カルロス・ゴーン失脚とグローバリズムの終焉

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平成最後の大事件 !?
  
 日産自動車のカルロス・ゴーン会長の逮捕は、この年末の最大のニュースとなりつつある。“平成最後の大事件” などと評する人もいる。
 
 当初、ゴーン氏の逮捕は、「有価証券報告書の虚偽記載」といった金融取引上の違反が発覚したという報道であったが、その後の調査によって、日産への経営支配を強めようとしたルノー側に対する日産側の “クーデター” ではないかという見方が強まってきた。
 今後の展開がどうなっていくのか、今はまだ予測もつかないが、なんとなく、「時代の潮目」が変わったことを示すような事件ではなかったか … という思いは強い。

 「時代の潮目」というのは、いうまでもなく、グローバリズムの “終わりの始まり” が見えてきたというような意味である。

 カルロス・ゴーン氏は、フランスのルノーと日本の日産(&三菱)という東西を代表する自動車会社の総指揮を執るグローバル企業の代表的経営者だった。
 3社を合わせた世界販売実績は、昨年トヨタを抜いて2位(1位はVW)。
 数あるグローバル企業のなかでも、もっとも華やかな業績を誇る会社を統率する人物といえた。

 その年収は、日産だけでも、10億9,800万円(2016年度データ)。
 これに 9億4,000万円といわれるルノーの年収と、さらに三菱の年収などを加算すると、約20億円以上になるといわれている。

 しかし、世界的な基準でいうと、ゴーン氏の報酬はまだ低い。
 世界のグローバル企業の経営トップの報酬は、100億円程度がざら。
 2016年度に1番に輝いた経営者の年間報酬は210億円だそうだ。

 このような経営者の報酬が高騰する傾向は、グローバル企業の特徴の一つに過ぎないが、しかしそれは、ある意味グローバリズムの本質を物語る象徴的な特徴であることは間違いない。
 
 
海外のCEOが莫大な報酬
を手にできるのはなぜ?

 なぜ、グローバル企業の経営者に、このような富の一極集中化が起こるようになったのか?
 
 ひとつは、企業規模がグローバル化したせいで、その収益が国内産業にとどまっていた時代の規模をはるかに超え、ケタ外れに膨大になったことが挙げられる。
 
 次に、そのグローバル化の進展とともに、様々な経験を積んだプロフェッショナルな経営者たちが生まれるようになり、自分が身に付けてきた「経営手腕」という能力を “商品” として売り始めたことも大きい。
 
 実際に、ゴーン氏も、「グローバル産業のなかでももっともハードなコンペティションを繰り広げている自動車産業で生き残るには、経営手腕のある人材の確保が何よりも大切であり、その人材をつなぎとめるためには、競争力のある報酬が確保されなければならない」と、自らの立場を説明している。

 このように、海外のCEOたちは、自らの欲望レベルを高く誇示することで “レジェンド(神話的人物)” として自分を売り込む技術を身に付けてきたということがいえるだろう。
 
 
格差社会を生んだグローバリズム
 
 しかし、グローバリズムの先端をいく企業が栄えていく世界では、それを運営する経営責任者が高額報酬を取る代りに、一般大衆との経済格差が広がるという状況が生まれるようになった。

 オバマ政権の末期、アメリカの若者たちが、ニューヨークのウォールストリートを “富の簒奪所” として非難し、「アメリカの富の99%は、人口比率でいえばわずか1%のセレブたちが牛耳っている」と叫んでデモを起こしたことがある。

 そういう若者たちは、その後トランプ政権が誕生する前の大統領選挙では、民主党のサンダース候補を応援し、「経済的平等をもたらす社会主義政権をアメリカでも樹立させよう」という運動を起こした。

 しかし、そういう認識が広がってきたのは、ここ最近のことで、グローバリズムが世界に広がり始めた1990年代においては、どこの国でも一般大衆は経済格差の広がりを容認せざるを得なかった。

 なぜなら、グローバリズムを志向する新自由主義社会の “モラル” が「弱肉強食」と決まったからだ。
 激動する世界経済のなかで生き残るためには、弱者の “しかばね” を食い切っても、残った者が必死で生き延びなければならないというのが、新しい時代のモラルになったのだ。
 
 
「痛みを伴う改革」の正体
 
 これは日本では2000年代初期の小泉元総理の「郵政改革」の時代に当たる。
 小泉氏は、総裁選を戦う過程で、ことあるごとに「痛みを伴う改革」の必要性を説き、その言葉を呑み込んだ国民の多くは、“生き残るための痛み” に慣れるための耐性を身に付けようとした。

 実際、1990年代後期、グローバル化の波に乗り切れなかった日本企業は、どこも青息吐息だった。
 カルロス・ゴーン氏を迎い入れた19年前の日産自動車も同様で、2兆円の借金を解消できず、もういつ死んでもおかしくないという瀕死の状態であった。
 だから、日産社員も、企業を再生させるための大量リストラも覚悟せざるを得なかったし、コストカットの要求を消化しきれなかった下請け業者も、取り引きの継続を断念せざるを得なかった。

 もちろんゴーン氏の神技に近い業績回復は、社員の削減や下請け業者への圧迫だけでなされたものではない。それ以外のあらゆる面において緻密な合理化が進められた結果であることは間違いない。
 その手腕は多くの専門家やメディアも認めるところで、経営者としてのゴーン氏の能力の高さは誰にも異論を差し挟む余地がない。

 しかし、ゴーン氏の経営感覚は、あくまでもグローバル社会で強いられるコンペティションを乗り切るためのものでしかなかった。
 
 そのグローバリズムが行き詰まりを見せる時代になってきたら?
 
 実際に、2010年代に入ってくると、新自由主義的なモラルが席巻するグローバル社会のほころびがだんだん見えるようになってきた。
 その一つの例が、2016年のイギリスで起こった「EU離脱」事件である。
 これは成蹊大学の今井貴子教授が説明するように、世界的なグローバル経済の流れに「置き去りにされた人々」の反乱という性格があった。

 同じ年に開かれたアメリカ大統領選では、グローバル経済の繁栄から取り残されたラストベルトの有権者たちの心をつかんだトランプ氏が大統領に選ばれ、彼によって「反グローバリズム」と「自国優先主義」がはっきりと打ち出された。

 そういった意味で、2016年というのは、グローバリズムの最先端を押し進んできたアングロサクソン系の国家が、それぞれ逆向きに舵を切ったことを示す象徴的な年であったかもしれない。
 
 
グローバリズムにブレーキがかかった理由は?
 
 いったい、なぜこのようなグローバリズムの進展に歯止めがかかるような出来事が起こり始めたのか?

 それは資本主義の本質にも関係してくる話だ。 
 『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社 2017年)を近著に持つ法政大学の水野和夫教授によると、もともと資本主義そのものが、常に地理的な「中心」から「周辺」に向かって動き続けるグローバルな運動体であったという。

 つまり、資本主義というのは、常により安い労働力と、より収益の上がる市場を求めて、ひたすら国境を越えようとするところに、その “本性” があるというのだ。
 
 このような資本主義の本質が全面開花したのが、1990年代である。
 そのきっかけとなったのが、1989年の「冷戦終結」であった。
 それまで対立しながらも安定した構造を維持していた「資本主義陣営」と「社会主義陣営」が、資本主義の圧倒的な勝利によって冷戦を解消し、それを機に、地球全体が資本主義の渦に巻き込まれるようになったのだ。
 
 
フロンティアをなくしてしまった資本主義

 しかし、そのことは逆に、資本主義の寿命を縮めることにもつながった。
 なぜかというと、先ほどもいったように、資本主義というのは常に「中心」から「周辺」(フロンティア)に向かって開拓地を広げていく運動体なのだが、冷戦後、地球をグローバライズさせる活動を急ぎ過ぎたため、地理的なフロンティアが姿を消してしまったのだ。

 専門家によると、より安い人件費を求めて、中国、東南アジアとフロンティアを広げてきたグローバル企業が、ついにバングラディッシュまでたどり着いたときに、地理的なフロンティアは消滅したという。
 そのあとはアフリカ大陸が残っていたが、アフリカ諸国は地中海側を除くと人口の集約率が低いため、労働資源を確保するのが大変。そこに工場を新設しても採算が採れるかどうか疑問視されているとも。

 では、地理上のフロンティアが消滅し始めていることに気づいたグローバル資本主義は、どこに活路を求めるようになったか?
 
 それぞれの国家の内部に、もう一度「中心」と「周辺(フロンティア)」をつくらざるを得なくなったといっていい。
 つまり、マルクスが『資本論』を書いた時代と同じような、富める資本家(中心)と貧しい労働者(周辺)というきわめて古典的な階級社会が、どこの国においても出現するようになったといえる。
 
 
国家の内側に再発見された
「中心」と「周辺(フロンティア)」

 
 リーマンショック時のアメリカに例をとってみれば、「周辺」に追いやられたのが、サブプライムローンなどを組まされた低所得者たちであり、「中心」となったが、そこから利潤を得ようと画策したNYウォール街の相場師たちだった。

 日本の場合は、労働規則の緩和によって生まれた多くの非正規雇用者が「周辺」に追いやられ、そこで浮いた社会保険や福利厚生のコストを利潤に回すことのできた企業が「中心」となった。

 これが、「格差社会」の実態である。
 グローバル企業の成長によって、各国民の経済格差が広がり始めてきた背景には、そういう問題が横たわっている。

 イギリスのEU離脱派勢力の台頭も、トランプ大統領の支持基盤が固いのも、そういう格差社会の広がりに対する抵抗運動という側面があることは見逃せない。

 日産のカルロス・ゴーン元会長の失脚というのも、過度な役員報酬を当たり前のように保証していたグローバリズムが、ある意味で曲がり角を迎えていることを示唆する事件なのかもしれない。
 
 
参考記事 「カルロス・ゴーン氏 風と共に去りぬ(Gone with the Wind)」

  
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

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