40歳以上離れた若者たちとの対話

このエントリーをはてなブックマークに追加
はてなブックマーク - 40歳以上離れた若者たちとの対話
Share on Facebook
Post to Google Buzz
Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Livedoor Clip
Share on FriendFeed

 
路地裏のSOULバーにて
 
 はじめて入った店だった。
 “昭和的猥雑さ” を漂わせた飲み屋街の一角だった。
 その店に行くまで、人ひとりが通り抜けられるような路地が迷路のように続いていた。

 戦後の闇市の延長線上にあった街なのだろう。
 しかし、その後世代交代が進んだのか、どの店も、意図的な古さを演出したリニューアルが進み、映画『3丁目の夕日』のセットのような、頼りないレトロ感が路地全体を浸していた。

 和風割烹のようなつくりの店が多いなかで、その店だけはレンガ地の壁紙で入り口を飾った洋風バーの意匠をまとっていた。
 70年代初期のサザン・ソウルのテイストを持ったR&Bが、階段の下まで漏れてきた。
 歌っているのは、60年代後期のハイレーベルの歌姫アン・ピーブルスか。

 入口は2階。
 家路を目指そうと思っていたが、その音楽につられ、店の階段を登り始めた。

 散歩をしているうちに、夕暮れを迎えたウィークデイ。
 近々この街で知人と飲む予定もあったので、その下見も兼ねて訪れた街であった。

 店のドアを開けると、予想通り、古典的ソウルバーのイルミネーションが垂れ下がる暗い天井の下に、10人程度の客で埋まりそうなコの字型のカウンターが広がっていた。
 どこも満席。
 店主と思われる若者が、カウンターの奥から顔を覗かせ、一つだけ空いていた席を探し出し、そこに座らせてくれた。

 椅子の両側を見回すと、私よりも40歳ほど年下に思える若者ばかり。
 しかも、みな仲間連れで来ているので、どの席でも身内同士の会話が盛り上がっている。

 左側の若者たちは、常連客らしく、この店で知り合った女性のウワサ話に熱中している。
 「いい女だよな、マスター、あの娘もう来ないの?」
 「最近、彼氏に振られたらしいですよ」
 「おぉ、ラッキー! 今度来たら、俺の隣の席に呼んで」

 右側の若者たちは、メニューを見ながら酒の話。
 「モスコミュールって何だろうね?」
 「カクテルだろうな。どこの国のかな」

 常連客たちと年齢的にも異なる私は、そういう会話に参加することもかなわず、浮いた気分のまま座り続けた。

 ハイボールを一杯だけ飲み干し、「さぁ退散するか … 」と腰を浮かしたとき、ジェームズ・ブラウンの『セックスマシーン』がかかった。
 ジェームズが「♪ Get Up」と叫び、相棒のボビー・バードが「♪ Get On Up」と合いの手を入れる。

 「Get Up って、どういうアジテーションなんだろね?」
 右隣りに座っていた若者2人組が、この曲について語り始めた。

 「こういう感じの曲、好きなんですか?」
 思わず、首を右側にひねって、尋ねた。
 
 「はい、両親の世代の曲なんで」
 そのうちの1人が、素直な、品の良い返事を返してきた。
 「家で、この曲がCDかラジオから流れてきたのを聞いたことがある」
 という。

 それがきっかけで、右側に座っていた若者たちと会話が始まった。
 「気に入っているミュージシャン」の話になった。
 会話のきっかけを作ってくれた若者の1人は、マイケル・ジャクソンを挙げた。

 年が21歳だという彼は、当然リアルタイムではマイケルのことを知らない。
 「しかし、マイケルのダンスは伝説にもなっていますから、再生画像がたくさん出回っています。それを見ながら、あのダンスをマスターしようと思ったことがあります」
 という。

 私は、アメリカのポピュラーミュージックが、マイケルの登場を機に、新しいフェーズを迎えたという話をした。

 「それまで白人文化のカウンターカルチャーとして成長してきたブルースやR&Bといった黒人音楽が、マイケルが登場した頃から独自性を失い、白人音楽と黒人音楽の垣根がなくなった。
 その理由のひとつに、それまで差別されていた黒人社会から白人をしのぐようなリッチな人たちも生まれるようになったからだ。
 そのとき、白人社会に対するプロテストソング的な意味合いも持っていた黒人音楽の尖がっていた部分が薄まり、人種を超えて楽しめる耳障りのよい音楽に変わった。
 それはソウルミュージックの終焉でもあったが、逆に黒人音楽が世界的マーケットを持つきっかけともなった。
 そういう新しい音楽の誕生を象徴する人物がマイケル・ジャクソン。
 だから、彼は “キングオブ・ソウルミュージック” ではなく、“キングオブ・ポップス” と呼ばれるようになったんだ」

 それを聞いていたマイケル・ファンの若者はこういう。
 「わかります。マイケル以前の黒人音楽は、キング牧師らの公民権運動とリンクしていましたものね」

 驚いた。
 公民権運動など、彼が生まれる半世紀ぐらい前の出来事である。
 「えっ !? どこでそんなこと学んだの?」
 思わず、そう尋ねた。
 「アメリカ史の時間で学びました」
 爽やかな答が返ってくる。

 …… この人たち、何者?
 という疑問がふと沸いた。

 そこで、
 「あなた方、どこの学生さん?」
 と尋ねてみた。
 「本郷の近くです」
 
 …… なんだよ、東大かよ !

 話を進めていくと、ものすごい知的な連中であることが分かってきた。
 マイケルファンの若者の専攻は、言語学。
 その相棒の若者の専攻は西洋古典哲学。

 「つぅーことは、プラトンとかアリストテレスとかが、テキストになるわけ?」
 と、私は古典哲学を勉強している若者に聞いてみた。
 「はい。まさにその通りです。それをギリシャ語でやってます」

 アチョー ! 
 という感じである。
 「ついこの前は、ホメロスの『オデッュセイア』を言語で読みました」
 と、彼は続ける、
 
 私もまた、ホメロスの『イリアス』と『オデッュセイア』は中学生の頃、呉茂一の訳で読んでいる。
 呉茂一の名前が出ると、
 「いい訳ですよね。格調高いし、面白い」
 と、その彼がいう。
 同感であった。
 話が弾んだ。
 

 一方、彼らは、いわゆる “全共闘世代” といわれる人たちの生活史に関心を抱いているようだった。
 ああいう熱狂の時代があったことが、自分たちの感覚ではつかめないのだという。

 「学園紛争を経験されたのですか?」
 「やっぱり政治を変えたいという気持ちをお持ちだったんですか?」
 などという質問を受けて、私は多少たじろいだ。
 しかし、彼らは興味深そうに私の顔を覗き込んでくる。

 そういう体験談を語れるような老人が、自分たちの周りにはいないという。
 自分たちの両親が青春を送ったのも、すでに全共闘運動などが終焉したあとののどかな学園だったし、運動に携わった人たちの回顧録などを読んでもピンと来ない。
 とりつくろった思想的回顧録などよりも、渦中にいた人たちが、仲間とどういう会話を交わし、バリケードのなかでどんな食生活を送ったのか。そういうドキュメントタッチの体験談を聞きたいのだという。


 
 もちろん私は、運動を積極的に推進したグループにはいなかったが、ただ、同時代の人間として、あの騒然とした空気を知っている。
 「観察者」として語れる記憶は、確かに持っている。
 彼らのリクエストに応え、自分が見聞した範囲での当時の学園闘争の状況を少しだけ語ってみた。

 「いやぁー、面白い !」
 彼らが目を輝かせてくる。

 当時の学園紛争のことは、同じ体験をした同世代の人間同士でも、まず話題に選ぶことがない。
 どちらかというと、いまだに “負の歴史” という気分がぬぐい切れないからだ。

 なのに、そういう体験談を、自分よりも40歳以上年が離れた若者が好奇心を抱いて聞いてくれるというのは、なんだかとても奇妙な気分であった。

 その店を出たあと、
 「よろしかったら、もう一軒つきあっていただけますか?」
 と彼らに誘われた。
 近くに、こじゃれたJAZZバーがあるという。
 話題はそこでも尽きることがなかった。

 別れるまぎわに、私はこの優秀な若者たちが、自分たちの将来をどう考えているのか尋ねてみたい誘惑にかられた。

 「先のことはあまり考えないようにしています」
 と1人がいう。

 その理由は、
 「世界がものすごい激動期を迎えています。昔なら5~6年のスパンで回っていたものが、今は1年単位に縮まっている。
 だから、いま何かを決めても、卒業するときにはそれがまったく通用しなくなっている可能性が高いんです。
 だから、今は目の前にある確実な目標だけに視線をフォーカスさせ、コツコツと自分の研究テーマをこなしていこうかなと … 」

 まぁ、なんと素晴らしい回答か !
 日本を舞台としているのではなく、「世界」という言葉が出てくるところがすごい。
 彼らの目指すもののスケールの広さを感じることができた。

 とにかく面白かった。
 自分の生活史や読書体験などを、喜んで聞いてくれる若者たちがいるということは、老人にとっては、この上もない愉楽。
 感謝してもし尽せないような一夜だった。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

40歳以上離れた若者たちとの対話 への8件のコメント

  1. Milton より:

    面白く読ませていただきました。

    町田さんと偶然出会った青年たちにとっても、有意義な思い出になったはずです。

    私は現在30代半ばで、自分なりのやり方で「20世紀の記憶」というものを、長年探ってきたつもりです。まあ、歴史への抽象度を上げすぎてしまい、数学史にまで行ってしまったのは、ひょっとすると失敗だったのかもしれませんけどね(笑)

    なんであれ、その青年たちの心情はよくわかります。特に文系の青年たちにとっては、昨今の理系を重宝するような社会的風潮に対して、危機意識を抱いているだろうことは、容易に推察できます。

    しかしながら、近い将来、文系の学問があらためて評価されるような時代が来ると思うんですよね。

    なぜなら、数学が美徳とするような「厳密さ、一般性、簡潔さ」だけでは、人間の生というものは語りつくせないからです。その代表的な例が、感情だと私は思います。

    たとえば、SNS上でバズッてる(いわゆる拡散状態)ネタの中身を見ても、大抵は「刺激、反応、興奮」に特化したコンテンツなんですよね。なので、ユーザーは刺激的なニュースに振り回されてしまう。主要メディアもそこに便乗してしまう。この数年ずっとそうです。

    それが生み出す文化の虚しさに多くの人が気づいたとき、また質の高い「人文知」が復活するだろうと思いますけどね。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      おっしゃる通りです ‼
      ≫「近い将来、文系の学問があらためて評価されるような時代が来ると思う。なぜなら、数学が美徳とするような『厳密さ、一般性、簡潔さ』だけでは、人間の生というものは語りつくせないから。その代表的な例が、感情だと私は思う」

      Milton さんがそうご指摘されたように、現在、(…といっても、ここ最近ですが)、理系の “数学知” よりも、文系の “人文知” の方を重んじる風潮が、実際に生まれてきています。
      それは、数学的言語の最先端を行くAI の研究が進むにしたがって、AI の本質が少しずつ浮かび上がってきたからなんですね。

      つまり、AI というのは、どこまでいっても次の三つの “言葉” しか理解できない。
      すなわち「論理」「確率」「統計」です。
      すべて数学の言葉です。
      4000年以上の数学の歴史が明らかにしたものが、けっきょくこの三つであり、将来AI がディープラーニングを身に付け、より思考の精度を上げても、けっきょくAI の認知力は、この三つの能力を超えることはできないと断言する人たちが出てきています。

      現在AI のシンギュラリティのようなものがよく話題になっていて、早ければ2030年頃にAI の能力が人間の能力を超えるという予測を立てている研究者もいます。
      しかし、一方では、その段階でAI が人間を超えるとしても、それは「論理」「確率」「統計」という三つの認知力に過ぎないと主張する人もいます。

      なぜなら、Milton さんがおっしゃるように、≫「人間の生というものは、数学的言語では語り尽せない<感情>によって規定されている」ということが最近はっきりしてきたからですね。

      こういう視点で「人間」を語るということは、昔は、「文系人間のノスタルジーだ」と嘲笑されましたが、今は逆にAI や脳科学の研究が進んできて、「理系」的思考の限界が指摘されるようになってきました。
      つまり、これからは理系を目指す人も、文系的思考訓練をしていかないと、正しい判断ができない、ということが常識化してきているようです。

      ネット論者として人気のある池田信夫氏などは、(私個人はあまり好きな人ではないのすが)、ご自分のWEB媒体で次のように述べています。

      「霊長類の中で群を抜いて大きいホモ・サピエンスの脳のエネルギーの8割は、感情に使われている。人類は『感情的動物』なのだ。数10万年のきびしい生存競争の中で、無駄に大きな脳をもつ人類が生き残ったとは考えにくい。つまり最近の脳科学では、人類が生き残るうえで重要なのは、合理的な思考よりも感情だったということを明らかにしている」

      上の論理をそのまま借用して言い直せば、「人類が生き残るうえで重要なのは理数的な思考ではなく、文系の思考だった」と解釈することも可能でしょう。

      ただ、Milton さんが懸念されている問題も残りますね。
      すなわち、≫「現在SNS上で拡散されているのは、『刺激、反応、興奮』に特化したコンテンツに過ぎず、ユーザーは刺激的なニュースに振り回されてしまう」。

      Milton さんが心配されていることは、他の世の識者たちも懸念しているようです。
      たとえば、作家の佐藤優氏は池上彰氏との対談集で、次のように語っています。
      「インターネット社会では、いま人々の読む力が急速に落ちてきている。それはLINEのやり取りなどが話し言葉になってしまい、しかも語彙が少ないということも関係しているだろう。読む力が落ちてくれば知的な能力はさがる」

      佐藤氏は別のところで次のようにも書いています。
      「話し言葉が中心となるSNSでは、会話のように瞬時の判断を求めることが流行になりつつある。そのため、小説や哲学書、思想書が読まれなくなっている。それらのテキストは読者に、話し言葉ではなく、書き言葉と向き合うことを要請するからだ」

      こういう視点は、まさにMilton さんの視点と重なり合うように思われます。
      ≫「(刺激だけで終わるような)文化の虚しさに人々が気づいたときに、質の高い人文知が復活するだろう」とMilton さんはおっしゃるわけですが、それにはやはり、その危機に “気づいた人” が、あらゆる機会を通して、それを訴え続けることが必要なのかもしれません。たとえば、Milton さんがこのブログにコメントを寄せたように、“気づいた人” たちが、それこそ自分が管理しているSNSなどを使ったりして、同じ問題意識を持つ人々に語りかけていくことも大事なのかもしれませんね。

  2. Milton より:

    共感していただきありがとうございます。

    個人的に佐藤優氏のお名前が出たので気になったのですが、彼は数学(教育)を非常に重要視しているんですよね。

    または、英語での引用ですが、こんな言葉もあります。

    “I work with a lot of mathematicians, and one thing I notice about them is that they are not particularly fast with numbers; in fact some of them are rather slow. This is not a bad thing; they are slow because they think deeply and carefully about mathematics.”

    ー Jo Boaler (British education author and Professor of Mathematics Education at Stanford University)

    これは、イギリス人の著名な数学教育者(女性)からの引用なのですが、私も書かれてある内容には共感します。

    つまり、ざっくり翻訳すると、「私がこれまで仕事をしてきた多くの数学者は、特に数に対して速いというわけではなかった。実際にはむしろ遅いの。これは悪いことではないわ。数に対して遅いということは、それだけ彼らが数学に深く向き合っていからよ。」

    意味深長ですよね。佐藤氏が懸念している読解力の問題にも通底すると、私は思います。

    なんであれ、一年間やりとりして下さりどうもありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      明けましておめでとうございます。
      せっかくのコメントをいただきながら、年越しの返信となってしまい、申し訳ございませんでした。

      イギリスの数学教育者のメッセージ、興味深く拝読しました。
      何かを「理解する」ということは、やはりそれなりの時間を要するということなんですね。
      そこで必要となった “時間” こそが、豊かさを生むことになるのだと思います。
      答を出す時間ばかり問題にしていれば、人間はとうていAI には勝てないわけですから。

      いつも示唆的なコメント、ありがとうございます。
      とにかく、本年もよろしくお願い申し上げます。

  3. 北鎌倉 より:

    池田信夫さんや佐藤優さんなんかより、けた違いに徹底して考えた人に『文学論』の夏目漱石がいます。文学作品を客観的な認識対象としての材料Fとそれに伴って起こる情緒fの二つの作用{F+f}だという前提に立つことからはじめて、徹底的に文学を要素に分解し、その要素に効果を与える修辞法も分解し、書き手であり読み手であり文学の材料でもある人間(の精神)も、進化論や心理学をもとに脳髄(比喩でなくて生物たる人間の一器官としての脳髄)にまで分解していきます。『文学論』を読むと、面白さの意味が、ストーリーや技法の面白さではないことがすぐにわかります。面白さとは読者の内面的なプロセスの全体を通じてリアリティに訴えかけることで、その内面的なプロセスとは人間が意識するしないを超えて感受している膨大な情報を貯蔵した脳の、理屈では到底説明しつくせない働きのことで、それを便宜的に漱石は「情緒」と言っています。ほとんど読まれていない漱石の『文学論』は、文学と人間の両方を可能な限り分解しようとしています。それはすさまじいものです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      明けましておめでとうございます。
      コメントありがとうございます。
      1年越しの返信になってしまい、申し訳ございませんでした。

      漱石の『文学論』は未読ですが、北鎌倉さんのコメントを拝読し、非常に面白そうな内容の本であると感じました。

      ≫「面白さとは、読者の内面的なプロセスの全体を通じてリアリティに訴えかけることで、その内面的なプロセスとは人間が意識するしないを超えて感受している膨大な情報を貯蔵した脳の、理屈では到底説明しつくせない働きのこと」
      というご指摘は非常に意味深いものだと思います。

      漱石がこの『文学論』を書いたのは、イギリス留学から帰ってきた頃だそうですね。ネットなどの情報によると、漱石は、英語も堪能でありながら、日本の古典的な教養や漢文などの素養もあったとのこと。つまり、東洋的な「知」と、西洋の「知」がぶつかり合う現場にいきなりぶち込まれたということなのでしょうね。

      そのとき漱石は、「東洋的知」だとか、「西洋的知」などというものを超えた “普遍的な知” というものを、どうしても考えざるを得なかったのでしょう。おそらくこの時代に、漱石以外にそういうテーマを引き受けた人間は、ヨーロッパにも日本にもいなかったかもしれません。

      ≫「(漱石は)進化論や心理学をもとに脳髄(比喩でなくて生物たる人間の一器官としての脳髄)にまで分解して物事を考えた」ということですね?

      徹底的に「科学的であろう」という漱石の態度は、その時代にしては大変なことだったろうと思います。
      そして、その “科学” をとことん突き詰めた果てに、どうしても説明つくせない脳の働きを “情緒” と呼んだというわけですね。

      説得力のあるお話でした。
      ありがとうございます。
      本年もよろしくお願い申し上げます。
       

  4. 北鎌倉 より:

    平安朝の文学を専攻して大学院に行っているその女の子は地方から出てきて少ない仕送りと家庭教師のバイトをちょっとしていて、家賃と研究のための高価な専門書を買ってしまえばもうほとんど残らない生活です。上京して一度も食べたことが無い、というのでうちの奥方が甘味屋に連れてって白玉ぜんざいをおごったのですが、うれしそうに食べていたら「あたしは生まれる時代を間違った」とぽつりと言って泣いたのです。平安朝の文学を研究していたら一生かかってもその何分の一しか知ることはできません。でも一生かかっても汲みつくせない研究対象をもっているという意味では、なんてすばらしく幸福女の子かと本当に思いました。『更級日記』の女性が書き綴った複雑な内面を読んできたからこそ、出てきた「生まれる時代を間違った」という言葉なのだと思いました。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      とても良いお話だったと思います。
      もちろん、その女性の置かれた悲惨な状況には心が痛みます。
      しかし、一方では、『更級日記』を読み解く過程で、その彼女が平安朝文学の神髄を悟り、その時代を生きた女性の心に迫っていくことに対して、若干うらやましいような気持ちも起こります。
      ≫「一生かかっても汲みつくせない研究対象を持っている」
      そういう生き方も幸せかもしれないという “心の余裕” を持てる世の中にしていきたいですね。
       

北鎌倉 への返信 コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">