小田原城ロマン

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 うちのカミさんは、小田原の出身である。 
 神奈川県・小田原市といえば、戦国時代は関東最大の城郭都市。
 いま “人口一番” を誇っている横浜市などが、100戸足らずの半農半漁の寒村であった時代に、北条五代の城下町として栄え、当時の関東・東海では並ぶもののないメガポリスであった。

 が、カミさんがいうには、
 「小田原というと静岡県だと勘違いする人が多い」
 という。

 いま「神奈川」で大都市といえば、1に横浜、2に横須賀。
 川崎や相模原市も存在感を強めており、茅ヶ崎、逗子、鎌倉あたりは、“湘南” という言葉の響きが幸いして、なんとなく明るい陽光、青い海に囲まれて、サーファーたちが「オフショア」「オンショア」など呼ぶ風が吹きまくっている感じがする。
 
 それに対して、小田原。
 ぱっと思い浮かぶのは、カマボコ。
 アジの干物。
 お猿のカゴ屋が掲げる小田原提灯。

 戦国時代に君臨した北条氏のエピソードまでさかのぼらないと、「勇壮」とか、「豪快」とか、「強大」とかいう言葉が浮かんでこない。

 その北条氏にしても、豊臣秀吉の大軍に小田原城を包囲され、城主の北条氏政は切腹させられて、領地を没収されている。
 その印象が強くて小田原市というとなんとなく、悲運の城下町という印象もつきまとう。
 
 が、私はこの町が大好きである。
 カミさんの実家には何度も遊びに行っているから、近くの飲み屋とか割烹料理店、鰻屋、天ぷら屋などもよく知っている。

 街並みには「古都」の風情が溢れ、にぎやか過ぎず、寂し過ぎず。
 城址公園にも恵まれ、古い町並みも残り、住むにはいい町だ。
 木立の間をかすめる風は冬でも温かく、甘く、のんびりした空気を伝えてくる。

 「小田原って静岡でしょ?」
 と勘違いする人たちは、おそらくこの町ののんびりした空気感に、横浜とか東京といったギラギラした都会感とは異質なものを感じるからだろう。

 カミさんの実家は、JRの新幹線口といわれた出口から数分のところにあった。
 私の子供が小さいときは、その手を引いて、家の裏手にあった百段坂という坂道を登り、そこから青い弧を描く相模湾をよく眺めた。

 百段坂を登りきると、その奥のひらけた場所に、「忠霊塔」と呼ばれる句碑がそびえ立ち、そこから先は静かな林が広がっていた。

 この林が、私と小さな子供との遊び場だった。
 両脇を切りたった斜面に挟まれた深い谷があり、そこまで足を踏み入れると、一気に深山幽谷(しんざんゆうこく)の風景に変わった。

 「ドラクエ」などのロールプレイングゲームに出てくる魔物の棲む秘境。
 谷の景観には、そういうファンタジックな風情もあり、子供と一緒に任天堂の「ドラクエⅡ」とか「ドラクエⅢ」を遊んでいた私には、その斜面を駆け上がり、駆け降りるだけで、ゲームの世界に入った気分を味わえた。

 その “谷” が、かつて小田原城の一番外側に位置した防衛ラインを構成する「堀切」という外堀であったことは、後に知った。
 
 昨今、小田原市の歴史的遺構の調査が進められていく過程で、北条氏のつくった小田原城が、これまでのイメージをくつがえすとてつもない大城郭であったことが浮かび上がってきた。

 城内には食料を自給自足できる耕地も確保され、長期にわたる籠城にも十分に耐えうるものだった。
 そのような城郭構造の外側には、さらに大規模な土塁が幾重にも張り巡らされ、城を囲む防衛ラインの規模は、当時としては空前絶後のものだったという。

 「難攻不落の城」
 とは、まさに小田原城を形容するために生まれてきたような言葉で、実際に、戦国時代には上杉謙信、武田信玄という名だたる大名がこの城を包囲したが、ついに落とせなかった。

 豊臣秀吉も、20万という大軍でこの城を囲んだが、けっきょく戦闘で落としたわけではない。
 北条側に戦うことを諦めさせ、「降伏」という形に追い込んで、北条氏を自滅させている。

 北条氏の士気を削ぐために、秀吉はあらゆる策略を張り巡らせた。
 「北条氏など眼中にない」という余裕を見せるために、秀吉(↓)は本陣で連日茶会を開き、京から芸妓を呼び寄せて、北条氏の前でどんちゃん騒ぎを見せたという。

 また、小田原城を見下ろす石垣山に “一夜城” を築いたというのも、秀吉得意の心理戦の一つ。彼は、石垣山の斜面に生えている木々の裏で密かに築城を進め、城ができた時点で木を取り払った。

 それを見た小田原勢は、「一夜にして城を造った秀吉恐るべし!」と驚愕し、一気に戦意を喪失したといわれている。

 今日このエピソードから伝わってくるのは、秀吉の必死さである。
 彼は、内心は戦々恐々とし、冷や汗をかきながら命がけの「余裕」を演出したのだ。

 このとき、小田原に籠城した北条氏の兵力は約5万。
 それに対し、秀吉に従って小田原城を囲んだ兵力は20万であったが、それは秀吉直属の兵ではなかった。
 それぞれ自国に領地を持つ諸大名の兵だったのである。
 大名のなかには、自分たちの保身のために仕方なく秀吉側回った者たちも多く、秀吉側が不利と分かれば、いつ何時裏切るか分からなかった。

 そういう秀吉が抱えていた不安を知ることができれば、北条氏政(↓)は徹底抗戦という手段に訴えてもよかったのだ。

 だが、100年近く続いた名家北条氏の跡取りに生まれついた氏政は、やっぱりお坊ちゃんだったのだろう。百姓の身から関白に成りあがった海千山千の秀吉に比べ、肝っ玉の据わり方が半端だった。

 BSプレミアムの人気番組『英雄たちの選択』で、秀吉と北条氏の戦いを特集したことがあった。 
 これまでの歴史的評価によると、この戦いは、暗愚な北条氏政が戦略の大天才秀吉に「赤子の手を捻られる」ごとく敗れ去ったというのが定説になっている。

 しかし、番組に参加したゲストたちは、「北条氏は巷の評価をくつがえし、そうとう善戦した」と口々に評価した。
 もし、氏政が降伏せず、最後まで籠城を貫けば、兵糧の尽きた秀吉軍は小田原から撤退せざるを得なかっただろうとも。

 ゲストたちのトークを要約してみると、この戦いは「日本が中世から近世へ移行したことを象徴する歴史的な事件」なのだそうだ。

 信長・秀吉という2大ヒーローが登場するまで、この国には絶対王政的な中央集権勢力が存在しなかった。

 絶対王政的権力の出現が「近世」の幕開けを意味するものだとしたら、このとき秀吉が集めた20万という大軍は、まさに「近世」という時代が生んだ軍事力だった。
 それに対し、その兵力と拮抗できる小田原城を構築した北条氏は、地方分権勢力が乱立していた「中世」を、もっとも洗練させた形でまとめあげた一族だった。

 だから、秀吉の小田原攻めというのは、日本における「中世」と「近世」の激突だったのだと。
 さすが、最近の歴史研究者たちはうまいことをいうなぁ … と感心して聞いた。

 敗れたとはいえ、北条一族の善戦を知ると、小田原という町にも独特のロマンを感じることができる。

 小田原という町を包み込む、あのほんわかとした空気感。
 それこそ、「中世的文化」の香りなのではなかろうか。
 もし、この町が北条氏の抵抗もなく、秀吉勢力に一気に蹂躙されていたら、「近世的緊張感」を湛えた息苦しい町になっていたかもしれない。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

小田原城ロマン への6件のコメント

  1. Take より:

    小田原の歴史好きにはありがたいトピックスです(笑)
    秀吉が家康に関八州を与えようとした時に、家康は3つ候補地を考えたそうです。
    一つは小田原、一つは武家政治の基盤鎌倉、そして秀吉が勧めた江戸。
    小田原は難攻不落の小田原城、入った瞬間謀反の恐れありと攻められることを恐れて家康は候補から外し、結局秀吉の進めた江戸に、小田原の住民を移転させて小田原を模索して街を作ったそうです。
    水路のある町各地には小田原と同じ地名があるし、なにより築地には小田原町がありました。
    家康か正宗がもう少し熟考しのらりくらりだったら歴史は変わったでしょうね。
    小田原にお越しになられたら一度一献かわしたいです。

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      もうそうとう前のことだったと思いますが、確かTakeさんは、ご自分のことを「小田原に多少縁のある人間です」と書かれていらっしゃいましたよね。
      そのとき、「小田原評定」という言葉についてTakeさんは、「あの言葉はけっして悪い意味ではなく、むしろ政権運営が民主的に進められていた例を示すものだ」とおっしゃっていたように記憶しています。

      実は、BSプレミアムの『英雄たちの選択』という番組で、秀吉 vs 北条勢の特集したときに、やはり「小田原評定」がテーマとなり、ゲストのコメンテーターが一様に、「この制度は現在の民主制につながるものだ」と評価していたことを思い出しました。

      逆にいうと、そこが北条氏の政権運営が “中世的” であったということらしいのです。つまり、信長・秀吉型のような、トップに権力が集中する近世型の政権運営とは異なるというわけですね。

      いずれにせよ、近年、小田原の北条氏に対する歴史的評価が好転してきていることを感じます。

      ≫「江戸の町づくりに小田原の住民が移転させられた」という話は、はじめて聞きました。ありがとうございます。

      ぜひ一度、小田原の町で一献かわしたいものです。
      文中に書いた気に入っている店というのは、割烹系だったら「だるま料理店」、鰻だったら「柏又」か「相住食堂」。鮮魚だったら、昔「魚国」という店によく行きましたが、最近はあるのかなぁ … 。店の位置が変わって一時駅ビルの地下に入ったこともありましたけれどね。

      あとお弁当なら、東華軒の「お楽しみ弁当」が好きです。
       

  2. Take より:

    どのお店も残っています、ぜひぜひです(^^♪
    併せて、小田原の地が好きで越して来られた若者が運営する食事処もおいしいお店が増えました。
    最近は、漁港が観光地となったり、ブラタモリほかで小田原城の特集が頻繁に組まれ、週末になると口コミ人気食事店は行列です。

    >「小田原に多少縁のある人間です」 と記したのでしたら、すいません間違いです。小田原の住人です(笑)

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      そうですかぁ。小田原で私がよく行っていた店はみな健在なんですね。
      良かったぁ。

      確かに最近は、TVの “城下町散策” といったような番組で、よく小田原が取り上げられるのを見るようになりました。
      そういう番組では、新しいお店が紹介されることが多いので、「街並みも変わってしまったのかなぁ …」と多少心配しておりました。
      でも、昔からある「だるま」とか「魚国」が健在なのはうれしいかぎりです。

      「相住」は鰻だけでなく、普通のメニューもあるお店でしたから、あそこでは焼き鳥と酢の物を注文して、それで一杯やりながら、鰻が焼けるのを待っていました。

      一度、暖かくなったら、小田原でお会いしたいですね。
      確か「万葉の湯」もできましたよね。
      家内も連れていって、お風呂に入った後でにでも、その近くで。
       

  3. Take より:

    お声がけいただけるのを楽しみに待っております。
    メールアドレスは伝わっているかと思います、そちらにご一報ください。

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      もちろんTake さんのメールアドレスは、個人的に把握しています。
      それでは、暖かい季節になったら。
      ほんとうに楽しみです。
       

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