私は小池百合子が嫌い

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 メディアは衆議院選挙の報道が熱を帯びてきたけれど、その話題の軸は小池百合子率いる「希望の党」の話題一色に染まりつつある。

 最初に言っとくけれど、私は昨年の都知事選のときから小池百合子という人物が信用できなくて、このブログでも苦言を呈したことがあるけれど、この度の衆議院選挙前の彼女の行動を見ていると、ますますこの女性の “うさんくささ” が鼻についてきて、生理的な嫌悪感すら感じるようになってきた。

 まず、あの露骨な権力欲、名誉欲が鼻持ちならない。
 とにかくメディアのスポットライトがいちばん当たる場所に、何が何でもしゃしゃり出て来るという厚かましさが気に入らない。
 そのときの、あの「おほほ…」というインテリセレブを気取ったような笑い方を見るだけで、背筋に冷水を浴びせられた気分になる。

 あの笑いは、相手をいたわるようでいながら、実は冷笑するときの笑いだ。
 「あなたは素晴らしい」とか言葉でいいながらも、内心「このバカが … 」と人を見下すときの笑い方は、どんな人間もみな小池百合子のような笑い方になる。
 「小池ファン」という人たちは、どうしてこの笑い方の冷酷さに気づかないのか。

 テレビを観ていたら、小池百合子は「希望の党」の党首になる事情を記者団に説明するときに「アウフヘーベン」という言葉を使った。
 「止揚」という訳語がついている哲学用語(ドイツ語)で、これまでの対立軸を解消して一段高みに上るということを意味する。
 この言葉を口にしたあとの彼女の対応。
 「(意味が)分からない人は辞書を引いてくださいね」

 つまり「バカな記者は勉強してね」と言い放ったわけだが、そのときの笑い方が、例の「おほほ」という感じの、あの “優しくて冷酷な” ほほえみだった。

 普通の人が使わない哲学用語みたいなものまで使って自分の権威を高めようとする “見え透いた” 魂胆の嫌らしさに、どうして「小池ファン」層は気づかないのだろう。

 マスコミ自体も悪いよね。
 ニュース系ワイドショーに出演するキャスターやコメンテーターは、みな口々に
 「小池さんの政治手腕はさすがだねぇ !」
 とか、
 「あの人は勝負師だよね !」
 などと持ち上げる。

 もちろんそういう評言のなかには、皮肉交じりの批評も多いのだが、「さすが」とか「すごい」という言葉自体が、すでに小池賛辞のムードを作り上げている。
 
 メディアは口々に、「小池さんの政治感覚は鋭い」とかいうけれど、私は小池百合子の政治センスはすでに過去のものになりつつあると感じる。
 小池百合子の政治感覚は、1990年代末期に日本を覆っていた空気をそのまま代弁しているだけで、2010年代以降の空気を呼吸してない。
 党名を「希望の党」としたことが、その証拠だ。

 彼女は語る。
 「今の日本は何でもそろう国になりました。しかし、“希望” だけがありません」

 この表現は、バブルが崩壊して、日本経済が奈落の底に沈み始め、若者の失業率が高まり、自殺者が増加の一途をたどった90年代末期から2000年代初期の空気を反映しているに過ぎない。
 31歳のフリーター赤木智弘が、『丸山眞男をひっぱたきたい』という論文を発表し、それが話題となった時代。
 すなわち、格差社会の拡大や若年層の貧困化が目に見える形で噴出した時代だ。
 
 『丸山眞男をひっぱたきたい』という本の副題は、「希望は戦争」だった。つまり、戦争という最終的なリセットでもないかぎり、この国の若者たちは救われないという実情を逆説的に訴えたのだ。

 もし、小池百合子の「希望の党」がその時代に生まれたのだとしたら、私もその意を汲んで、少なくともその党名には共感したかもしれない。
 
 ただ、今は時代が違う。
 この国に巣食っている病根は、当時とそんなに変わらないまでも、少なくとも「希望」という言葉に共感できるような切羽詰った空気感は存在しない。

 安倍政権下で進められた経済政策によって、若者の職場環境もだいぶ改善され、「有効求人倍率」は2004年に集計を開始して以来、はじめて1倍を上回った。
 経済格差も、社会格差もあの時代よりはさらに広がりを見せている領域もあるが、全体的には、世間を覆う空気はあの時代の重苦しさから免れている。

 そういう今の時代の空気感を、「希望の党」というネーミングは拾い上げていない。
 そこに私は、小池百合子の政治センスの劣化を感じる。
 
 だから、彼女のいう「しがらみのない政治」、「今までの政治の流れをリセットした新しい政治」などという表現に何の共感も感じない。

 「しがらみのない政治」とは何なのか?
 それは、これまでの政治の流れのなかで、他者と何の信頼関係も築いてこれなかった無能な人々の詭弁にすぎない。

 「これまでの政治をリセットをする」
 と彼女はいうが、何をリセットして、代わりに何を構築しようというのか?
 
 小池百合子の発言は、すべてイメージだけ。
 耳障りのいい言葉だけをつまんできては小ぎれいに並べるだけで、その奥には何の実体もない。

 それでいいの?
 「小池ファン」さんたちよぉ~。

 ワイドショーの街頭インタビューでは、
 「小池さんの言っていることは分りやすいし、男性の政治家より頼りになりそうだし …」
 などと手放しでほめたたえるオバサマやおねェちゃんが出て来るけれど、あの小池女史の人当たりの良さそうな笑顔の奥に潜んでいる冷酷な匂いに気づかないのだろうか。

 今回の衆院選を間近に控えた野党側のドタバタ劇がどういう結末を迎えるのか、今この記事を書いている段階ではまったく見えないけれど、民進党をはじめとする既成政党を離れて「希望の党」に合流した人々は、もうこれで政治生命を失ったことだけは確かだ。

 たぶん、この党の準備に関わった若狭勝、細野豪志も10年後ぐらいにはもう政治の世界で生きてはいないだろう。
 彼らには、政治家としての使命感も政治理念もまったく感じられない。
 自分自身にスポットライトがいちばん当たる場所をひたすら模索しているだけで、あとは商売としての “政治屋” に徹しているだけ。
 
 いちばんがっかりしたのは、民進党の党首になったばかりの前原誠司だ。
 実は、私は内心この人が民進党の党首に就任したときは若干の期待を寄せていた。
 リーダーとしては、腰の据わっていない弱い面を持っていたが、勉強家であり、理論家であるところは認めざるを得なかった。


 
 彼は慶応大学教授である井手英策の指導のもと、その財政再建額をしっかり勉強し、日本の社会や経済の再生に結びつく理論を確立できる唯一の政治家になれるはずだった。
 そういった意味で、アベノミクスの不手際を追求できる得難い人材であったと思う。

 ところが、政治家としての脇の甘さがたたり、肝心の井手教授から薫陶を受けた財政再建理論を安倍晋三にそのままパクられ、自民党の選挙公約の看板として持ち去られてしまった。
 前原は悔しかっただろうが、政治の世界では「先に公言したもの勝ち」である。

 彼の致命的なミスは、安倍晋三の策略にものの見事にハマり、動転したあげく、あろうことか、小池百合子の「希望の党」との合流を果たしてしまったことだ。

 惜しいと思うのだ。
 小池新党(希望の党)の結成を前に民進党からの離脱者が相次いだことは、逆に言えば、彼のチャンスであったと思う。
 「どんなに党が縮小しようが、自分は最後まで “民進の旗” を高く掲げて奮闘する」
 という毅然とした態度をとり続ければ、同情票も集まり、判官びいきの日本人からは一定程度の支持を取り付けられたと思う。
 それを放棄したのだから、彼の政治家として生命もここで終焉を迎えたといっていい。

 もし、ここで小池百合子を首相とする新しい政党が政権を取ったらどうなるのか。
 それは米国のトランプ政権以上の、政治理念もなければ、政治思想も持たない、口当たりの良い言葉だけを並べる無責任政府が日本に君臨することになる。
 
  
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