病院のデイルーム(面会室)にて

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 2泊3日の日程を終えて、昨日病院から退院してきた。
 「右心カテーテル検査」
 2年前に患った肺血栓症手術の経過が良好かどうか、それを検査するための入院だった。

 もうこれで入院は7回目。
 長いときは1回の入院で2ヶ月ぐらい費やしたことがあったが、2度にわたる大きな手術を終えたあとは、2拍3日の検査入院に移行したので、それほどの負担はなくなった。

 検査の結果、肺を冒していた症状の大半は改善し、肺機能の数値はほとんど正常値に近づいたという。
 ただ、今後も継続的に経過を観察することが必要で、2ヵ月に1度くらいの外来診察と、年に1回の検査入院は避けられないとも。次の検査は1年後の10月10日に決まった。

 入院は嫌いではない。
 適度な非日常性と、適度な日常性が混在した独特の時間の流れが好きだ。

▼ 病棟のデイルーム

 
 人間は、緩やかな拘束を受けていた方が、かえって想像力を刺激される。
 検査時間の合間の午後のデイルーム(面会室&休憩室)。
 ソファに座り、週刊誌のページをばらばらとめくって、退屈な気分をまぎらわす。

 そういうときには、たまたま目が拾った週刊誌の俳句コーナーで、読者が投降した俳句の一句に刺激され、感情がざわざわ揺れたりすることがある。

 俳句に限らず、短歌や詩といった文学は、それを楽しむためのゆとりがなければだめだ。
 この手の文学は、小説と違って、電車の中で味わったりできるものではない。
 「何もすることがない … 」 
 といったような、一種の “物憂さ” の力が必要となる。点滴などによって身体を拘束された状態で、病棟に差し込んでくる午後の光を浴びたときに、この手の文学ははじめて心に染み入ってくる。
 
 
 人との印象的な出会いというのも、そういう心のときに生じる。

 杖をついてデイルームを横切る婦人がいた。
 年のころは60歳後半から70歳代といったところか。
 見舞い客のようだ。

 部屋を横切る婦人の足運びが辛そうに見えた。
 「椅子に座って、一呼吸ついてから行きませんか?」
 テーブルの上に週刊誌を放り出し、私は声をかけた。
 
 「そうね」
 意外にも、婦人は私の前の椅子に腰を下ろした。
 友人が退院するというので迎えに来たのだが、その友人の会計が終わるまで多少の時間があるという。

 世間話が始まった。
 「交通事故に遭って、杖をつくようになった」
 という話になった。

 彼女には、介護しなければならない認知症のご主人がいた。
 ところが、自分が交通事故に遭ってしまい、旦那さんの介護できなくなってしまったという話に進む。

 ご主人の認知症の度合いは極度に重く、自分や周囲の状況がまったく把握できないだけでなく、車椅子に座ったままで猛獣のように暴れまくる。

 事故に遭って、自分の体さえ満足にコントロールできない婦人には、もう介護など無理だと思わざるを得なかった。
 医者は、事故に遭った体の機能を回復させるには、相当苦しいリハビリを覚悟しなければならないと彼女に語った。
 そのとき、彼女の頭のなかで何かがひらめいた。

 「リハビリが苦しいというのなら、いっそ主人を介護することを自分のリハビリだと思えばいい」

 そう覚悟したとたん、介護を円滑に行うためのさまざまなアイデアが一気に湧き出し、今まで辛かった介護行為も、それがリハビリの運動だと思い込むと不思議なくらい軽く感じるようになった。

 「だから介護というのは “哲学” であると同時に、 “芸術” でもあると思ったんです」

 そう彼女は語った。
 なんと素敵なことをいう女性だろうと思った。

 ご主人を介護しているうちに、いろいろな人の本性や品格も少しずつ見えてきた。
 ご主人のことを認知症だと知ってから、どうせ「言葉を理解できないだろう」とばかりに、ご主人の前であからさまに悪口をいう人も出てきた。

 なかには、2人がいる前で、「ご主人がこういう状態になったら、いっそのこと亡くなってくれた方が楽だと思うことだってあるでしょう」
 という無神経な言葉を、平気で口にする人もいたとか。
 
 しかし、認知症というのは、けっして周りの世界を把握できなくなったのではないことに婦人は気づいた。

 ご主人に向かってむごい言葉を吐き捨てる人が出てくると、ご主人の顔がなんとも悲しげな表情に変わるのを、婦人は何度も見たのだ。

 重度の認知症患者は、人の言葉を理解できなければ、自分の気持ちも言葉に出せない。
 世間の人はそう思い勝ちだが、認知症患者の心は、むしろ健常者よりもピュアに回りの世界を理解している。

 「そういうことが分ってきたのは、やはり介護を続けてきた結果です。主人はすでに亡くなりましたけれど、私は最後まで介護できたことを幸せだと思っています」

 という話を聞いたところで、会計を済ませた婦人の友人がやってきた。

 いい話を聞いたと思った私は、何度も頭を下げながら去っていく婦人に対し、ドアが閉まるまで手を振った。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

病院のデイルーム(面会室)にて への11件のコメント

  1. 北鎌倉 より:

    介護される側と介護する側が重なったとき、介護する女性は一方的な介護から双方向の介護に転換できたのですね。私も自宅で仕事をしながら13年間母親を介護した経験があります。寝たきりの母親を理解することより、まず食事、排せつ、服の着替え、お風呂、床ずれの手当て…とめんどうを見ることが一日一日まったなしでやってきます。それをしなければ死んでしまうのです。<介護する自分は母親と住む=暮らす道をさがし><周辺者はその母を理解する道をさがす>となります。理解には底なし沼がありますが、暮らしには生活という基盤があります。<他人は理解しようとし、介護者は実践しようとする>のです。私たちが顔を突き合わせて「わからない」と言っている間にも、おしめを変え、食事を与え、語りかけ、抱き上げてシーツを交換しているからです。生活にとっては、考えてもはじまらないものがあり、それをただちにしなければ生活が成り立たないのです。おそらく実践を生きるものにとっては、理解することでは「らち」があかないものであり、理解する者にとっては、実践では「らち」があかないものがあるにちがいないのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      介護の辛さ、重さというのは、結局介護に携わった者でないと分からないもののように感じます。そこには「理解する」などという心の余裕を許さない「暮らしの重み」というものがあるのでしょうね。≫「理解することではらちがあかないものがある」という言葉から、それが伝わってきます。

      それにしても、13年間、お母様の介護を続けられた北鎌倉さんの努力にはただただ頭が下がる思いです。
      私にも実の両親や義母を介護した時期がありましたが、幸いなことに、両親などは肉体的な障害はそれほど重くはなかったため、普通の方々が経験される介護よりは楽であったかもしれません。ただ、義母に関しては、家内などはかなり心理的な負担を抱えたようで、自らも体を壊し、入院生活を余儀なくされたこともありました。

      介護問題は、今後の日本社会に深刻な影響を与えることになると思います。
      自分が介護を受けなければならない時代がそろそろ来ることに備え、いまのうちになにがしかの覚悟を定めておいた方がいいと思うようになりました。
       

  2. 江草乗 より:

    入院お疲れ様でした。
    私も十二指腸潰瘍という持病で、何度か入院しています。
    いつも突然なので、職場の同僚に迷惑をかけるばかりです。
    でも、そうして休める時間をいつも
    「これは神様がくれた休息」だと思うことにしています。

    老婦人との会話のくだり
    まるでそれ自体が一つの素敵な短編小説になるようなお話でした。
    ありがとうございます。

    • 町田 より:

      >江草乗さん、ようこそ
      入院で職場の同僚に迷惑をかけることほど辛いものはありませんね。
      幸いなことに、私が長期入院を余儀なくされたときは、すでに定年退職した後だったので、仕事場に迷惑をかけることからまぬがれました。
      もし、職場の同僚に迷惑をかけるような状態だったなら、きっと「入院は嫌いではない」などという無邪気な一言は書けなかったでしょうね(笑)。
       

  3. 北鎌倉 より:

    町田さんが言うところの「なにがしかの覚悟」について、13年のあいだ介護の実践をしながら、近・現代ではなく古代の学問を学び考えました。
    人間に心があるということ、それは、<すべてを心は知りたがっている>。
    古代人はこの心の持つ宿命の構造に対してもっとも勇敢に対応したのではないか。
    今から見ればまったく非科学的で神秘的で子供だましの宗教的発想でしか対応できてないように見えますが、それでもすべての問いを包括しうるような答えの出し方をつくるために考案された宇宙論が数多くあるのは確かなのです。
    「すべてはどこかにあるのでなければならない」
    私たちひとりひとりが今立っているところから再びひとりひとりの宇宙論を作り出す時代に入ってきていると思います

  4. 北鎌倉 より:

    介護の究極像のひとつを思い浮かべてみます。
    寝たきりの重度の子供の生を見つめる母親はいつかゆきづまっていきます。
    いったいこの子はなぜ生きているのか。何もしゃべらないし、何も感じない、ただ食って、寝て、それだけの生でしかないもの・・・そんな形で生きていたって何のねうちもないし、かわいそうなだけだ・・・。
    こういう介護する母親たちが求めているものは何かというと、それは決して心理学でも、発達論でも介護論でも福祉設備の充実だけでもないのです。
    うまく言えませんがひとえに宇宙論的なものなのです。
    なぜ生きているのか、それはつきつめればなぜ宇宙に生命があるのかという問いを問うというところにゆきつきます。
    その問いの前で介護する母親たちはまさに宇宙に直面しているのです。
    介護するひとりを問えばそれは宇宙論を問うことになります。そういう宇宙論を欲しいと13年の介護過程で切実に思いました。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      すごいですねぇ ! 
      宇宙論。
      介護というのは、最後はその人なりの宇宙論にたどり着くということなんですね。
      とても印象に残る言葉でした。

      確かに、現代科学の最新研究に接することで、私たちは宇宙を実証的に把握していると思いがちです。
      だけど、果たして私たちは、宇宙の本当の姿にどれだけ近づいたといえるのか。そもそもビッグバンだって理論上の仮説に過ぎず、宇宙の始まりといわれるビッグバンをこの目で見た人間は誰一人いない。
      進化論もそうですよね。
      サルが人間に移行した過程をこの目で見た人間は一人もいない。

      なのに、現在流布している知見が最新科学だと思い込み、それを盲目的に信じているのが我々です。
      つまり、誰もが自分自身で宇宙論を組み立てることをサボっているわけですよね。
      あらためてそのことを教えていただいたように思います。
       

  5. 北鎌倉 より:

    100年前は、「闘病」とは言いませんでした。「平癒」といったんです。
    闘病が撲滅駆除の叩きだしで、平癒が来訪メッセージに歩み寄る示談ではないでしょうか。
    病気は、病魔ではなく「来訪神」(まれ人)のメッセージなんですね。
    立てこもった珍客は、偶然か必然化、ともあれ、自分の身体を選んで侵入し、居座った。気難しい客だけれど、通じる言葉は、きっと見つかる。
    長年病人をやっている人の話を聞いていると、そんな気がするのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      面白いお話でした。
      病気もまた “やっかいなお客の到来” と思うことで、自然の営みの一つとして対処していく。
      そういうものこそ、まさに人間の叡智なのかもしれませんね。

      近代医学では、病というのは自然科学的な観察によって対象化し、取り出して駆除するもの。あくまでも、主体―客体という認識構造に還元されるものです。
      しかし、病もまた自分の体に来訪した “客人” として遇していく。
      100年前には、そういう考え方もあったと。
      なるほど。勉強になりました。
       

  6. 北鎌倉 より:

    用もないのにナースコールを押す。時には一晩中ナースコールを押し続ける。頭にきてナースコールを無視したり、抜いたりする看護婦もいないわけではない。賢い看護婦は用のないナースコールを、<純粋ナースコール>と呼びます。価値としてのナースコールというわけです。この患者さんにとってナースコールとは、手段ではなく、看護婦が来ること自体が目的なのですね。周りは知らない人ばかり、これからどんな扱いを受けるのか、苦しくなったら本当に来てくれるのか、自分が確かに人間関係の中に存在しているのだ、という確認のためナースコールを押す。問題行動ですが、ある意味関係を求めている行動とも言えます。
    賢い看護婦は純粋ナースコールにどう対処するのでしょうか。用のため押してない、関係を求めている、いわば世界と自分との繋がりを保証する絆がナースコールだから、それは、ナースコールに呼ばれてやってくる看護婦とは、具現化した世界そのものなのです。その時の患者さんにとっては、世界の代表です。だから何もしなくていいのです。ベッドサイドに座って、膝に手を置き話を聞くだけでいいのです。その30分を覚悟すれば、夜勤の貴重な30分ではなく、一晩中振り回されることに比べればいい。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      <純粋ナースコール>というのは、いいお話でした。
      なるほど。
      用があって患者が鳴らすというよりも、人間の信頼関係を確認するために鳴らすナースコールというのもあると。

      ただ、それを理解して患者の心に沿うような行動を取れる看護婦さんというのは、実際には少ないでしょうね。
      私も大部屋に入院していて、夜中に何度もナースコールを押す患者さんと同室したことがありますが、結局看護師さんの方が、「何かをやってあげないといけない」と思い込んで、必要以上に患者さんのリクエストを忖度しすぎてしまうんですよね。
      「あれじゃ看護師さんも患者も疲れるだろうなぁ …」と思いながら、寝たふりをして目をつぶっていました。
       

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