若者の間に昭和歌謡ブーム

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 「昭和歌謡」に興味を抱く、平成世代の若者が増えているという。

 ネット情報によると、NHKで放映される「のど時間」では、昭和歌謡を歌う中高生の姿が目立つようになってきたとか。
 NHKの同番組では、吉田拓郎の『落陽』(1973年)を歌う男子高校生、ザ・ピーナッツの『恋のフーガ』(1967年)を歌う女子中学生デュエット、中森明菜の『少女A』(1982年)を歌う女子高校生などの例が報告されたという。


 
 さらに、(これまたNHKの話だが)、同局の『金曜イチ』(2017年10月13日放映)という番組では、「昭和の歌に若者も夢中 !?」というタイトルのもと、山口百恵のカバー曲をライブで披露する若手女性シンガーの例や、カラオケルームで昭和歌謡を歌いまくる女子大生4人組の例がリポートされていた。

 このような若者の昭和歌謡ブームに乗り、昭和のアイドルや歌手のブロマイドも人気が高まってきたとも。
 都内のブロマイド専門店には、遠方からも平成世代の若者が押し寄せ、松田聖子、中森明菜、沢田研二といった昭和のスターの写真を買い込んでいくという。

 家族や親の影響が大きいのだろう、と専門家は分析する。
 平成生まれの若者の親世代といば、昭和のアイドルたちの全盛期。
 この時代というのは、キャンディーズ、山口百恵、松田聖子、近藤真彦といったアイドルを軸に、荒井由実、中島みゆき、テレサ・テン、桑田佳祐、井上陽水、玉置浩二といった実力派の歌手やミュージシャンが活躍し、昭和歌謡が質的にも量的にも全面開花した時代だった。

 そういう歌になじんでいた親たちが、家事をしながら口ずさんだり、子供たちとドライブするときに流していた曲が、徐々に平成の若者たちの “耳の肥やし” になっていったのではないか。

 もちろん、親が歌っていたからといって、それを聞いた子供がそのまま好きになるとは限らない。
 やはり、「この歌はいいな !」と若い世代が思えるような何かがなければ、昭和歌謡再評価のブームは起こらない。


 
 平成の若者からみた昭和歌謡の魅力とは何なのか?

 一つのヒントがある。
 NHKのアンケート調査によると、J ポップの旗手小室哲哉ファミリーより、昭和歌謡の山口百恵の方が、若者たちの認知率が高かったというのだ。

 小室哲哉といえば、音楽プロデューサー兼ミュージシャンとして「TM NETWORK」、「globe」などの音楽ユニットを結成して大活躍。安室奈美恵、華原朋美などをスターに育てた人としても知られる。まさに1980年代~90年代におけるJ ポップのカリスマ的存在であるが、その彼よりも、さらに20年も古い山口百恵の方が若者に親しまれているというのは、どういうことなのだろう。

 これぞ、まさに「サウンド」と「歌」の違いなのだ。

 80年代の中頃、いわゆる「J ポップ」が台頭するようになって、曲づくりがサウンドを中心に回り始めた。
 もともと J ポップは音楽ビジネス関係者たちによって、かなり意図的に企画されたプロジェクトだった。
 狙いは、「洋楽のように洒落た国産ポップス」という新しいマーケットの創出だった。

 “洋楽っぽい” ことが絶対条件だったから、J ポップのメロディー、リズム、コード、アレンジなどが、一斉に “脱・歌謡曲” に向かったのは言うまでもない。
 和音構成として、わが国独特の哀調感を持つ日本音階(ヨナヌキ)が影を潜めていくというのも、その顕著な例といえるだろう。

 こうして、日本のポップスは、サウンド的には恐ろしいくらい華麗かつオシャレになっていったが、それを徹底していく途中で、「歌詞」がストンと抜けた。

 もともと、日本の流行歌は、分業体制で作られていた。
 作詞、作曲はそれぞれ別のプロが担当し、さらにプロの歌手が渡された曲をそのまま歌う、という手法で世に送り出されてきた。

 ところが、フォークソングブーム、シンガーソングライターブームが起こることによって、分業体制の一部でしかなかった「歌手」の地位が突出するようになった。
 彼らは「アーチスト」と呼ばれるようになり、歌のコンセプト全体を代表する表現者と目されるようになった。
 J ポップの担い手はバンドで占められることも多かったから、バンドのリーダーがそのまま作詞・作曲・アレンジを手掛ける率も高くなった。

 もちろん、そのことによって、J ポップの音楽的統一感は際立つことになった
 
 ただ、バンドのリーダーやシンガーソングライターが優れたミュージシャンであったとしても、必ずしも “優れた詩人” であるとはかぎらない。

 歌詞づくりというものは、自分の日常の断片を綴ったり、自分の身に降りかかった事件を取り上げていればいい、というものでもない。
 自分の体験からネタを拾っている限り、人をハッとさせたり、人の意表を衝いたりする詞を量産することはできない。

 詞は、自分自身だけではなく、「世界」とつながっていなければならないからだ。

 シンガーソングライターたちの詞を聞いていると、ときに、その等身大の世界観に心休まるものを感じたりすることもあるが、その先の広がりがない。

 こうして、J ポップの詞は、いつしかみな似たり寄ったりのテーマばかりが繰り返されるようになり、聴衆に、通り一遍の “感動” と、通り一遍の “勇気” と、通り一遍の “元気” を与えるだけの存在になっていった。
 だから、飽きられるのも早い。
 
 平成の若者たちは、今の音楽の “歌詞不在” に気づいたのだ。

 小倉智昭氏がキャスターを務める朝のワイドショー(フジテレビ)では、2016年9月に『若者の心をつかむ “昭和の歌謡曲”』というコーナーを設けた。
 そこで “街の声” として街頭インタビューを受けた女子高生は、こう答えた。

 「今の歌って、歌詞がウソくさい。でも昔の歌って、歌詞が本音で書かれているような気がする」

 この一見稚拙な表現のなかに、今のJ ポップと昔の昭和歌謡の根本的な差異があらわれている。

 これは、「昔の歌の方が人間の本音」を語っているという意味ではない。
 昔の「詞」は、プロの作詞家によって書かれていたということなのだ。

 つまり、人間の心理を鋭く追及できるプロの作詞家が、人々の生活に使われる言語の中からこだわり抜いた言葉を選び出し、繊細な手つきで並べ変え、1語ずつ、人の心を震わすフレーズに組み直していったということなのである。

 では、「プロの作詞家」とは何か?
 それは、曲があってもなくても、小説のような作品を書いてしまう人たちのことだ。

 昭和歌謡の詞をつくり続けていた人たちの名をざっと並べてみよう。
 
 阿久悠、星野哲郎、山口洋子、なかにし礼、安井かずみ、阿木燿子、竜真知子、井上陽水、松本隆、岩谷時子、吉田拓郎、中島みゆき、来生えつこ …… 。

 もちろん、この人たちは昭和歌謡をつくった作詞家の一部でしかないけれど、どの人も “文学者” としても一流の人ばかりである。
 彼らは、もしその気になれば、文学賞が取れそうな小説作品をサラッと書いてしまうだろうし、事実、上記の人たちのなかには、すでに著名な文学賞を受賞している人もいる。

 では、「文学」とは何か?
 それは、「この世には言葉の届かない世界がある」ということを教えてくれる言語芸術である。
 
 「言葉」というものは、何かを解説するための道具だ、と誰もが思い込んでいる。
 この世の暗がりに潜んだよく分からないものを、明るみに引っ張り出してくれるものが言葉。だから、池上彰さんのような “言葉の達人” がいれば、どんな難しいことでも解説してもらえるはず。
 普通の人はみな、そう思いがちである。

 しかし、文学に少しでも触れた人はそうは思わない。
 逆に、この世には、言葉をいくつ積み上げていっても、届かない世界が残ってしまうことに気づいている。
 
 “届かない世界” を感じるとき、人間の脳内では、いったい何が起きているのだろう?
 
 想像力が刺激されているのである。

 「言葉の届かない世界」に接するということは、実は想像力がむらむらと沸騰している状態なのだ。

 その状態を、
 「言葉を失うほどの感動」
 とか、あるいは、
 「言葉を失うほどの驚愕」
 などという。

 想像力が刺激されたとき、人は日常的光景の向こう側に、狂気と狂喜にまみれた部屋の扉が開くのを見る。

 昭和歌謡の作り手たちは、それぞれ目指した世界は違ったとしても、一様にこういう詞の作り方を心がけていた。

 前述したNHKの『金曜イチ ~ 昭和の歌に若者も夢中 !?』という番組では、ゲストのミッツ・マングローブがこういう。
 「今の音楽は、すべてを説明して答まで消費者に提供しようとしている」
 
 しかし、それでは、かえって聞き手の想像力が奪われてしまう、というわけだ。

 同番組でインタビューを受けて作詞家の松本隆は、次のようにいう。

 「歌には “余白” というものが大事。つまり、言葉と言葉の “間(ま)” のようなもの。詞における『美』というものは、そういう “余白” とか “間” に生まれる」

 詞における「余白」とか「間」というのは、すなわち「想像力」が舞い降りてくるスペースにほかならない。
 
 個人的な趣味を一言だけ付け加えさせてもらえるならば、私にとって、余白が最高に機能している歌の一つに思えるのは、『よこはま・たそがれ』(詞・山口洋子 1971年)である。


 
 「♪ よこはま、たそがれ、ホテルの小部屋、くちづけ、残り香、煙草の煙 … 」

 歌全体が名詞の羅列。
 動詞、助詞、助動詞などはいっさい「余白」の彼方に追いやられている。

 この歌においては、孤立した名詞同士が、お互いに関わるすべを失い、それこそ影が濃さを増していく “たそがれ” の中に立ちすくんでいる様子が浮かんでくる。
 そこから立ち上がってくる深い孤独感と、物憂さに満ちた寂寥感。

 詞における「余白」というのは、こういうものだと教えてくれる歌詞の典型である。

 昭和歌謡というのは、概してこういう方法論によって編み出されてきた。
 音楽評論家の近田春夫氏は、「今のJ ポップの作り手のなかで、昭和歌謡のような作詞能力を持っている人が現れたら、詞の世界で必ず頭を取れる」と言い切る。

 おそらく、これからは、昭和歌謡を聞き始めた平成の若者のなかから、きっとそういう逸材が現れてくるに違いない。
 
 
▼ 『よこはま・たそがれ』

 

関連記事 「よこはま・たそがれのアンニュイ」

 
参考記事 「“昭和的” なるものとは?(ドラマ『陸王』に見る昭和の高度成長とバブル)」  
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ, 音楽   パーマリンク

若者の間に昭和歌謡ブーム への10件のコメント

  1. Take より:

    ご無沙汰をしております。3つのトピをまとめてのコメントです。
    まずは体調不良とのこと心よりお見舞い申し上げます。
    台風直撃の中の総選挙、まさに希望の党はW台風直撃のことでしょう。
    政治があまりにもファッション化して、「風」任せが有権者だけではなく「候補者」にもそんな軽さを感じてしまいます。政策ではなくどうすれば当選するか?まさにコマーシャルが商品をPRすべきものが、CM自身が面白ければ売れる 的な変化を感じるのと同じ感覚です。
    音楽もそうですね、当時は感じなかったですが、今聞くと昔の歌手の歌唱力の高さを感じます。
    タレントの語源はタラントンと言う貨幣単位、技能と言う財産から発生したようですが、政治家も歌手も「誰でもできる」時代になっちゃったのでしょうか?

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      ご無沙汰しております。お元気そうでなによりです。
      今回の衆議院選挙の状況、昨今の音楽シーンの状況、確かに似た傾向がありますね。
      Take さんがおっしゃるように、「ファッション化」が進んでいるというか、「商品PR化」が進んできたというか。
      要は、「売れてナンボ」というところで、みな露骨な売り込みを図ってきているという感じがします。

      そうなると、政治思想でも音楽でも、“本物” よりも、“宣伝がうまい素人” の方がウケる時代になってきたということなんでしょうね。
      「資本主義の世の中」といってしまえば、それまでですが、やはり世の中がどんどん軽くなっていくように感じます。
       

  2. 月研ぎ より:

    テレビの池上彰さんが面白いのは、話言葉と身体がぴったリ一致してると信じて疑わないところです。

    話言葉は、書かれた文字ではないので、そこには常に身体がついてまわるはずです。

    聴覚から音感として入り、表情という視覚がともない、人の五感にかかわって受け取られますから、言葉は相対化されます。曖昧性が拡がるとも言えます。そのことで私たちは、言葉の息苦しさから逃れてもいます。

    池上彰さんのおだやかな笑顔はテレビで見る限り、人と話すよろこびは、伝わることのよろこび、と確信しているようです。

    人と話すよろこびは、伝わることのよろこびもさることながら、言葉にならないことまで含めて、私たちが受け止め合うからです。どうやらそこにまでは池上彰さんは思い至らないようで、残念ではありますが。

    • 町田 より:

      >月研ぎ さん、ようこそ
      はじめまして。
      勉強になりました。
      池上彰さんの「言葉」に対する基本的スタンスもよく分かり、今後はテレビで池上さんのトークを聞くときの参考になりそうです。

      おっしゃるように、人と話す喜びのなかには、確かに「伝わることの喜び」、つまり「言語を介して人に情報を伝えたり、人から情報を伝えられたりする」 “交換の喜び” というものがありますよね。
      それと同時に、いみじくもご指摘されたように、お互いに「言葉にならないこと」を確認し合うというような、“共感の喜び” というものもあります。

      で、「共感の喜び」というのは、「書かれた文字」の拘束力が届きにくい領域、すなわち「話し言葉」のような身体性が関わる領域で深く交わされ合う、ということなんでしょうか。
      言葉に対していろいろと考えるときの示唆に満ちたご指導を賜ったように思います。

      「話し言葉」と「書き言葉」。
      我々は、ともすれば「話し言葉」の方が原始的で粗雑であり、それに対して「書き言葉」の方が緻密で、整理の行き届いた言葉であると思い勝ちですが、「話し言葉」を「書き言葉」に変換して整理していく段階で、たぶんいろいろと微妙なものが抜け落ちていってしまう。
      ……ということは、…何だな、古代日本の歴史書における『古事記』と『日本書紀』のような関係なのかな? …みたいなよけいなことまで空想して遊んでしまいました。
       

  3. 江草乗 より:

    昭和歌謡、そして「歌詞」に対する鋭い考察はお見事です。
    「よこはま たそがれ」改めて聴き直しました。

    ちあきなおみの「喝采」という歌の歌詞で、「悲しい」とかの心情語を使わずに
    悲しみを表現できることの面白さを国語の授業で生徒に説明したことがあります。
    かつての歌詞には背景となる物語がありました。
    「22歳の別れ」とか「なごり雪」に涙したのはその紡ぎ出す物語に
    涙したからだと思います。

    kiroroの「長い間」という歌も、その方向性を持つ作品でしょうね。
    初めて聴いたときに「こんなの久しぶりだ」となつかしく感じました。

    昭和歌謡に影響を受けた
    今の世代が作り出す新たな歌詞にちょっと期待したいですね。

    町田様は
    秋元康が最近作った「翼はいらない」とか「サイレントマジョリティ」
    とかのような社会に語りかけるメッセージ性の強い作品は
    どのようにとらえていらっしゃるのでしょうか?

    そのあたりをぜひお伺いしたいです。

    • 町田 より:

      >江草乗さん、ようこそ
      拙稿に対する過分なお褒めのお言葉、恐縮する思いもありますが、素直にありがたく頂戴いたします。

      メールの文中から察するに、国語の先生を経験されていらっしゃるのですか。
      そうだとしたら、本メールやご自身のブログから伝わってくる江草さんの文章構成の巧みさは、そういう経験に由来するものなのでしょうね。

      ちあきなおみの『喝采』。
      おっしゃるとおりですね。「悲しい」「辛い」という主観的な感情表現をいっさい省いてあの “切なさ” を表現するところに、まさにプロの作詞業の真髄があると思います。
      『22歳の別れ』、『なごり雪』なども同様ですね。

      秋元康氏の曲。
      江草さんから教えていただくまで、実は聞いたこともありませんでした。最近の歌状況に疎くて、お恥ずかしいかぎりです(汗 !)

      さっそく両曲ともYOU TUBEでフォローしてみました。
      一度だけ接して抱いた感想は … もし江草さんが秋元康氏のファンであったのなら、非常に申し上げにくいのですが、思い切って書いてしまうと、『翼はいらない』も『サイレントマジョリティー』も、ベタなメッセージソングで、リスナーの対象となっている若い世代を “マーケット” として意識しすぎている印象が伝わってきました。
      (申し訳ございません ! 汗 …)

      もともと、秋元康という作家を私はあまり評価していなくて、彼の書いたホラー小説『着信アリ』を読んだとき、あ、この人作家としてはたいしたことないな…と思い込んでしまったことがあります。

      で、歌詞の話に戻ると、『翼はいらない』も『サイレントマジョリティー』も、“周囲に惑わされずに、自分の信じた道をひたすら歩け” という応援歌ですよね。

      もちろん、10人のうちの8人は、そういうメッセージに励まされると思うのですが、そのなかの2人ほどは、「よけいなお世話だい !」と思うかもしれない。

      で、私は、歌というのは、10人のうちの2人だけに届くものを書くべきだと思っているんです。
      そして、数としては、確かに2人だけだけど、「もしかしたら、私もそうかもしれない」と、残りの8人が立ち止まって考えるようなもの。

      昭和歌謡というのは、そういうところを衝いていたような気がします。
       

      • 江草乗 より:

        丁寧な返信ありがとうございます。

        確かに『翼はいらない』も『サイレントマジョリティー』も、“周囲に惑わされずに、自分の信じた道をひたすら歩け” というメッセージを伝える歌です。

        そういう意味では、最近の流行の中の一つに過ぎないの
        かも知れませんが、『翼はいらない』のPVには
        学生集会を開いてる70年代の学生が登場します。
        その映像を見て、あの空気を実際に体験した世代は
        どんな印象を持つのだろうかと思いました。
        歌詞もまさに『翼をください』へのオマージュです。

        また、『サイレントマジョリティ』には

        >どこかの国の大統領が言っていた
        >声をあげない者たちは賛成していると
        >選べることが大事なんだ 人に任せるな
        >行動をしなければ NOと伝わらない

        という歌詞がありました。政治性の強い
        メッセージです。秋元康氏はどうしてこんな冒険を
        したのでしょうか?

        どこかの政党が若者の票を取ろうとして
        この曲をBGMに使ったり、政府が投票率を上げるために
        この曲を広報に使ったりしたら劇的に若者の
        投票率は上がるはずです。
        もちろん、投票率を下げたいという意図を政府が持ってる
        わけで、そんなことはするわけないですけど(笑)

        そんなことを私はふと感じてしまったのですよ。
        『サイレントマジョリティ』の歌詞のことは
        今担任してる高校3年生の卒業式の時に
        生徒に対して行う最後の講話の中に引用するつもりでいます。

        • 町田 より:

          >江草乗さん、ようこそ
          メールのご趣旨、非常によく分かりました。
          江草さんが取り上げた秋元康氏の歌を再度聞き直してみると、自分もまた秋元氏に対する偏見のようなものが薄れていくのを感じました。

          駄目ですねぇ、人間というのは一度先入観を持ってしまうと、なかなかそれを是正する勇気が持てません(笑)。
          私の秋元氏への先入観というのは、AKB48の総選挙に参加するための投票権を取得させるために、ファンに大量のCDを買わせた後、ゴミとして不当投棄させる張本人という悪いイメージしかなく、その片寄ったイメージを是正する勇気を持たないまま、今日まで来てしまいました。

          で、あらためて『翼はいらない』、『サイレントマジョリティー』という歌を聞き直してみると、自信の持てない若者たちに向かって、「自分を信じて前進しよう」という能動的なメッセージに溢れた歌であることを再確認しました。

          まさに、今回の選挙のような時期を迎えたとき、若者に投票行動をうながすには最適な歌詞ですね。

          だから、高校3年生の卒業式の講話に引用するにはとても最適な詞だと思いますし、きっとそこから生きる勇気と希望を得て、母校を巣立っていく生徒がたくさん生まれることでしょう。

          そういうことをしっかり認識し、かつ秋元氏の詞に溢れた温かいメッセージを受け入れつつ、一方で私が思い出していたのは、井上陽水の『傘がない』でした。
          あの歌は、『サイレントマジョリティー』の対極にあります。
          「♪ 都会では自殺する若者が増えている。
           だけども、問題は、今日の雨。傘がない」
          「♪ テレビでは我が国の将来の問題を、誰かが深刻な顔でしゃべっていた。
           だけども、問題は、今日の雨、傘がない」

          『サイレントマジョリティー』が、若者の政治参加をうながすポジティブなメッセージに溢れているとしたら、『傘がない』は、政治や社会に背を向ける若者の荒涼とした気持ちを描いています。

          この歌が流行った1972年、当時すでにこれを「自己中心の若者の心を表現したミーイズムの歌」などと批判する声もありました。
          はっきりいうと、私は今になってもこの歌が好きになれません。
          でも、「ここではいったい何が歌われているのだろう?」という宿題を一生背負っていかなければならないという気持ちにさせる歌です。

          好きではないけれど、心の底に、錘を下ろしていくような歌。
          この歌から立ち上ってくる「やるせなさ」というか、「切なさ」というか、要は答のない不条理感というものが、けっきょく私には一生ついてまわりました。
          あくまでも、個人的な趣味にすぎませんが、私はそういう歌の方からイマジネーションを喚起されるたちなんですね。
           
          若者にインパクトを与える歌はいろいろあっていいのでしょう。
          『サイレントマジョリティー』の方が、確かに今の若者の気持ちに寄り添う歌であることは間違いありません。10人の若者がいたら、8人はそう感じるでしょう。
          でも、残りの2人には『傘がない』も聞いてほしいと思う次第です。

          なお、公式PVに出て来る『翼はいらない』の70年代当時の学生運動の動画の件ですが、画像的には、確かにあの時代の学生集会の雰囲気を再現できているようにも感じますが、やっぱり何かが違う … という思いを払しょくしきれませんでした。
          それをうまくいえないのですが、あの時代、学生集会に来ていた連中はもっとすさんでいた感じがします。それこそ、『傘がない』を歌う若者のように傷ついていて、苦しそうで、それでいて投げやり的に明るく、感情を抑えることもできないくせに妙に覚めていて。時には打算的で。(今の若者の方がはるかに素直で優秀です)
          で、その当時の若者の傷つきやすい部分が、やがて荒々しい妄想に変わり、最後には、その最悪の部分がやがて連合赤軍事件のような悲劇に向かってしまったことを考えると、こういう昔の学生集会のような映像を見るのは、ちょっと辛いところもありますね。
          特にあの時代に、実際にああいう集会の様子を日常的に眺めていた人間からすると、自分が日頃隠していた負の部分を覗き込むようで、複雑な心境です。いや、すいません。勝手な感想です。
           

  4. 若松若水 より:

    日本画家・米谷清和の従弟の若松若水です。
    私も江草さんと同じく高校の国語教師です。

    昭和歌謡についての考察、非常に刺激的でした。
    「余白云々」の話は、文芸論の本質的なテーマです。

    秋元康は同世代の著名人ですが、今まで格別の関心はありませんでした。
    しかし、彼は最近、自らの少青年時代に立ち返り、その地点から今を生きる人々の心に訴求する言葉を紡ごうとしているように見受けられます。
    そのあたりの所を拙ブログの最近の記事で書きました。ほぼ昭和歌謡の世界を再現した曲も実験的に作っています。

    ところで欅坂46のセンター・平手友梨奈というのは特別な少女です。
    昨年の春、デビューした時に、偶然テレビを観ていて強烈な印象を受けました。
    14歳で史上最年少のセンターという紹介だったのですが、
    インタビューに答える彼女の眼は
    絶望と虚無と諦念をはらみつつ、確かな覚悟や決意を示していました。
    山口百恵や中森明菜や藤圭子にも共通した匂いがありましたが、
    14歳の平手は彼女たちを凌駕していたと思います。
    『たけくらべ』の美登利、森鴎外『最後の一句』のいちを連想させてくれるものがありました。

    そんな与太話はさておき、
    米谷も今年で70歳、めでたく定年の年を迎え、お弟子さんたちがこれまでの作品を集めて大規模な個展を催してくれます。
    11月後半からの開催です。
    詳細はこれから拙ブログで取り上げますので、またよろしかったらお越しください。

    • 町田 より:

      >若松若水さん、ようこそ
      秋元康を論じた若松さんの記事、拝読。
      『翼はいらない』、『サイレントマジョリティー』、『渋谷からPARCOが消えた日』、『不協和音』、『願いごとの持ち腐れ』 … 若松さんがブログで取り上げられていらっしゃった秋元作品、みなYOU TUBEでフォローしてみました。

      おっしゃること、よく分かりました。
      昭和歌謡のフレームとどこか重なり合う部分を持ちながら、それでもはっきりと昭和歌謡とは異なるメッセージ性を秘めた歌が生まれていたんだな、ということに気づきました。ご紹介いただき、ありがとうございました。

      『サイレントマジョリティー』と『不協和音』は、同質のメッセージ性を秘めてますよね。それは一言でいうならば、「群れるな ! 自立せよ !」というメッセージです。
      秋元氏は、それをわざとリスナーを挑発するように、あえて過激な言葉を使ってアジテートしてますよね。私は氏のその大胆な姿勢に、素直に驚きました。

      考えてみると、尾崎豊(の歌詞の主人公が)深夜に学校の窓ガラスを割り続けてから、25年も経ってしまったんですね。最近は、そういう尾崎豊的な歌を聞いてもほとんど共感しない若者が増えているという話をどこかで聞いたことがあります。「学校の窓を割ったって、何の得があるだろう?」というのが大方の反応だったそうです。
      逆にいえば、それだけ若者の生活環境はより閉塞的になり、彼らはより孤立感を深めていたということなのでしょう。
      そういう諦念から来る従順さを身に付けてしまった若者たちに、秋元氏はなんと大胆な挑発のメッセージを送ったことか。
      たぶん、秋元氏のメッセージに素直に共感した若者たちがそうとう多かったことは類推できます。

      欅坂46の平手友梨奈さん。
      なるほど。
      「絶望と虚無と諦念をはらみつつ、確かな覚悟や決意を示している」
      魅力的なオマージュですね。
      私もまた興味を持ちました。

      男は、時代を問わず、世代を問わず、そういう神秘性を宿した少女からインスピレーションを受けるものです。
      きっと、オスカー・ワイルドも旧約聖書にほんのちょっとだけ登場したサロメという少女にとてつもない文芸的関心を抱いたのでしょうね。
       

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