無類に面白かった衆議院選挙

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 エンターティメントとして、今回の衆議院選挙は、けっこう面白かった。
 結果は、マスコミの予想通り自民党の圧勝となったが、そこに至るまで、さまざまな人間ドラマがあった。
 
 「政治」というのは、つくづく “見世物” なんだなぁ … と思った。
 “救国のヒロイン” として登場した人物が、突然悪役に仕立てられたり、沈没船から脱出しようと慌てて救命ボートに乗り込んだ人たちが、突然絶海の孤島に取り残されたり … 。
 まぁ、舞台を観ている観客からすれば、今回は個性的な役者さんたちが、息もつけないほど緊迫したドラマを演じてくれたエンターティメントショーだった。

 その主人公はやっぱり小池百合子女史。
 今回の舞台は、彼女が自民党という “巨悪(?)” に立ち向かって奮闘するも、途中で大ゴケし、逆に「悪の女王」の烙印を押されて滅んでいくという、まるでシェークスピア悲劇でも観るような見事な劇だった。

 で、一連の顛末を見ていて、思うんだけど、政治家って、やっぱりその人の内面やら品性が顔に出るもんだなと思った。
 政治討論の場であっても、マスコミのインタビューを受けているときでも、彼らは「しゃべる訓練」を積んだ政治家だから、言葉巧みに聴衆を説得していくわけだけれど、どうしても隠し切れないものが外に出てしまうことがある。

 それは、言葉にならない部分だ。
 すなわち、視線の上げ下げであったり、微笑みの浮かべ方であったり。
 そういう言葉と言葉の “間(ま)” のようなものに、その政治家の本音が浮かび上がるときがある。

 今回、開票前のインタビューやら当落が決まった後の挨拶などを通じて、いちばんしゃべっている内容と表情がチグハグだったのは、やはり「希望の党」の人々だった。

 
 いち早く民進党を抜けて、希望の党への参加を表明した細野豪志氏。
 開票後、選挙結果の悲惨さを追求された細野氏だが、その敗因などの分析を語る表情は、意外と明るかった。

 敗戦のショックを外に見せないために、故意に装った明るさではない。
 それは「希望の党」の実権を握ったぞ … という秘めたる野心が露出したもののように思えた。

 「希望の党」内の権力闘争を細野氏と争うはずであった若狭勝氏は、選挙区でも比例区でも敗れて、脱落した。

 そうなると、彼にはライバルがいない。
 民進党系の大物議員たち、すなわち野田氏、岡田氏、枝野氏、菅氏などは最初から “排除” されている。

 民進から希望への合流のきっかけを作った前原誠司氏は、「希望の党」内の地位が確保されておらず、かつ “裏切者” のイメージが付与されてしまって、細野氏を脅かす存在にはならない。

 さらにいえば、「希望の党」の代表である小池百合子女史そのものが、党内の求心力を失っている。
 彼女は、「都政を放棄した」という世論の批判をかわすため、しばらくは都知事に専念せざるを得なくなる。

 そうなると、政治の実務家として、細野氏以上の経験を積んでいる人間は党内に見当たらないのだ。

 細野氏は、内心「好機到来」と踏んだろう。
 彼は「立憲民主党」に続く野党第2党のいちばんの実力者になったのだ。
 それが、「苦しい戦いでした」と弁明するときの細野氏の表情を明るいものにしていた。
 

 一方、同じ「希望の党」として東京3区から出馬し、石原宏高氏に敗れて、比例で救われた松原仁氏は、選挙後の深夜の総括番組(田原総一郎氏の司会)で、情けない表情をさらした。 
 松原氏は、安保法制、憲法、消費税などのテーマにおいて、民進党時代の主張と「希望の党」に入ってからの主張がまったく異なることについて、周囲の論客たちから集中砲火を浴びた。

 松原氏は、すべてこう言い逃れた。
 「安保法制、憲法、消費税など、すべて民進党にいた時代から、私は党の方針に反対だった。だからこそ『希望の党』に移ったのだ」

 言い逃れである。
 松原氏は、選挙戦の後半、「希望の党」に逆風が吹き始めたことを悟ってからは、さっさと「希望の党」の幟を目立たないところに引っ込め、“小池グリーン” のジャンパーを脱ぎ捨て、党名よりも「松原」という個人名だけを連呼して、“希望色” の払拭に務めた。

 その姿は、おそらく有権者に、「そこまでして当選したいのか !」という憐れみを感じさせただけだろう。
 かろうじて、比例で復活当選を果たした松原氏だったが、みっともない選挙戦に臨んだセコサは、顔に出てしまうものである。

 「俺は民進党の中ではけっこう頑張ったんだぞ」
 と、批判してくる論敵に向かって、彼は古巣の業績を自慢したが、そのときの表情は、リストラに遭って、新橋あたりの居酒屋で愚痴を垂れるサラリーマンの顔だった。 
 

 さらに、哀れだったのは、若狭勝氏だった。
 「希望の党」が誕生したとき、一時若狭氏はそのスポークスマン的な役割を果たした。

 しかし、ウソをつけない人なのだろう。
 頭に浮かんだ想念が、そのまま顔に出てしまうのだ。
 小池氏のナンバー2の座を射止めた喜びからか、彼はテレビカメラの前で、得意満面な笑顔を浮かべていた。
 こんなに露骨にニヤニヤしてしまっていいの? 
 と見ている人間が心配になるほど、無防備な笑いの垂れ流しだった。

 選挙戦後半。
 「希望の党」劣勢が伝えられると同時に、若狭氏の顔から笑いがどんどん消えていった。
 人は劣勢のときにその人間の本当の強さが試される。
 劣勢ながらもそれを美しく飾れる者は、次のチャンスを確保できる。

 しかし、不安に煽られた若狭氏の顔は、情けないほど貧相になっていった。
 たぶん、この人をもう政治の場で見ることはないだろう。
 

 「希望の党」の代表小池百合子女史はどうか。
 都知事の務めを果たすため、小池女史はパリで日本の記者団の会見に臨んだ。
 憔悴しきった顔であったが、それなりに毅然としていた。
 ちょっと見直した。

 私はこの女性が嫌いでしょうがなかったが、覚悟を決めて敗戦の弁を口にした小池女史には、それなりの品格が備わっていた。
 たぶん、自惚れがしぼんだときに、それまで身に沁みついていた名誉欲や権勢欲といった余計なエネルギーも一緒に洗い流されたのだろう。
 人間というのは、自惚れから解放されると、時に清々しい顔になることがある。
 このときの小池女史の表情は悪くはなかった。

 同じように、敗戦の弁を述べるときの前原誠司氏からも悪い印象は受けなかった。
 この人は、今回の選挙では “一番の裏切者” というレッテルを貼られた人である。
 「小池に騙されて、民進党をつぶしてしまった人」
 世間的には、そういう評価を受け、今後政治史に不名誉な名を刻むことになるかもしれないというのに、前原氏は堂々としていた。
 
 私は、この人を見ていると、なぜか関ケ原の戦いで、家康に立ち向かった石田三成を想像してしまうのだ。
 やたら理屈はこねるけれど、戦国武将としての才覚は乏しく、人の気持ちを汲むゆとりもなく、ゆえに人的魅力に欠ける。
 世間に流布している三成のイメージは、だいたいそんなとこだ。

 しかし、石田三成という人は、そのたぐいまれなる経営的才覚で豊臣政権の財政を支え、秀吉のブレインとして豊臣政権の基盤を盤石なものにした。
 そして、何よりも秀吉の遺子秀頼の将来だけを心配し、老獪な政治家である家康に対して、「義」を掲げて、乾坤一擲の大博打に挑んだ。

 で、衆院選の結果は、関ケ原の戦いと同じく、権謀術数に長けた「家康=自民党」に完膚なきまで叩きのめされた。
 前原氏も石田三成も、“戦いの機微” を察知する力がなかったということなのだろう。
 秀才のひ弱さが露呈した感じだ。

 だが、私はこの人からは高潔な理想主義者の情熱を感じることができる。
 おそらく、今後は旧民進党系メンバーから厳しい糾弾を受け、党から追い出される運命が待っているのだろうけれど、私はある種の清々しさをこの人に感じる。
 今後はどこかの党の優秀なブレインとして活躍してほしい。
 
 
 では、大勝した自民党の方。
 安倍晋三首相。
 残念ながら、私はこの人からあまり頭の良さを感じない。
 確かに、昔に比べて、討論やインタビューの場における政治家としての応対はうまくなった。
 それなりのしたたかさを身に付けたことも分かる。

 だが、あのしゃべり方には、あまり “頭のキレ” が感じられない。
 頭のキレは乏しいわりに、感情はキレやすい。
 つまりは政治家としての資質はそれほど高くない。

 その頭の弱さが政策提言で表れてしまったのが憲法解釈。
 「憲法9条の1項と2項は残した上で、自衛隊の存在を明記する条文を加える」
 というものであるが、そういうことを進める必要性が有権者にはまったく伝わってこない。

 安倍氏の周辺は、安倍氏の心を忖度して、
 「自衛隊があんなに頑張っているのに、その存在が違憲だというのはあまりにも可哀想だ」
 というのだが、それが本心ならば、政治家の信条として、あまりにも情緒的すぎる。
 おそらく、安倍家(岸家)だけにしか分からない家系上の悲願のようなものがあるのだろう。
 
 海外メディアは、このことを取り上げて、「安倍内閣は、戦争志向内閣だ」などという批判をさっそく開始した。
 そういう批判まで受けながら、改憲を進める必要がいったいどこにあるのか。
 理解に苦しむ。
 やっぱり頭があまりよくないのではないか。

 ではなぜ、安倍氏は長期政権を維持できるのだろうか。
 運が抜群に良いのだ。
 さらにいえば、「自民党」という党が、いまちょうど熟成の極みに達しているということもある。
 有権者には、それが「党のおいしさ」として感じられるのだ。

 今の自民党は、脂が乗って肉汁が滴るステーキである。
 ただ、このステーキは、腐敗の一歩手前にある。
 次の選挙まで、自民党というステーキがおいしい肉汁を維持している保証はどこにもない。
 
 
 自民党が、腐敗一歩手前の熟成したステーキを感じさせる党だとしたら、キリッと締まった手打ちそばのような爽やかなイメージで登場したのが「立憲民主党」である。
 直感的に、この党から感じるのは、「ぜい肉の取れたスマートな体躯」である。脂っこい自民党体質の対極にいる。

 その代表を務めた枝野氏は、これまでにない政治家としての一面を見せた。
 すなわち、自分たちの今までの未熟さをいさぎよく認め、「民主党時代」の負の遺産を隠さずに、今後の政治活動のなかで生かしていこうという態度をはっきりと表明したのだ。

 彼は、有権者が旧民主党政権に対していまだに抱いているトラウマをよく理解している。
 特に、菅政権のときに、東日本大震災で被害を受けた人たちに対し、有効的な救済処置を施せなかったことをしっかり反省している。

 そういう言動が、単に票集めのギミックではなく、本気度の高いメッセージだということがしっかり有権者にも伝わった。当選したいがために「希望の党」に押し寄せた民進党一派との差別化がそこで図られた。
 野党第一党に押し上げられたのも当然である。

 ただ、枝野氏の理論構築は実に心もとない。
 開票後に行われたマスコミのインタビューで、枝野氏は政治評論家の三浦瑠璃氏からの質問を受けた。
 それは、「枝野さんはリベラルなのですか?」という質問だった。

 それに対し、「私はリベラルではありません。むしろ保守です」と枝野氏は答えたのだ。
 これは憲法解釈と安保法案に対する枝野氏の従来の主張をそのまま述べただけで、ことさら奇をてらった言辞ではない。しいていえば “言葉のあや” ともいうべきものだ。

 しかし、すかさず三浦女史は突っ込んだ。
 「立憲民主に票を入れた人たちは、この党がリベラルであると信じて投票したはずです。
 それなのに、党の代表が自分は保守だと言い切る。今後その整合性はどういうふうに取っていくつもりですか?」

 それに対し、枝野氏はその場で有効な回答を出すことができなかった。
 ささいな質疑応答かもしれないが、実はかなり決定的な問題がここには隠されている。
 
 はっきりいうと、一見 “爽やかな” イメージに装われている立憲民主党の綱領というのは、「ある面では保守、ある面ではリベラル」という非常に不透明な部分を整理することなく残したものなのだ。

 選挙戦が短かったがゆえに、立憲民主はそこのところを露呈しないですんだ。
 しかし、もう少し選挙戦が長かったなら、そのうち立憲民主党のイメージバブルが弾け、「希望の党」と同じような “失速” を経験した可能性もないとはいえない。
 私見を述べれば、次の選挙まで、「立憲民主」が今の新鮮なイメージを維持しているようには思えない。
 

 今回の選挙でもっとも人気者に祭り上げられたのは、自民党の小泉進次郎氏。
 自民候補の応援演説で、マスコミに取り上げられる機会も多かったが、あらためてその言動を観察してみると、確かにすごいカリスマ性を持った人間に思えた。
 
 まず、トークがうまい。
 キャッチが明確。
 ユーモアを忘れない。
 ときに自虐ネタもしっかり用意し、アドリブも巧み。
 笑顔に余裕がある。
 
 イケメンであるということもさることながら、その応答にはみな捻りが利いていて、しゃべる前にいかに周到な準備がされているかということが伝わってきた。

 しかし、今回、「あっ、この人、本当はすごくビビっているな」と感じることが何度かあった。
 有権者たちの前で街頭演説するときの、自信にあふれた余裕のある表情とは別に、マスコミから個別インタビューを受けるときの、ちょっと宙を泳ぐ視線には、それまでにはない心の空洞が見えた。 
 
 密かに誰かの助けを待っているような、天から救いの手が差し伸べられることを期待するような。
 それは、サバンナの荒野で親からはぐれた草食動物の子供が見せる心細そうな目であった。

 小泉進次郎氏は、“次期首相” やら “自民の若きエース” などという世論の期待に、いま本当は押しつぶされそうになっているのではないか。
 もちろん、彼はそんな素振りはつゆほどにも見せない。

 しかし、彼は、実はものすごいプレッシャーのなかをあえぐように生きている。小池人気が失速していく様子を観察しながら、彼は、それが自分の身に降りかかるかもしれないと密かに警戒しているように見えた。 
 
 
 さて、「維新の会」の党首松井一郎氏。
 私は、(見かけだけの話にすぎないが)この人が、いったいどういう人なのか、まったくよく分からない。
 こういう顔つきの政治家というのは、これまで見たことがなかったからだ。

 たいへん失礼な話だが、この人のヘアスタイル、眼鏡のフレーム、ファッションなどを見ていると、どう見ても、政治家というより、夜の職業に従事する女性の面接に立ち会う支配人さんという感じだ。
 この人の画像の背景によく似合う景色は、議会の職務室ではなく、ミラーボールの光を反射させているビロードのカーテンのような気がする。
 
 
 次に、公明党はどうか。
 テレビなどで、その選挙戦を観ているかぎり、「スターのいない政党だな」という印象がずっとついてまわった。
 候補者たちを見ていても、顔つきも、発言も、みな地味。
 それがこの党の信頼感、安定感につながっているのかもしれないが、テレビ時代の選挙ということを考えると、この地味さは致命的ともいえる。

 だが、BSフジの『プライムニュース』(2017年10月17日)で、ゲストに呼ばれた公明党の山口那津男代表のインタビューを観ていて、気持が変わった。
 偶然スイッチを入れたらインタビューが始まっていたのだが、ついつい最後まで観てしまった。

 山口氏のトークに何をいちばん感じたのか。
 頭の良さである。
 『プライムニュース』のキャスター反町氏は、突っ込みの鋭さに定評がある。
 ゲストがどんな論客であっても少しもひるまない。
 むしろ、相手を窮地におとしいれることによって、相手の本音を引き出すということを得意技にしている。

 その反町氏の鋭い追及に、山口氏はまったくひるむことなく、時に笑いを浮かべ、深くうなずき、一貫して沈着冷静に自党の政権公約を解説していた。
 
 議論でいちばん重要なのは、相手を論破するロジックよりも、自分をコントロールする力である。トークの場における山口氏のセルフコントロール力には敬服する思いだった。

 発言内容は、消費税の使い道、教育の無償化。
 他党の財源案に対する分析。
 憲法に対するスタンス。
 安保法制への解釈。

 内容はこれまで同党がメディアを通じて発表してきたものばかりだが、それらを本質を外すことなく言葉短く説明する手際は、ほれぼれするくらい鮮やか。

 ただ、いかんせん、あまりにもキャラクターが地味。
 議論の進め方にそつがないということは、話がまったく面白くないということだ。
 それがゆえにマスコミ映えしないことを、本人がいちばん自覚しているだろう。

 だからといって、こういう人が突然選挙カーのデッキに立ち、いきなり歌(鉄人28号の替え歌)など歌ったりすると、みっともないことこの上ない。
 困ったものだ。
 
 
 最後に共産党。
 この党もそろそろ曲がり角に来ている。
 主義主張がブレないというのは、政党のあり方としては基本中の基本だが、その主義主張自体が、もうどうしようもなく時代に適合しないようになってきているとしたら、どうしたらいいのか。

 とにかく、この党の主張には、未来に対するグランドデザインがない。
 政策の提示も、理想論・抽象論ばかりだ。

 実は、これもBSフジの『プライムニュース』の話。
 ゲストに呼ばれた志位和夫委員長が、さっそく反町キャスターに突っ込まれた。
 「共産党さんは、本気になって政権政党をめざすお気持ちはあるんですか?」
 と反町氏。
 「もちろんですよ」
 と志位氏。

 「ならば、共産党さんが政権を取られたあと、アメリカとの安保同盟はどうするおつもりですか?」
 「すぐ廃棄ですね」

 「では、廃棄した後はどうされるんですか?」
 「アメリカとは、新たに普通の平和条約を交わし合います」
 「その場合、日本にある米軍基地はどうなるんですか?」
 「すべて撤退してもらいます」

 「ということは、たとえば北朝鮮が攻めてきたときは、米軍の代りに、自衛隊が戦うということですか?」
 「北朝鮮と戦争にならないような交渉を続けていくんです」
 「どういう交渉ですか?」
 「それは難しいんですが、とにかくそれをやらないと始まりません」

 「現実的に、北朝鮮が交渉に臨んでくると思いますか?」
 「それをやるのが政治なんですね」

 メモを取っていたのではないから、正確な記述ではないと思うが、聞いていて、なんとも頼りない答弁だと思った。

 言っていることは、原則的にまったく正しい。
 反論の余地もない。
 しかし、話の内容には何の具体性もなければ、何の実現性もない。あくまでも安倍政権との対立軸を明確にするための情緒的なスローガンにすぎない。

 今回の選挙で共産党は議席を減らしたが、それはこのような抽象的理想論では現実を捉えることができないということを有権者に見破られてきたせいかもしれない。
  
  

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

無類に面白かった衆議院選挙 への9件のコメント

  1. 江草乗 より:

    私も不謹慎ですが、選挙という一大イベントを楽しんでみておりました。
    これほどのショーを無料で観られるわけです。ただ、投票するという形で参加しないと面白さも半減だと思いますけど。

    樽床氏とは何度か会ったことがありますが、まさか小池の留守居役にまで
    昇格するとは思いませんでした。彼の息子を教えたからよく知ってます。
    小選挙区に出ないことで結果的に樽床氏は当選を果たしましたね。

    小池百合子も巻き返しの戦略を考えてるでしょうが
    若狭氏が落選したのは計算外だったのではないでしょうか。
    私は若狭氏に辞任させて補欠選挙で小池氏が国会議員になって・・・
    などという策略を想像していました(笑)。

    政治家それぞれに関する町田さまの寸評もお見事です。
    こういう話題をお酒でも飲みながら直接お伺いしていたら
    きっと楽しいだろうなと思いました。
    選挙に関する記事は私も書いていますけど
    格の違いを感じました。自分の書いたつまらない文章を
    恥ずかしく思い赤面しました。

    • 町田 より:

      >江草乗さん、ようこそ
      24日(火)の江草さんのブログをたいへん興味深く拝読いたしました。
      私もまた、機会があれば、江草さんとこのような話題で軽く一杯やってみたいな … と思いました。

      江草さんの分析のなかで、≫「サヨクが若者にアピールしなくなった」というのは重要な指摘で、そういう傾向のなかに、現代社会が抱える課題がたくさん埋もれているように思いました。

      多くの若者がリベラル系野党よりも自民党の方にシンパシーを抱いているというデータは、最近あちこちのメディアに取り上げられるようになりましたね。そういうデータを公表するメディアは、次のようにいいます。

      「今の若者は生まれたときからデフレの重苦しさを経験し、その前の世代が享受したバブル好景気などを知らない。だから、少しでも経済が向上する政策を打ち出している党の方の方に信頼感を抱く。そうなると、有効求人倍率を増やしたり、賃金の上昇や子育て支援を打ち出している自民党の方が、何でも反対する野党よりも信頼できると感じる」

      このあたり、江草さんもまた同じように推測されていらっしゃいますよね。

      現在テレビのワイドショーのコメンテーターとしてよく登場するようになった古市憲寿氏人は、2011年に『絶望の国の幸福な若者たち』という本で、そのことを指摘しました。

      彼はその本で、「格差社会のなかで今の若者たちは不幸な生き方を強いられている、というのはマスコミの間違った先入観でしかなく、実際の若者は、自分の身の回りに “小さな幸せ” を探し出し、それなりに満足して暮らしている」と説き、マスコミや中高年が抱いている “可哀想な若者” 像に一石を投じました。

      もちろん、著者は、そういう若者像を積極的に肯定しているわけではなく、むしろ若干のアイロニーを込めているわけですが、彼の主眼は、現代の若者の実態も知らずに勝手な先入観で “若者像” をでっち上げている中高年への批判にあったわけですね。

      話を今回の選挙の方に戻しますと、現代の若者がリベラル野党よりも保守系自民を支援するというのは、はっきりいうと、「野党の魅力不足」ということに尽きると思います。

      おっしゃるように、≫「今の日本は必ずしも若者にとって住みやすい国ではない。若者は車も買えないし、結婚するカネもない」
      それにもかかわらず、そういう国に日本を導いてきてしまった自民党の方に若者がシンパシーを感じてしまうのは、野党が自民党に勝るビジョンを掲げていないということではないでしょうか。

      今回、野党のなかでも「立憲民主党」だけは、若者の支持を集めたということですが、少なくてもここに至るまで、若者がワクワクできるような野党はいませんでした。
      安保法案を反対する若者たちが、かつて国会周辺で大規模なデモを繰り返したときがありました。
      でも、それは「安倍政治の暴走に歯止めをかける」というスローガンのもとに集結しただけで、けっして反安倍を志向する野党に魅力を感じたからではなかったように思います。

      では、「魅力ある野党」とは何か。
      私はしっかりした哲学を持った野党であると思います。
      「哲学」とは、けっして「カントがどうだヘーゲルがどうだ」とかいう意味での哲学ではありません。
      日頃の自分の生き方に、絶えず “宿題” を与えてくれるようなテーマを設定してくれる考え方。それを提示することが「哲学」ですよね。
      つまり、「君がスマホゲームを楽しんでいることにどういう意味があるのかい? スマホ以外の楽しみを探してみないかい?」とささやいてくれるのが “哲学” 。

      「安保法案が通ったら、日本人は戦争に行くことになる」と危機を煽るだけの野党には哲学がない。それは単なるアジテーションでしかない。
      アジテーションは一時の高揚を与えてくれるかもしれないが、「考えること」の大切さや美しさを教えてはくれない。

      おそらく、今の若者は、そういう野党の退屈さを見抜いたのだろうと思います。
      もちろん若者が自民党支持を掲げるというのは、そうとう屈折した消去法的選択肢であったと思います。
      しかし、「原理主義的で教条主義的な野党よりも、まだ自民党の緩やかさの方がましか … 」と若者が考えても仕方がないほど、今の野党には魅力がない。

      ま、消費税が上がる前に、大きな買い物でもしましょうか(笑)。
      さしあたり、私はFAXも使えるプリンターが欲しいな。
       

  2. Milton より:

    おもしろく読ませていただきました。

    細野氏に対する分析は、さすがに鋭いですね。私はそこまで考え切れていませんでした。私もそのご意見には賛同します。

    個人的には、三浦女史には立憲に対するレッテル貼りのようなものを感じて、私はあまりいい感情を抱けなかったんですよね。というのも、私は常に「カテゴライズ」と「二項対立」には、政治的あるいはメディア的な意図を感じているので、基本的には警戒してるんですよね。

    結局、保守やリベラルといったカテゴリーは、ある種の利用価値あるいは偏見を植え付けるための道具でしかないと思っていますし、そこに惑わされたくはないのです。

    たとえば、私はたえず改憲を望んでいるのですが、またそこで「改憲派と護憲派の対立」といった二項対立で一気に押し流してしまうのが、メディアの報道だと思っています。

    けれど、現実はそこまで単純ではなく、もっと複雑なものだと思っています。その複雑さ、ある種の孤立に耐えるのが、本来の政治だと思っているのですが、ポピュリズムは強いですからね。結果的には単純な二項対立に負けてしまうのが、昨今の政治的な問題なのではないでしょうか。

    どんなインテリでも、メディアの中心に深入りしてしまうと、ワイドショー的な言説になるのです。

    なので、政治では何も変わらない。世の中を変革するにはテクノロジーしかないと感じる青年が増えてくるのは、わかる気がするな~。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      核心を衝いたご意見だと思いました。
      いつものことながら、現代社会の構造を的確に透視されているMilton さんの眼差しには、敬服いたします。

      三浦瑠璃女史は、現在、若手の保守系論客として “床屋政治談議” の好きなシニア男性たちのアイドル的存在になっていますね。
      この人を、昔『ニッポンのジレンマ』で見たときは、「なんと生意気な女だ」と思って苦々しく見つめていましたが、どんな相手に対してもものおじせずに議論を突っかけていく姿にある種の小気味よさを感じて、今では私もファンの1人になっています。

      で、Milton さんが三浦女史の発言に対し、「カテゴライズ」と「二項対立」というポピュリズムの論法を使い、政治的言論の劣化を煽ったというご指摘は、私もまたその通りだと思いました。

      ただ、三浦女史が立憲・枝野氏に対し、「リベラルなのか、それとも保守なのか、支持者に対して旗幟を明確にせよ」と迫ったのは、確かにメディア操作的な言動であったにせよ、ある意味、立憲民主のモラルを問うたものだと理解しています。

      確かに、「カテゴライズ」と「二項対立」に議論を集約させていくのは、政治をワイドショー的単純さに還元してしまう危険性はあります。
      しかし、枝野氏が主張されている「私はリベラルではなく、保守である」という発言は、しっかりした説明で補足されないかぎり、それこそ支持者を惑わす発言になってしまう。
      Milton さんがおっしゃるように、≫「政治の複雑さと相対して孤立に耐える」というのが政治家の使命であるとするならば、枝野氏もまたその孤立に耐えなければならない。それがモラルだと思うんですよね。

      おそらく今後枝野氏は、さらに大きな課題に直面することになるでしょう。
      「立憲」人気にあやかろうとする旧民進党議員たちが、枝野氏のもとに政治的連携を図ろうとすることでしょう。そのなかには、無所属で出馬した中道右派的な大物議員たちもいれば、共産党的政治観に限りなく近い議員もいるでしょう。

      枝野氏は、現在「不用意な数合わせはしない」と明言されていますが、野党第一党としての発言力を維持していくためには、「立憲」の旗を頼りに寄り添ってくる右派寄り・左派寄りの人々をむげに “排除” するわけにはいかなくなるはず。

      下手に “排除” してしまうと、「小池と同じだ」という非難が出てしまう。
      しかし、無制限に党員を増やしたり、「閣外協力」という形で、左派寄りリベラルを包含すると、自分の思想的立ち位置があいまいになってしまう。

      枝野氏にいわせれば、「自分こそが保守本流で、安倍政権の方が極端な右派なのだ」ということになるのでしょうけれど、今回「立憲」に票を入れた人たちのなかには、古典的な「護憲」を主張し、教条的に「安保法案反対」を唱える原理主義者も多い。

      つまりは、枝野氏も、民進の代表であった前原氏と同じ悩みを抱えなければならないことになります。
      そこをどう耐えていくか。
      それが枝野氏の今後の課題ですよね。
      三浦女史は、枝野氏に「その覚悟はあるのか?」と問うたのだと思います。

      今回いただいたメールで、とても重要なご指摘だと思ったのは、≫「政治では何も変わらない、世の中を変革するのはテクノロジーだ」と感じる青年が増えていくだろう、というところですね。

      若い世代で投票所に足を運ばなかった人のなかには、「政治に興味がない」という若者だけではく、「政治では世の中は変わらない」という積極的・能動的な政治不信の若者もいるということですよね。
      確かに、そういう若者たちは、「テクノロジー」というものの本質をしっかり理解している。そしてそういう若者は、ある意味みな優秀です。

      彼らの気持ちをとらえるために、政治サイドに生きている人々は何をどう発信していけばいいのか。
      私もまた、それが今後の大きな課題だと思いました。
       

      • Milton より:

        いえいえ、私の方こそ、いつも町田さんの的確な分析には敬服いたしております。

        まず第一に、私がなぜ「カテゴライズ」と「二項対立」に対してほとんど生理的といっていいような拒否感を抱くようになったかというと、それは報道を通して観たアメリカの現状なんですよね。

        たとえば、昨今のアメリカのメディア報道では、「男対女」あるいは「黒人対白人」の構図でニュースを取り上げるケースが大変目に付くんですよね。

        しかし、私が見ていて率直に感じるのは、むしろメディアが個々の深刻な問題を、単純な二項対立(ジェンダーあるいは人種)にしてしまったことで、事態がより混乱しているようにしか見えない。

        性被害はメディアの視聴率に貢献するための「見世物」ではないですし、むしろ本来は慎重に掘り下げるべき問題だと思っています。性教育の問題、道徳との兼ね合い等々、一筋縄ではいきません。

        なので、そういった単純な二項対立を、日本に持ち込んでほしくはないんですよね。きっと本題からどんどんずれて、メディアがぐちゃぐちゃにしてしまうだけのように思えるので。

        とまあ、話はだいぶずれましたけど(笑)、私も三浦さんには期待してるんですよね。ただ、私自身が彼女のカテゴライズに過敏に反応しただけだと思っています。

        それと枝野さん率いる立憲民主党の今後には、まだまだ不透明感はありますけど、やはり立憲主義と改憲ありきという方針は、はっきり打ち出していただきたいですけどね。

        もし大方の予想通り護憲を訴えるなら、正直いって伸びしろは少ないと思っています。

        それより、なにをどう改憲するのか、改憲案への積極的な意見表明をしていただけると、国会が活性化して良い流れが出来るようには思いますね。個人的には。

        最後に、優秀な若い人材がテクノロジー産業へ流れるのは、世界的な潮流だと思っています。

        人間には恒常性がありますからね、そうそう変われません。それは歴史が証明しています。ただ、テクノロジーの進化が、文明を大きく変えてきたのは事実です。トランプ的な政治環境より、そちらの業界に魅力を感じる若者が増えるのは、当然だと思いますね。

        • 町田 より:

          >Milton さん、ようこそ
          最近よく「分断の時代」とか、「分断化される世界」などという言葉をよく見るようになりました。もちろんその発端は、Milton さんが推察されているとおり、アメリカのトランプ政権の政策や政治思想から来るものですね。
          トランプ大統領は常に自分の世界観を「二項対立」の図式に還元して訴えてきました。「正しいニュース」と「フェイクニュース」、「犯罪者を送り込むメキシコ」と「被害者国のアメリカ」、「正規の国民」と「不法難民」というような、対立がくっきりと浮かび上がる二項だけを左右に配して国民を煽るという手法ですね。

          こういう選別は、EUにも飛び火して、いまEU諸国も対立と分断の嵐に巻き込まれています。

          そして、Milton さんが指摘されている通り、そのような “世界の分断化” を可視化させているのはメディアです。アメリカの政治報道では、まずトランプ氏のツィッターを報道し、それに反応して反対デモなどに立ち上がる市民の映像を対置させる。メディアはそうやって、世界はいま両極端の主張に切り裂かれているというイメージを煽り続ける。本当に困ったことですね。

          ただ、物事を「二項対立」の構図に収めて理解しようとするのは、人間の知的活動の原初的形態であるような気もします。昼/夜。晴天/雨天。オス/メス。敵/味方。
          それが政治・宗教レベルにまで発展すると、天使/悪魔。正義/悪。

          そういうように、人間の知能は、複雑系に属する自然を識別していく過程で、まずは最初に、もっとも単純な二項に分類する訓練を積んだのではないでしょうか。「食える/食えない」、「飲める/飲めない」、「危険/危険でない」とかね。

          ただ、現代社会における「二項対立」的な世界像が問題なのは、相対する二項が歩み寄る契機が失われていること。つまり二項を主張する者同士の寛容性が欠けてきた、ということであるような気もします。

          人々の寛容性が欠けてきた理由は、さまざまかもしれません。
          知性や感受性の欠如、すわなち教育の問題かもしれない。
          それは、格差社会の広がりからくるものかもしれない。
          テクノロジーの進化に、人間の英知が追い付かないという問題かもしれない。
          私には一つに特定して掘り下げる力は今はありませんけど … 。
           

          • Milton より:

            そのことについては、アメリカのジャーナリズムの巨人ウォルター・リップマンが、『世論』のなかで分析しています。

            “For the most part we do not first see, and then define, we define first and then see. In the great blooming, buzzing confusion of the outer world we pick out what our culture has already defined for us, and we tend to perceive that which we have picked out in the form stereotyped for us by our culture.”

            ― “Public Opinion (1922)” written by Walter Lippmann (American newspaper commentator and author: September 23, 1889 – December 14, 1974)

            つまり、本来は雑多で混沌とした世界を、我々は定義に基づいて整理した形(カテゴライズ)で、認識しているということです。以前ここで書いた「コード」と「混沌」に通じるかもしれませんね。

            しかし、世界観が単純化されてしまうと、様々な弊害が出てしまう。全体主義は典型ですね。

            なので、そういった単純な世界観を解体してきたのが、とりわけ戦後の思想的な流れだったような気がしなくもない。。。エキスパートじゃないのでよくわかりませんが(笑)。

            なんであれ、私が言えることは、昨今若い世代の間で「ダイバーシティ(多様性)」という概念がもてはやされてますけど、それを推し進めることで、代わりに「コモンセンス(共通感覚)」が社会から無くなるという事実を、我々は認識する必要はあると思いますね。

            つまり、相互に高めあう愛の信頼関係もそうだし、山口百恵的なみんなに愛されるコモンな存在まで、我々から失われていくということです。

            共同体の解体からの孤立化。その果てに、テクノロジーが用意してくれた拡張現実への逃避(?)

            それに耐えられるでしょうか?難しいですよね。「Make America Great Again」みたいな壮大な共同体幻想に浸ってるほうが、まだマシかもしれないですね。

  3. Milton より:

    (追記)もちろん、私も町田さんがご指摘されたように、若い年齢層の政治に対する失望感を、政治にかかわる人々がいかに解消できるかが、今後問われてくると思います。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      ご指摘のとおり、人々の「世界観」が “二元論” 的に単純化されることによって、たくさんの危機が現実化していくというのは確かでしょうね。
      米国ブッシュ政権下におけるイラク戦争も、「正義」と「悪」の戦いとして単純化されたことにより、国民の好戦的気分が助長されました。
      ヒトラーは、人種を「優秀なアーリア系」と、「劣った非アーリア系」という単純なカテゴリーで分類し、ユダヤ人に「非アーリア系」のレッテルを貼ることによって、アウシュビッツの悲劇を招きました。

      そのように、二項対立的な粗雑な世界観が悲惨な結果を用意することが分ったとしても、かといって、「ダイバーシティー(多様性)」という概念を極端に肯定していくと、今度は「コモンセンス(共通感覚)」との齟齬をきたす。
      なるほど。
      本当に落としどころを見つけるのが難しい世の中になりましたね。

      それでも私は、「多様性」を志向することの意義に賭けたいと思います。
      「多様性」を志向するということは、「正解は一つに限らない」ということを主張することでもありますから、「決断できない人」、「答を出すことから逃げている人」などという批判を浴びることもあるでしょう。
      今は、答がすぐに出ない苛立ちから、人々がキレやすくなっている時代。
      そういう時代に、「答は一つではない」と主張することこそ、なんかカッコいいのではないかという気もしているんですけどね(笑)。
       

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