそう、私も武道館にいっていました。

    最近は自分の身体もメローになってきて、いやメロメロか>__<
    こんなのも聴いたりします。夫が彼はR&Bを歌えると
    言うのですよ。

    https://www.youtube.com/watch?v=dkN_-x3mROs

    • 町田 より:

      >ようこ さん、ようこそ
      もちろん覚えていますよ ! ようこさんのコメント。
      ≫「泥臭さが魅力」。
      おっしゃる通りですね。

      昔読んだ白石かずこさんの『ブラックの朝(思潮社 1974)』という本で、彼女が「ジェームズ・ブラウンのR&B と、ジョン・コルトレーンのJAZZは同じ種類のものだ」と言っていたことを記憶しています。

      コルトレーンもあの時代、自分たちのルーツであるアフリカ的リズムに触発されたサウンドなどを模索しつつ、音楽における魂(SOUL)とか精神性(スピリチュアル)といったものを自分の音楽に取り入れようとしていました。たぶん、両者とも洗練された白人文化とは異なる黒人的価値というものを追求しようという姿勢があったのだと思います。それが、黒人のいう “臭さ” ですものね。

      この曲、すごくいい !
      これ、曲調はすでにソウルでしょ?
      「彼はR&Bを歌える」というご主人様の見方は正解ですね。
       

      • ようこ より:

        町田さん
        愛する家族の一員だったクッキーに突然逝かれて
        さぞかしお心をおとされておられるでしょうに
        お返事を書いていただいて、恐縮です。

        私も数年前に可愛いがっていた猫を亡くし寂しくて
        いわゆるペットロス状態がしばらく続き、もう二度と
        ペットを飼いたくないって思っていました。

        でも、時間の治癒力って中々なもんです。三年が過ぎ
        楽しい良い想い出ばかりが思い出されてきて、夫も私も
        近頃は『飼お~か~』『それもいいねえ』なんて。

        木挽町さんのお薦め*ソウルバー*に
        ご一緒したいなあ、冗談でなくほんとに行きたいなあ 
        パ~っと ^ ^

        • 木挽町 より:

          http://www.dooddot.com/soulbar/ ←ココです。パーッと行きましょ~。

          • 町田 より:

            >木挽町さん、ようこそ
            お返事遅くなり、誠に申し訳ございません。
            見ましたよ ! バンコクのソウルバーのHP。
            ともて面白そうなところです。
            ほんとうにパーッと行きたいですね。
            どこにもで面白そうな遊べる場所を探して楽しんでいらっしゃる木挽町さんがうらまやしい !
             

        • 町田 より:

          >ようこさん、ようこそ
          せっかくのご厚情溢れるコメントをいただきながら、返信を送るのに2ヶ月もかかってしまい、ほんとうに申し訳ございません。
          決してペットを失って放心状態であったというわけではないのですが、やはりいろいろな行動を起こすのが面倒くさいという気分が続いていたのは事実です。
          あれから2ヶ月経ちましたが、いまだに外でクッキーと同じ犬種の犬を見かけると、しばらく立ち止まったまま、ずっとその後姿を追いかけていたりします。
          でも、最近またぼちぼちブログを更新するようになりました。
          しばらくは犬をテーマにしたものから遠いところから始めようと思っています。
          今後ともよろしくお願いもうしあげます。
           

  4. 木挽町 より:

    バンコクでソウルバー見つけました。なかなか。けっこういいです。なんと店のエクステリがJB。レジデンスからは少し離れたとこにある店ですが通ってみます。

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      バンコクでの楽しみ方をだいぶ身に付けられたようですね。
      お元気そうでなによりです。
      その場所、私も行ってみたい !
      どういう方が経営していらっしゃるのかな。
      タイにも、アメリカの黒人音楽ファンというのがいるんですね。
      素晴らしい !
       

  5. 北鎌倉 より:

    マンガ家・楳図かずおさんアシスタントをしていた十代の終わりに、「メロディなんかいらないリズムだけでも作品は成り立つ」そう云われたことをおぼえています。

    マンガ少年だった自分はハラハラ・ドキドキ・ワクワクのストーリーを創れるのがプロだと固く思い込んでいましたから、先生の言葉がうまく飲み込めなかったのです。

    それまでレコード一枚買ったことがない無知でしたが、聴きながらわかったのは、音楽をもっと自由に考えていいんだ、ということでした。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      楳図かずお先生は、私も大好きな漫画家です。
      吉祥寺の街で、一度お見掛けしたことがあったかな。
      楳図さんのアシスタントとは、またずいぶん貴重な体験をお持ちですね。
      漫画の世界のトップランナーでありながら、楳図さんはまた音楽にも造詣が深かったんですね。
      「メロディなどは要らない、リズムだけでも作品は成り立つ」というのは至言であるようにも思えます。
      貴重な報告、ありがとうございました。
       

  6. 北鎌倉 より:

    高齢の母は、日に何度も同じことを聞きます。でも昔の話になるとエピソードも具体的で、場面の表情も鮮明です。いったい近い過去と遠い過去が、母の中でどうなっているのでしょうか。

    マンガや映画や小説で、人はなぜ物語を求めるのでしょうか。一つの作品で百や千のカットがあります。そのいちいちを覚えていられないので、物語化して記憶にとどめるのでしょうか。

    そうだとすれば、母は物語としてとらえられるものについては前後関係がしっかりしていて、近い出来事は物語化ができていないので忘失する、ということなのでしょうか。

    現在に追われているから、現在こそよく知っていると考えがちですが、そうではなく、むしろつかめないのが現在なのかもしれません。

    考えているのだから今現在があると思いがちですが、そこには遅れ、差異があります。それを隙間と言ってみれば、私たちは隙間だらけの時間を生きています。その隙間を意識が後追いしているような気がします。

    もしかして母は、遠くにあるものだけで、もう十分といっているのかもしれません(笑)。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      とても興味深いお話でした。
      人間の年齢と記憶の関係、あらためて考えさせられました。

      私もまた、北鎌倉さんと同じように考えたことがあります。
      それは、ある人が掲げた「真のリアルとは何か?」という問題定義に触れたときでした。

      その人にいわせれば、人間は、いま眼前に展開しているものを十分に理解することはできない、というわけです。
      「現在」というのは、常にカオス(混沌)の中にあり、不分明な闇のなかでうごめく、正体不明の事象の連続である、と。

      そして、そういうカオスこそが、実は “リアルな現実” というわけですね。
      という意味で、実はフランツ・カフカなどの文学こそが、真の意味でのリアリズム小説であると。

      しかし、人間はいつまでもカオスのなかに生きていくことはできないので、混沌とした状況から抜け出すために、状況の整理を始める。

      その状況の整理のプロセスを「記憶」といい、さらに「記憶」したものの中から、今後の人生に有用なものだけを取り出せるように便宜的に分類したものが「物語」であると。

      北鎌倉さんがお書きになられたメールは、まさにそういうことを指摘されたのだと感じました。
      とても勉強になりました。
      ありがとうございます。
       

  7. 北鎌倉 より:

    人が見る夢は、なぜあんなにもリアルなのか驚くばかりです。カフカの小説もその夢と同じリアリティを感じてしまいます。

    聖書や神話に匹敵するほどの、現実に従属しないリアリティの原理のようにみえます。決して俯瞰できないというか、カフカの懐でしか体験できないような、そこを離れたとたん消えてしまうような、読む時間の中でしか、カフカの作品は存在しないようなのです。

    夢は問答無用にリアルです。誰が見ていて、どこに主語があるのか?このあいまいさ、自分が見ているのだから自分の画ですが、自分はどこにも出ていない。夢の画面にいたとしても、ではそれをいったいどこから見てるのか。これがわからない。

    よくよく考えると、夢は身体が休止してる状態と、そう考えるとわかる気がします。身体がない状態の視覚と考えることができます。だから生き物の視点というものが存在しない。

    主観・客観というのは、身体があるところにしか生まれない発想です。行動する中心として身体があってこそ、自分が主、対象が客と分けることができます。夢のように行動する身体がなければ、主観も客観もあるはずがない。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      北鎌倉さんの心理学、文学、映画等さまざまなジャンルの文化に対する深い造詣に感服いたしました。

      カフカ文学は、よく「夢」との対比において語られることが多いのですが、その夢の本質を “身体性の欠如” としてとらえてみると、カフカ文学を読み解く視点は、一気に西洋近代合理主義の根幹を成す認識論まで到達してしまいますね。
      面白いと思いました。

      実際に、私的な体験としても、夢の世界では何度も主体と客体が逆転します。
      自分が主体となり、誰かに働きかけているつもりでいると、次のシーンでは、今度は自分が自分自身の “客体” として扱われている。そしてそのことに対して、(かすかな戸惑いを感じつつも)即座にそれを “現実” として受け入れている。

      実はもう30年以上、夢日記のようなものをつけてきて、目が覚めても記憶に残るようなものは書き留めてきたのですけれど、いつも記述が止まってしまうのは、このような自他が逆転する場面です。

      つまり、それまで書いていた主体がとつぜん消え、今度は書かれる客体にならなければならないという事態の出現。
      実は、こういう自他が逆転する構造を記述する表記方法というのはないんですね。
      つまり、記述そのものが、すでに主観・客観の分離を前提に成立しているわけです。

      そういう記述スタイルを溶解させてしまったカフカ文学というのは、やはりすごい文学なんだなぁ … と改めて感じ入りました。
       

  8. 北鎌倉 より:

    作家さんがペンネームで書くのには何か意味があるのか、少し遊び心で、画家・加納光於さんの絵の題名「月研ぎ」を名前にして使ってみましたが、素人の自分には、まるでまったく発想にも文体にも何の影響もありませんでした。町田さんごめんなさい。これから「北鎌倉」一つ名前で、投稿させてください。よろしくお願いいたします。

  9. 北鎌倉 より:

    夢の記述で、突飛ですが芸人・明石家さんまさんの、お喋りの方法を思い出しました。番組「さんまのまんま」で、相手一人とだけ話しをているようにみえて、その話題は必ず別の誰かにも関係するように持っていきます。だから、みんなが、自分の事のようにさんまさんの持ち出す話題についていくことができます。
    つまり、二人で向かい合っていても、そこに第三者がいるかのように、三人でお喋りしているように、話を展開できる、話の方法なのです。
    むかしの番組「恋の空騒ぎ」では、さんまさんと大勢の若い女の子と向き合うのですが、そこでも、一人の女の子との話を、決して二人だけの話にして終わらせないで、さんまさんは、状況を絶えず三極に相対化し、誰の言い分が「まし」なのか、見えるようにします。視聴者も一枚噛んでいるような余裕を持たされ、三者の関係として番組に入っているような感じにさせられます。
    つまり、さんまさんの番組では、登場人物はみな相対化されるように持っていかれます。年齢や性別を超えて、同じような発言力、同じような判断力、を持つかのように登場させられるのです。さんまさんに理があるときはさんまさんを、女の子に理があるときは女の子を、支持できるように、そういう雰囲気を作り出せる、お喋りの方法が、すごいところです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      「月研ぎ」さんというハンドルネームの件、了解いたしました。
      でも、いろいろ試してみることは悪いことではないのかもしれませんね。遊び心もたまには必要であるかもしれませんから。

      「夢」のテーマから明石家さんまさんへと話題が飛んでいくというのは思いもよらぬことでした。
      でも、指摘されると、「ああ、なるほど … 」と大いにうなづける話です。
      要は、さんまさんの話法というのは、1対1を原則とするダイアローグのフォーマットにこだわることなく、マルチチャンネルだということなんですね。
      話のテーマも話す相手も常にズレていって、常に一ヵ所に停滞することがない。

      なるほど。まさにテレビ的 ! それがさんまさんのさんまさんたるゆえんで、不滅のさんま人気の秘密なのでしょうね。
      あれほど頭が高速回転する芸人さんも珍しく、笑いが遠心分離器に乗って四方八方へ飛び散っていく様子が目に見えるようです。

      聖徳太子の伝説として、「一度に10人の話を聞くことができた」という逸話が残されていますが、聖徳太子というのはさんまさんみたいなキャラクターだったのかもしれませんね。
      ということは、聖徳太子に拝謁を許された人たちは、きっとみなお腹を抱えて笑っていたのでしょうね。
       

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