もうペットは飼いたくない

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 もうペットは飼いたくない。
 そういう思いに沈んで、いま6時間が経過している。
 
 前の犬が亡くなったあとも、そういう思いに駆られた。
 11年前のことだ。
 しかし、その犬が逝ってからしばらく経つと、ペットロスを解消するには、やはり新しいペットを飼うしかないと思うようになった。

 私たち夫婦は、前の犬を亡くした辛さを強引に拭い去るように、新しいペットに愛情を注いだ。

 しかし、新しい犬にも同じミニチュアダックスを選び、さらに名前まで、前の犬と同じ「クッキー」と名付けたのは、やはり亡くした犬の面影をずっと追い続けていたということでもあるのだろう。

 新しくわが家にやってきた “クッキー2世” が、自分の一生を幸せに感じていたのかどうか。
 残念ながら、そこのところは、実はよく分からない。
 前の「クッキー」があまりにも聡明であったため、それと比較された「新クッキー」は可哀想でもあった。

▼ 新クッキー

 前クッキーは、並外れた理解力に恵まれ、即座に排泄シートの使い方を身に付け、その限られたスペース内に正確に排尿・排便することをあっけなく覚えた。
 そして、水を飲みたいときは、犬用食器のはしを前足で軽く叩いて飼い主の方を振り返り、「水がないよ」という明確なメッセージを送ってきた。

 それに対し、新クッキーはなかなか排泄シートをうまく使いこなすことができず、自信なさげに床の上に糞尿をまき散らすだけで、皿の水がなくなっても、じっと飼い主の目を覗き込んで、人間が気づくまでひたすら耐えるという性格だった。

 「どんくさい」
 最初カミさんは、そうとうイラだったようだ。
 当初は厳しくしつけたと思う。

 頭脳の回転が早く、積極果敢な性格に生まれついた前クッキーに比べ、この新しいクッキーは、頭の構造が単純で、ただひたすら不器用に耐え忍ぶ性格だったのだ。

 一度こんなことがあった。
 私が床に寝たまま、まだ子犬だった新しいクッキーの名を呼んだことがあった。
 すると、喜び勇んでこちらに突進してきた。
 私の顔に近づいているのに、その加速が止まらない。

 「まさか、飛び込んでこないよな … 」 
 と思った瞬間、
 ドスッという鈍い音とともに、犬の体が私の顔にめり込んだ。
 その反動で本人が弾き飛ばされたくらいだから、私の顔もそうとうなダメージを受けた。
 それだけで、この新クッキーの不器用さというものがすぐに理解できた。

▼ 子犬の頃の新クッキー

 だが、臆病で不器用な犬というのは、逆に慎重さを身に付け、飼い主に無理難題をふっかけるということもしないようになる。

 自分の要求をかなえるために泣いたり、吠えたりしない。
 自分がしてほしいことがあっても、飼い主が気づくまで、ひたすら耐える。

 要するに、ただじっと飼い主の目を見つめるだけなのだが、その瞳のなかに、「水が欲しい」「お腹がすいた」「頭をなでてほしい」「抱いてほしい」「優しい言葉をかけてほしい」というあらゆるメッセージが込められていた。

 「アイコンタクト」というやつ。
 新クッキーは、前のクッキーのような華麗なボディランゲージは何一つ覚えなかったが、逆に、目のなかにすべての思いを託す英知を身に付けるようになっていた。


 
 「動物も、その表情に感情を込めることができる」
 そういうことに気づいたのは、新クッキーのおかげだ。
 物言わぬ犬は、その目にそうとう濃い感情を浮かび上がらせる。

 クッキーの前で、夫婦の会話が進む。
 「こいつの脳は、そら豆ぐらいの大きさしかないかもな」
 「そうね。だからなかなかおしっこシートを使うコツを覚えられなかったのよ」
 
 犬には言葉が分からないと思って、そういう “いじめ” に近い会話を夫婦で交わしているとき、クッキーの目は悲しそうだった。今にも涙が溢れそうに見えた。

 逆に、良い行動をほめようと思い、抱き上げて頭をなでると、「どうだ !」といわんばなりに、やや頭をうしろにのけ反らし、得意そうな目で、私たち夫婦の顔を交互に見つめた。

 「こいつ会話ができる」
 そう思ったことが何度もあった。 

 犬は、人間の3歳児程度の知能を持つとよく言われる。
 3歳といえば、人間の子供はすでに言葉をしゃべり始める。
 犬には発語機能がないから言葉は発しないけれど、でも、人間たちがしゃべっていることはしっかり耳に入れて、その内容を理解している。

 それは家族が1人増えたようなものだ。
 “沈黙のコミュニケーション” ではあるが、しっかり心を通い合わせる家族が増えたのだ。

 新クッキーが、気味の悪いセキをし始めたのは、1ヵ月ぐらい前だった。
 喉に何かがつかえたように、「ケッケッケ」というセキを繰り返す。
 最初は食べ物がつかえたのかと思った。

 しかし、セキはなかなか止まらない。
 食も少しずつ細り始める。

 近所の動物病院に連れていって、診察を仰いだ。

 「夏バテでしょう」
 と獣医はいう。
 猛暑が続く時期になると、人間と同じように夏バテを起こす犬もいるという。

 栄養剤の注射を打ってもらい、消化の良いドッグフードと心臓と肝臓に効くという薬をもらって帰る。

 が、セキは相変わらず止まらない。
 やがて、ドッグフードを完全に受け付けないようになった。
 これまで好きだったチーズやハムをドッグフードに混ぜても、さほど関心を示さないのだ。

 ようやく “ただ事ではない !” ということに気づく。
 以降、いかにエサを食べさせるかということで、犬との知恵比べ、根比べが始まった。
 当初、鶏のささ身を煮て、その鶏がらスープと一緒に口の中に注ぎ込んだ。
 だが、それも胃の中に流し込んだのは最初の2日だけで、それから後は、スプーンでささ身を口に近づけても、プイッとそっぽを向くようになった。

 栄養バランスなどを考えているヒマはなかった。
 脂肪過多でもかまわない。
 ケンタッキー・フライドチキンを買ってきて与え、牛肉を少し甘辛くして味づけて食べさせた。

 物珍しかったのか、そういう食事は最初の1日は受け付けたが、翌日はもう口にしようとしなかった。
 流動食に近いものならいいのか … と思い、茶わん蒸しやプリンを口の前に運んでも、さぁっと顔をそむけるだけだった。

 獣医からもらった薬は吐き出していたので、それをすり潰して水に溶かし、スポイトを使って強引に口のなかに注ぎ込んだ。
 胃の調子が悪そうだと分かっていたので、人間の飲む胃薬も同じ方法で飲ませた。

 それが効いたのかどうか。
 胃の奥から漂ってくるような口臭が消え、セキの回数も減ってきた。

 「これで食欲が回復すればいいだけ。夏をしのげば元気になりそうだな」
 と、私たち夫婦は、少しは明るい希望を持つようになった。

 前のクッキーの寿命は14年。
 今のクッキーの年齢は11歳。
 「だから、この子もあと3年は楽に生きそうだよ」
 と、私たちは自分たちに言い聞かせるように励まし合った。
 
 そんなクッキーが、今から7時間前に、突然逝った。
 
 「今日は朝からなんとなく変だった」
 とカミさんは振り返る。
 まず、体を横たえようとしなかったという
 それまでは、疲れたら前足を折って床に横たわっていたのに、まるで重力に逆らうように、前足を伸ばしてしっかりと体重を支え続けていたとも。

 「足を折って横たわってしまうと、もう二度と立ち上がれなくなると思ったのかもしれない」
 カミさんは涙ながらいう。

 そのクッキーの踏ん張っていた足が、やがて体重を支え切れず、少しずつ八の字型に開いていく。
 体がだんだん床に沈み込んでいく。

 それでも、クッキーはけなげに横たわろうとしない。
 たぶん、その “頑張っている” というメッセージを込めた姿勢のまま、私の帰りを待っていたのだろうと、カミさんはいう。

 この日私は久しぶりに高校のクラス会に出席していた。
 昼からオープンした会は、夕方の7時ごろに散会となった。
 家に戻ったのは、夜の8時。
 犬が息を引き取ったは、その1時間後だった。
 
 私の顔を見て安心したのか、クッキーは珍しくカミさんにすり寄り、「抱っこしてちょうだい」とばかりに、元気よく体を伸ばした。
 だが、それが最後の動作だった。
 犬を抱いたカミさんの目から、少しずつ涙がこぼれ始めた。

 「今までの息と違う」
 という。
 肺のあらゆる力を振り絞って、部屋の空気を激しく吸い取るような呼吸だった。

 その深呼吸が3回続いた後、目が宙を仰いだ。
 そしてそのまま首が、力なく垂れた。

 8月6日(日曜日)、21時10分。
 享年11歳。
 誕生日が7月30日だったから、10歳と1週間だった。

 明け方が近いが、眠ろうという気が起きない。

 …… もっと散歩に連れていってやればよかった。
 …… もっと一緒に風呂に入れてやればよかった。
 人間の死も同じだが、死者は常に残された者を後悔の底に沈ませる。

 今でもクッキーが床を這いまわる、カサカサという足音が聞こえそうな気がする。
 だから、水とエサを与えていたお皿は片づけることができないのだ。
 同じように、その皿の近くにある排泄シートもそのまま残してある。

 思えば、最後の1ヵ月、体はますます苦しくなっていたはずなのに、あれほどルーズだった排泄が、ウソのようにきれいに処理されるようになった。
 それまで、必ず排泄シートからはみ出していたオシッコなども、見事に排泄シートのど真ん中に定まるようになったのだ。
 だから、私たち夫婦は、最近のクッキーの行儀良さを認め、「名犬 ! 名犬 !」とほめあげることが増えた。 

 今から思うと、クッキーはすでに死期を悟り、飼い主に対する自分の思い出を美しく飾るめに、排泄行為をコントロールすることにものすごい努力を注いでいたのかもしれない。
 
 そう思うと、さらに悲しい。
 こういう悲しみがまた訪れるのなら、もうペットなど飼いたくない。
 
 
前クッキーの話
 ↓
「クッキー最後の旅」
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

もうペットは飼いたくない への6件のコメント

  1. Take より:

    得てして別れに直面し、その重大さを知り後悔をしちゃうものですね。改めて御霊の平安をお祈りいたします。
    でも、「ああしてあげればよかった」と言う後悔するのは、それだけ愛情を注いだものだからだと思います。飼い主とか家族が後悔する姿を見て僕は、逝った人やペットは愛されたのだな、と思うのです。
    でも残されたものは辛いですよね。どうぞ、一日も早く癒えますようにとお祈りしております。それは天国でのクッキー君の祈りでもあると思います。

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      お久しぶりです。
      Take さんらしい心に沁みるコメント、ありがとうございます。

      「もっと、こんなことも、あんなこともしてあげればよかった」
      というのは、死に別れた者の常であるのしょうけれど、そこに意味があるというTake さんのお言葉は救いです。
      ありがとうございました。
       

  2. ジョジョ雄さん より:

    いつも拝見させて頂いてました。初めてメールいたします。自分の家にも二人の犬がいます。まだペットロスを経験してませんが二人を失った事を考えただけでも心が痛みます。町田様の心中をお察しいたします。
    ペットですがファミリーの1人です。新クッキー君も町田様の家族の一人になって色々と旅をし町田様のファミリーにならなければ経験出来なかった事があったと思います。それはクッキー君も感謝してると思います。どんな時も自分の居場所があるって事は幸せな事ではないでしょうか?
    愛してる故に後悔を0にすることは出来ないと思います。しかし心の傷が早く癒える事をクッキー君も望んでると思います。そしてクッキー君の御冥福を祈っています。

    • 町田 より:

      >ジョジョ雄さん ようこそ
      こちらこそ、はじめまして。
      とても暖かいお言葉を頂戴し、感謝の念に堪えません。

      クッキー(2世)は不器用な子でしたが、それなりに精一杯生きました。
      そして、家でも、車のなかでも、自分の居場所というものを確保し、それなりに安心して暮らしていたのかもしれません。
      こちらが「犬がいて楽しいな」と思えたときは、犬の方も「人間に可愛がられて楽しいな」と思っていたのかもしれません。
      ジョジョ雄さんのお言葉によって、そういうことに気づきました。
      ありがとうございました。
       

  3. 木挽町 より:

    ただただ南無阿弥陀仏。仏教国より。

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      ありがとうございます。
      タイでの暮らし、だいぶ慣れましたか。
      世界中が猛暑で苦しんでいます。
      どうかお身体を大切に。
       

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