ニッポンのジレンマ 2018

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 元旦の深夜から、テレビでいろいろな討論番組を観た。
 その手の番組の代表格が、田原総一郎が進行を務める『朝まで生テレビ』。
 今回のテーマは、憲法問題や北朝鮮への対応。沖縄の基地問題など。

 これまでも何度かこの番組は観てきたけれど、“しゃべりのプロ” を出演者に揃えているだけに、(ウーマンラッシュアワーの村本大輔の発言で荒れた以外は、)問題点は上手に整理されている思った。
 しかし、それがゆえに、発言も反論も予定調和のなかで上手にショー化された感じは否めなかった。

 それに対して、Eテレの看板番組になった『ニッポンのジレンマ(2018元日スペシャル)』は、どういう展開になるのか予測がつかなかった分だけ、かえって面白かった。

 今回のテーマは、今の若者たちが抱えている “根拠なき不安” 。
 これは、経済産業省の若手官僚たちが日本の危機を赤裸々に語った資料が100万ダウンロードを超えたということに触発されて企画されたものだという。
 その資料の名は、『不安な個人、立ちすくむ国家 ~ モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか ~』。

 経済産業省は、日本が大きな転換期を迎えようとしている現在、将来に不安を抱えた国民たちが急増しているという認識を持って、こういう資料を作成したらしい。

 それを受けて、『ニッポンのジレンマ』では、20代を中心とした若者を会場に集め、現在直面している悩みや不安を具体的に語らせる形でトークを進めることにしたようだ。
 
 ただ、観ていると、発言者の表現力にバラつきがあるように思えた。
 古市憲寿(社会学者)、大澤聡(メディア史研究者)、三浦瑠麗(国際政治学者)、安田洋祐(経済学者)といったこの番組の常連コメンテーター以外の発言者は、おしなべて表現力が乏しい感じがした。
 みな言葉が練れていないのだ。
 けっきょく何を言いたいのか、よく分からなかった。 

 しかし、そのことは逆にいえば、この番組で発言した若者たちが、いま流通している既成の言葉では実体がつかめない、何か新しいことを言おうとしたためだろうという気もした。
 彼らは、今のオールド世代が使っている言葉では、この先の時代を見通せないという共通認識を持っているように思えた。

 もし、マスコミ慣れしたベテラン解説者たちならば、今の時代が見えにくい理由、… すなわち我々を覆っている不安の正体を手慣れた言葉で簡単に説明するだろう。
 たとえば、
 「今の時代が見えにくいのは、トランプ米大統領の行動に法則性が感じられないから」とか、「北朝鮮の金正恩委員長のミサイル実験がどこまで進んでいるのか分からないから」とか。
 あるいは、
 「グローバリズムがこの先どこまで浸透していくのか分からないから」
 などなど …… 。 

 しかし、『ニッポンのジレンマ』で発言していた若者たちは、そういった政治や経済の言葉に頼ろうとせずに、もう少し自分の皮膚感覚で感じた “空気” のようなものに言葉を与えようとしていた。

 番組を観ていた私の解釈でそれをいい直すと、若者たちの思考のベースとなっているものは、人間を超える知能を獲得しようとしているAI (人工知能)が、将来人間を幸福にしてくれるのか、それとも人間の自由を拘束するものになっていくのかという例に象徴されるような、人類史上かつてない巨大化を遂げたテクノロジーの時代を迎えたことへの不安と期待であるように感じられた。

 実際、この討論に参加していた若者のなかには、AI の研究に携わっていたり、それを活用した起業設計に取り組もうとしていた人もたくさんいた。
 彼らにとって、AI はもう “SF物語” の意匠でも何でもない。
 それは未来のビジネスを構築していく上での有効なツールであり、場合によっては、人間の作業をサポートしてくれるパートナーでもある。

 ただ、AI というのは、人によってはこれまで人類が築きあげてきた「文化概念」やら「人間像」に対して大きな修正を迫るものになる可能性がある。

 そのひとつに、歴史認識の問題が出てくる。
 今日に至るまで、人間は「過去の歴史」から、未来に対処する考え方を発見するという思考訓練を重ねてきた。

 そのことに問題がないわけではない。
 歴史は、どうしても編纂した人々の “解釈” によって整理されてしまうことを避けられないからだ。
 「歴史は勝者が一方的に残した記録である」などといわれるのも、そのことを指す。
 それでも、その “解釈” こそが、後世の人間に「教訓」という知恵をもたらせてくれることになる。

 しかし、AI が蓄積していくデータベースでは、“解釈” 抜きの歴史的事実が無限に積み重ねられていくだけとなる。つまり、そこから「教訓」を引き出す作業は期待できなくなる
 歴史的事象がただのアーカイブとして機械的に積み重ねられていくデータを、はたして「歴史」と呼べるだろうか。

 以上の問題点は、メディア史を研究している大澤聡氏が取り出したことだが、ほかにも今の時代が “大きな転換点” に立っているという指摘は、さまざまな分野において行われた。

 たとえば、国際政治学者の三浦瑠璃女史は、これからの日本は、明治時代から今日に至るまで日本人の思考様式や感性を支配していた “欧米流思想” とはまったく異質な思想と対峙しなければならなくなるだろう、という。

 それは、「中華思想」である。
 習近平主席の西太平洋における政治的・軍事的膨張政策が露骨になる時代が始まったが、それがさらに大きな圧力としてわれわれに迫ってくると、日本人は否が応でも、中華思想の押しつけにどう対応するかという問題から逃れられなくなる。

 中華思想は、欧米流の民主主義思想とは全く異質なもので構成されている。それは歴史的に、中国の歴代王朝の皇帝が周辺諸国を支配することを是とする思想である。

 日本も、かつて古代から飛鳥時代・奈良時代まで、中華思想が唯一の国際文化であった時代を経験している。
 その圧力と対峙する形で、日本独自の平安文化や鎌倉文化が養われていった。

 それと同じ時代がまた始まる。
 … と三浦瑠璃はいう。

 そのときに、日本の国家神道思想などを対抗軸に据え、右翼的な思想が国内に台頭してくると、それもまた日本の民主主義そのものを危機にさらす。
 
 いずれにせよ、第二次大戦後、極東でもっとも民主主義的な国家を樹立させた日本の政治が、その存立基盤を問われる時代がそこまできている。
 『ニッポンのジレンマ 2018元日SP』は、そういうことまで考えさせられたテレビ番組であった。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

ニッポンのジレンマ 2018 への8件のコメント

  1. Milton より:

    明けましておめでとうございます。

    『ニッポンのジレンマ 2018元日SP』はすっかり見逃してしまいました。しかし、町田さんのブログを読みながら感じたことを、自分なりの言葉で書いてみたいと思います。

    実は年末の間ずっと、数学の勉強をしていたのですが、その本(「数学的思考: 人間の心と学び 」著・ David Tall)の中に興味深い記述があったんですよね。

    まず、英語では「ヒストリー」と「ストーリー」が同じ語源であるということ。さらに、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語では、物語を意味する語がそのまま歴史という意味も兼ね備えているという事実。

    つまり、西洋の根底には、歴史とはすなわち(事実として語り継がれてきた)物語であるという歴史観があるんですよね。

    しかし、AIの場合、言語学者のソシュールがいうところの、シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)のうち、シニフィエ(つまり意味)の要素が人間のそれとはだいぶ違ってくる可能性がありますよね。

    つまりAIは、単なる言葉(文字記号や音声記号=シニフィアン)の操作だけが自動機械のように作動するだけで、個々人の人間的な「想い」をまったく参考にしない可能性がある。

    そんな得も言われぬ不安感を、若い世代ほど感じているのかもしれません。

    ちなみに、私が危険視しているのは、どちらかといえば中華思想よりも、昨今あきらかに暴走気味に見えるUS発のフェミニズム運動ですけどね。

  2. Milton より:

    危険視は、言い過ぎかもしれませんね。警戒視に訂正させていただきます。

  3. Milton より:

    町田さんの返信コメントを待つ間に、他の方に誤解されたくはないので、私が昨今のフェミニズム(US主導)を警戒視する理由を、先にコメントさせて下さい。

    私はもともと、フェミニズム運動にはかなり肯定的な人間で、自分でもフェミニストを名乗っていた時期もあったぐらいです。

    しかし、私がフェミニズムに対して決定的な不信感を抱く原因になったのは、もしかしたら以前ここで同様のコメントをしたかもしれませんが、トランプのセクハラ騒動が大きいんですよね。

    BBC【米大統領選2016】トランプ氏わいせつ発言 「スターなら女性に何でもできる」(http://www.bbc.com/japanese/37594747)

    これは、あの大統領選挙戦の投票日間近に露呈した大スキャンダルなのですが、このとき、多くの女性や民主党支持者は「本物の男は、ロッカールームで猥談なんかしない(いわゆる、Locker room talk 問題)」みたいなコメントを、SNS上のいたるところでしていたんですよね。

    それは、違うだろと思った。私は、ハンナ・アーレントがいうところの「凡庸な悪」の可能性を信じている立場の人間なので、そういった閉鎖的な環境にいれば、だれでも無自覚にそうなりえる可能性があることを、痛感しているんですよね。

    要は、人のいないところでは、男女や人種関係なく、人の悪口を言ってしまうのが人間の業であると、私はそう思うわけです。

    理性なんて大したもんじゃない。だから、オートマティックな悪を未然に防ぐような仕組みが必要であるという立場です。

    しかし、昨今の一部のフェミニスト(US)の言動を見ていると、まるで自分は絶対的な正義といったような立場で、様々なハラスメントを徹底的に断罪しているように見える。

    もちろん、性暴力や性差別は、社会的に否定されなければいけません。しかし、自分は絶対的な理性を有した裁判官であると思い込むことも、それはそれで危うい発想だなと、そう思うんですよね。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      最近の男性のセクハラ発言を嫌悪して告発する(US発)フェミニズム運動に行き過ぎな感じを持つというのは、私も同様です。
      おっしゃるように、男性が女性を対象にする言動を取り上げ、あまりにも性急に「清潔さ」と「潔癖さ」を求めると、なんだか息が詰まってきそうに思えます。

      ただ、今回のハリウッド業界を中心とした一連のセクハラ問題は、やっぱり女性を粗雑に扱うことに慣れた感受性の乏しい男たちがいかに多かったか、ということを示唆しているようにも思えます。

      今回、野蛮な男たちを告発した女性たちは、みな「正義は我にあり」という思いが強すぎたのかもしれませんが、一方今回告発された男たちは、みなカネと権力で女性たちを従わせようとしたらしいので、彼らも「力は我にあり」という勝手な思い込みが強すぎたのかもしれませんね。

      「絶対的な正義は我にあり」
      という考え方が、昔から他者に対する抑圧と非寛容を生み出してきたのは事実なんですけど、最近はその考え方が国単位にまで発展してきて、現在あらゆる国で、異質なものを排除して攻撃するという風潮が強くなってきていることが気になります。
      これに関しては、Milton さんの危惧が現実化している感じですね。
       

      • Milton より:

        ご返答ありがとうございます。そして、おっしゃる通りだと思います。

        まさに、権力にものを言わせて、女性を物のように扱う振る舞い(Objectify:グーグルで画像検索していただくと、イメージを可視化できます)をしてきた男性がいたことは、まぎれもない事実です。

        若いころに『デブラ・ウィンガーを探して 』というドキュメンタリー映画を観て、ハリウッドの女性蔑視的な体質にも関心を持っていたので、昨今のエンタメ業界を中心にしたフェミニズム運動の高まりも理解できます。

        以前の私なら、手放しで称賛していたことでしょう。それぐらい昨今のアメリカでは大きな運動です。

        しかし、これをやりすぎると、まるで白人と黒人の間で分断が起きたように(あるいは欧米における地方と都市部)、男性と女性の間で社会的な分断が起きる可能性がある。

        あと、表現の自由にも影響が出るでしょうね。ハラスメント告発のオンパレードになりかねませんから。

        つまり、どこまでコモンセンスが保たれるのかという問題を今のうちに日本でも議論しないと、アメリカのようにおたがいが相手の意見にまったく聞く耳をもたず、まるで議論が噛み合わない状況になってしまわないか、それを私は懸念しています。

        • 町田 より:

          >Milton さん、ようこそ
          昔、アメリカという国は「レディーファースト」の国だと教えられたことがあります。ハリウッド映画などを見ていても、男性の主人公は、自分の命を賭してもヒロインを救出しようとする。
          アメリカ文化というのは。徹底して「男性が女性を守ろうとする文化だ」とずっと思っていたのですが、どうやら見当違いのようでした。

          危機に陥った女性を救出し、敵を倒し、最後は救った女性と一緒にハッピーエンドを迎えるというハリウッド映画の基本は、けっきょくマッチョ文化だったんですね。
          つまり、男性のヒーローがヒロインを救出しなければ、いつまで経ってもヒロインは危機にさらされたままであるという意味で、その構造こそ、きわめて古典的な「男尊女卑文化」を反映したものであったということなのでしょう。

          そういう「男尊女卑思想」を踏襲したハリウッド映画に対する意識改革が始まったのは、やはり1970年代末期に、ヒロインが悪を倒すという映画が台頭してきてからかもしれません。
          1979年の『エイリアン』(リドリー・スコット)では、男たちがすべてエイリアンに食い殺されても、最後に残った勇気あるヒロイン(シガニー・ウィーバー)が敵をやっつけるという映画でした。
          その後、女優のアンジョリーナ・ジョリーが、男に代わって敵を倒すという女性主役のアクション映画が制作されるようになってきて、ようやくハリウッド社会も男性中心の映画観から抜け出られたのかもしれません。

          しかし、面白いのは、男性に代わって女性が主役に躍り出たアクション映画というのは、見事に恋愛が欠如するのです。
          映画のなかで男以上に強い女たちは、けっして男に心を開かない。

          それって、すでにMilton さんが懸念している男と女の意識の分断が始まっている状況を示すものかもしれませんね。

          そう考えると、セクハラの告発がハリウッド社会で勢いを得てきたということの意味も何か分かるような気もいたします。
           

  4. Racet より:

    「若者の表現力が練れていない」「若者が不安を抱えている」とのご指摘は、その通りなのですが、原因は「ゆとり教育」にあります。
     直近30年位で、リベラルファシストの代表格・日本教職員組合が「個性の尊重」を主張し、学校教育の内容をどんどん薄っぺらくしていきました。
     その結果、表現力や思考力の源泉となるはずの「知識」や「語彙」が不足する様になり、表現力や思考力が低下して、町田さんがご指摘されている様な状況が現出しているものと考えられます。

    「ゆとり教育」の背景には、「中華思想」に汚染されたリベラルファシストの深淵な目論見が隠れています。
    「中華思想」とは、「漢民族(中国人)こそ世界一優秀な民族」であり、「天から選ばれた皇帝が、徳を持って世界を支配する」という考え方で、他の周辺諸国は、中国皇帝の徳を慕って、朝貢して服従するという、政治思想です。
    「あれ?どこかで見たような政治思想だな?」と感じませんか。
    「アーリア人(ドイツ人)こそ世界一優秀な民族」であり、「神から選ばれた総統の徳を持って、世界を支配する」って政治思想と全く同じ考えです。
     要は、中華思想って、ナチス(国家社会主義労働者党)と同じ考え方なんです。
     そして、リベラルファシストにとって、国民は表現力や思考力が欠しい方が好都合なのです。
     選挙の時に、敵を作り出して、愚民の不満を煽ることによって、支持を獲得して、権力を握るのが、リベラルファシストの常套手段ですから、国民から表現力と思考力を奪って、愚民化して支配しやすくするために、「ゆとり教育」が導入されています。
    「ゆとり教育」の集大成が、2009年の総選挙で、リベラルファシスト(今の立憲民主党、朝日新聞、毎日新聞、テレビ朝日、TBSなど)に扇動された愚民化した国民が、民主党政権を誕生させました。

     国民が賢くなり「表現力」と「思考力」を持っていれば、何ら将来に不安など感じようもありません。
     ここ20年位で、産業界では自動化の波が訪れて、単純労働(製品を造る、お金を計算するなど)が機械化されました。
     そしてこれからの20年位で、AI化の波が訪れて、判断労働(仕事の合否を判断する。お客様の対応をするなど)が知能化されて行きます。
     しかし、自動化して機械化するにも、AI化して知能化するにしても、それを生み出したり運用したりする知的労働は無くなりません。
     新たな価値を生み出す知的労働は、機械に置き換えられることはありません。
     2012年末に安倍総理率いる自由民主党政権が誕生してから、「自動車業界」と「FA業界」に集中的に政策投資を行ない、学校教育の無償化や大学研究への投資など、教育投資も加速させていますが、自由民主党が政権に復帰してから、日本は「自動化から知能化(AI)へ」という次のステージに向かって動いています。
     「自動車業界」で言えば「自動ブレーキ」や「自動運転」、「FA業界」で言えば、「画像処理」や「ロボット」が正に代表的な製品です。

     これからの日本は、自動車業界やFA業界のAI化によって世界経済を牽引していくという事が、明らかな訳ですから、それに合わせて、自分自身を磨いていけば、将来に対する不安は無くなります。

     日本は、資源の無い国なので、付加価値を生み出す製品・サービスを輸出して、稼いだお金で資源を輸入して、生計を立てています。
     それは、50年前も今も変わらない、日本の姿です。
     ただ、付加価値を生み出す製品・サービスが徐々に高度化しているので、それに合わせて、経済の在り方が変わっていくので、将来の食い扶持を担保するためには、経済の動きに合わせて、自分自身を磨き続けるしかないのです。

     2009年~2012年末のリベラルファシスト・民主党政権(今の立憲民主党が権力を握った時代)は、自動車業界やFA業界、電機業界などが壊滅して、毎年GDP(国内総生産・経済的な付加価値)が下がり続け、デフレが続き、国内工場閉鎖やリストラが吹き荒れ、年収が下がり続けて、リベラルファシスト権力側の人間以外の大多数の国民が、貧困層に突き落とされました。
     国民は努力しても、頑張っても報われない!というのが民主党政権時代でした。

     しかし、2012年末の安倍総理率いる自由民主党政権では、「努力し、頑張った国民は報われる」様になりました。
     そして、自由民主党政権は、「努力し、頑張っている国民」に政策投資、教育投資というカタチで支援をしています。

     今はちょうど、その変革期ですから、安倍総理率いる自由民主党政権の変革を支持する「努力し、頑張っている国民(中間所得層)」と、立憲民主党に扇動されている「怠惰な国民(貧困層・低知能層)」に国民が分裂しています。
     正に、「中華思想」の影響を受けた「リベラルファシスト」が推進した「ゆとり教育」の「負の遺産・後遺症」が今の日本で、それを克服するために、今の日本は頑張っている状態だと思います。
       

    • 町田 より:

      >Racet さん、ようこそ
      私は「ゆとり教育」というものの内実をあまり知らないので、今回のRacet さんのコメントにはっきりとした判断をくだせないことをお許しください。

      確かに、近年「ゆとり教育」に対する批判や中傷はよく耳にしますし、その世代の若者がバカにされたり、いじめられたりしていることも聞いています。しかし、「ゆとり教育」という方針そのもののモチーフには悪意はなかったように思います。
      ただ、導入した人々は、勘違いしたけです。

      つまり、「ゆとり教育」というものが、「個性の尊重」を目指した教育であったとしたら、勘違いもはなはだしいと言わざるを得ないように思います。

      というのは、「個性」というのは、Racet さんがご指摘されているとおり、表現力や思考力の源泉となる「知識」や「語彙」を徹底的に叩き込まれたあとに獲得できるものだからです。
      画一的な教育けっこう。詰め込み教育におけるバカ暗記の強要もけっこう。
      そういう厳しい教育のなかでもつぶされずに芽を出してくるものが「個性」です。

      また「個性」という言葉自体が、もうあまり意味のない言葉になりつつあるように思います。
      最近のテレビCMなどで使われる「個性」という言葉を聞いていると、けっきょく売り出している新製品を選ぶことが「個性」なんですね
      CMで提示されるライフスタイルをゲットすることが「個性」であり、それを選び取らない生き方は、「トレンドに無関心な生き方」という烙印を押され、“没個性的” な生き方ということになります。

      もう「個性」という言葉は、企業の新しい商品開発をサポートする言葉以上の意味を喪失し、本来の使い方から外れてきているように感じます。

      話が脱線しましたが、「ゆとり教育」に関しては、私もまた非常に薄っぺらい印象を持っていることは事実です。

      それが、「ゆとり教育」とそれを進めてきた(Racet さんおっしゃるところの)“リベラルファシスト” の方針であったとはいえ、世界的な意味での時代の変化も少なからず関与しているともいえませんでしょうか。

      たとえば、「民主主義」そのものがいま世界的に問われています。
      政治の基本理念として、民主主義が機能するには、ある程度の教育レベルとある程度の所得レベルが平準化されていることが望ましいといわれています。
      そういった意味では、“一億総中流” などといわれたかつての日本などは、世界でも最も民主主義が機能する条件を整えた国家になっていたのかもしれません。

      しかし、現在、どこの国においても、民主的な国政運営を行える国は少なくなってきて、国を不安定にしかねない独裁的な国家元首の勢いが増してきています。金正恩、習近平しかり。アメリカのトランプ、ロシアのプーチン、フィリピンのドゥテルテ等 …。
      こういう強権的な指導者が民衆の支持を得やすくなっている時代とはどんな時代なのか。

      間違いなく、世界的に経済格差が広がってきた時代です。それは同時に文化格差となり、知識格差となり、教養の格差になりますよね。
      そういう背景には、金融資本主義的なグローバル経済の動きが反映されています。

      このような格差が広がっていく社会においては、ある程度の経済レベルと教育レベルを共有している人々の層が地盤沈下してきたので、全体の民意というものが成立しにくい。高所得者たちは低所得層の存在を切り捨てようとするでしょうし、低所得層の方は高所得者を嫌悪して、ことごとく反対に回る。

      つまり、民主主義の根幹を育てるための教育が低下してきたのは、世界的な格差社会の広がりを反映しているということも十分挙げられますよね。

      たぶん日本では、それがちょうど「ゆとり教育」と「民主党政権」の時代に顕在化したということなのだと思います。

      もちろん、そういう時代の変化に対応するための知恵も気力も発揮せずに、ただ手をこまねいていた当時の民主党政権の罪は大きいでしょう。
      でも、彼らのだけの責任とも言い難いように思えるのですが、いかがでしょうか。

      また、Recet さんがおっしゃるように、今後中国の膨張政策 … いわゆる「中華思想」が東アジアに大きな影響力をもたらしてくるのは確かですね。
      私は、中国共産党が(欧米風の)民主主義を受け入れることは今後もずっとないと思います。そんなことをしたら、あの国全体が瓦解してしまいますから。

      ただ、戦前の日本共産党のように、今のリベラルファシストが直接的に「中華思想」の先兵となって、日本の政治に関わるのかどうかは、ちょっと疑問に思っています。
      「中華思想」というのは、それなりの強力なイデオロギーですが、今の野党に、それほどのイデオロギーを消化する頭脳と胆力があるかどうか。
      けっきょく彼らは、「安倍政権批判」というところで自分たちの存在感を確保し、政党としての意義を貫きたいだけだという気もします。
      だから、「中華思想」が日本にも影響を及ぼすようになってきたら、彼らは「そんな弱腰でどうするんだ?」と逆に安倍政権に詰め寄ったりする姿も想像できます。
       

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