正月テレビ雑感

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歌番組

 「寝正月」 … というのに近い。
 テレビを観ながら、酒を飲んで、眠くなったらソファーに倒れ込み、毛布を腹にかけて寝る。
 そんな自堕落な元日を過ごした。

 居眠り半分に観ていたテレビだが、なんとなく気づいたことがある。
 歌番組のほとんどが、「ダンス付き」になっていたことだ。

 大晦日の紅白歌合戦もそうだが、若い歌手やグループが登場するステージでは、その大半がダンスパフォーマンスとセットになっている。

 ジャニーズ系は昔からそうだったけれど、EXILE、DA PUMP、三浦大知 … みなダンス付き。
 それも、今風にいえば、みなキレッキレのダンス。

 「音」(だけ)を聞かせる音楽というものが、もしかしたら、時代遅れになっているのかもしれない。

 そもそもエンターティメント文化の流れというものがそうなっている。
 20世紀に入る前まで、人間は視覚よりも聴覚を主体とした娯楽の方になじんでいた。
 18世紀から19世紀まで、ヨーロッパの富裕層の娯楽というのは、サロンで詩の朗読を聞いたり、弦楽四重奏を聞いたりというように、聴覚文化の方が優勢であった。
 日本も同じ。
 庶民の娯楽といえば、落語を聞いたり、浄瑠璃を聞いたり。
 
 しかし、20世紀に入り、写真、映画が発達し、さらにテレビが普及するにしたがって、世の中はあっという間に視覚文化に移行した。

 それでも、初期のテレビの音楽文化は、演芸ホールなどで行われていた歌謡曲のスタイルをそのまま踏襲した。
 すなわち、専属バンドの演奏をバックに、1人の歌手がステージ中央に立って歌うというものだったが、こういうスタイルの歌番組は、これからはどんどん減少していくのだろう。
 年末年始の歌番組を見ている限り、視聴者が求めるのは、歌よりもダンスだということがはっきりした。
 つまり、ダンスを付けられないような歌は、次第にテレビから排除されていくような気がする。
 
 
サピエンス全史
 
 正月はいろいろな番組が用意されるけれど、教養番組として面白かったのは、ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエルの歴史学者が書いた『サピエンス全史』と、その続編である『ホモ・デウス』の紹介番組。

 なにしろ、『サピエンス全史』は、全世界で1,000万部を超えるベストセラーだけに、その話題はいろいろなところで聞く機会があった。
 ただ、その具体的な内容に触れたのは、今回がはじめて。

 記憶に残った個所を取り出してみると、『サピエンス全史』では、人類は農耕を始めたために不幸になったという話が印象に残った。

 狩猟採集生活を送っていた時代には、人間の労働時間は1日3~4時間程度でよかったそうだ。
 そして、人間の身体の構造も、木に登って木の実を採ったり、狩猟のために小動物を追いかけることに適合するようにできていた。

 ところが、農耕を始めることによって、まず人間の労働時間が各段に増えた。それこそ、日の出から日の入りまで働かされるようになった。
 さらに、長時間腰をかがめて農作業を行うことを強いられたり、重い物を運んだりすることが増えたため、人間の身体に不自然な負荷がかかり、それによっていろいろな障害や病苦を抱えることになった。

 そんな苦労に耐えながら、ではなぜ人類は農耕社会を続けることになったのか。
 それは農耕社会が権力構造を生み出したために、権力を持つ支配階級にはものすごく快適な暮らしが経験できるようになったからだ。

 これまでの教科書的見解では、狩猟採集生活より農耕生活の方が進んだ社会を生み出すと思われていた。
 つまり、人類は農耕文化を得たことによって、食料を貯蔵するシステムを構築し、飢えからも解放され、多くの人口を養うことが可能になったというわけだ。
 
 しかし、そういう説は、農耕社会のメリットを享受できる権力者たちの記録から生まれてきたものでしかなく、一般庶民はむしろ過酷な労働と貧しい生活を強いられるようになった。
 …… というのが『サピエンス全史』を書いたハラリ教授の説である。
 
 もう少し話を続ける。
 で、農耕社会の誕生は、確かに膨大な人口を養う契機となった。
 しかし、そうして生まれた巨大国家は、国同士の争いも激化させることになった。

 このような古代帝国は、国民の意思統一を図るために、みな厳格な宗教規範をつくり上げるようになったため、戦争になったときは、敵対する宗教組織をとことん壊滅させる必要性が生まれ、戦闘時の残虐性をより一層高めることになった。
  
 『サピエンス全史』では、このような内容が説かれているらしいが、しかし、こういう説はけっして目新しいものではない。
 すでに多くの学者たちが検証してきた話でもある。
 ただ、この本が世界的なベストセラーになったのは、その卓越した文章表現にあるのではないか。
 私は、本自体はまだ読んでいないが、テレビに紹介された部分だけからも、その語り口の魅力は伝わってきた。そのため、読んでみたくなる本の1冊となった。
  
 
ホモ・デウス
 
 一方、『ホモ・デウス』とは、どんな本であるのか。
 これもテレビを観ているときに記憶に残ったところを取り出してみると、要は「人類は神を目指すようになった」という話なのだ。
 つまり「ホモ・サピエンス」から、「ホモ・デウス(神)」というわけだ。
 

 
 「神」という言葉にはいろいろな意味があるけれど、聖書などによると、「神は万物の造物主」ということになっている。
 万物の中には、人間やら虫やらの「生命」もあるから、神とは、すなわち「命をつくるもの」という意味になる。
 
 ところが、今や遺伝子操作などによって、神に代わって、人間も「命」をつくるようになってきた。
 中国ではつい最近、ゲノム編集によって、双子の少女の「命」をつくり出した科学者が登場して話題を呼んだ。
 アメリカでは、(まだ細胞レベルでしかないが、)これまでこの世には存在したことのないまったく新しい「生命」というものが誕生しているらしい。

 このように、テクノロジーの進歩は、人類の未来を予想もつかないような方向に導いていく可能性が出てきた。

 そういう近未来的テクノロジーのなかで、今いちばん世の注目を集めているのがAI (人工知能)である。
 番組では、AI の進化をどう考えるかについて、各分野の専門家の短いコメントも紹介されていた。

 AI が人間以上の能力を獲得する未来を予測し、それに期待を寄せる人々の声も収録されていた。
 いわく、
 「AI の演算能力がさらに上っていけば、将来のビジネスをより効率的に運営するビッグチャンスとなる」

 しかし、その「ビジネス」とは、いったいどういうビジネスなのだろう?

 それは、「効率」「確率」「統計」を追い求めるビジネスだ。
 すなわち、数学に基礎を置いたビジネスである。
 『ホモ・デウス』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏は、そのことを懸念する。

 人間には、物事を数学的に処理する能力のほかに、物事を感情的(情緒的)に理解する能力がある。
 その両者が有機的に絡み合うことで、これまでの人間社会は維持されてきた。

 しかし、AI 主導型の社会が訪れると、人間の感情的(情緒的)な脳の働きを無視する文化が優位を占めるようになる。
 AI は、人間の能力を「数値」に還元して評価する方法しか知らないので、数値に表れない人間の能力は “無駄なもの” “意味のないもの” として排除される。

 そのようなAI 主導型文化が、いったいどんな人間社会を形成するのか。

 現状では、まだはっきり見えてこないけれど、おそらく、「世界」を数値化して見るクセを持った一部のエリートだけが支配層を形成し、「世界」を情緒や感情の目を通して眺める人間は脱落していくような社会が実現することになる。
 ハラル教授は、そういう危惧を持っているようだ。

 正月でないと、こういう番組をじっくり見る機会もないので、なかなか勉強になった。
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

正月テレビ雑感 への24件のコメント

  1. 北鎌倉 より:

    農耕を始めたために人類は不幸になった(笑)、見事な西洋主義理解ですね。狩猟・牧畜で、人は生き物を捕えて殺す。また生き物を追い囲い込む土地をかぎりなく求めていく。農の土地は人が耕せる範囲で終わる、循環するものの自足がそこにある。牧の土地は野放図に拡張し止まるところを見出せない。牧の生活は生存競争の原理によって一切を解く考え方を生む。自己を主張し、他と争う歴史、社会、自然がそうした闘争の中にあるとみなす。そこで信じられるのは闘争に勝つ力であり、力を独占する際限のない富となる。狩猟・牧畜の暮らしが合理的闘争に勝つために推し進めてきた結果が、近代という西欧にしかないローカルなものです。近代科学は何よりこうした闘争を前提にした<知>から出ています。近代戦争は、近代科学の最大にして避けがたい帰結です。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      なかなか示唆的なコメントで、いろいろ考えるヒントをいただきました。
      しかしながら、今回の北鎌倉さんの見解には多少の事実誤認が含まれているような気がしてなりません。

      まず、≫「狩猟・牧畜で人は生き物を捕らえて殺す」という記述がありますが、「狩猟の時代」と「牧畜の時代」は分けて考えた方がいいように思います。

      農耕社会が出現する前の人類の生活様式は、「狩猟・採集」であり、そこには「牧畜」という生活スタイルは存在しません。
      「狩猟・採集」という生活スタイルが始まったのが100万年くらい前。農耕の歴史がスタートしたのは約1万年ほど前。
      それらに対し、「牧畜」というライフスタイルを人類が手に入れるのは、農耕生活が定着したはるか後です。時間的にいうと、たかだか紀元前600年ぐらいのことです。

      遊牧生活を送るようになった遊牧民も、確かにウサギ狩りのような「狩猟」は行いました。
      しかし、遊牧民の狩猟は、実戦の訓練のようなもので、けっして生活のメインではありませんでした。

      だから、北鎌倉さんの ≫「狩猟・牧畜で人は生き物を捕らえて殺す」という記述は観念としては説得力もありますが、事実とは異なるように感じます。

      「狩猟」はともかく、「牧畜」は基本的に自分たちの飼っている動物を殺しません。もちろん、祝祭のときは羊などの肉も食べることもあるでしょうが、それは例外的な事例で、日常的には、バター、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品を主食にしています。
      遊牧民にとって、飼っている動物たちは “財産” であるわけですから、簡単に殺してしまえば自分たちの生活が困窮します。
      「遊牧的な生活」というと、みな動物を殺傷する生活だと勘違いしますが、それは大きな偏見といえるでしょう。

      また、次のようなご指摘。
      これも実際はどうなのか。

      ≫「農の土地は人が耕せる範囲で終わる、循環するものの自足がそこにある。牧の土地は野放図に拡張し止まるところを見出せない」

      これも、実際の人類の歴史とは異なるように思います。
      これはむしろ逆で、
      「牧の土地は、(動物を)放牧できる範囲で終わる。循環するものの自足がそこにある。農の土地は、野放図に拡張し止まるところを見出せない」
      と読み替える方が、人類の歴史に近いように思われます。

      そもそも農業とは何でしょう?
      それは、果てしなく開墾地を拡大していくという人間的な野望に支えられた反自然的な生活様式です。
      山林を伐採し、野原を掘りつくし、海や湖に土砂を流し込んで、耕地を広げる。
      すなわち、自然の生態系を壊さないかぎり、農業というのは拡大していかないのです。

      文化のことを、英語で「カルチャー」といいますが、その意味は「耕す」という意味ですよね。
      この「大地を耕すことが文化の始まり」だという認識はいったいどこから生まれてきたのか?

      それは農業が、自然を服従させたという意味で「人間の勝利の証」だという思想によって支えられるようになったからです。
      つまり、農業を覚えた人類は、自然の驚異に挑戦して、ついに自然を征服したという思想を手に入れたんですね。

      遊牧は、むしろそれとは逆に、「(牛・羊などの)草食動物が棲む場所で、人間も自然と一緒に生活する」という技術から生まれたもので、基本的にはエコロジー思想です。

      中国で、農耕民族の漢と、遊牧民族の匈奴が争った時代がありました。
      このとき、漢はものすごい勢いで乾燥した草原の耕地化を進めていきました。
      しかし、乾燥した土地を無計画に耕作地にすると、1~2年はなんとか農作物も育ちますけれど、やがてすぐにカラカラに乾いて砂漠化する。そうなると、もともと生えていた草すらも二度と生えないわけですね。

      遊牧民の匈奴にとっては、漢の進める農耕政策は、現在でいう “反エコロジー” 以外の何ものでもなかったわけですね。
      漢と匈奴の長きにわたる闘争は、自然を守る者(遊牧民)と、自然を破壊する者(農耕民)との文化史的な闘争であったともいえなくもない気がします。

      中国の史書によると、この二大勢力が争っていた時期には、自分の田畑を捨てて、自ら奴隷になるために匈奴の土地に逃亡してきた漢の農民たちが実に多かったといいます。
      つまり、漢の農民にしてみれば、働いても働いても搾取される中国にいるよりも、匈奴の土地で適当に毛皮など縫ったりしていた方が生活が楽 … という考え方があったと言われています。

      このように考えると、≫「牧の生活は、自己を主張し、他と争う歴史 … 」とは必ずしも、言い切れないのではないでしょうか。
      もちろん、そういう面はあるでしょうけれど、そこから ≫「狩猟・牧畜の暮らしが合理的闘争に勝つために推し進めてきた結果が、近代という西欧にしかないローカルなものになった」という結論にストレートに結びつけるのはかなり無理があるように思えます。

      そもそも、「狩猟・牧畜」というのは、近代西洋の基礎となるローカルルールだったのか?

      歴史的にみると、西洋(ヨーロッパ)の大半の歴史は、「狩猟・牧畜」ではなく、農耕の歴史です。マンモスを狩っていた氷河期あたりまでさかのぼると、そうもいえませんが、ローマ帝国の時代も、中世のフランク王国の時代も、その後の封建領主たちの時代も、西洋社会は農耕に支えられた世界でした。

      西洋が農耕社会から工業社会に軸足を移し始めたのは、ようやく近代になってからです。それもイギリス、フランドル地方、フランス(の一部の工業都市)を中心とした西ヨーロッパに限定されたもので、基本的に西洋はいまでも農耕社会を温存しています。

      ということは、北鎌倉さんがご指摘された ≫「近代科学は何よりこうした闘争を前提にした<知>から出ている。近代戦争は、近代科学の最大にして避けがたい帰結である」というご意見は、一面まったく正しいご指摘であるとは思いますけれど、その起源を「狩猟・牧畜」に求めるのは理論的な飛躍がありすぎるように思えます。

      それよりも ≫「力を独占する際限のない富」というのは、むしろ農耕による農作物の<蒐集(しゅうしゅう)>から生まれてきたと考える方が自然です。
      この農作物の<蒐集>こそ、農耕地のさらなる<蒐集>となり、やがて大規模な労働力の<蒐集>に進み、土地と労働資源のさらなる確保を目指した対外戦争に発展していく。
      ロシア帝国や中華帝国、オスマン帝国といった農業系大国が国土を拡大していったのは、みなこの方式だったのではないでしょうか。

      せっかくいただいたコメントに関し、多少反論じみた意見を述べさせていただいた非礼をお許しください。
      逆にいえば、それだけ北鎌倉さんのご指摘は刺激に満ちたものだったということです。
      ありがとうございました。
      今後も鋭いご意見をお待ち申し上げます。
       

  2. 北鎌倉 より:

    AIが人間の地位を奪い終わって、それほどに優秀になっているとき、AIは、思考自体の自立性をもち、人間の思考のスタイルを模倣するのではない、異質の思考スタイルによる、問題解決のアプローチをとります。そのとき、AIの出す答えは、人間が反論しようがない答えと、人間にとって何の価値もない答えとに、はっきり分かれます。何しろ人間というのは、論理だけから見れば、きわめて不合理な、分かり切っていたりすることを、もの好きにも、自分の問題として解決せずに悩み続ける傾向があるからです。人間が曖昧なままにしてきた自分の能力に意識を当て、そこに人間の思考とAIの思考の差を発見し、発見したその人間の思考を言語化してAIに分け与えて、人間とAIの差を縮めることで人間本来の思考を高めていく、という、とても厳しいものになるけれど、それをしない限り、人間の技能がAIに侵食されるのは必至です。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      AI に対する独自の見解をご披露いただき、ありがとうございました。

      北鎌倉さんがこのコメントの冒頭でおっしゃっていたこと、すなわち ≫「AI が人間の思考のスタイルを模倣するのではなく、異質の思考スタイルによる問題解決のアプローチをとる」ということが、具体的にどういう答を導き出すことを意味するのか、それは現在誰にも予想がつかないものとされています。

      ただ、ある程度分かっていることは、AI の回路も、人間の脳回路の構造とはそれほど違ったシステムにはなっていないということですね。
      ということは、少なくとも言語的に分析できる範囲では、人間とAI はきわめて似通った思考パターンを展開するということなんでしょうね。

      問題は、言語化できない領域についてです。つまり、北鎌倉さんがいみじくもご指摘されている≫「きわめて不合理な悩み」の部分ですね。

      北鎌倉さんは、そこで ≫「(人間と)AI の思考の差を発見し、発見したその人間の思考を言語化してAI に分け与え … 」とおっしゃるわけですが、これがなかなか難しい(笑)。
      人間ですら、人間の脳活動のなかで言語化できない部分がなぜ残るのか? ということを、完璧に語りつくせる人は、今のところまだいません。

      人間の脳活動のなかで、「曖昧なもの」というのはなぜ残るのか?
      その部分こそ、北鎌倉さんが漱石の『文学論』で考えられたテーマではなかったのですか?
       

  3. 北鎌倉 より:

    非礼・反論なんてとんでもない。町田さんが歴史的事実を根拠に思考するのは十分に読んで知っているので、そこが町田さんの一番いいところですし、読み物として楽しいところなので、ちゃんと町田さんが十分に表現されていて、読む自分は安心して受け止めることができます。『サピエンス全史』の着想そのものにほんとうは興味が無いのです。無文字社会から文字社会に移行する過程で、技術や知識(それらの伝達も含めて)の技の記憶の壮大な体系の大規模な喪失がありました、つまり、無文字社会は無文字社会としての技の記憶の壮大な体系をもっていた。しかしその体系が文字によって伝達される習慣が浸透するにしたがって失われた。という歴史的事実として表面化しない、それゆえ把握や言語化がしにくい、そこのところに関心があるからです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      返信の趣旨をご理解いただき、非常にうれしく思います。
      かつ北鎌倉さんの胸のうちもよくわかり、安堵しています。

      ≫「無文字社会の時代に蓄積された技術や知識の壮大な体系が、文字によって伝達される習慣の浸透によって喪失されてしまった」という指摘はたいへん勉強になりました。
      おっしゃるとおりですね。

      この問題は、実は現在にも引き継がれている問題なのかもしれません。
      すなわち、言語化できな職人の匠のワザ。
      最近は何でもマニュアルにして伝達することが習慣づけられていて、昔の職人が持っていた「技術は盗め」とか、「師匠の背中を見て覚えろ」という教え方が不親切な古びた指導であるかのような風潮が生まれています。

      しかし、伝統職人の “無言のワザ” というのは、そう簡単に数値化・言語化できない。それはある意味、ビッグデータによって解析されるAI 的な知恵をしのぐものである。

      そう考えると、無文字社会の「技の壮大な体系」というものの重要性も分かるような気もします。
       

      • 北鎌倉 より:

        「ホモサピエンス全史」の着想にそって答えれば、誰だって町田さんと私が書いた当たり前の俗論になります、だから失礼ながら笑ってしまったのです。これはデカルト的切断つまり物質科学の方法の範囲内にあるものです。ですから本当は「生命全史」という着想でなければなりません。町田さんの思考の面白さは物質科学的方法の因果律、物語性です。これは自他分離です。私が目指しているのは、生命科学という不確定性原理の「適応率」の方法による言葉(思考)です。これを自他非分離といいます。

  4. Milton より:

    明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

    実は、町田さんにおすすめの記事があります。

    「自律走行車は倫理学上の難問をどう判断すべき? 233カ国で調査して見えてきたこと」というタイトルで、WIRED 日本版で読むことができます。

    何かしらのヒントがあると思いますよ。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      明けましておめでとうございます。

      「自律走行車は倫理学上の難問をどう判断すべき? 233カ国で調査して見えてきたこと」
      という記事は非常に興味深く読みました。
      面白い記事をご紹介いただき、ありがとうございました。

      こういうテーマ設定は、昔マイケル・サンデル教授による「白熱教室」でよく取り上げられたものに近いものがありますね。
      答を出すことが非常に難しい問。いわば回答者をジレンマに陥られせるような問。
      しかし、こういう難問を抱えてこそ、人ははじめて「思考の場に立つ」契機を与えられるのだろうと思います。

      記事を読んで、私も少し考え込んでしまいました。
      倫理の問題としては、やっぱり結論は出ません。
      しかし、自律走行車のプログラムをどう組むかというのは、もう差し迫った問題として突き付けられています。
      あと数年に迫っていると見積もる人もいるようです。

      そういう時代を迎えるにあたり、こういう問いかけはもっと広く告知されてもいいのかもしれませんね。
       

  5. Milton より:

    お読みになっていただきありがとうございます。

    重要な点は、たとえ社会のなかに数学を基盤にしたAI技術が実装されたとしても、それぞれの国や地域によってモラルの基準が違うという当たり前の結果に行き着くことです。

    なので、数学的普遍性を過信しすぎるのは危険ですし、その(社会)システムを設計するエンジニアの問題にむしろ焦点を絞るべきだと思います。

    (多民族化を見据えたうえでの)人種的な偏り、性別の偏り等々、それに関わっているシステム設計者の認知バイアスを細かくチェックする姿勢が大切です。なぜなら、それが実際に社会実装された場合、AIは設計者のバイアスに基づいて物事を展開していくからです。

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      メールの趣旨、よく分かりました。
      なるほど。
      AI テクノロジーが統一されても、それを運用する国民性やエンジニアの思想性などによって、開発されたシステムも異なってしまうということなんですね。

      ≫「(AI テクノロジーが)実際に社会実装された場合、AI は設計者のバイアスに基づいて物事を展開していくから、人種的な偏り、性別の偏り等々を反映する場合がある」ということですね。
      よく分かりました。
      おっしゃるとおりだと思います。
      まだまだAI の実用化には、いろいろな課題が残っていそうですね。
       

  6. 北鎌倉 より:

    私のパソコンのせいか、長文が投稿できず、短く切れること承知ください。

    これまでの自然科学では対象化した現象をデカルト的切断という方法で切り取り、そこに働く法則性を求めてきました。ですからこれまでの科学の法則性は客体化された物質世界において成り立つ法則性になります。つまり、自然科学で明らかにしてきた物理法則は「自他分離」を行った系の法則性であり、その法則性を用いることでできることは、因果律に基く一意的な時間・空間における事象の記述です。つまり因果律は継時的秩序の法則性なのです。この時間発展を微分方程式で表すと、それを解くための境界条件、初期設定条件、それにパラメーターがあらかじめ決まっていなければなりません。

  7. 北鎌倉 より:

    複数の微分方程式で表される系をシステムと呼ぶと、環境条件、初期条件、それにパラメーターはいずれもシステムの外的条件によって決まるものです。つまり、環境条件、初期条件、およびパラメーターが既知であるということは、システムが置かれている世界が予め想定されていることを意味しています。そして解くための必要な情報は完全に得られることが前提になっています。それを「良設定問題」と言い、不完全な場合は「不良設定問題」と言います。物質世界で求められたきた因果律は「予測可能性」を保証しますし、完全な情報が得られることは「観測予測性」を保証していることになります。このようにして得られた科学的知見は、その応用としての技術を生み出します。つまり、科学と工学の二人三脚である科学技術の始まりです。

  8. 北鎌倉 より:

    この科学技術が利便性を増し、物質的な豊かさをもたらしてきたことは確かです。その一方で様々な限界や負の側面が顕在化しています。その最も大きい要因は、物質科学の論理を生命現象や人文・社会科学にまでその適用を拡大してきたことです。生命現象に関して言えば、「生きる」ことは生命システムが、無限定な環境と調和的な関係を自律的に創り出すことなので、生命システムの認識機能や運動機能は環境との調和的関係を作り出す機能だといえます。この生命らしさから遠く離れた科学技術を人間の諸活動に応用し、それが世界を席巻していることが様々な軋轢を生じさせていて、無理に無理を重ねて便利さと豊かさを錯覚させてきたのです。

  9. 北鎌倉 より:

    社会科学も同様に近代科学技術の圧倒的な論理の整合性に目がくらんで、極論すれば人間性をそぎ落とした学問へと梶を切ってしまいました。人間が人間らしさを生かせる科学技術を作り出すためには、必然を生み出す因果律に加えて、生命システムが環境との調和的関係を融通無碍に創り出す適応機能の論理を明らかにすることが本質です。それによってはじめて自然科学と社会科学の融合が実現します。生命は本来自然との一体性の上に成り立つもので、複雑な環境でしなやかでかつしたたかに生きていくには、自らを制御する情報を自らが創る、という自律性が本質的に重要になります。自然との一体性の上に立つ自律性こそが、生命の多様性を生んだといえるからです。

  10. 北鎌倉 より:

    生命システムをとりまく環境は通常、複雑な時空間構造をもち、かつその変化はダイナミックかつ予測不可能的に変化します。この環境の無限定こそが、実世界における生命システムの認識や制御の論理を考える際の前提であり出発点なのです。でも、時空間的に複雑で予測不可能な変化をする実世界における認識や制御の問題は近代科学技術にとっては未知の領域です。なぜならば、近代科学は二元論の立場で構築されていますので、対象とする現象は他の現象と干渉しない境界で切り取ることができるというのが前提になっています。また現象をとりまく環境は時間的に一定であることが必要条件となっていますので、環境変化が現象の変化に比べて十分ゆっくりしているか、もしくは現象の変化より十分速くて統計的な平均が取れて定常とみなせる場合に限られています。

  11. 北鎌倉 より:

    これまでは表象主義に基づく方法論が主として展開されてきました。つまり世界モデルを自他分離(主客)的にシステムに入れて認識・制御をおこなう方法です。認識問題に置いては、ルールに基づいて構成した知識ベース、いわゆるエキスパートシステムにより問題を解決する方法をとってきました。しかしこの方法の限界は実世界と常に相互作用をするボットの制御問題に端的に現れてきます。この方法論を用いて実世界で動くロボットを制御しようとすると、複雑な環境をロボットに取り込むことができるような環境のモデルが必要となります。つまり環境が複雑であってそのモデル化が可能であって、ロボットの内部モデルが常に分かるという前提が満たされている場合に限って、ロボットは所望の目的を達成することができます。

  12. 北鎌倉 より:

    現代ではコンピューターが飛躍的に進歩したこともあって、リアルタイム性こそ保証されないとしても、どんな複雑な現象でもモデル化さえできれば、そのシュミレーションは可能です。シュミレーションの出力が制御情報であるとすれば、ロボットを実世界で制御するためにはコンピューターに取り込める外部モデルをかぎりなく実世界に近づけることで可能になるように思います。実世界をモデル化して、そのモデルが実世界で有効に機能するためには、環境に関する「完全な情報」が必要になります。ロボットが砂浜を歩く場合を考えてみると、その場合は環境である砂浜をモデル化しなければならないので、砂浜の起伏や形状や物性に関する情報が予め必要です、

  13. 北鎌倉 より:

    砂浜は風や雨など天候によって時々刻々変化しますので、あらかじめ計測しても役に立ちません。それではということで、環境の複雑さを予め全て数え上げてモデル化しておいて、その中から状況にあったものを選択すれば可能になるのではないかと思われますが、環境が複雑であればあるほどモデル化する場合の数が増えるので、正確にモデル化しようとすれば、それこそ無限の場合分けが必要になります。つまり、世界を予めモデル化する試みはこのような予測限界、観測限界が存在するため成功する見込みがありません。そこでブルックスは表象主義における内部表象が役に立たないという理由で、その役割を否定して世界を予めモデル化することなく実世界の中で機能するロボットを目指しました。

  14. 北鎌倉 より:

    ブルックスのいわゆる、行動ベースの方法論です。ロボットが実世界と直接相互作用することで、行動を誘発し、制御する方法論です。具体的には、昆虫の行動を参考にして、行動を制御するシステムを階層構造で構築しました。最下層は障害物に出会ったときに回避する回避層、その上の階層はランダムに動き回る回遊層、上位の階層は探索層からなり、上位の階層が下位の階層を制御あるいはオーバーライトできるように構成しました。つまり上位の階層が下位の階層を包摂するように行動機能を制御することから包摂アーキテクチャ(サブサンプション・アーキテクチャ)と呼ばれます。これは内部表象を否定しているので反表象主義と言われる方法論です。

  15. 北鎌倉 より:

    複雑な環境をモデル化すればモデル化にしたがって行動パターンが発現するだけですが、ブルックスの方法論はモデル化する必要がないために、環境変化に合わせて豊富なパターンを発現することができます。でも、なにを探索するのかや、経験や学習に基いた高度な行動パターンは発現することができません。昆虫の名誉のために弁護しますが、昆虫は学習や記憶にもとづいて高度な行動を発現できますので、決してブルックスが提案したアーキテクチャのように反射的な行動だけで生きてはいません。内部表象による方法は複雑な環境を単純化しないことには適用できないので、複雑な環境との乖離を生むし、ブルックスの反射的な方法論では生命システムの「知」が取り扱えなくなります。

  16. 北鎌倉 より:

    世界をモデル化しても実世界で有効に機能しないのは、私たちが手にしている自然科学が実世界の変化に対応できるような論理構造になっていないためです。自然科学で明らかにしてきた物理法則は、因果律にもとづく一意的な時間・空間における事象の記述です。そこでは、境界条件、初期条件、それにパラメーターが予め決定できることが必要になります。これらの情報がそろって初めて時間発展が記述できることになります。ロボットが望む機能を実世界で発揮するためには、あらかじめ想定した世界、つまりモデル化した世界が実世界と一致することが前提となっているのです。

  17. 北鎌倉 より:

    今手にしている物理法則である因果律を用いてシステムの時間発展を記述するには、システムと環境に関する完全な情報が必要ですが、実世界ではこの完全な情報を得るのは不可能です。その意味では観測限界が厳としてあります。また環境も予測不可能性的に変化しますので、完全な情報を得るのは不可能です。つまり、予測限界、観測限界が存在する実世界の中で、リアルタイムにシステムを制御したり認識したりするためには、因果律による継時的秩序の法則性を包含した、新しい論理構造が必要なのです。この環境に適応する論理構造こそが生命システムが38億年前に地球上で誕生して以来、生きるために営々と進化し続けてきて獲得されたものなのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      膨大な量の緻密な論考、ありがとうございました。
      “力作” ですねぇ!
      これだけの質量を誇る充実したレポートを、私のような者が管理しているブログに公表されるなど、とてももったいないような気がいたします。

      というのは、せっかくの力のこもった論文ながら、私には少し難し過ぎました。
      哲学用語にIT 用語、数学用語などが万華鏡のように散りばめられているうえに、文脈の構造も入り組んでいて、浅学な私の理解力を超える仕上がりのように思いました。

      北鎌倉さんのターミノロジーは、重厚な上に、独特の美学があり、それはそれで文章としての魅力を放っていますが、なにぶん抽象度が高く、観念的なレトリックに対する思考訓練を重ねている者でないと、そう簡単に理解できないようなレベルを保っています。

      いやぁ、こちらの理解力が足りないことを棚に上げ、こんな感想しか述べられないことを、ほんとうに申し訳なく思っております。

      ただ、貧しい想像力を駆使して、大意はなんとかつかめたような気もします。
      要は、“デカルト的な切断” … すなわち、近代西洋に出現した、「観察する主体」と「分析される客体」という二元論では、生命の秘密を解き明かすことはできない、という趣旨なんですよね?

      そこからロボット工学に言及していく過程はなかなかスリリングで、興味をそそられましたが、やはり私の理解力が追い付かず、お書きになられたものの半分も頭に入りませんでした。

      こんなことを言うのは誠に心苦しいのですが、今後は、私の理解力に焦点を合わせていただき、もう少し平易な熟語で構成されたコメントをいただければ幸いです。

      ただ、このような高度な論考を正当に評価する媒体も当然あるはずなので、これらの稿を一つにまとめ、再度世に問う価値はあると思います。
      ぜひ、そういう場を開拓し、チャレンジしてみてください。
       

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