平成とはコスパ思想が席巻した時代だった

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 正月恒例の討論番組に、NHK・Eテレが主催する『ニッポンのジレンマ』がある。
 2019年の年が明けた元旦の夜は、「コスパ社会を超えて」というテーマだった。

 面白いよな、この問題設定。
 「平成」という時代を端的に言い表す言葉として「コスパ」を持ち出す嗅覚。企画者たちのジャーナリスティックなセンスに脱帽する思いだ。

 確かに、私も気づかないうちに、この “コスパ” という言葉をためらうことなく日常会話に使っていた。
 「自動販売機やコンビニでペットボトルを買うのってさ、コスパ悪いよな。スーパーまで行かないと … 」
 とかね。
 なんのことはない。
 「20~30円高いよな」 … ってことを言うだけなのに、“時代に乗り遅れない感” を強調するため「コスパ」とか使っていたわけだ。

 で、あらためてコスパとは何か?
 知ってのとおり、コスパとは「コストパフォーマンス」の略だけど、この言葉がいつから一般的になったかは諸説あるらしい。
 ネット情報によると、すでに1970年代には、自動車とかオーディオといった趣味性の強い高額商品を評価するときに使われていたらしいが、私はその時代、そんな言葉を得意げに語れる裕福な環境にはいなかった。

 しかし、その後「コスパ」という言葉は、インフルエンザ・ウィルスのようにじわじわと一般的な企業用語として広がっていった。

 普通の家庭の主婦が当たり前のように、この言葉を口にするのに気づいたのは、つい最近のことである。

 カミさんの友だちが、うちのカミさんに向かって、
 「○○のランチは、ワンプレート1,000円もするんだけれど、◎◎に行けば、サラダとデザート、コーヒーもついて980円。もうだんぜん “コスパ” が違うのよ」
 とかいっているのを聞いて、びっくりした。
 会社の営業会議の会話が、主婦層にまで浸透していることを知って、大変な時代になったもんだと思った。
 
 
 『ニッポンのジレンマ2019』の話に戻る。

 この番組も、出演者がずいぶん様変わりした。
 私が最初に見た頃は、安田洋祐(経済学者 38歳)、飯田泰之(経済学者 43歳)、萱野稔人(哲学者 49歳)、三浦瑠麗(国際政治学者 38歳)といった面々が “若手の論客” として気を吐いていたけれど、今ではみんなメジャーなコメンテーターに昇格(?)し、時事解説やトーク番組、バラエティー番組などの常連になっている。

 今回のメンバーは、それよりさらに下の世代で、年齢的には20代後半から30代前半。
 つまり、大半が「平成生まれ」。
 生まれたときから「コスパ意識」が日常的に浸透した時代を生き抜いた若者たちだ。
 
 この平成ボーイズ&ガールズ。
 「コスパ」に対して、どんなことを語ったのか。

 平成がスタートしたのは1989年。
 社会主義政権のソビエト連邦が崩壊した年(1991年)とほぼ重なっている。
 つまり、「平成」とは、世界の自由主義国家が「資本主義の勝利だ!」と確信した時代の始まりを告げる年号でもあったのだ。

 当然、「コスパ」は、資本主義社会を生き抜く日本企業にとっても最重要課題となった。
 「無駄なものを排して純益だけを追求する」
 この精神がないと、経営は成り立たない。

 しかし、問題は、それが経営者たちの意識にとどまらず、一般消費者の考え方まで規定するようになったことだ。

 バブル崩壊後、日本の経営者たちがそろって口にした言葉に、
 「これからは社員1人ひとりが、みな経営者の立場に立ってモノを考えないと、会社が存続しない」
 というのがあった。

 そういう意識がサラリーマンたちに浸透した結果、「コストカット」や「成果主義」、「自己責任」などという言葉が日本中に溢れるようになった。

 こういった風潮は、やがて、家庭の主婦やその子供たちまで巻き込むことになった。
 つまり、平成生まれの子供たちは、無意識のうちに、コスパ的世界観のなかで育ったのだ。

 
 このことを、今回『ニッポンのジレンマ2019』に参加した平成の若者たちはどう思っているのか。
 たとえば、論客の一人として名を連ねた高橋祥子さん(ゲノム解析サービス業運営者)は、こう語っている。

 「コスパは、人間の長期的な思考を閉じてしまうと思っています。たとえば、欲しい本があったとき、最近は誰でもアマゾンを利用します。いちいち本屋まで行くことは、手間もかかるし、時間もかかる。つまりコスパが悪いということになっています。
 しかし、本屋までいけば、探していた本の隣に、さらに魅力的な本があることを発見するチャンスもあるわけですね。
 そして、その本の方が、10年先20年先の自分にとって重要な本であったりする可能性がある。
 アマゾンで欲しいものだけ注文するのはコスパ的には正しいが、けっきょくは自分の可能性を閉じてしまうことにつながりかねない … 」
 
 きわめて素直な常識的な観測である。
 私も、同意する。

 この高橋祥子さんという女性は、「コスパ的なことよりも、いま生きている世界が美しいかどうかの方が重要である」とご自身のブログで述べている。
 すなわち、
 「人間があるものを美しいと思うのは、それが刹那的であり、かつ代替不可能だからです。
 たとえば、桜の花が美しいと思うのは、それが永遠ではないからです。すぐ散ってしまうという、刹那的な未来を想像できるから美しいのです」

 なんとも日本的というか、古典的な美意識の持ち主であるけれど、そういう感性があってこそ、ゲノム解析という先端的なビジネスを運営できる実力も発揮できるのだろう。
 
 
 同じように、日本的美意識に焦点を当てている参加者がもう1人いた。
 新谷友理さん。
 社会人向けの大学院の事務局に勤めながら、室町時代の古典芸能「能楽」を研究している人である。

 彼女はいう。
 「能楽の世界においては、登場する主人公が死んだ人だったりすることが多いんですね。そういう歴史上の人物が幽霊として出てきて、自分のことや歴史を語って消えていく。
 そこには “何かを語り継いでいく” ことが人間社会を構成しているという思想があると思うんですね。
 つまり、人間の普遍性みたいなものが掘り下げられているから、室町時代に成立した芸能が今でも評価されているのだろうと。
 コスパばかり意識した時代に、そういう評価軸が継承できるのかどうか、心もとない」

 これも「なるほど !」と思える意見。
 つまり、若い人たちは、「コスパ」という概念の反対側に、「美意識」とか「古典」、「歴史」という概念を思い浮かべていることが伝わってくる。
 
 
 コスパは「近視眼」的な性格が強い、ということを述べた人が他にもいる。
 若い男性である。
 メモを取ったわけではないので、残念ながらその人の名前が分からない。話の内容も、記憶の中から曖昧なものだけを取り出して再構成するわけだから正確とはいえないが、次のようなことだ。

 「コスパを意識していると、どうしても考え方が近視眼的になる。コスパは “取りあえず現在の無駄を省く” という考え方でしかないから、10年後20年後の展望を語ることは不得手。
 たとえば、2030年ぐらいの地球がどうなっているかなどという問題は、コスパ的思考では語れない。
 もしかしたら、2030年の地球では、世界的な温暖化がさらに進行していて、住んでいる土地が沈没してしまう島の住民もたくさん出ているかもしれない。
 そういう問題に直面している時代なのにもかかわらず、“コスパ” のような短期的な利益を求めていていいのか? もっと人間の命とか、生活環境とか、そういうものに考えをシフトさせていくことが大事ではないのか」
 
 う~ん …… 。
 これも重要な指摘であると思った。
  
 
 さらに、こう言った人(男性)も。

 「今の若い人たちは、生まれたときからコスパ意識を追求する環境で生きてきたけれど、実は四六時中コスト意識だけで動いている人なんかいない。
 人間というのは、誰でも “忘我の瞬間” というものを持っている。つまり、我を忘れて没頭できるものの存在に気づいている。
 それはどういう瞬間かというと、“物語を生きる瞬間” である。
 要するに “物語” を生きるような経験が人間には必要であって、人の心に迫る商品というのは、コスパを追求したものよりも、そういう物語性のところで訴えるものを持っている商品ではないのか」

 うまいことを言うなぁ ! … と私は思った。
 概して、平成生まれの若者たちは、意外と “コスパまみれの平成” を冷ややかに見ていることが分かった。
  
  
 だが、すべての平成の若者がそう思っているかというと、それに関しては疑問視する人もいた。
 音楽家であり、詩人、脚本家という肩書を持つ総理響心さんは、討議の最中、次のようなことを語った。

 「今日ここに集まった人たちは、すごくインテリで頭のいい人たちだけれども、こういう議論が自分の日常生活に戻ったときに継続できるかというと、たぶん難しいと思う。
 けっきょく、こういう議論を日常的に語る場というものが我々にはない。
 だから、何か物事を考えるときに、基本情報をGAFA(ガーファ = グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)に頼らざるを得なくなる」
 
 
 この指摘は、ある意味、時代の状況を的確に把握している意見でもあり、次のような発言も招き寄せた。

 「そもそも議論そのものに対して、“コスパが悪い” と判断する人たちだっているんじゃないの?」
 こう話し出したのは、歴史学者の與那覇潤(よなは・じゅん)氏。


 
 「たとえば、音楽そのものは好きだけど、音楽評論は嫌いだという人がいる。音楽を聞くことは好きだけど、解説しているやつはムカつくとか。
 “そんなもん言葉にしていないで、聞けよ!” といったふうに、言葉にされること自体が愉快じゃない、という人がいるでしょ? これも一種のコスパ主義。しゃべりは無駄という判断がそこにある」

 與那覇氏のこういう問題提起に対し、次のように返した人もいた。
 (名前を覚えていない。ゴメンナサイ !)
  
 
 「確かに、そういう議論みたいなものに拒否反応を持つ人はいる。
 しかし、それは言語化そのものが嫌なのではなく、たぶんしゃべった人の考え方に染まるのが怖いのだと思う。
 だから、そこで自分の意見を相手に返す訓練を積むことが大事となる。
 議論をたえず継続して、お互いに掘り下げていけば、それが自分を変えるチャンスになるということが次第に分かってくるから」

 ここで語られる「議論の必要性」みたいなテーマも、けっきょくは “コスパ問題” に行きつく。 

 誰だったかが、次のようなことを言った。
 
 「“コスパ” という経済合理性だけで物事を考えていくと、社会科学的な思考はすべて “無駄なこと” になる。
 しかし、今の段階では “無駄なこと” であっても、それが20年30年先になると、経済合理性のうえでも必要だったというものが出てくるはずだ。
 だから、絶えず社会科学的なテーマにおいても議論を重ね、ものごとの本質を語りあっていくということが大事である」
 
 
 以上、番組を見て、気になった発言を思い出しながら書いてみた。
 もちろん、ここに紹介した記述は、発言者の言った通りにはなっていない。
 私の頭の中で都合よくまとめてしまったものも多い。
 発言内容に間違えがあれば、それは私の責任となるが、基本的な骨子はだいたいこんなもんではなかったか、と思う。
  
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

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