ハイテク時代のオランダを描いたフェルメール

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フェルメールは “庶民派” の画家だったのか?
 
 ヨハネス・フェルメールといえば、市民のささやかな暮らしぶりを優しい眼差しで描く「庶民派の画家」というイメージが強い。

▼ フェルメール「牛乳を注ぐ女」

 彼の絵には、尊大な王侯貴族が登場することもなく、男を惑わす妖しい美女の姿もない。
 ミルクを鍋に注ぐ家政婦。
 手紙を書く少女。
 レース編みに没頭する女。
 当時のオランダの家を覗けばどこでも見られるような、ごくありふれた人物と、何の変哲もない光景が描かれているに過ぎない。

▼ フェルメール「レース編みをする女」

  
 なのに、この “何気ない” 光景にこそ、実は17世紀ヨーロッパの激動の歴史がすべて凝縮している。
 フェルメールの絵は、この時代のオランダが世界に冠たる海洋国家に成長していく姿と、オランダの資本主義がどのように興隆していったかを物語る “生き証人” のような存在でもあるのだ。

▼ フェルメール「デルフトの眺望」

 このことは、実は過去にも私のブログで、何度か触れた。
 しかし、今回、経済学者の水野和夫氏と、東京画廊社長の山本豊津氏の対談『コレクションと資本主義』(角川新書)という本を読んで、これまでのフェルメールの論考に少しだけ書き加えたいことが生まれた。
 そこで、「資本主義の誕生」という側面にしぼって、フェルメールの業績に再度触れてみたい。  

▼ 『コレクションと資本主義』  

 
 
市民階級だけが支配する巨大都市の誕生
 
 『コレクションと資本主義』によると、フェルメールが活躍していた17世紀のオランダは、大型帆船の技術力を高め、大航海時代を迎えたヨーロッパを代表する海運国家に成長していたという。
 もともと、オランダ、ベルギーを含むフランドル地方は15世紀ごろから毛織物産業によって北ヨーロッパでも屈指の工業地帯としての実力を蓄えていた。

▼ オランダの帆船

 ただこの地方は、政治的にはスペイン国王の領土であったため、商業利益のほとんどは宗主国のスペインに収奪されていた。
 そのことを不満に思うオランダの商人階級が結束し、1568年にスペインに対して独立戦争を挑むことになる。

 その結果、どういうことが起こったか。
 オランダ市民軍がスペイン王国の軍隊を打ち破り、ヨーロッパで初の「商人階級」による政府が誕生したのだ。
 
 それによって生まれたフランドル諸都市の自由闊達な空気は、ヨーロッパ中の商人を魅了してやまなかった。
 オランダ・ベルギーの主要都市には世界の商人が利益を求めて集まるようになり、やがて、国家自体がひとつの「世界市場」を形成するようになった。

▼ 国際商業都市アムステルダム

 
 当然、そこでは様々な国の言語、習慣、宗教、文化が交差するようになる。
 そのなかでも、スペインの宗教的弾圧から逃れてオランダに移住してきたユダヤ人の存在は大きかった。
 彼らは、ヨーロッパ各地に張り巡らせていた金融ネットワークと、それまで各地で培ってきた金融テクノロジーを駆使し、オランダをヨーロッパでも屈指の経済大国に押し上げることに貢献した。
 
 
デカルト哲学を生んだ無国籍的な空気
 
 余談ではあるが、近代哲学の祖ともいわれるルネ・デカルトは、こういうオランダの “無国主義的” な風土を味わうことがなければ、あの「コギト(われ思う)」という哲学的省察を手に入れることはできなかっただろう。
 
▼ ルネ・デカルト

 
 フランス人であったデカルトは、世界のどこの哲学体系からも切断されたオランダの言説空間に触れて、はじめて自分が育ったフランス共同体の思考から解放された。
 
 そういう「普遍」を見据えた思考は、多民族、多宗教、多言語、多文化が交錯する(一見カオスにも見えるような)流動的な社会からしか生まれない。
 そういう “文化的マグマ” のようなものが、この時代のオランダの地下から地上に向かって一気に噴き出していたのだ。
  
 フェルメールの絵画というのは、こういう新興国オランダの燃えたぎるような経済的繁栄を背景に生まれてきた芸術であることを、まず念頭に置いておいていいだろう。
 
 では、彼の一見つつましやかで静かな画風のなかに、グローバル経済を牛耳っていた当時のオランダの姿は、いったいどういう形で描き込まれていたのだろうか。
  
 
フェルメール絵画に登場する
「地図」と「地球儀」の謎

  
 フェルメールの後期の作品を代表する『天文学者』および、『地理学者』には、壁の背景や机の上の小道具として、世界地図や地球儀がさりげなく描かれていることにまず注目してみたい。

▼ フェルメール「天文学者」

 
▼ フェルメール「地理学者」

 
 天文学者や地理学者にとっては、地図や地球儀は商売道具であるから、人物の周辺に置かれるのは当然だろう。
 しかし、一般女性のつつましやかな日常を描いた『水差しを持つ女』、『青衣の女』、『リュートを調弦する女』などにおいても、彼女たちの背景にはくっきりと地図が描きこまれている。
 
▼ フェルメール「水差しを持つ女」

 
▼ フェルメール「青衣の女(手紙を読む女)」

 
▼ フェルメール「リュートを調弦する女」

 
 フェルメールの絵画の背景として描かれた地図は、1569年にフランドル地方(現ベルギー)の地理学者であるメルカトルが考案した「メルカトル図法」にのっとったもので、絵の中では “室内装飾” のように扱われているが、実際には実用的なハイテク・アイテムといった性格が強い。
 
▼ フェルメール「士官と笑う女」

 そのような最新テクノロジーの地図や地球儀が、現代の液晶テレビやパソコンのように、当時の庶民の居間に浸透していたということは、当時のオランダの人々が、海洋国家の一員として、グローバルな視野で “世界” を見つめていたことを意味する。
 それこそ、いざとなったらそのまま海洋に乗り出せるような教養と気骨を持った人々すらいただろう。
 
 
「手紙」は17世紀最強の
ハイテク通信手段だった !

  
 フェルメールの絵に表れるもう一つの “ハイテク・アイテム” は「手紙」である。
 彼の絵には、手紙が登場する頻度が非常に高い。
  
▼ フェルメール「手紙を書く少女」

  
▼ フェルメール「青衣の女(手紙を読む女)」

 
 これは、いったい何を意味するのだろうか?
 この時代が、一種の「通信革命」を迎えた時代だったことを示唆している。
  
 ヨーロッパにおける郵便制度は、17世紀の初頭、ほとんどの国を巻き込んだ「30年戦争」を機に、戦況を連絡し合う軍事郵便という形で急激な発達を遂げた。
 それが、郵便システムを整えることにつながり、やがて民間の家族や恋人同士が私信を交わし合う手段にまで成長する。
 
 世界貿易に乗り出したオランダ人たちは、この「手紙」を通じて、はるか離れた地域から自分の近況を家族に伝えるようになった。
 もちろん、現在の通信テクノロジーと比べれば、手紙のやり取りはそうとうのんびりしたものでしかなかった。
 
▼ フェルメール「手紙を書く婦人と召使」

 
 しかし、それでも、地球の裏側あたりで仕事をしている家族の直筆を庶民が受け取るということは、それ以前の社会では考えられないことだった。今の感覚でいうと、「電子メール」のようなものだった、という人もいる。
 
 このように、静謐でつつましやかなフェルメールの絵画というのは、実は、当時の最新テクノロジーをさりげなく使いこなす庶民のハイテク生活を切り取ったものであったことが浮かび上がってくる。
  
 
油彩画による “画材革命”
が資本主義を呼び寄せた 

 
 水野和夫氏と山本豊津氏の共著による『コレクションと資本主義』によると、この時期のフランドル地方で生まれた絵画が、後のヨーロッパで確立される “絵画マーケット” の基礎をつくったという。


 
 15世紀頃から、フランドル地方には絵画技法の革命が起こっていた。
 すなわち、それまでのルネッサンス絵画は、教会などの壁に漆喰を塗って、それが生乾きのうちに顔料を塗り込んでいくフレスコ画が中心だった。ボッティチェリも、ミケランジェロも、ラファエロも、みなこのような技法で作品を残したのである。
 
▼ ラファエロがバチカン教皇庁の壁に描いたフレスコ画「アテナイの学堂」

 
 ところが、フランドル地方では、まったく新しい絵画技法が生まれていた。
 それが、フーベルト・ファン・エイク、ヤン・ファン・エイク兄弟らによって生み出された油彩画だった。
 
 これが絵画の “ダウンサイジング” をうながした。
 
 それまでのフレスコ画は、教会や宮殿といった大きな壁を要求するものであったが、油彩画になると、小さなキャンバスですむようになる。

▼ キャンバスに絵を描き込む男

 
 このような小さなキャンバスは、「作品」の持ち運びを可能にした。
 つまり、フレスコ画が施設内に定置して使う巨大な “オフィスコンピューター” だとしたら、キャンバスは “ノート型パソコン” の役割を果たすことになったのである。
 
 その結果何が起こったか?
 絵画を買って、自分の家に持ち帰って鑑賞する新しい購買層が誕生したのだ。
 
 スペインやフランスなどの絶対王政下においては、巨大絵画の発注者は王族や教会に限定されていたのに対し、フランドル地方では、中産階級が自宅で自由に飾れる絵画が生まれたのだ。
 これを機に、絵画は「作品」から「商品」に移行していく。
  
  
グーテンベルクによる出版革命
  
 『コレクションと資本主義』によると、このような「アートの商品化」が始まる過程は、ちょうどグーテンベルクの金属活字による活版印刷が普及していく過程と重なるという。
 この時期、書籍とアートは、それぞれ“大量生産” という道を歩み始めたのだ。
 
▼ 金属活字の活版印刷

 
 もちろん活版印刷が書籍の生産量を飛躍的に伸ばしたことは容易に想像できると思うが、アートに関しても同じことが起こった。
 銅版画(↓)である。


 
 そもそもグーテンベルクは、活版印刷の商売を始める前は、銅版画を印刷する仕事で生計を立てていた人だった。
 
 それまでアートでは、基本的に1人の作者が生産できるものは1点と決まっていた。
 しかし、銅版画は、1人の作者が手掛ける作品を大量に印刷することを可能にした。
 それによって、一品あたりの単価も安くなり、多くの一般市民が芸術作品に触れる機会が広まった。
 

 
 1500年代後半、ベルギーのアントワープは、ヨーロッパ最大の版画制作の拠点となり、デューラーやブリューゲルなどの北方ルネッサンスの作家たちが手掛けた数多くの版画がヨーロッパ中に広まり、同時にフランドル芸術が発展する基礎をつくった。 
 
   
知識・情報などの “大衆化” が始まる
 
 活版印刷と銅版画。
 この二つの文化の普及は何を意味したのか?
 知識・情報などの “大衆化” である。
 
 活版印刷が普及したのは、一般庶民が「知識」を必要とするようになったからだった。
 とりわけ、航海に対する「知識」の需要が高まった。
 そのなかには、操船術などの具体的知識も含まれていたが、さらに交易によって広がった東方マーケットの知識、… すなわちヨーロッパ人以外の民族の生活習慣、宗教といった基本情報への需要が生まれていた。
 それによって、「庶民は聖書だけに関心を持っていればいい」という時代は終わりを告げた。
 
▼ デューラーの銅版画

  
 では、銅版画のような、アートの普及は何を意味したのか。
 これは、一般庶民が接するメディアが、「映画」から「テレビ」に代わったと思えば分かりやすい。
  
 
絵画が「私的財産」になって
何が始まったか?

 
 写真、映画、テレビなどといった近代的視覚文化が生まれる以前は、絵画はこの世でもっとも刺激に満ちた視覚メディアだった。
 町の教会の壁を埋めていた宗教画は、神の偉大さを讃えるメッセージそのものであったし、貴族の宮殿などに飾られた肖像画は、彼らの権威と徳を讃えたプロパガンダとして機能した。
 
▼ 大掛かりな宗教画

 
 ただ、そのようなアートは、いずれも現物が飾られている現場に向かわないかぎり、誰も拝むことはできない。
 つまり、映画館で見る「映画」のようなものだったのだ。
 しかし、銅版画や小さなキャンバスに描き込まれた小品は、市民が家のなかで楽しめるという意味で、現在の「テレビジョン」の役割を果たした。
 
 絵画が、個々の家でテレビのように管理されるようになったことは、絵画が「私的財産」になったことを意味する。
 「私的財産」であるかぎりは、誰もが好きなときに、好きなように売り買いできる。
 「商品」としてのアートが誕生したといっていい。
 
 フェルメールが、“名もない一般庶民” を描き続けたのは、たぶんその方が「商品」として扱いやすかったからだろう。
 
 貴族の館に飾られる肖像画は、制作を注文した貴族の家族たち以外には価値がない。
 しかし、モデルが誰だか特定できない人物が絵の主人公になれば、どんな購買者でもそこに感情移入する余地が生まれる。
 名もない少女のポートレートは、鑑賞者がそこに自分の理想の恋人像を重ねることも可能にしたのだ。
 絵画と鑑賞者の間に、淫靡な相互関係が生まれるのも、そんなときだ。
 
▼ フェルメール 「真珠の耳飾りの少女」

 
 フェルメールという画家が、自分の絵をどれほど商品として計算していたかは、実際のところは分からない。
 彼が量産家でなかったことからすれば、1枚の絵にありったけの時間と情熱を注ぎ込む純粋な芸術家であったかもしれないのだ。
 
 しかし、結果的に彼の絵は、資本主義社会の商品として機能するあらゆる特性を帯びることになった。
 彼をして「近代絵画の祖」という言い方が生まれたのも、そんなところに由来しているのかもしれない。
  
  
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