未来社会に輝く「いのち」とは何だ?

このエントリーをはてなブックマークに追加
はてなブックマーク - 未来社会に輝く「いのち」とは何だ?
Share on Facebook
Post to Google Buzz
Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Livedoor Clip
Share on FriendFeed

 
 「2025年万博」の開催地が大阪に決まった。
 そこで掲げられるテーマのキャッチは、
 『いのち輝く未来社会のデザイン』
 だという。

 それを聞いて、あまり心が弾まなかった。
 きれいな言葉が並んでいるけれど、胸に迫ってくるインパクトがない。
 その言葉から、なんの想像力も刺激されないのだ。

 それはなぜなのだろう? … と考えた。
 たぶん ……
 たぶんだが、このキャッチを思いついた人が、「いのち」というものに関して、あまり考えていないからだ。

 今ロボット工学やサイボーグテクノロジーの発展は、「人類」の概念すら変えようとしている。
 人類の知能が、AI に置き換えられるかもしれない時代が来たということは、「いのち」に対する科学と哲学が変わるかもしれない時代でもあるのだ。

▼ 映画『エクス・マキナ』

 つい最近のニュースだが、「中国のある科学者が、ゲノム編集で遺伝子を改編し、世界ではじめてデザイナーベイビー(双子の女児)を誕生させた」という報道が流れた。

 「いのち輝く未来社会 … 」などという無邪気なキャッチが考えられている間に、“いのち” そのものの再考を促すような事件が起きたのだ。

 この中国の科学者の発表に対し、世の識者たちは、早くも「人間の倫理を踏みにじる実験だ」などと批判的な論評を加えているが、もう手遅れだろう。
 科学というのは、不可逆的だ。
 一度実験に成功した研究成果は、もう後戻りしない。

 今回の実験は、これまで「母胎」という生物学的な環境で生まれてきた人間の「生命」を、研究者が研究室で、受精卵を操作するだけでつくり出してしまったということなのだ。

 それが意味するものは、1818年にメアリー・シェリーが書いた『フランケンシュタイン』という空想科学ホラー小説が、ついに現実のものになったということでもある。

 報道によると、ゲノム編集による “デザイナーベイビー” の技術を応用すれば、「イケメンの子」、「足の長い子」、「運動能力に優れた子」など、親が望むような身体的特徴を備えた子供が自在にデザインできるのだという。

 そういうメリットが想像できる反面、失敗したときの悲惨さは、まだ誰にも検証されていない。

▼ 映画『ブレードランナー2049』

 そもそも、「親」の肉体的接触がなくても、デスクの上で自在にデザインできる「いのち」というのは、人類がこれまで想像してきた「人間」のイメージを軽々と超えてしまう。

 これが日常化すれば、科学だけでなく、哲学も、宗教も変わるだろう。
 「神」ではなく、「人間」が「人間」に命を授けてしまうのだから、「神がアダムとイブをつくった」という聖書の記述を絶対視するキリスト教福音派あたりの信者はそうとう困ってしまうはずだ。

 さらに、人間の「性交」に対するイメージも変わる。
 これまで、男女の交配には、「セックスを楽しむこと」と「出産のため」という二つの目的があったが、今後性行為は「快楽」のためだけに特化していくことになるだろう。
 
  
 そもそも、『いのち輝く未来社会のデザイン』という大阪万博のキャッチそのものが、人工ベイビーの登場を待つまでもなく、陳腐であった。

 こういうキャッチから想像できる未来社会は、よく都市計画のプレゼンなど使用されるパースのような光景である。
 それは、いま日本全国の駅前再開発などでどんどん実現されている、きれいだが画一的な風景と変らない。
 

 
 こういう整い過ぎた街は、そこに住む人間の心を平板なものにする。
 あまりにも清潔に整理された空間は、人間の心の陰影を埋め尽くしてしまう。
 人間の心は、どこかで猥雑なものを秘めているから、街にも猥雑さがあった方が心地よくシンクロするのだ。

 おそらく、今回の「大阪万博」のキャッチを書いたライターもそれを採用した人も、あの猥雑な魅力を持つ未来都市を描いた映画『ブレードランナー』とか、アニメの『イノセンス』、『攻殻機動隊』などを観たこともないのだろう。
 そして、大阪の風景を近未来的にデザインしたリドリー・スコットの『ブラックレイン』なども観たことがないのだろう。

▼ 映画『ブレードランナー』

▼ アニメ『イノセンス』

 80年代以降、“未来社会” のイメージは、すでに70年代万博の時代には感じられなかったディストピア的な哀愁をたたえたものになっている。

 それはそうだ。
 地球温暖化問題、大気汚染。エネルギー枯渇の問題。
 さらには、グローバリズムの進展による格差社会の拡大。
 相変わらず増大していく核戦争への脅威。
 今日われわれが直面している “未来” は、1970年当時にはなかったさまざまな不安材料に満ちている。

 だからこそ、万博の企画者たちは、「希望の見える輝かしい未来を」というメッセージを発信したかったのだろうけれど、そんな無邪気な気分になれない人も増えているはず。

 むしろ、
 「未来は滅びるかもしれない危うさがあるから、美しい」
 …… すでに、私などはそういうイメージで、未来を眺めている。

▼ 映画『ブレードランナー』

 さらにいえば、興行的成功も見込めるのかどうか。
 今回の「大阪万博」の誘致が成功して、松井府知事は、「2兆円の経済波及効果がある」と自信たっぷりに発言した。
 しかし、ほんとうにそうなのか?
 
 確かに、1970年に開かれた大阪万博は、国をあげての大イベントになり、入場者数も6,000万人という記録的な数値を示し、興行的にも大成功を収めた。
 だが、時代が違う。
 
▼ 1970年大阪万博

 
 あの時代は、日本の人口も膨張過程にあった。
 経済的にも、高度成長のど真ん中で、国中が未来志向の気分に溢れていた。

 そのときのイベントの目玉となったのは、アメリカがアポロ計画で持ち帰った「月の石」だったが、あの時代の「月の石」は、人類がはじめて見るものの象徴となり、「未知の発見」、「新しい時代の到来」というイメージをかき立ててくれるものだった。

 「2025年大阪万博」には、そういうものがあるのか?
 今回のコンセプトは、人工知能(AI)や仮想現実(VR)などを体験できる「最先端技術の実験場」だとか。  

 しかし、会場でどんな先端技術が披露されようが、48年前と今では情報の量が圧倒的に違う。
 AI もVR も、ネットやテレビを通じて、瞬時に大量の情報が押し寄せる今日、おおまかな概念はメディアを通じて取得できるので、そういう言葉から伝わる “わくわく感” がもうない。

 すでに、われわれは、巨額な費用を投じてハコモノをつくるという昭和的なイベントに対して “うんざり感” を持っている。
 そういうハコモノ企画は、人口膨張と高度成長が約束された時代の発想でしかなく、大量生産・大量消費が経済を駆動していた時代へのノスタルジーでしかない。

 あらゆることを総合しても、今回の「2015大阪万博」には、夢の広がりが感じられない。
 頑張れよ、関係者たち。アートや映画をもっと勉強しろ。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ, 映画&本   パーマリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">