あおり運転殺人 石橋被告の内面

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 テレビネタで恐縮だが、東名高速で「あおり運転」を繰り返し、結果的に事故を誘発させて、夫婦2人を死亡させた石橋和歩(かずほ)被告の事件報道に接して、少し複雑な気分になっている。

 地裁の裁判長が下した処罰は「懲役18年」。検察側の求刑より5年ほど短い判決となった。
 当初、「たった18年?」と思った。
 石橋和歩被告の招いた事故の悲惨さに比べ、懲役18年は軽すぎるという印象を持ったのだ。

 しかし、その後、この判決に対する感想をネットで拾ってみると、そこに渦巻いている声の過激さに辟易(へきえき)とした。

 「殺人罪で死刑にせい」
 「こういうやつには死刑すら生ぬるい」
 「いっそ秘密裏に抹殺してほしい」
 「死刑にするにしても、そこに至るまでは税金がかかる。そんな無駄な税金など納税者として払いたくない」
 「こういう凶悪犯の人格形成には家庭環境が影響している。親もいっしょに厳罰に処すべし」

 これが一般の “庶民感情” なのかと思うと、さすがにやるせない気分になった。

 私も、この被告に対する処罰はぬる過ぎるという印象は持ったけれど、ここまで過激な発言をする気分にはなれない。

 ここまでいくと、もう “いじめ” に近い。
 書き込んでいる人たちは、「正義の味方」や「天下のご意見番」のふりをして、けっきょく自分の憂さを晴らしているに過ぎない。
 それなら、あおり運転で自分の怒りを発散させた石橋被告の心情とどこが違うというのか。

 
 ネット情報を見ると、石橋和歩被告の来歴も少しずつ分かってきた。
 どこまで信ぴょう性のある情報か分からないが、つい最近まで、彼は地元の仲間たちから「いじめ」を受けていたという。

 「ガタイは大きかったけど大人しい子だった」
 「とにかく喋らない子」
 「この辺は中高でグレる子が多いけど、髪も染めず、近所の学校に普通に通っていた」
 などという知人たちの証言も載っていた。

 高校2年生のときに、彼の両親が離婚。
 母親との2人暮らしが始まり、同時に、高校も中退したらしい。
 その母親に稼ぎがなく、石橋被告が建設会社に勤めて生活費をねん出することもあったが、その額をめぐって母親との口論も絶えなかったという。

 事件後、彼は職場から解雇を通告され、母親もマスコミや周辺住民と接触するのをいやがり、今はゆくえをくらませているとも。
 なんとも悲劇性の濃い話だ。
 
 
 あるネット情報では、次のようなエピソードも記載されていた。

 「石橋被告の小学生時代の卒業文集にはこんな言葉が綴られていました。
 好きな授ぎょう ありません。
 あこがれの人 いません。
 しょうらいの夢 ありません。
 図工の時間、どうやっていいのかわからなかったので、なんにもしませんでした」

 こういうネット情報が事実だとしたら、彼はすでに小学生時代から “心の空洞” を抱えていたことがわかる。
 普通の子供なら、「将来の夢」など考えたことがなくても、なんとかウソをでっち上げてその場をとりつくろうものだ。
 石橋被告は、すでに小学生の頃からそういう気力も知力も持ち合わせていなかったのだ。

 こういう彼の心の空洞を覗いてしまうと、彼のしでかした犯罪を「死刑だ!」などと糾弾する前に、
 「どうしてこういう “心” が生まれてしまうのか?」
 そっちの方がよほど気になる。

 それは家庭環境のせいなのか?
 教育のせいなのか?
 持って生まれた精神的脆弱さのせいなのか?

 そんなことはまったく見当もつかないが、彼が高速道路上で死なせてしまった夫婦2人だけでなく、彼自身も被害者のように思えてくる。
 そこには、現代日本が抱え込んでしまった、さまざまな「貧困」が露呈している。

 貧困の実態は、多岐にわたる。
 はっきり分かっていることは、日本全土にいろいろな格差が広がっているということだ。
 まず経済格差があり、それが教育格差に結びつき、そこから知的格差、文化格差といったさまざまな格差につながっていく。

 石橋和歩被告は、最低限の生活レベルまで落ち込んでいたわけではなさそうだが、(… 差別的な言い方になるかもしれないけれど、)格差の底に近い文化環境で暮らしていたように思える。

 どうしてそう思うのか。
 マスコミなどが伝えてくる彼の言動や表情の平板さを見るかぎり、幼少期の人格形成の段階で、彼が(親や学校も含む)環境面での文化的恩恵から遠ざけられていたことが推測されるからだ。

 彼の言動・表情には「情緒性」というものがまったく見当たらない。
 いま自分の身に何が起こっているのか、それを把握する能力もなさそうだ。
 
 しかし、それは彼固有の “人間性の欠如” を意味するものではない。
 “人間性” を学習できるような機会が、彼の生活環境にはなかったということなのだ。
 たとえ彼の知的・情緒的能力に瑕疵(かし)があったとしても、親や教師や学友たちには、それをケアする注意力も愛情も欠如していたということだ。

 同じ構図が、彼を「死刑にしろ !」「秘密裏に抹殺しろ !」というネットにおける誹謗中傷にも見て取れる。
 そう声高に発言する人々もまた石橋被告と同じように、「知的・情緒的能力」を身に付ける環境から疎外された青春を送ってしまったのだろう。

 「あおり運転」を社会的に追放する意味においても、刑法的にはもう少し量刑が重くてもかまわないとは思うが、そのことと、この被告の悲惨な内面を想像することは別の問題である。
 この事件の報道に接し、今は多少は被告に対して同情的な気分になっている。

 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

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