小池旋風失速

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 この日曜日(8日)から月曜日(9日)にかけて、衆議院選挙に挑む各党の政権公約が出そろい、両日ともテレビ番組は朝から連続して党首討論会を放送し続けた。

 そこで感じたこと。
 リアルな政治感覚を維持している党と、リアルな政治感覚が欠如している党とはっきり分かれたな … ということだった。
 
 「リアルな政治感覚」というのは、世界をイデオロギーの色眼鏡で見ないということだ。
 ここでいうイデオロギーとは、昔の言葉でいう「右翼」あるいは「左翼」という言葉で表現される固定的な政治信条を指す。

 こういう政治信条は、目の前に起こっている現実を分析するのではなく、自分たちが昔から描いてきた理想像の方に現実を引き寄せようとするために、刻々と変化していくリアルな世界を素直に捉えることができない。
 最近は「リベラル」という言葉がよく使われるけれど、これも、「自分はリベラルだ」と言い切ったときにイデオロギーに転じる。
 
 自民党の安倍晋三という首相は、過去においては、誰にでも分かるくらいはっきりとした「右翼イデオロギー」を匂わせる人だった。
 靖国参拝も含め、彼はその右翼的スタンスを国民の目にわざとさらすように、これみよがしに強調した。
 さらに、その右翼思想を「美しい瑞穂の国」などと情緒的に表現して、政治センスの悪さもさらしていた。

 彼は思想的な右翼性を強調するだけでなく、さらに経済戦略においても原発ビジネスを画策したり、日本製兵器を諸外国に売り込もうとしたり、「戦争で食っていく」というスタンスを隠そうとしなかった。

 だから、私もかつてはこのブログでも安倍批判を繰り返していたのだけれど、ここ最近安倍首相そのものが変わってきたように感じる。自分の中に巣食っている右翼性を巧妙に隠すようになったのだ。
 それは悪いことではない。

 もちろん本質的なところは変わっていないのだろうけれど、最近の安倍首相の言動を見ている限り、政治家としての安定感が増しているのを感じる。
 たぶん野党やメディアからの批判を浴び続けているうちに、その対処法を身に付けたのだろう。
 それを、政治家としての「成熟」と見なしてもよい。

 だから、党首討論会のテーマが外交に及んだとき、いちばん安心して聞けるのは安倍発言である。
 おそらく、米国トランプ大統領やロシアのプーチン首相といった生臭い元首と会談を重ね、さらにG20などの会合を通じて世界の指導者たちとの交わりを深めたという経験が、その発言に自信を与えているのだろう。

 現在安倍氏がくぐってきたような外交的な修羅場を、他党の代表者は誰一人経験していない。
 だから他党の党首が語る外交問題は、やはり理念的であり、抽象的である。

 外交というのは、理屈が通らない世界だ。
 外交交渉で力を発揮するのは、担当者の “胆力” である。
 相手のふところにグサッと踏み込んでいく度胸といってもいい。
 それは時に恫喝やハッタリであるかもしれないが、ときには愚直なまでの誠実さであり、その使い分けがキモとなる。
 安倍首相は歴戦練磨の諸外国首脳と渡り歩いてきた分、そのコツを会得しており、それが自信となって表情や言動に表れている。
 それが(テレビなどの)映像を見たときの安定感につながっている。

 ただ、テーマが憲法問題に及ぶときだけ、安倍首相の根っこのところに秘められた “右翼イデオロギー” が顔を出す。自衛隊の存在を憲法に明記するかどうかなど、どう考えても喫緊の課題ではない。喫緊の課題ではないテーマを声高に掲げることを “イデオロギー” というのだ。

 その一点を除けば、現在の安倍自民党政権は、昔に比べてかなりリアルな政治感覚を身に付けてきたといえそうだ。
  
 
 この安倍政権よりも、さらにリアルな政治センスを発揮しているのが公明党である。
 党首である山口那津男氏のキャラクターの地味さもあって、公明党の主張はけっして派手ではないけれど、どれも現実社会に根を下ろした着実な研究成果がうかがえる。
 この党は、いったいどういうブレインによって政策や綱領を検証しているのだろうか。理論的な信頼度や安定感では現在一番かもしれない。

 マスコミは「自公政権」とひとくくりにして、似たような政権公約を掲げる党と見なし勝ちだが、党としての理論的な緻密さは公明の方が上である。佐藤優のようなリアルポリティークの極意を身に付けている批評家が背後に控えているせいかもしれない。

 自民党と公明党をサッカーチームに例えてみると、自民党というのは個々のプレイヤーの身体能力の高さで戦っているチームである。
 だからスターも多い。
 安倍晋三と総理の座を争う位置にいるといわれる石破茂氏、岸田文雄氏、あるいは小泉進次郎氏などは政界におけるメッシ、ロナウド、ネイマールといった感じではないか。

 それに対して、公明党はチームとしての組織力で戦っている党である。
 だから、なかなかスターが生まれない。
 そして、この党の欠点といえば、“宣伝下手” であることだ。
 どんくさいのだ。
 それが党としての真面目さや誠実さにつながっているのは事実だが、小池百合子のような “電通・博報堂” 並のイメージ戦略を掲げたライバルが現れてきたときには、そうとう劣勢に立たされることもあるだろう。
 ただ、この党のリアルな現状認識の凄みだけは見逃さない方がいい。 
 
 
 この公明党のリアルな政治感覚に近いものを感じたのは、やはり立憲民主党であった。
 党首討論会に臨んだ枝野代表から「いさぎよさ」が伝わってきたことも好印象だった。
 枝野氏は、かつての民主党時代から民進党時代に至る過程で、自分たちの至らなかった点を素直に詫び、反省する勇気を持っている。
 「リベラル派」を標榜しつつ、憲法に対する解釈も、けっしてイデオロギッシュに “改憲反対” を叫んでいるわけではない。
 おそらく、立憲民主党は、風の勢いが止まった「希望の党」に代わって、台風の目になるだろう。

 ただ、立憲民主党の人気は、代表である枝野氏個人の新鮮さに負うところが大きいため、本当の実力は定かではない。党首討論もじっくり聞いてみると、枝野氏は他党を攻めるときの舌鋒は鋭くとも、自党を守る弁明になると弱さが露呈するのが見えた。つまり、現在の枝野氏には、実際の実力以上のイメージが塗り重ねられているのだ。

 要するに、枝野氏には鳩山、菅、前原、岡田、野田、蓮舫といった、いわば民主党=民進党時代の “負の遺産” の影がないことがプラスに作用しているといってよい。
 また、党の結成時に「希望の党から追い出された人々」という悲劇性が付与されたことも、多くの日本人から判官びいきの感情を誘い出している。
 
 
 上昇気流に乗った立憲民主党と対照的に、風が止んで、下降傾向を示しているのが小池百合子代表が率いる「希望の党」だ。
 この党も、突貫工事でようやく政権公約を掲げてきたが、そのお粗末さは目を覆うばかりだ。
 すべてにおいて、具体性が何ひとつない。
 例のごとく、耳障りのよい公約が並ぶのだけれど、すべてイメージ優先で、実体がまったく見えてこない。

 そういった意味で、「希望の党」こそ “リアルな政治観” が欠如した党の代表である。
 「希望の党」以外の政党は、保守を標榜しようが、リベラルの旗を掲げようが、それぞれ公約を練り込む前にそれを実現するための試算を捻り出した形跡がうかががえる。

 しかし、「希望の党」だけは、新商品を企画したクライアント企業と広告代理店が、「CMタレントには誰がいいですかね?」と打ち合わせした程度のイメージ戦略だけで公約をつくっている。
 CM制作はそれでいいのかもしれないが、政治の世界ではあまりにもそれは無責任だ。

 この党をつくった小池百合子代表の最大の誤算は、立憲民主党が登場してしまったことだ。
 本来だったら希望の党に集まるはずだった「爽やかさ」とか、「誠実さ」といったイメージをすべて立憲民主党に奪われてしまった。
 小池氏は内心、民進党のすべての党員を取り込まなかったことを悔やんでいるだろう。

 希望の党の公約がなぜリアルさを欠いているのか。
 勉強不足だからである。
 今回の社会保障政策の一環として持ち出してきた「ベーシックインカム」。
 これに対して小池氏は、そのほんとうのシステムを勉強したのだろうか。

 ベーシックインカムとは、簡単にいうと、働いている人間にも働いていない人間にも国が月額5万円程度の給付金を払い、個々人の老後の保障の補填や、雇用危機が生じて失業率が上がったときなどに備えさせるというシステムのことをいう。

 「全国民が働かなくても一定の給付を受けられる」
 一見、夢のような制度に見えるかもしれないが、そのためには現在ある基礎控除、配偶者控除、扶養控除などを全廃し、生活保護を極端に縮小し、そのほかの社会福祉制度も大幅に切り捨てるなど、“弱者切り捨て” の社会制度を導入した結果ようやく実現できるようなものである。
 
 一般庶民は「ベーシックインカム」などという言葉の意味を詳しく知らないから、なんだか「希望の党」が庶民生活の底上げをしてくれるのではないかと期待してしまう。
 だが、このシステムは多大なリスクを背負ったもので、総人口が少ないゆえに実験的に導入して様子を見ている北欧以外どこの国も採り入れていない。

 こういうように、十分に咀嚼していない概念や横文字言葉をさぁっと引っ張り出して、見た目の新しさを装うのが小池流だ。
 彼女は、こういうシステムを導入する経済政策を「ユリノミクス」と称して、アベノミクスと対抗するものとして打ち出す。
 だが、ユリノミクスには、何をどう勉強したのかという形跡は何もないし、したがってその実体もない。ユリノミクスは、国民ではなく、あくまでもメディアだけを相手にしたイメージ戦略にすぎない。
 “小池劇場” は衆院選の公示直後に幕を下ろすことになりそうだ。  
 
 
 古くから野党を代表している共産党はあいかわらずイデオロギッシュだ。
 基本的には、この党は相変わらず世界を「富める資本家」と「貧しい労働者」の二層に分けて考えるという冷戦時代の政治感覚から抜け出していない。

 資本主義の暴走を食い止める手段が “共産主義革命” しかないと思い込まれていた時代がかつてあったが、その幻想は冷戦の終焉とともについえた。
 その理由は、世界の経済構造の変化にある。
 共産主義理論が生まれたのは、世界が重工業を中心に回っていた時代だった。

 しかし、その後重工業に代わって、情報技術工業やサービス業が経済システムをリードするようになった。
 つまり、それまで共産主義国家が進めてきた計画経済では複雑化していく新時代の経済システムに対応できなくなってしまったのだ。

 そうなれば、そのことに対する民衆の不満も高まる。
 そのため、「共産党」を名乗る政権党が運営する国家は、どこも体制を維持するために抑圧的な権力機構を強化するほかはなかった。
 こうして、共産主義の理想とはまったく無縁な独裁体制が生き残ってしまったことは、現在の中国や北朝鮮をみれば一目瞭然である。

 なのに、日本共産党は「共産党」という党名を捨てていない。
 それは、この党が過去の共産主義運動の誤謬をいまだに清算しきれていないことを意味する。
 
 
 さて、この記事を書いている自分自身はこの選挙をどう見ているのか。
 本来ならば、やっぱり民進党がもっとしっかりと自民党との対立軸を明確にするべきだった。
 前原元代表の社会保障政策や経済政策などは見るべきものが多かった。
 仮にそれらが実現に至らなくても、アベノミクス一本やりの今の経済政策に対し、それ以外の多彩な選択肢もあることを国民に訴えることが可能だったと思う。

 だが、結果は非常に残念なものになった。
 枝野代表率いる「立憲民主党」が旧民進党の良心的な部分を引き継げるのかどうかは分からない。
 枝野氏も、希望の党や共産党と並んで、安倍首相の “モリカケ問題” なんかにエネルギーを割いているかぎり、将来性を期待できない。

 自分が非常によく分からないのは、今回の一連の党首討論会で、なぜ野党が安倍首相の “モリカケ問題” ばかりにこだわっているかということだ。
 議題としての重要性を考えれば、消費税や成長戦略、安全保障などといったテーマに比べて、モリカケなんかはるかにプライオリティーが低い(ただ庶民には問題点が分かりやすい)。
 希望の党や共産党がモリカケにこだわるのは、このテーマで安倍氏を追い詰めないかぎり、自分の党の政策的優位性を訴えることが難しいと踏んでいるからだろう。
 
 そういう野党のていたらくを見るかぎり、リアルポリティークが何であるかをしっかり把握している自公政権の安定性を(消去法で)選ぶしかないと思っている。
 
 

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