押井守『イノセンス』の“ごちゃごちゃ感”の正体

このエントリーをはてなブックマークに追加
はてなブックマーク - 押井守『イノセンス』の“ごちゃごちゃ感”の正体
Share on Facebook
Post to Google Buzz
Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Livedoor Clip
Share on FriendFeed

 
 中学生のときに知り会って、今でも年に2~3度ほど会う友人グループがいる。
 みな60代も後半に差し掛かった老人たちだ。

 しかし、中学時代に漫画や小説、評論などを持ち寄って同人雑誌をつくったりした仲間だから、今でも会うと、
 「歴代ゴジラ映画の中でナンバーワンはどれだと思うか?」
 「夏目漱石、芥川龍之介、太宰治はいまだに若者にも読まれているのに、戦後の第三の新人(吉行淳之介、安岡章太郎、庄野潤三etc.)たちが読まれなくなったのはなぜか?」
 「キューブリックの『2001年宇宙の旅』がいまだに色あせないのはなぜか?」
 「バッハからベートーベンに至るドイツ・オーストリア系作曲家と、ラヴェル、ドビュッシーといったフランス系作曲家の違いは何か?」
 …… みたいな話題になることが多い。

 この前そのメンバーが集まったとき、
 「日本のアニメ監督のなかで、誰の作品をいちばん評価するか?」
 といったテーマがあがった。
 1人が、… やはりというか、… 宮崎駿をあげた。

▼ 宮崎駿 『風立ちぬ』

 「線画がきれいだ」という。
 「構図も整っていて、色の配分も美しい。だから上映時間が長くなっても、視覚的に疲れることがない」

 さらに、「メッセージ性が深い」とも。
 聞いていて、私もそのとおりだと思った。
 といっても、自分が映画館にまで足を運んだのは、『もののけ姫』と『風立ちぬ』の2本だけだが、確かに、重厚なテーマをものすごく優しい画風で仕上げた出来映えに脱帽する思いだった。

 ただ、個人的な嗜好でいえば、私は押井守の『攻殻機動隊』とか『イノセンス』などの方が好きなのである。

▼ 押井守 『イノセンス』

 
 私がそういう感想を述べると、先の宮崎駿を評価した友が、
 「押井守の画像はごちゃごちゃし過ぎて好きになれない」
 と言い始めた。
 「一つのシーンに、あまりにも多元的な情報を詰め込み過ぎるので、目も疲れるし、頭も混乱する」
 という。

 う~ん …… そうかもしれないと私は思いつつ、それでも自分の意見を加えようと思ったが、このテーマはそれ以上発展することなく、すぐ次の話題に移った。
 
 
 そのとき自分の頭をかすめた想念をあらためて整理してみると、その友人が語った「目の疲れと頭の混乱」という言葉が、なんだかとても重要な意味をもっていることに気がついた。

 つまり、押井守の …… 特に『イノセンス』に描かれたあの “ごちゃごちゃ感” はいったい何に由来するのか? ということである。 

 結論を先にいうと、『イノセンス』の “ごちゃごちゃ感” こそ、まさに(我々を巻き込んで日々暴走していく)「資本主義社会」のメタファーなのである。

 資本主義は、常に資本主義化されない異質なものを “爆食い” するように取り込み、それらのものが本来持っていた価値観を壊し、無機的に同列に並べ、意味のないものに還元してから次に進んでいく。

 『イノセンス』で圧巻なのは、奇怪な山車が次々と街路を行進していくパレードのシーンである。
 山車に載せられているのは、中国の京劇のような仮面をつけた巨大人形たち。
 その山車を動かしているのは、インドの祭りで使われるような象の形をした巨大ロボット。

 パレードする群像の背後にそびえるのは、ニューヨークの摩天楼のような建築群。
 そういうシーンが連続する画面の背後に鳴り響くBGMは、日本の雅楽とわらべ歌を混在させたような土俗的かつ呪術的な歌。

 過去と未来
 西洋と東洋
 近代と古代
 
 『イノセンス』のパレードシーンはそれらが混在一体となった、まさに万華鏡のように錯綜したヴィジュアルで埋め尽くされている。
 これこそ、我々が日々体感している「資本主義社会のデザイン」そのものだといっていい。
 我々は、それに魅了されながらも、それに疲れていく。
 高度資本主義のもたらす情報過多社会に、目も疲れ、頭も混乱していく。

 なぜ疲労感が蓄積していくのか。
 資本主義のもたらす情報には、価値の序列がないからだ。

 価値の序列が無秩序になっているということは、個人が何を選んでも満足が得られないことになり、一つのものを選択しても、すぐさま後悔の念に駆られるということを意味する。
 

 『イノセンス』のパレードで描かれる京劇風仮面も、インド象ロボットも、ニューヨークの摩天楼的景観も、日本の土俗的歌謡も、そこには何一つ関連性がない。
 それらは、あくどいほどのエキゾチシズムによって、視聴者の目を奪うことはあっても、どれひとつ価値の序列を持たず、等価に、無内容に、並列的に陳列されているにすぎない。
 この見事な “無秩序感” こそ、資本主義的ヴィジュアルの真骨頂だ。

 『イノセンス』という作品において、そのことを別の側面から暗示しているのが、登場人物の会話に登場する “哲学的言辞” である。
 

 主人公のバトー(↑)は、古典哲学の文言をしょっちゅう口走る。

 「シーザーを理解するためには、シーザーになる必要はない」(マックス・ヴェーバー)。
 「ロバが旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけじゃねぇ」(西洋のことわざ)。
 「自分のツラが曲がっているのに、鏡を責めて何になる?」(ゴーゴリ)。

 こういうつぶやきの出典は、ロマン・ロランやゴーゴリの小説、ミルトンの詩、マックス・ウエーバーの論文、旧約聖書の詩文、世阿弥の能楽書、孔子の論語、仏陀の経典など多岐にわたる。

 だが、バトーはけっきょく何も語っていない。
 彼の “省察” は、ストーリーの展開にほとんど関与しないからだ。
 つまり、テレビからひたすらシャワーのように放水されるCMのようなものなのだ。
 ある商品の有益性を訴えたCMは、15秒後には、別の商品のCMによってかき消される。
 それは、ある意味、ニヒリズムの連鎖といってもかまわない。

 つまり、CMなどを通じて、その都度その都度、市場に “新しい商品価値” が出回るということは、結果的に、資本主義社会における「価値の無根拠性」を証明しているに過ぎない。
 なのに、その渦中にいると、資本主義が紡ぎ出す夢のすべてが美しく、魅力的に輝いて見える。
 『イノセンス』のパレードに描かれるヴィジュアルは、まさにそういう状態を形象化させたものである。
 
▼ 『イノセンス』よりパレードのシーン from YOU TUBE 

  
 いま水野和夫氏と山本豊津氏の対談『コレクションと資本主義』(角川新書2017年 )という本に挑戦するつもりでいる。
 まだ第一章を読み始めたばかりだが、その章で水野氏は、「資本主義を読み解くカギは、アートや芸術の解読にあるのではないか」というようなことを書かれている。

 拾い読みした一節には、こんな言葉もある。
 「経済学において、数学的合理性だけでは人間の経済活動を説明するのは困難だということが昨今は知られ始めている。芸術作品のように、“有用性” のないものが投資的価値をどんどん上げていくということを従来の経済学の言葉では説明できない。…… 資本主義のほんとうの姿を解明するには、どうしても文学、演劇、哲学、美術の知識を総動員していく必要がある」

 そういう文言を拾うだけで、わくわくする。
 『イノセンス』のパレードシーンを「資本主義社会のデザイン」のように感じたというのは、もしかしたら、その一言に触発されたものかもしれない。
  

    
  
参考記事 「風立ちぬ」
 
関連記事 「イノセンス」
 
参考記事 「水野和夫 著 『資本主義社会の終焉と歴史の危機』」
 
 
  

カテゴリー: アート, 映画&本   パーマリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">