平成のコミュ力

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 新しい元号が決まる年が明けたせいか、最近「平成最後の …… 」という言葉をよく聞く。
 
 年末年始も、テレビでは、「平成最後の大晦日」、「平成最後の正月」などという言葉が飛び交っていた。
 この調子でいくと、新しい元号が決まる前の晩は、「平成最後の酒盛り」、「平成最後の入浴」、「平成最後のトイレ」などという言葉が日本中でささやかれるだろう。

 ところで、「平成」とはいったい何であったか。
 テレビのワイドショーなどを見ていると、いろんな評論家やコメンテーターが、「平成とはどういう時代であったか」を解説している。
  
 しかし、あまりピンとくる内容のものがない。
 その理由は、発言する人の大半が昭和生まれなので、「平成を語る」といいながら、比較するものとして持ち出してきた「昭和」の方を語ってしまう人が多いからだ。

 そうなると、発言者のノスタルジーも加味されて、「豊かな昭和」vs「貧しい平成」というステレオタイプな結論になることが多い。

 そんななか、NHK・Eテレが企画する『ニッポンのジレンマ』は、さすがに面白いアプローチをする。
 この正月は、「平成とはコスパの時代であった」というテーマで、主に平成生まれの若い論客を集めて討論させていた。(この感想はブログ記事として書いた

 去年の7月頃に放映された『ニッポンのジレンマ』では、「コミュ力」という切り口で、平成世代の意見を聞いていた。

 これも面白い企画だと思った。
 確かに、平成という時代は、老いも若きも「コミュ力」を高めるために必死にあがいてきた時代だったという気もするからだ。

 では、「コミュ力」とは何なのか?
 こう縮めてカタカナ書きすると、「こみゅか」とも読めてしまう。
 なんか変な言葉である。
 
 そもそもは「コミュニケーション能力」のことなんだけど、「コスパ」もそうだが、縮めて略語化すると、間の抜けた響きになってしまい、なんか本来の意味から外れてくる感じがする。 
 おそらく、言葉を縮めた段階で、本来の英語とは異なる日本語としての意味が生まれてくるのだろうと思う。

 では、「コミュニケーション能力」と「コミュ力」の違いは何か?
 「コミュニケーション能力」といった場合、そこには生死をかけて意思疎通を図ろうとする者同士の真剣勝負の響きが漂う。
 それに対し「コミュ力」は、他人のインスタに「いいね!」をつけるタイミングの問題にすぎない … というわけでもないだろうけれど、そういう軽さがある。
 
 
 「コミュ力が高い人に見られるノウハウ」を紹介するネット記事というものがあった。
 それによると、コミュ力が高い人というのは、
 ➀ 話題を多く持っている
 ② 協調性がある
 ③ ポジティブで明るい
 ④ 笑顔が絶えない

 要は、必死で忖度して空気を読む人になれ、ということのようだ。
 バカなんじゃないの? これつくった人。

 そんなことは、もう誰にも分かっていることだし、分かっていても、そうはできない人もいるというだけの話なのに。

 私は、「コミュ力」を身に付けるために必死になっている若い者を可哀想だと思う。
 確かに、いま会社の新卒採用の基準に、「コミュ力」を挙げる企業が増えているという話は聞く。
 なんでも、ここ13年連続で、新卒社員の選考基準のトップは「コミュ力」だったとか。

 これは、産業構造の変化に伴って、モノを生産する製造部門よりもサービス部門の方に力点を置く企業が増えていることを物語っている。

 しかし、企業側も就活側も、何か勘違いしているのではなかろうか。
 ・ 協調性がある
 ・ ポジティブで明るい
 ・ 笑顔が絶えない
 もし、そんな属性を「コミュ力」だと定義しているのだとしたら、「体育会系」の人間しか引っかからないことになる。

 人間の「想像力」と「創造力」は、無理してポジティブになることによって萎えてしまうことだってあるのだ。
 
 これは、私の経験上の判断によるのだが、概して「おしゃべり上手」なヤツは、文章を書かせると、退屈なものしか書かない。 
 下手な文章ではないとしても、浅いのだ。

 おそらく、おしゃべり上手な人というのは、他者に「話す」ことによって、自分が貯えてきた情念をきれいさっぱり発散してしまうからだろう。

 面接官の前で上手に話す。
 合コンで、狙った女の子の気持ちを会話でそらさない。
 そういうのを「コミュ力」とはいわない。

 「コミュ力」とは、謎めいた人間に思われることである。
 相手に対し、自分を魅力的なパズルとして差し出す。
 ときには沈黙も雄弁なワザとなる。
 
 

カテゴリー: ヨタ話   パーマリンク

平成のコミュ力 への4件のコメント

  1. Milton より:

    素晴らしい、仰るとおりだと思います。

    私は「類は友を呼ぶ」という言葉が好きなのですが、いわゆるコミュ力が高いといわれる人は、結局のところ似たような人たちと付き合っているだけのような気がします。

    ちなみに、私は人見知りではないので、コミュ力が高い人間に劣等感を抱くことは特に無いです。

    大切なことは、自分が属しているクラスタ(英語で「房」「集団」「群れ」のこと)とは違う「異質な存在」と出会った時に、どう振舞えるかだと思います。その代表的な例が外国人ですが。

    経験上いえるのですが、言語の壁もそうですし、たとえ共通の言語をお互いに持っていたとしても、お互いが育ってきた環境の違いによって、コミュニケーションの齟齬が生じるのはむしろ自然なことだと思います。聖パウロならわかってくれるはず(笑)

    それを知ると、自分がコミュ力が高いなんて安易に考えることは出来なくなりますし、なによりコミュ力を他人をジャッジする基準にすることも憚られます。

    まあ、企業は構成員にある種の同質性を求めているので、企業の求める(実質的には狭い)コミュ力なら全然OKなんですけどね。

    なんであれ、コミュ力が高いと評価されている人たちが、イレギュラーな事態にあたふたしている場面を何度も見てきたことが、私に安易なコミュ力信仰への不信感を抱かせるのです(笑)

    • 町田 より:

      >Milton さん、ようこそ
      私もまたMilton さんの考え方に賛同いたします。
      ≫「コミュ力が高いといわれる人は、結局似たような人たちと付き合っているだけ …」
      私もまたそうだと思います。

      日本人は、「以心伝心」とか「阿吽の呼吸」というような言葉が好きで、口に出さなくてもお互いの気脈が通じ合うことを好みますが、それはけっきょく「似たような人たちと付き合っている」ことを前提とした発想ですよね。

      違う文化圏に住んでいる人たちとは、まず言葉が違う、文化も違う、ボディランゲージも違うので、「以心伝心」とか言っていられない。

      Milton さんも書いておられますけれど、≫「異質な存在と出会った時に、どう振舞えるか」。
      それが「コミュ力」を考えるときのキーになるかと思います。

      けっきょくコミュニケーションが人間にとって快感や快楽になるのは、相手と自分の間に横たわる「理解できない」と感じた高い壁を超えて、必死になって相手と格闘し、試行錯誤の上で相互理解を手にできたときだと思うんですよね。
      だから、「コミュ力」というのは、自分の言いたいことを相手に伝えるのではなく、「相手の言いたいこと」を自分も受け入れて、自分自身が変わっていくことなのではないでしょうか。

      これは、別に外国人と向き合ったときだけの問題ではなく、日本人同士の夫婦とか恋人同士の問題とも言えるわけです。

      結婚後、すぐにうまくいく夫婦なんてないと思います。
      おそらく、結婚して(2~3ヵ月か、2~3年か、20~30年か)という歳月をかけて、お互いに苦闘しながらハードルを越えていくんだろうと思います。
      それをしないで、お互いに目をつぶってしまった夫婦というのは、案外破綻するのも早いのではないでしょうか。

      異質なものとのぶつかり合いを経験しない「コミュ力」など、たかがしれているように思います。
       

  2. Milton より:

    ちなみに、テレフォンオペレーターも自動(AI)化が進んでいるようです。

  3. 町田 より:

    >Milton さん、ようこそ
    おっしゃるように、「何をもってしてコミュ力とするか」というのは、非常に難しい問題だと思います。そもそも、コミュニケーションという概念そのものが、人によってまったく異なるイメージで語られますから、“コミュ力” を語る前に、コミュニケーションそのものをどう定義するかということが先決かもしれませんね。

    私が考えているコミュニケーションというのは、「相手の異質性の確認」というような意味です。
    したがって、「異質性の確認」が、相互理解につながることもあれば、つながらないまま決裂するという両方を含むような気がします。

    多くの人は、「コミュニケーション」というと、相互理解が成立する(意思疎通が完了する)ことのみを採り上げたがりますが、相互理解が成立しなくても、相手と自己の「異質性の確認」によって、自分の立場を相対化する契機が得られれば、それも立派な “コミュニケーション” とはいえないでしょうか。

    最初の返信の繰り返しになってしまうかもしれませんが、似通った思考を共有するグループのなかで意思疎通が図られるというのは当たり前のことで、そのことを多くの人は「コミュニケーションが図られた」と言うようですが、それはあまり意味がないように思えるんですよね。
    もちろん、私が言っているのは、企業の会議などというのとは別の話です。あくまでも思想的な問題として考えてみました。

    それとは別に、今回Milton さんが提出された “コミュ力” の考え方は、なかなか興味深く拝読しました。
    ➀ 会話によるオペレーション技術なのか?
    ② (非言語的な交信も含んだ)信頼関係の構築なのか?
    なかなか面白いところを衝いているように思いました。

    中岡成文氏の『増補ハーバーマス コミュニケーション的行為 (ちくま学芸文庫)』。
    教えていただき、ネットで少し調べました。
    なかなか魅力的な本のようですね。
    人間の本質を、「理性か? 感情か?」という観点から語る議論も台頭してきているようですので、こういう本を、討論を組み立てる際の指導書として理解することも必要だと感じました。

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